第二十九話「世界への扉」
熊谷の傷が癒え、旅への準備が本格的に整い始めた頃、零は院長ヨハネスに、改めて呼び出された。
「坊や、旅の準備は進んでおるか」
「はい。皆で少しずつ、荷物や資金の算段をしています」
院長は、静かに頷くと、机の引き出しから、一枚の古びた地図を取り出した。
「これを、坊やに渡しておきたい」
「これは……?」
地図には、見たこともない大陸の輪郭や、様々な地名が書き込まれていた。だが、それは、これまで零が知っていた「この世界」の範囲を、遥かに超えているように見えた。
「聖教会が、長年かけて集めてきた、世界各地の情報をまとめたものだ。この地には、様々な文化を持つ国々があり、それぞれに、異なる伝承や、異なる力の在り方がある」
零は、地図に描かれた、見知らぬ地名の数々を、じっと見つめた。
(こんなに、広いのか)
これまで、レイヴンクロフトという、小さな街の中でしか、この世界を知らなかった。だが、目の前に広がる地図は、想像を遥かに超える広さを持っていた。
「坊やの力が、もし本当に、様々な経験を糧にするものならば、この広い世界を巡ることは、必ず意味を持つはずだ」
院長の言葉には、確かな期待が込められていた。
「同時に、忘れるな。四天王や、その先にいるであろう病神という存在も、恐らく、この広い世界のどこかで、坊やたちを待ち構えているだろう」
「わかっています」
零は、静かにそう答えた。危険は、覚悟の上だった。
「これを持っていきなさい」
院長は、地図と共に、小さな護符のようなものを、零に手渡した。
「聖教会の加護が込められた護符だ。万が一のとき、僅かだが、坊やたちを守る助けになるはずだ」
「ありがとうございます」
零は、深く頭を下げた。
⸻
その日の夕方、零は灰堂の庵を訪れた。
「灰堂さん、報告があります」
「うむ、聞いておる。旅に出る、とな」
灰堂は、既に事情を知っていたようだった。
「はい。この街だけでは、もう学べることに限りがある気がして。それに――」
「四天王のような脅威に、備えねばならん、というわけじゃな」
零は、静かに頷いた。
灰堂は、しばらく黙り込んでいたが、やがて、庵の奥から、一振りの剣を取り出した。使い込まれてはいるが、丁寧に手入れされた、業物と見える剣だった。
「これを、持っていけ」
「これは……」
「わしが、若い頃に使っておった剣じゃ。もう、わしには過ぎたものになった。お前さんが、これから先、拳だけで戦い続けるつもりでないならば、役に立つじゃろう」
零は、剣を受け取り、その重みを確かめた。不思議なことに、その重さは、決して重すぎるとは感じなかった。
「灰堂さん、これまで、本当にありがとうございました」
「礼はいらん。それより」
灰堂は、真剣な眼差しで零を見据えた。
「旅の道中、何があろうと、決して己を見失うな。力とは、正しく使えば、誰かを守る盾になる。じゃが、道を誤れば、己を滅ぼす刃にもなり得る」
「肝に銘じます」
「それと、もう一つ」
灰堂は、少し柔らかい表情になって、続けた。
「お前さんが目を覚まさせようとしておる、その力――恐らく、想像以上に、大きなものになるじゃろう。だからこそ、常に、誰のために、何のためにそれを使うのか、忘れずにおれ」
零は、深く頭を下げた。
「はい」
⸻
旅立ちの前夜、零は、これまで世話になった聖教会の一室で、静かに荷物を整理していた。
そこへ、聖が、そっと部屋を訪れた。
「零、少しいい?」
「聖、どうした」
聖は、少し緊張した面持ちで、零の前に座った。
「明日から、いよいよ、本当の旅が始まるのね」
「ああ」
「正直に言うと、少し怖い。この街を出たことなんて、ほとんどないから」
聖の素直な告白に、零は優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺も、夜も、熊谷も、そばにいる」
「……そうね。ありがとう」
聖は、少し照れくさそうに微笑むと、ふと真剣な表情になった。
「零。あなたのその力、まだ何もわかってないことばかりだけど……私は、あなたのそばで、ずっと、力になりたいと思ってる」
「聖……」
「だから、無茶だけはしないで。何かあったら、必ず、私を頼って」
その言葉には、深い想いが込められていた。零は、静かに頷いた。
「ああ、約束する」
⸻
翌朝、零たちは、レイヴンクロフトの門の前に立っていた。見送りに来た住人たちの中には、トビアスの姿もあった。
「零お兄ちゃん、行っちゃうの……?」
「ああ。でも、必ずまた戻ってくる。それまで、お前も、お前のペースで、頑張るんだぞ」
「うん……! 僕、待ってる!」
トビアスの言葉に、零は優しく頭を撫でた。
神崎銀次も、見送りに顔を出していた。
「坊主、達者でな。困ったことがあったら、遠慮なく手紙を寄越せ。何とかしてやる」
「ありがとうございます、神崎さん」
灰堂の姿はなかったが、代わりに、あの護符と共に、短い書状が届けられていた。「案ずるな、遠くからでも、お前の成長を見守っておる」――そう記されていた。
零、聖、夜、熊谷の四人は、門の前で、互いに顔を見合わせた。
「よし、行くか」
零がそう言うと、三人は、それぞれ力強く頷いた。
門を抜けた先には、これまで見たことのない、広大な道が続いていた。
見知らぬ世界での旅は、いよいよ、その本当の意味での幕を、開けようとしていた。




