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病魔喰らい ~世界最弱の病人は、世界を旅して神を超える~  作者: 伝説の男前
第一部 第一章「絶望編」

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第二話「最弱の一歩」

土煙を上げて近づいてくる影は、想像していたよりもずっと大きかった。

体長は優に五メートルを超えているだろう。爬虫類のような鱗に覆われた体、四本の太い脚、そして頭には二本の捻れた角。牙の隙間から漏れる唸り声は、大地そのものを震わせるような重低音だった。

零は反射的に後ずさった。

だが――逃げようにも、体が動かない。正確には、動かないのではなく、動き方を忘れてしまったかのような感覚だった。長年の病で萎えていた足腰は、確かに今、痛みなく動く。動くはずなのに、恐怖で足がすくんで、根が生えたように地面に張り付いている。

(なんだよ、これ……)

心臓が早鐘を打つ。だが不思議なことに、息は上がらない。あれほど当たり前だった息苦しさが、今はどこにもない。

「――っ、逃げろ!」

背後から、鋭い声が飛んできた。

振り返る間もなく、零の体は横から強い力で引っ張られ、草むらの陰に引き倒された。ごろりと転がった視界の端に、白い髪と、翻る白銀の法衣のようなものが見えた。

「今、あの魔物に目をつけられてる。動くな、声も出すな」

囁くようなその声は、少女のものだった。

零は転がったまま、恐る恐る顔を上げる。

そこにいたのは、年の頃は零と同じか、少し年下に見える少女だった。銀に近い白髪を肩の高さで切り揃え、澄んだ空色の瞳がまっすぐに魔物の方を見据えている。纏っているのは、神殿に仕える者を思わせる白い法衣。背には小さな杖を背負っていた。

「……あんた、この辺りの人?」

零が小声で尋ねると、少女は視線を魔物に向けたまま、短く答えた。

「聖女見習いの、天城聖。あなたは?」

「……零。神代零」

「変わった名前ね。まあいいわ、今はそれどころじゃない」

聖と名乗った少女は、懐から小さな石――薄く光を帯びた結晶のようなものを取り出した。

「あれは『牙獣(がじゅう)』。この辺りに出る魔物の中では下級だけど、素手の人間なら一撃で命を落とすわ。私一人じゃ足止めが精一杯」

「足止め……って」

「街まで一緒に走って。いい?」

聖の声には有無を言わさぬ響きがあった。零はただ頷くしかない。

聖が結晶を握りしめると、淡い光が彼女の周囲に円を描いて広がった。同時に、牙獣がひときわ大きく吠え、その巨体が地面を蹴って突進してくる。

「今よ、走って!」

聖の叫びと同時に、光の壁が二人と牙獣の間に立ち上がった。牙獣の巨大な顎が壁に激突し、鈍い衝撃音と共に光が軋む。

零は転がるように立ち上がり、草原を駆け出した。

――走れている。

そのことに、零は自分でも驚いていた。物心ついてからこれまで、少し歩いただけで息が上がっていたはずの体が、今、息一つ切らさずに全力で走れている。まるで自分の体ではないみたいだ、と零は場違いなことを考えた。

「聖女見習いって……あんたも走るのか?」

「私は治癒師よ、前衛じゃないの! こういうときのための足止め魔法!」

叫びながら並走する聖の顔にも、余裕はなかった。背後で、光の壁が砕ける音が響く。

「壁、もう保たない! 走って、あと少しで街の防壁が見える!」

聖の言葉通り、前方の丘を越えた先に、木製の柵と石造りの門が見えてきた。門の上には篝火が焚かれ、見張りらしき人影が慌ただしく動いている。

「開けて! 牙獣が追ってきてる!」

聖が声を張り上げると、門の上の見張りが弓を構え、警鐘が鳴らされた。ガランガランという鐘の音が、静かな草原の夜に響き渡る。

背後で、光の壁が完全に砕け散る音がした。

牙獣の唸り声が、一気に近づいてくる。

零は振り返らずに走り続けた。だが、聖の足がふいにもつれた。

「――っ!」

「聖!」

零は考えるより先に、体が動いていた。転びかけた聖の腕を掴み、強引に引き寄せる。その拍子に、零自身がバランスを崩し、二人揃って地面に転がった。

牙獣の影が、頭上に覆いかぶさる。

零の脳裏に、皮肉な思考が過ぎった。せっかく安全な場所まで来られたと思ったのに、ここで終わるのか、と。だが不思議と、恐怖よりも先に、悔しさの方が強かった。まだ何も知らない。この場所がどんな世界なのかも、自分の体に何が起きたのかも。

