【第08話-28】それぞれの“一番”-和也・美由
第08話も、いよいよ新しい局面に入ります。
ここからは、和也を中心とした関係の変化だけでなく、
美由自身の立場と覚悟が大きく動き始めます。
物語の歯車が一段深く噛み合い始める回、
楽しんでいただければ嬉しいです。
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【Scene08.1:1年前11月】
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10月29日(日)夕刻。
和也は関東地方にある、非公開の巨大データセンターにいた。
堅牢なセキュリティ、大容量の回線、安定した電源。バックアップ経路に至るまで、最高クラスの帯域と供給が保証されている。
千を超えるブレードサーバーが稼働し、仮想クラウドを構成する。
企業はノード単位で契約し、必要に応じて処理能力を確保する仕組みだ。
霞の宿は今回、短期ながら最高ランクのフリーノードを契約。
このデータセンターの最大処理能力を、上限なく利用できる契約である。
本来、部外者の立ち入りは許可されない。
だが今回は、大学と共同開発したサーバーアプリの動作検証という名目で、特別に和也一人が現地に入っていた。
他の院生と教授陣は、大学の研究室からリモートで経過を見守っている。
その夜19時10分、霞の宿は記者会見を行う。
新別館プレオープンイベントの報告と、正式オープンおよび予約受付方法の発表だ。
初回申込は、10月30日(月)深夜0時スタート。
世界中からのアクセス集中が予想されていた。
「このタイミング、ベストでしたよ」
データセンターの職員が話しかけてくる。
「10月初旬は上期決算で混雑しましたが、今は空いてます。月末の定例処理も2日以降ですから、ぶつかる心配もない」
「そんな時期に、全ノードフル稼働で準備していただけるなんて、ありがたいです」
今回は、全ブレードサーバーをバックアップ含めてフル稼働。
消費電力は想像を絶する規模になる。
「だって、あの美人女将が直々に所長に挨拶に来たんですよ?
もうメロメロになって、『うちの威信にかけて、絶対成功させろ!予算は問わん!』って言い出したんですから」
いつもなら『最低コストで最大成果』しか言わない所長が、である。
和也は、かつてのミニスカサンタ姿を思い出していた。
(俺だって、あの姿で頼まれたら……)
その妄想は、口に出さず飲み込んだ。
「さあ、始まりますよ」
19時10分。記者会見の中継が始まる。
NHKが全国ニュース枠での生放送を実施。各種ネット配信でも同時中継された。
一部の配信サーバーも、ここで稼働している。
「来ましたね。日本国内はもちろん、ヨーロッパからのアクセスがすごい。現地はちょうど正午前後です」
「アメリカ東海岸は朝6時、西海岸は未明か……これからですね」
映像には、花音が予約方式を説明している姿。
その後ろには、美由の姿もあった。
「予約サーバーへのアクセス急増です」
「たぶん、会員登録を急いでる人たちですね」
中継内、花音の発言。
『非常に多くの予約希望をいただいております。抽選申込時点での決済は不要ですが、当選者は48時間以内の支払いが必要です。
例えば12月1日の予約分は、11月1日0時に当選発表となりますので、11月2日23時59分までに決済が完了していない場合はキャンセル扱いとなります。
ご注意くださいませ』
「ナイス判断ですね。決済情報を申込時に入れさせてたら、CAFIS側が落ちてましたよ、きっと」
説明が終わり、女将・葉月が登壇。
「おお、例の美人女将ですね」
職員が画面に釘付けになる。
続いて、仲居を代表して美由が挨拶。
日本語の後、英語でも同内容を述べる。
「おお、色っぽい仲居さんですね」
和也は内心
(あれは俺の彼女だ)
と言いたいのを堪えた。
「おっ、旧別館と本館の予約画面へのアクセスが急増してますね」
「波状効果ですね」
中継は終わったが、サイトへのアクセスは衰える気配がない。
「今のうちに食事済ませましょうか」
職員が提案し、二人はコンビニ弁当で簡単に夕食を済ませた。
23時を過ぎると、アメリカ東海岸からのアクセスが急増。
「ここからが本番。データセンターの底力、見せてやりましょう」
「よろしくお願いします」
和也は見守るしかできない。ただ、祈るように画面を見つめていた。
23時55分。アクセスが一段と増える。
国内、ヨーロッパ、アメリカ各地──世界中からの接続が集中する。
そして、0時。
サーバーはフル稼働。
だが、和也たちが開発したアプリと、データセンターの総力により、処理は一切落ちることなく乗り切った。
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【Scene08.2:1年前11月】
