第一話「雪の降る夜に」
雪が降っていた。
音のない、静かな雪だった。
神代零は、コンビニエンスストアの裏手に積まれた段ボールの隙間に体をねじ込みながら、白く濁って昇っていく自分の呼気を、ぼんやりと見つめていた。もう何百回、いや何千回とこうしてきたのだろう。体を丸め、膝を抱え、少しでも風の当たらない場所を探す。それが零にとっての「生活」だった。
肺の奥で、また何かが軋んだ。
錆びた蝶番が擦れるような、いやな音。息を吸うたびに、胸の内側を細い針で引っ掻かれているような感覚がある。今日はいつもよりひどい。呼吸のたびに肩が上下し、それすら億劫になるほど体温が奪われていく。
喉の奥に、鉄の味が広がった。
咄嗟に口元を押さえた手のひらを見ると、街灯の乏しい光の下でもわかるほど、赤黒い染みが広がっていた。
「……また、か」
笑おうとして、頬がうまく動かなかった。乾いた唇の端が、かさついた音を立てて裂けるのがわかる。
十七年間、零はまともに健康だったことが一度もない。
物心ついたときにはすでに、いくつもの病名を医者から告げられていた。生まれつき心臓の弁に欠陥があること。肺が人より弱く出来ていること。免疫の機能がどこかおかしいこと。難しい漢字とカタカナが並ぶそれを、幼い零は呪文のように覚えた。覚えたところで、何一つ変わりはしなかったけれど。
――お前は、長くは生きられない。
小さい頃、白衣を着た医者にそう言われたのを、今でも覚えている。母はそのとき、零の前では涙を見せなかった。ただ、病院からの帰り道、繋いだ手が、いつもよりほんの少しだけ強く握られていた。
父親は、零が五歳のときに姿を消した。
借金取りに追われていたのか、それとも単に、病弱な息子と困窮した暮らしという重荷を放り出したのか。零は真相を知らない。知りたいとも、もう思わない。ただ、父の顔をあまり覚えていないという事実だけが、寂しさよりも先に、奇妙な虚しさとして胸の中に居座っている。
それから母は、女手一つで零を育てた。
朝は弁当工場のパート、昼過ぎからは清掃の仕事、夜はスーパーのレジ打ち。体を壊しても、母は休まなかった。休めば、その日の食費と、零の薬代が消えてしまうから。
「零、ごめんね。もう少し、もう少しだけ頑張れば……」
母はいつもそう言って笑っていた。疲れきった顔で、それでも笑おうとしていた。零はその笑顔が好きで、同時に、その笑顔を見るたびに胸が締め付けられるように苦しかった。自分がいなければ、母はこんなに働かなくてもいいのではないか。自分が生まれてこなければ――そう考えてしまう夜が、何度もあった。
その「もう少し」が訪れることは、ついになかった。
母は零が十五になった冬、勤め先の清掃中に倒れた。過労と栄養失調、そして長年の無理がたたった心不全だと、後から聞かされた。病院に運ばれたときにはもう、意識は戻らなかった。
二日後、母は静かに息を引き取った。
零はその瞬間、そばにいなかった。学校――もう行かなくなっていたが――の代わりに、母の代わりに働けるアルバイト先を探して、街をひとりで歩き回っていたときだった。
知らせを聞いて病院に駆けつけたとき、母はもう、ただの冷たい体になっていた。
零は泣かなかった。
泣けなかった、という方が正しいのかもしれない。悲しみが大きすぎて、涙という形にすらならなかった。
それから二年。
親戚を頼ろうにも、頼れる親戚などいなかった。児童相談所に一度は保護されかけたが、書類の不備やら手続きの遅れやらでたらい回しにされているうちに、零は自分から施設を抜け出した。誰かに「助けてもらう」ということが、いつのまにか怖くなっていたからだ。助けてもらった先で、また誰かに失望されるくらいなら、最初から独りでいい。そう思っていた。
以来、零はこの街の路地裏を渡り歩いて生きてきた。
生きてきた、と言えるのかどうかも怪しい。ただ、死ななかっただけだ。日雇いの仕事を見つけては、身分証がないことを理由に断られる。炊き出しの列に並んでは、同じように行き場のない大人たちの視線から、目を逸らす。夜になれば、少しでも暖かい場所を探して、繁華街の隅や、線路の高架下や、今夜のようなコンビニの裏を転々とする。