そのとき。

零の胸の奥で、何かが小さく「疼いた」。

心臓の鼓動が、耳の奥で大きく響く。それに合わせるように、見えない何かが、体の内側から弾けるように広がった。

「……なんだ、これ」

零の目に映る世界の輪郭が、一瞬、鮮明になる。牙獣の一挙一動が、まるでスローモーションのように見えた。次にどちらの脚が動き、どの角度で顎が振り下ろされるか――まるで最初から知っていたかのように、零にはわかった。

「聖、こっちだ!」

零は聖の体を抱えるようにして、横に転がった。牙獣の顎が、二人がいた場所を無情に噛み砕く。土と草が舞い上がった。

「――今の、避けた……?」

聖が信じられないという顔で零を見る。

零自身も、自分が何をしたのか半分もわかっていなかった。ただ、体が「わかって」いた。理由はわからない。だが、確かにわかった。

門の方から、複数の足音が近づいてくる。

「街の衛兵よ! 援護が来る!」

聖の声に、零は微かに安堵した。だが牙獣は、まだ諦めていなかった。血走った目でこちらを睨みつけ、再び地を蹴る。

零は聖を背にかばうように立ち塞がった。武器も持たない、ただの十七歳の少年が。

「……零、無茶よ!」

「わかってる」

わかっていた。自分に何ができるわけでもない。だが、体が勝手に動いていた。逃げるという選択肢を、なぜか零自身が拒んでいた。

――生きたい。

さっきまで、意識を失う間際に願っていたその想いが、今もまだ、胸の奥で燃えている。

牙獣が跳び上がった、その瞬間。

複数の矢が空を切り裂き、牙獣の側面に突き刺さった。苦悶の咆哮と共に、巨体が横倒しに地面へと崩れ落ちる。

「聖女様! ご無事ですか!」

門から駆けつけた衛兵たちが、倒れた牙獣を取り囲みながら叫んだ。

聖は肩で息をしながら、へたり込むように地面に座り込んだ。

「……間に合った、みたいね」

「……ああ」

零も、緊張が解けたと同時に、その場に膝をついた。心臓がまだ激しく脈打っている。だが、それは苦しさからくるものではなく、初めて味わう、生きているという実感からくるものだった。

衛兵の一人が、怪訝そうな顔で零を見下ろす。

「聖女様、そちらの方は?」

聖は零を見て、少し考えるように首を傾げた。

「……行き倒れていたところを、助けてもらったの。名前は零。神代零」

「神代……? 聞かない家名ですね。どちらの国の御方で?」

零は答えに詰まった。この場所にどう説明すればいいのか、自分でもわからない。目が覚めたら見知らぬ草原にいた――そんなことを言っても、誰も信じないだろう。

「……遠くから来た。それしか、俺にもわからない」

嘘ではなかった。少なくとも、今の零にとっては、それが精一杯の真実だった。

衛兵たちは顔を見合わせたが、聖が「私の恩人よ」と言い添えると、それ以上は追及しなかった。

「とにかく、街の中へ。詳しい話は、中で聞かせてもらうわ」

聖に促され、零は立ち上がった。門の向こうに広がる街の灯りを見つめながら、零は静かに息を吐いた。

(俺は、生きている)

その事実だけが、今の零にとって、何よりも確かなものだった。

だが同時に、零の胸の奥には、小さな違和感が燻っていた。

――さっき、体が勝手に「避け方」を知っていた感覚。あれは、いったい何だったのか。

まるで、自分でも知らない「何か」が、体の奥に眠っているかのような――そんな感覚だった。

門をくぐる零の背中を、聖が不思議そうな眼差しで見つめていた。

この街の名は、レイヴンクロフト。

零にとって、この見知らぬ場所での本当の第一歩が、今、静かに始まった。

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