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10月29日(日)夕刻。
新別館のプレオープンクローズイベントは、新別館発表時と同じ会場で開催された。
記者会見は19時10分開始。
これは、NHKが全国ニュースの枠で生中継を行うための時間に合わせたものだった。
たかが一旅館の新館落成に、これほどの扱いがされるのは異例。
だがそれは、林庄蔵が“草”の時代から築いてきた表の人脈──政治・経済・観光業界・報道関係を含むあらゆる分野へのネットワークを、最晩年の力を振り絞って動かした結果である。
長年彼の姿を見続けていた葉月と花音にとって、それは痛々しく映った。
飄々として見せてはいたが、庄蔵氏はすでに亡くなった花音の祖父の従兄弟であり、同年代。
限界だった。後継者がいる。
──それが、葉月と花音の結論だった。
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それは、今月初旬の話である。
「美由、今月末のプレオープンクローズイベントで、仲居を代表して挨拶をしてほしいの」
突然花音にそう告げられ、美由は戸惑った。
「……なんで私なの? 花音がやればいいじゃない」
「私は司会進行をしなきゃいけないの」
──あの千晴と一緒に受けた、地獄の訓練。その成果を活かす場でもあった。
「広報担当者としての、最後の仕事だと思って」
その一言に、美由は言葉を詰まらせた。
「……わかったわ。やらせてもらう」
「美由なら、英語でも行けるでしょ。そうそう、TV中継もあるわ。全国ネットよ」
「えーーーーっ!」
美由の悲痛な叫びが響いた。
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当日は予定通りイベントが進行し、美由の挨拶もそつなく終えた。
美由はまだ知らなかった。
彼女が流暢な英語で行った挨拶は、英語圏を中心に大きな話題となり、人気は急上昇していた。
ほどなくして予約申し込み受付が開始される。
初日の申し込み期間は12月30日分まで。
各日・各グレードにおいて、平均200倍の倍率となったという。
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翌30日、31日、美由と葉月は都内での取材対応に追われていた。
その間、花音は宿に戻り、現地での取材対応に従事していた。
仲居頭の冬美は、プレオープンイベントで浮き彫りになった課題の整理と、仲居たちの再教育に注力している。
番頭の里見、支配人の直人までもが、運営マニュアルの改定に参加する事態となった。
──人材不足は、明らかだった。
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【Scene08.3:1年前11月】
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そして11月1日。
12月1日分の予約当選結果が発表されたこの日。
都内での宿泊先ホテル、そのロビーで、葉月と美由は向かい合っていた。
葉月が口を開く。
「株式会社霞の宿は、11月30日付けであなたを解雇いたします」
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”株式会社霞の宿”
美由にとって耳慣れない言葉だったが、取材対応のためと称して、ここ一ヶ月の間に経営についてのレクチャーを受けていた。
──霞の宿は、江戸中期から続く宿である。
昭和30年代後半、新たな温泉(現在の銀の湯)を掘り当てたことにより近代化を決意。
昭和40年、有限会社霞の宿を設立。当時の代表は花音の祖父だった。
その後、旧別館を建設し、設備投資を進めたものの、祖父の引退により一時的に経営は傾いた。
だが──葉月と花音が立て直す。
“草”との関係を断ち、裏社会との縁を完全に切る。
これが、後に“奇跡の再興”と呼ばれる立て直しの始まりだった。
さらに新たな源泉(霞の湯)を掘り当て、花音が初めてアメリカ留学に出る年、法人を《株式会社霞の宿》へと移行。
当時の代表は、林庄蔵。
新館を建設し、現在に至る。
現在の役員体制は以下の通り:
•代表取締役・支配人:一ノ瀬直人
•取締役(女将):一ノ瀬葉月
•取締役(仲居頭):高橋冬美
•取締役(若女将):一ノ瀬花音
•監査役:林庄蔵
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──話を、元に戻そう。
「分かりました」
美由は素直に受け入れた。
広報担当を外れ、花音に対して「ゆくゆくは仲居を辞めて和也の元へ行きたい」と話していた以上、退職は想定内だった。
ただ、想像より早かっただけである。
(Webサイトのロイヤリティーはどうなるのだろうか?)
