第十七話「師匠の教え」
灰堂の庵を訪れてから、零は暇を見つけては、一人でその場所に足を運ぶようになっていた。
「また来たか」
灰堂は縁側に腰掛けながら、そう言って零を迎えた。今日は庭仕事の依頼ではない。零は、純粋にこの老人と話をしたくて、足を運んでいた。
「灰堂さん、今日は何か手伝えることは」
「今日は、庭仕事はいい。それより――お前さん、剣を握ったことは?」
唐突な問いに、零は戸惑った。
「いえ、ほとんど……武器らしい武器を、まともに使ったこともないです」
灰堂は、ふむ、と小さく頷いた。
「ならば、いい機会じゃ。ちと、木刀を振ってみせい」
そう言って、灰堂は縁側の奥から、使い込まれた木刀を二本取り出した。一本を零に手渡し、もう一本を自ら手に取る。
「動きを見てやろう。難しいことは考えず、思うように振ってみい」
零は戸惑いながらも、木刀を構えた。振り方など知らない。ただ、教わった記憶にある形を、なんとなく真似てみる。
「――ふむ」
灰堂は、腕を組んだまま、じっとその様子を見つめていた。
「もう一度」
零は言われるままに、何度も木刀を振った。汗が滲み、腕が重くなってくる。だが、灰堂は満足げな様子を見せなかった。
「お前さんの体には、無駄な力みが多い。だが、それとは別に――妙に体の勘所を掴んでおる」
「勘所、ですか」
「うむ。まるで、体の使い方を、頭で考えるより先に、体そのものが知っているかのようじゃ」
その言葉に、零は思わず息を呑んだ。以前、牙獣との戦いで感じた、あの奇妙な感覚。頭で考えるより先に、体が「わかって」いたあの瞬間を、思い出さずにはいられなかった。
「灰堂さん、それは……」
「詳しいことは知らん。じゃが、お前さんの体には、何か特別なものが宿っておるのは、間違いなさそうじゃな」
灰堂はそう言うと、木刀を下ろし、縁側に腰を下ろした。
「零、一つ、教えてやろう」
「はい」
「力というものは、持っているだけでは、何の意味もない。使いこなせるかどうか、それだけが全てじゃ」
灰堂の言葉には、長年の経験に裏打ちされた、確かな重みがあった。
「お前さんの中にある何か――それがどんなものかは、わしにもわからん。じゃが、もしそれが、お前さん自身を苦しめるものでもあるならば、なおのこと、しっかりと向き合わねばならん」
零は、無理をすると咳が出て血を吐く、あの感覚を思い出した。灰堂には、そのことを話していなかったはずだ。だが、まるで見透かされているような気がした。
「……見抜かれてますか」
「なに、長く生きておれば、多少はな。お前さんの体からは、時折、無理をした後のような、微かな疲弊が滲んでおる」
零は、静かに頷いた。隠す必要も、もはや感じなかった。
「実は――」
零は、これまでの経緯を、灰堂に打ち明けた。牙獣との戦いで初めて感じた予知のような感覚。聖教会での院長の見立て。無理をすると、以前のような症状が一時的に戻ってくること。
灰堂は、黙ってその話に耳を傾けていた。
「……なるほどな」
話を聞き終えた灰堂は、しばらく考え込むように目を閉じた。
「零。お前さんの話を聞く限り、その力は、苦しみを糧にするものかもしれん。だが、糧にするということは、決して無尽蔵ではないということじゃ」
「無尽蔵じゃない……」
「うむ。恐らく、お前さんの体には、まだその力を受け止めきる器が、十分には育っておらん。だからこそ、無理をすれば、器から溢れたものが、逆流するように、お前さん自身を苛むのじゃろう」
灰堂の推測には、これまで誰からも聞いたことのない、新しい視点があった。
「じゃあ、俺はどうすれば……」
「焦るな。器は、少しずつ育てていくものじゃ。剣も、体も、心も、な」
灰堂はそう言うと、再び木刀を手に取った。
「今日から、たまにでいい。ここへ来い。わしが、体の使い方の基本を教えてやろう。派手な技も、大きな力も、教えられん。じゃが、無駄のない動き、体を守る型――そういったものなら、まだ教えられる」
零は、深く頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
「うむ」
灰堂は、満足げに頷いた。
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それから、零は暇を見つけては灰堂の庵に通い、基本的な体の動かし方、力の使い方を学ぶようになった。
派手さのない、地味な鍛錬の日々。だが、その一つ一つが、零の中に、確かな土台として積み重なっていくのを感じた。
「灰堂さん、なんで俺に、こんなに親身になってくれるんですか」
ある日、零がそう尋ねると、灰堂は少し遠い目をして、庭の向こうを見つめた。
「……わしにも、昔、お前さんのような若者がおった」
「弟子、ですか」
「まあ、そんなものじゃ。だが、もう昔の話じゃ」
灰堂は、それ以上、多くを語ろうとしなかった。だが、その横顔には、どこか懐かしさと、微かな寂しさが滲んでいるように、零には見えた。
夕暮れの庭で、木刀を振り続ける零の姿を、灰堂は静かに見守っていた。
見知らぬ世界での修行の日々は、こうして、静かに、しかし確かに始まっていた。




