第二十一話「使徒の影」
皇帝牙との路地での一件から数日、零は依頼の合間を縫って、灰堂の元での鍛錬を続けていた。
「今日は、少し違うことを試してみるかの」
灰堂はそう言うと、木刀の代わりに、一枚の古びた鏡を取り出した。曇りガラスのような、不思議な光沢を持つ鏡だった。
「これは?」
「己の内側を映す、古い道具じゃ。心を落ち着け、何も考えずに覗いてみい」
零は言われるままに、鏡を覗き込んだ。
最初は、ただ自分の顔が映っているだけだった。だが、しばらく見つめ続けるうちに、視界が揺らぎ、奇妙な感覚が零を襲った。
――白い部屋。消毒液の匂い。
――小さな手が、自分の指を握っている。
――「お兄ちゃん」
零ははっと息を呑んだ。
「……っ!」
思わず鏡から顔を離す。心臓が、激しく脈打っていた。
「どうした」
灰堂が怪訝そうに尋ねる。零は、額に滲んだ汗を拭いながら、震える声で答えた。
「今、何か……見えた気がして」
「何が見えた」
「わからない……ただ、小さな子供の手が、俺の指を握ってて。誰かが、俺のことを『お兄ちゃん』って」
零自身、困惑していた。自分に、兄弟がいた記憶はない。物心ついたときから、母と二人きりの家族だった。父はいなくなり、兄弟の話など、母から一度も聞いたことがなかった。
(なんだったんだ、今のは)
だが、あの小さな手の感触、そして「お兄ちゃん」という響き――それは、単なる幻覚とは思えないほど、生々しい実感を伴っていた。
灰堂は、鏡を仕舞いながら、静かに零を見つめた。
「零。お前さんの中には、まだ、お前さん自身も知らんことが、たくさん眠っておるようじゃな」
「……そうみたいです」
「無理に思い出そうとするな。時が来れば、自然と形になっていくものもある」
灰堂の言葉には、いつになく気遣うような響きがあった。零は、その日はそれ以上、深く考えないようにした。だが、胸の奥に残った小さな手の感触だけは、なかなか消えてくれなかった。
⸻
その夜、聖教会に戻った零は、なかなか寝付けずにいた。
(妹、なのか? それとも、他の誰かの記憶が、混ざり込んでるだけなのか)
考えても、答えは出ない。ただ、あの「お兄ちゃん」という声だけが、耳の奥に、優しく、そして切なく、こびりついて離れなかった。
翌朝、街に出た零は、いつものように依頼を探していた。だが、いつもとは違う異様な空気が、街全体を包んでいることに気づいた。
「……何かあったのか?」
零が呟くと、通りすがりの住人が、青ざめた顔で早足に去っていくのが見えた。ギルドに向かうと、そこにも、緊張した面持ちの冒険者たちが集まっていた。
「聞いたか、東の集落の話」
「ああ。また、あれが出たらしい」
「あれ、って……」
零が思わず尋ねると、近くにいた冒険者が、声を潜めて答えた。
「黒い装束を纏った、化け物みたいな奴だ。噂じゃ、隣町を襲った奴と同じらしい」
零の背筋に、冷たいものが走った。
「病神の使徒」――院長がそう呼んでいた、あの正体不明の存在。またしても、その影が、静かに、しかし確実に、この地に忍び寄っている。
「零!」
聖が、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「聞いた? 東の集落のこと」
「ああ、今」
「院長様が、緊急でお呼びよ。今度は、私たちのパーティーにも、直接調査依頼が来るかもしれない」
零は、静かに頷いた。あの日の記憶――黒い靄、こもった不気味な声、そして自分だけを見つめていたあの視線が、脳裏に蘇る。
(また、あいつが)
理由はわからない。だが、あの存在と、自分の中に眠る何か、そして今朝見た、あの見知らぬ記憶の欠片――それらが、どこかで繋がっているような、そんな予感が、拭いきれずにいた。
夜と熊谷も合流し、四人は緊張した面持ちで、聖教会へと向かった。
途中、零はふと、自分の胸に手を当てた。
(お前は、いったい誰だったんだ)
答えのない問いを抱えたまま、零は、迫りくる新たな危機へと、足を進めていった。
見知らぬ世界での旅は、まだ明かされぬ謎を抱えたまま、静かに、そして確かに、次の局面へと向かおうとしていた。