美由は内心で考える。
いきなり無職で和也の元へ転がり込むのは避けたい。
(自分で生活できるだけの収入は確保しなきゃ……でも仲居しか経験がない私に、就職先なんてあるのかな)
──だが、美由は自分の価値をわかっていなかった。
その交渉力、英語力、瞬発力、そして何より容姿。
──はっきり言って、どこに行っても引く手あまたの人材である。
「急な話でごめんなさいね。
5年半にわたり仲居としてよく務めていただきました。
そして──Webサイトを起点とした“看板娘”としての約4年間の活動。
私たちは、感謝をしてもしきれません」
葉月のその言葉は、真摯だった。
美由もそれが伝わっていたから、何も言わなかった。
葉月は話題を変える。
「美由に、見ていただきたいものがあります。ついてきてください」
そう言って、葉月は席を立った。
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【Scene08.4:1年前11月】
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美由は葉月に連れられて移動した。
電車を乗り継ぎ、郊外へ。
その道中、葉月は静かに語り始めた。
「今回のイベントがNHKで中継されたのは、庄蔵さんの働きかけによるものです。草の時代から築いてきた政治、経済、観光業界、報道関係へのネットワーク。そのすべてを、最後の力を振り絞って動かされたんです」
「……最後の力、って?」
「体調を崩されました。」
思わず、美由の胸が締めつけられた。
── 庄蔵おじいちゃん、大丈夫かな?
庄蔵は美由の祖母の兄。
早くにひとり息子を亡くし、実の孫はいない。
だからこそ、美由と由美を本当の孫のようにかわいがってくれた。
── そういえば、しばらく顔を見ていない。入院でもしているのかな?
知らせてくれなかったことへの寂しさが、ふと胸をよぎったが、同時に思い出す。
この数ヶ月、休みのたびに和也の元へ通っていたのは自分だ。
── 文句は言えない。
何も言わず、美由はうつむいた。
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葉月はやがて通い慣れた駅で降りた。
そして辿り着いたのは和也の住むマンションだった。
── 見せたいものって、和也に関係すること?
混乱しながらも後を追う美由をよそに、葉月はエレベーターで和也の部屋とは別のフロアへ。
そして一室の鍵を開け、中へ入る。
「ここは……?」
間取りは和也の住む2LDKとは異なり、やや広い印象を受ける。
どうやら3LDKのようだった。
ちなみに和也の部屋は──
・1部屋はダブルベッドで占められており
・もう1部屋には学習机とサーバーラック
・光回線も特別許可を得て直接引き込み済み
一人暮らしの大学生としては贅沢な仕様だったが、和也の両親が現在は宮崎在住
元の自宅を賃貸に出しているため、その家賃収入を仕送り代わりに受け取り、マンションの家賃に引き当てている。
── 和也の部屋より家賃高いんだろうな
そんなことを思いながら、部屋を見回す美由。
リビングには対面テーブルとソファーセット。
脇には大型のディスプレイモニター。
小規模な会議なら、問題なくこなせそうだ。
1部屋は事務スペース。
事務机とノートPC、大型ディスプレイ。
残る2部屋には、それぞれシングルベッドと家具。
どう見ても「誰かが住める」仕様だった。
キッチンには調理器具一式が揃い、
浴室には全自動洗濯機まである。
── ここは一体……?
