第十八話「皇帝牙、降臨」
灰堂の元で修行を始めてから、二週間が過ぎた。
「なっとらん! もう一度じゃ!」
灰堂の叱咤が、庭に響く。零は、荒い息を吐きながら、地面に膝をついていた。全身が汗まみれで、腕はすでに感覚がなくなりかけている。
「……っ、はい」
零は震える手で木刀を握り直し、再び構えを取った。だが、足腰に力が入らない。基礎体力の乏しさが、これまで積み重ねてきた病弱な体の名残として、容赦なく零を苛んでいた。
「体力が、続かねえ……」
夜遅くまで冒険者の依頼をこなし、朝には灰堂の元で鍛錬をする。そんな日々を続けるうち、零の体には、じわじわと疲労が蓄積していた。
そしてその日の午後、パーティーで受けた依頼――街道沿いの魔物討伐は、これまでにない苦戦を強いられることになった。
「くそ、思ったより数が多い……!」
熊谷が悲鳴に近い声を上げる。依頼書に記載されていた魔物の数を、実際には遥かに超える群れが、街道を塞いでいた。
「零、大丈夫!?」
聖の声に、零は答える余裕もなかった。連日の疲労が祟り、体が思うように動かない。避けられるはずの一撃を、避けきれず、脇腹に鈍い衝撃を受ける。
「――っ、ぐ……!」
零は地面に叩きつけられた。息ができない。肋骨の辺りに、鋭い痛みが走る。
「零!」
聖が悲鳴のように叫び、駆け寄ろうとする。だが、その隙を突くように、別の魔物が聖に襲いかかった。
「聖、危ない!」
零は痛みを堪えて体を起こし、無理やり足に力を込めた。だが、体は思うように動いてくれない。視界が霞み、耳鳴りがする。
(なんで、こんなときに……!)
苛立ちにも似た感情が、胸の奥から湧き上がる。せっかく体が癒えたと思っていたのに、こういう肝心な場面で、必ず自分の体が足を引っ張る。子供の頃から、ずっとそうだった。
「げほっ……!」
咳が込み上げ、口の中に鉄の味が広がった。手のひらに広がる赤黒い染みを見て、零は奥歯を噛みしめた。
(情けない)
夜が素早く割って入り、聖を庇う。熊谷が咆哮を上げながら、群れの中心へと突っ込んでいく。二人の奮闘のおかげで、なんとか窮地は凌げた。だが、それは零自身の力ではなかった。
依頼は辛うじて成功したものの、パーティーの誰もが、深い疲労と、消化しきれない不安を抱えたまま、街へと戻ることになった。
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「零、無理しすぎ。灰堂さんのところと、依頼と、両方頑張るのは、体に悪いわ」
聖教会に戻った後、聖が心配そうに零の顔を覗き込んだ。零は俯いたまま、拳を握りしめていた。
「……悪い。俺のせいで、今日は危ない目に遭わせた」
「そんなことない。誰にだって、調子の悪い日はあるわ」
聖の優しい言葉が、今の零には、むしろ重く突き刺さった。
(調子の悪い日、なんかじゃない)
これが、自分の限界なのだ。どれだけ体が癒えても、根本にある脆さは、消えてなくなったわけではない。無理をすれば、必ずどこかで、その代償を払わされる。
その夜、零は一人、聖教会の裏庭で、月を見上げていた。
(俺は、いつまでこうなんだろうな)
灰堂の元での修行も、思うように成果が出ない。冒険者としても、まだEランクのまま。仲間に守られてばかりで、自分が誰かを守れた実感は、あの隊商の一件以来、ほとんどない。
「……情けないな、本当に」
誰にも聞かせるつもりのない呟きが、夜の静寂に溶けていく。
そのとき。
街の方角から、突如として、大きな歓声が沸き起こった。
「なんだ……?」
零が音のする方へ向かうと、街の広場に、大勢の人だかりができていた。誰もが皆、興奮した様子で、広場の中央を指差している。
人混みをかき分けて進むと、そこには、一人の青年が立っていた。
燃えるような赤い髪、鍛え抜かれた長身、そして腰には、見るからに業物とわかる剣を下げている。青年の周りには、幾人もの護衛らしき者たちが控えていた。
「あれが、皇帝牙……!」
「勇者様が、この街に来られたのか!」
周囲のざわめきから、その青年の名を知った。皇帝牙――噂に聞く、世界最強と称される勇者。
皇帝牙は、集まった民衆に向かって、鷹揚に手を上げて応えている。その堂々とした立ち姿は、まさに「英雄」という言葉がふさわしい佇まいだった。
零は、その姿を、ただ呆然と見つめていた。
(あれが、最強、か)
先ほどまで、自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた零にとって、その光景は、あまりにも眩しすぎた。同じ人間でありながら、これほどまでに違う。
皇帝牙の視線が、ふと、人混みの中の零へと向けられた。
一瞬だけ、皇帝牙の目が細められる。まるで、何かを値踏みするかのような、鋭い一瞥だった。
だが、それも一瞬のこと。皇帝牙はすぐに視線を外し、護衛たちと共に、街の中心へと歩み去っていった。
零は、その背中を、ただ黙って見送るしかなかった。
血の味がまだ、口の中に微かに残っている。全身には、まだ拭いきれない疲労が重くのしかかっていた。
(あんな奴と、俺は同じ世界にいるのか)
自嘲めいた思いが、胸の奥に広がる。だが同時に、消えない何かが、静かに燃え続けてもいた。
――このままじゃ、終われない。
まだ何もできていない。まだ何も、証明できていない。だが、諦めるという選択肢だけは、どうしても選びたくなかった。
零は、痛む脇腹を押さえながら、静かに拳を握りしめた。
見知らぬ世界での旅は、まだ始まったばかりだった。そして、その道のりが、決して平坦なものではないことを、零は今日、改めて思い知らされていた。