体は、日に日に弱っていった。
もともと丈夫でない体に、極寒の路上生活と栄養不足が追い打ちをかける。ここ最近は、少し歩いただけで息が上がり、視界が白く霞むことが増えていた。今日のように血を吐くことも、もう珍しくはない。
(ああ、そろそろなんだろうな)
零はぼんやりとそう思った。恐怖よりも先に、奇妙なほど静かな諦めが、胸の中に広がっていく。
雪はやまない。
段ボールの隙間から見える空は、重たい灰色の雲に覆われて、月も星も見えなかった。体温がどんどん奪われていくのがわかる。指先の感覚はとうに失われ、爪の色が紫がかっているのが、薄暗い中でもわかった。視界の端が、白く滲んで狭くなっていく。
「――生きたかったな」
誰に聞かせるでもない呟きが、白い息と共に零れ落ち、雪の中に溶けて消えた。
生きたかった。
もっと普通に、学校に通って、友達と笑って、将来の夢とか、そういうものを語ってみたかった。母にもっと楽をさせてあげたかった。父に、一度でいいから「どうして」と聞いてみたかった。
叶わなかった願いが、走馬灯のように瞼の裏を過ぎっていく。
意識が、少しずつ遠くなっていく。
そのときだった。
遠く――どこか途方もなく遠い場所で、何かが「瞬いた」ような気がした。
まぶたの裏で、光が弾ける。それは夢か幻か、あるいは死にゆく脳が見せる最後の悪戯か、零自身にもわからなかった。ただ、全身を巡っていた凍えるような冷たさが、ふいに、噓のように和らいでいった。
(温かい……)
最後にそう感じたのを、零は覚えている。母に抱きしめられたときのような、遠い記憶の底にあるはずの温もりが、全身を包み込んでいくような感覚。
そこで、零の意識はふつりと途切れた。
――どれくらいの時間が過ぎたのか、零にはわからない。
一瞬だったようにも、途方もなく長い時間だったようにも感じられた。
やがて、瞼の向こうに光を感じ、零はゆっくりと目を開けた。
見たこともない景色が、そこに広がっていた。
青々と生い茂る、見渡す限りの草原。空には、見慣れた太陽の他に、もう一つ、淡い青銅色に輝く天体が浮かんでいる。遠く地平線の彼方には、雲を突き抜けてなお天へと伸び続ける、途方もなく巨大な樹の姿があった。
風は暖かく、草花の匂いを運んでくる。
「……え?」
零は自分の手を見た。震えていない。指先には、ちゃんと血の色が戻っている。あの、いつも胸を焼くような息苦しさが、どこにもなかった。
体を起こしてみる。めまいもしない。関節の痛みもない。長年当たり前のようにあった不調のすべてが、今、噓のようにどこにもなかった。
「……ここ、どこだ……?」
震える声で、零はそう呟いた。
雪の中で意識を失ったはずだった。それなのに今、目の前にあるのは、雪も、コンビニの裏も、見慣れた街の景色でもない、まるきり別の世界だった。
夢にしては、あまりにも鮮明すぎる。草の匂い、風の感触、土の湿り気――そのどれもが、零の五感にはっきりと訴えかけてくる。
「夢、なのか……?」
自分の頬をつねってみる。痛みがあった。
わからない。何一つ、わからない。ただ、自分が今、生きてこの場所にいるという実感だけが、確かにあった。
安堵に似た、けれど得体の知れない何かが、胸の奥からこみ上げてくる。生きている。今、確かに、生きている。そう感じられることが、これほどまでに嬉しいのだと、零は初めて知った。
草原を渡る風が、零の黒い髪を柔らかく揺らす。
遠く、地平線の向こうから、獣のものとも人のものともつかない、低い唸り声が響いてきた。
零ははっと肩を強張らせ、声のした方向へと視線を向ける。
草原の遥か先、土煙を上げながら、何か巨大な影がこちらへ向かって近づいてくるのが見えた。
見知らぬ世界での、最初の一日は――穏やかな安堵から一転、思いがけない危機と共に幕を開けようとしていた。