「ここが12月1日からの、株式会社霞の宿・東京支店です」
葉月はにこやかにそう告げた。
「広報、交渉、外交──すべての窓口になります。
本来は庄蔵さんが担当される予定でしたが、体調不良のため不可能と判断しました」
葉月の口調はあくまで淡々としていたが、
その表情に宿る陰りを、美由は見逃さなかった。
── おじいちゃん……そこまで悪いの?
美由は唇を噛みしめた。
葉月は続けた。
「そこで、私たち株式会社霞の宿は──
中田美由さん。あなたに、12月1日付で非常勤取締役への就任をお願いしたいのです」
美由は一瞬、息を呑んだ。
庄蔵の後を──自分に継いでほしい。
そう言われているように感じた。
だからこそ、否定ではなく、肯定の意味で問い返す。
「それは……どのようなお仕事なのでしょうか?」
その時の美由はまだ気づいていなかった。
自分が完全に、葉月のペースに乗せられていることに。
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葉月は説明を始めた。
「業務は、広報・交渉・対外窓口。東京支店を拠点に、取材対応や契約交渉、官公庁や企業との折衝をお願いします」
美由は黙って聞いていた。
「今後は、観光事業との連携や国際対応も増えます。これまで庄蔵さんが担っていた表のネットワーク──その継承と拡張です」
“庄蔵おじいちゃんの代わり……”
その言葉が、自然と胸に染みた。
「美由の英語力、対応力、判断力。もう仲居じゃなくて、霞の宿の“顔”として、正式に立ってほしいの」
葉月は静かに言い添える。
「非常勤なので副業も可能。和也さんとの時間も、今よりは持てるはずよ」
それでも美由は迷っていた。
でも、口をついて出たのは否定ではなかった。
「それで、非常勤取締役とはどういう立場なんですか?」
葉月は一度頷き、少しだけ表情を引き締めた。
「非常勤取締役は、経営に関わる立場よ。でも、常勤じゃないから日々の業務に縛られることはないわ。霞の宿の意思決定や広報戦略に関わりながら、自分の生活も守れる立場」
そう前置きしてから、ゆっくりと続ける。
「議決権はあるけど、執行権限は一部に留まる。だから経営責任を全面的に背負う必要はないわ。ただし──対外的には、あなたの言葉が“霞の宿の言葉”になる場面も出てくる。それだけの重みはあるの」
美由はじっと黙って聞いていた。葉月は柔らかく微笑む。
「背負わせすぎたらごめんなさい。でもね──これまでのあなたの働きを、私たちはちゃんと見てきたわ。仲居としての経験、Webサイトでの実績、そして何より、今のあなたの姿勢と信用力。だからお願いしたの」
「具体的にどの様な勤務をすればいいんですか?」
美由はもう、受ける前提で話をしていた。
それを見抜いた葉月は続ける。
「週に1日、ここで業務を行ってください。あとは月に1度の経営会議にリモートで参加してください」
美由には、魅力的な話に思えた。
「それ以外は案件発生ベースで動いていただきます。取締役、つまり役員は月俸ではなく年俸契約になります。月割りで支払ってもいいし、年始にまとめて支払うことも可能です。特別な事情で業務ができないような事態にでもならない限り、金額は変わりません」
「初年度の契約は年俸400万円を提示します。ただし今年度に限り、年度末までの月割り、つまり三分の一になります」
「仲居としての給料は?」
「11月15日締め分は全額、残り11月末までは日割で支給します。それと、退職金も別途支払われます」
(月に4〜5日勤務で、今と変わらない収入。これはおいしいのでは?)
