第二十四話「新たな力の兆し」
モルダーヴィでの死闘から数日、零の体には、微かながら確かな変化が現れ始めていた。
「灰堂さん、今日も、お願いします」
零がそう言って庵を訪れると、灰堂は、いつもとは違う真剣な眼差しで、零を出迎えた。
「……お前さん、雰囲気が変わったの」
「そうですか?」
「ああ。以前は、どこか危うい、脆さのようなものを纏っておった。じゃが、今は――内側に、確かな芯が育ち始めておる」
灰堂の言葉に、零は自分の胸に手を当てた。あの死闘の日から、体の奥に燻り続けている、微かな熱。それが、少しずつ、自分の一部として馴染み始めているのを感じる。
「使徒との戦い、聞かせてもらえるかの」
零は、あの日の出来事を、詳細に灰堂に語った。使徒との死闘、そして体の奥から溢れ出した、あの力の感覚。
灰堂は、腕を組んだまま、じっと耳を傾けていた。
「……なるほどな」
話を聞き終えた灰堂は、しばらく考え込むように目を閉じた。
「零。お前さんの力は、恐らく、極限の状況――追い詰められ、それでも諦めぬ心があったときに、初めてその真価を発揮するものなのじゃろう」
「極限の状況、ですか」
「うむ。だが、それでは困る。いつも死にかけねば、力が発揮できぬというのでは、あまりに危うい」
灰堂の指摘は、的を射ていた。実際、あの戦いで発現した力を、零は今、意図的に再現することができずにいた。
「今日から、少し違う鍛錬を試みるぞ」
灰堂はそう言うと、庭の隅に置かれた、大きな瓶を指し示した。中には、冷たい水が満たされている。
「これに、腕を浸けてみい」
零が言われた通り、水に腕を入れると、刺すような冷たさが走った。
「これは……?」
「体に、意図的に負荷をかける。無理のない範囲でな。お前さんの力が、苦しみを糧にするものならば、小さな苦しみを、少しずつ、自らの意志で乗り越える訓練が、必要になるはずじゃ」
零は、冷たい水に耐えながら、静かに頷いた。
「わかりました」
「無理はするなよ。命に関わる負荷は、絶対にかけるな。あくまで、体に少しずつ、その感覚を教え込むだけじゃ」
⸻
それから、零は灰堂の指導の下、これまでとは違う形の鍛錬を積み重ねていった。冷水に腕を浸ける、重い荷を背負って歩く、あえて空腹の状態で体を動かす――どれも、決して過酷すぎない範囲で、体に負荷をかけ続ける訓練だった。
「なあ、灰堂さん」
ある日の鍛錬の合間、零はふと尋ねた。
「なんじゃ」
「この力、いったい、どこまで育つんでしょうか」
灰堂は、しばらく黙ってから、静かに答えた。
「わからん。じゃが、一つだけ言えることがある」
「なんですか」
「力の大きさよりも、それをどう使うか、何のために使うかの方が、遥かに大事じゃ。お前さんが、その力を、誰かを守るために使い続ける限り、その力は、きっと正しい方向に育つじゃろう」
灰堂の言葉には、深い経験に裏打ちされた、確かな重みがあった。
「灰堂さんは、その言葉、経験から来てるんですか」
灰堂は、僅かに目を細めた。
「……昔、力に溺れ、道を誤りかけた者を、わしは何人も見てきた。力とは、時に人を狂わせるものでもある」
その言葉の奥に、何か深い過去があることを、零は感じ取った。だが、それ以上、灰堂は語ろうとしなかった。
⸻
その夜、聖教会に戻った零は、聖と夜、熊谷と共に、モルダーヴィでの出来事を、改めて話し合っていた。
「あの使徒、確かに『病神様』って言ってたわよね」
聖が、不安げに呟く。
「ああ。それに、『主』とも呼んでた。神崎さんが言ってた盗賊たちと、同じ言葉だ」
零がそう指摘すると、夜が険しい表情で頷いた。
「繋がってる、と考えた方がいいと思う」
「病神っていうのは、いったい、何なんだろうな」
熊谷が、腕を組みながら唸った。
「院長様は、まだ詳しいことを教えてくれない。だが、確実に、この世界のどこかで、何か大きな力が動いてる」
零は、静かにそう告げた。
「零、あなたの力も、その病神と、何か関係があるのかしら」
聖の問いに、零は答えることができなかった。使徒が自分に向けた、あの奇妙な執着心。「宿敵たり得る存在」という言葉。それらの意味を、零自身、まだ理解できずにいる。
「わからない。でも」
零は、静かに拳を握った。
「それが何であれ、俺は、俺のやり方で、向き合っていくしかない」
窓の外には、静かに二つの月が浮かんでいる。
零は、その光を見上げながら、これから先の旅に思いを馳せた。
まだ知らないことばかりだ。だが、少しずつ、自分の中に眠る力と、向き合う術を見つけ始めている。
――逃げずに、苦しみと向き合い続けること。
灰堂の教えと、皇帝牙の言葉が、零の胸の中で、静かに重なり合っていた。
見知らぬ世界での旅は、まだまだ続いていく。だが、その一歩一歩が、確かに、零を強くしていた。