美由はそう思ってしまったので、葉月の口調がいつの間にか“優しい雇い主”から“冷静な経営者”に変わっていることに気づいていなかった。
だから、
「こちらが契約書になります。問題なければサインと捺印をお願いします」
そう言われ、素直に従おうとした。
──しかし。
「随分と急ぐんですね」
そう言って、美由は一瞬踏みとどまる。
葉月は、その“踏みとどまり”に嬉しそうな顔を見せた。
けれど、すぐに冷静にこう続けた。
「今の霞の宿は人手不足なんです。今日も皆、総出で新別館の正式オープン準備に追われています」
番頭の里見、支配人の直人までが運営マニュアルの改定に駆り出されているという現状。
“急がされている。何かがある”
美由はそう感じながらも、流れに逆らえなかった。
──サインと、捺印をしてしまった。
「ありがとうございます」
葉月がにっこりと笑った、そのときだった。
──ドアの鍵が、開けられたのは。
部屋のドアが開いた。
入ってきたのは――庄蔵氏だった。
「えっ、庄蔵おじいちゃん!?入院してたんじゃ……!」
美由の中では、いつの間にか“長期入院”という設定ができあがっていたらしい。
「葉月様、早かったでしょうか?」
庄蔵氏は美由の驚きなどどこ吹く風、平然と葉月に声をかけた。
「ええ、バッチリなタイミングよ。たった今、サインと捺印をもらったところ」
「えっ、えっ、えええーー!?ちょ、ちょっと待って!庄蔵おじいちゃん、体調崩したって話は?」
「いやぁ……イベント準備で、年甲斐もなく張り切ってしまいましてな。風邪をこじらせて、三日ほど寝込みましてな」
そう言って笑う庄蔵氏は、至って元気そうだった。
「そうですよ。爺やが寝込むなんて、私が物心ついて以来――四十……」
葉月は咳払いでごまかした。
「……初めての出来事ですよ」
「今、年齢ごまかそうとしましたね!?葉月さんが今年で48歳なのは、みんな知ってますけどーっ!」
美由のツッコミも、もはや力がなかった。
「わ、私……騙された……!?」
「騙したなんて、人聞きの悪い。これはね、“嘘は言ってないが、全部は話してない”って言うのよ?」
唇に人差し指を当て、首を傾げる葉月は――ひどく、可愛らしかった。
「そんなぁ……!」
「こんなに簡単に騙されないように、今から叩き直してあげる」
「やっぱり騙してたんじゃないですか!!」
半ば泣き叫ぶ美由の声を無視して、葉月はにっこりと続けた。
「これから1ヶ月、爺やにみっちり交渉術を叩き込んでもらいます」
「ええっ!?」
「私も、“草”としての技術――話術、情報操作、印象操作、心理掌握。すべて叩き込みますからね。地獄かもしれないけれど……」
葉月はさらに微笑みながら、静かに告げた。
「あなたはまだ、うちの社員ですから。これは“業務命令”です」
「そ、そんなぁ……!」
美由は、もう何も言えなかった。
少しだけ冷静さを取り戻し、ぽつりと尋ねる。
「……契約を急がせた理由って?」
「もちろん、特訓の日を一日でも長く確保するためよ」
なんてこと。
美由は、自分が甘かったことを痛感するしかなかった。
「鬼……悪魔……!」
せめてもの抵抗として、そう叫ぶ。
そのとき、ぽつりと庄蔵氏が口を開いた。
「草の活動時代の葉月様は、“霞の悪魔”と呼ばれておりましたな。姫様に草の技術を仕込む姿など、まさに鬼のごときでした……」
「……」
美由は、その場に崩れ落ちた。
膝から、がっくりと。
そして美由はふと気づいた。
「庄蔵おじいちゃんが、しばらく姿を見せなかったって……」
「ええ、ここの準備をしていたからよ」
葉月が穏やかに答える。
「こちらで頼んでおいてなんですが、風邪から復帰してすぐ始められて……帰ってこないんですもの。この一ヶ月、みんな本当に心配してたのよ」
「いやはや、申し訳ない」
庄蔵氏は恐縮したように頭を下げる。
「イベントの準備と、ここの立ち上げで手一杯でしてな。里に戻る暇もなくて」
「もう、お年なんですから無理なさらないでくださいね」
葉月は心から心配している様子だった。
「……庄蔵おじいちゃん、ずっと此処にいたの?」
美由は心底驚いていた。
「ええ。真っ先に寝泊まりできる環境を整えましたので」
庄蔵氏はあっさりと答えた。
「私が和也のところに通ってた間も?」
「ええ。本当は声でも掛けたかったのですが、バレぬよう厳命されてましてな」
すべては、今日この日のため──。
美由は、ようやくその事実に気づく。
(霞の里、恐るべし……)
同じ里に属しながら、まだ自分は何も理解できていなかった。
けれど──これからは、自分がその“最前線”に立つのだ。
「和也様と言えば──」
庄蔵氏がふと思い出したように笑顔になる。
「新しく通われている美久様。千晴様似の美貌に、あの巨乳。この爺や、年甲斐もなくドギマギしてしまいましたわ」
「えっ……庄蔵おじいちゃん、美久のこと知ってるの?」
美由は、もう何に驚けばいいのか分からなくなってきた。
「ええ。和也様のところで夕食をいただいていた時に、美久様が訪ねてこられましてな」
「なんですって……」
美由の中で、聞き捨てならないワードがいくつか跳ねた。
「和也のところで夕食って……?」
「ええ。この近くに住むことになったので、ご挨拶に伺ったのですよ。すると『それでは自炊もままならないでしょう』と、和也様が栄養バランスの良い夕食を何度も用意してくださって……ほれ、この通り、すっかり健康になりましたわ」
「……和也、そんなこと一言も……」
「私が口止めしておきましたので。どうか、和也様を責めないでくだされ」
「……それはいいわ。で、美久と会ったって?」
「美久様は、ちょくちょく和也様のところへ夕食を作りに来られてましてな。この爺やも何度か、御相伴にあずかりまして……いやはや、絶品でありましたな。ただ、お二人の邪魔をしてはならぬと、早々に退散するのが、残念無念でしての
──あれを自由にできる和也様が、羨ましいと申しますか。」
庄蔵氏は、花音を姫として美由を孫のように大切にしている。
だから二人にはそんな様子は全く見せないが
どうやら、意外にも──巨乳好きだったようだ。
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美由は今の自分の置かれた立場とは別に、
美久が着実に“和也攻略”を進めていることに、強い危機感を覚えていた。
だから
(ここに住めるのならば、非常勤取締役を引き受けて良かった。)
心の中で、そう思い始めていた
それすらも葉月と庄蔵氏の仕込みとは気付くこともできずに。
まさに”霞の里恐るべし”であった
そしてその日のうちに、三人は霞の里へと戻った。
こうして──
美由、地獄の一ヶ月が始まる。
美久の和也攻略を案じてはいたものの、
皮肉にもその間、一度も東京に来ることは叶わなかった。
「だーまーさーれーたー」
その叫びは、何度も霞の里の空に響き渡ったという──。
今回は、霞の宿の“次の一手”が明確に動いた回でした。
仲居として積み上げてきた美由が、
いよいよ経営と対外の最前線へ引き上げられる――
本人の意思以上に、周囲が本気で育てに来ています。
そして何より、葉月と庄蔵の本気。
霞の里が本気で人を育てると、こうなる、という回でもありました。
一方で、東京側の関係も静かに火種を抱えたまま。
美由不在の一ヶ月が、今後どう効いてくるのか。
感想やリアクション、ぜひ聞かせてください。
次回、
“奇跡の写真”――
それは、二人の愛が生んだ予想外の波紋だった。
だが、物語はそこで終わらない。
美由の覚醒、
和也の違和感、
そして静かに広がり始めた“都市伝説”。
世界の歯車が――ほんのわずかに軋み始める。




