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三人のヒロインとシェアハウスすることになった僕は、全員を本気で愛して呪われてしまった。 ――告白は観覧車のてっぺんで  作者: iron-bow


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【第08話-21】それぞれの“一番”-和也・美由

同じ夜でも、残るものは違う。


満ち足りた夫婦の時間。

言葉を失った十八歳の夜。


この章は、その対比の物語です。


【Scene06:1年前9月】



9月23日、土曜の夕刻。


氷室剛志は、自ら設計を手掛けた霞の宿の新別館に足を踏み入れていた。

まだ誰ひとりとして泊まったことのない建物に、最初の宿泊者として招かれていたのだ。


翌24日から29日にかけては、従業員たちが交代で宿泊し、運用テストを行う予定。

そして10月1日――地元住民を招いたプレオープンが催され、テレビ中継も行われる。

剛志自身も、再びその場へ呼ばれていた。



「氷室様、よくお越しくださいました。

貴方様のおかげで、これほど素晴らしい館が完成しました」


深く頭を下げる葉月に、剛志は静かに首を振る。


「いえ、私は設計を担っただけです。

完成に至ったのは、多くの職人の方々、そして宿の皆さんの努力の賜物ですよ」


「……いいえ。氷室様は何度も現場に足を運び、職人たちの声を真摯に聞いてくださった。

評判も高く、皆さん口を揃えて“あんな先生は初めてだ”と仰っておりました」


「そんな、大げさな……。私は、ただ自分にできることをやったにすぎません」


剛志は本心からそう言った。

だが葉月は親方の言葉を思い出す


『お偉い設計士の先生なんてぇのは、二種類しかいねぇ。

ひとつは、図面さえ出したら現場のことなんざどうでもいいってやつだ。

こちらが不備や改善点を指摘しても、“素人が口を出すな”って一蹴する。


もうひとつは現場に顔を出すくせに、あれこれ口ばかり出すタイプだ。

“設計と違う”だの、“処理はこうだ”だのと小うるさい。

そのくせ、こっちがちょっと間違いを指摘したら、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。


だがな――氷室ってぇ先生は違った。

不備を指摘すりゃ、あっという間に改善して図面を出し直してくる。

いや、それどころか、こっちの言いたいことを先回りして、期待以上のもんを用意してくる。


現場に来たら来たで、作業をじっと見て、やりやすいように設計を変えてくる。

こっちが何か言おうとすりゃ、もう完璧な答えを準備してる。


……長いこと現場やってきたが、あんな先生は初めてだぜ』


葉月は、少し誇らしげに微笑んだ。


その親方は、頑固で無口で有名な男だった。

だが氷室剛志のことを語るときだけは、驚くほど饒舌になったのだ。


「……謙遜なさらなくていいのですよ」

葉月の声は、静かな敬意を帯びていた。



その夜の食事も酒も、申し分なく絶品だった。

ほろ酔いの剛志は部屋へ戻ると、妻・美沙を露天風呂に誘った。


「もう、剛志さんったら……一緒にお風呂なんて、十年ぶりくらいかしら」


湯気に包まれた光の中で、微笑む美沙は実年齢よりずっと若く見える。

――あの優香の母である。

控えめなバスト、すらりとした体つき。

いや、逆だ。優香こそが、この美沙の血を引いて生まれたスレンダー美人なのだ。


剛志は、やや強引に美沙の肩を抱き寄せた。


「酔ってますね」

「ああ、酔ってるさ。こんな素晴らしい建築物を完成させたんだ。祝わずにいられるか」

「ええ、本当に……素敵な宿になりましたね」

「俺の設計士としての集大成だ」

「まぁ……まるで老成した人みたいなお言葉」

「いやいや、俺はまだまだ若いぞ」


そう言って、美沙に優しく口づけを落とす。


「あら、無理しちゃって」

「無理などしていない。今夜、優香に年の離れた弟か妹ができるかもしれんぞ」


充実感に包まれた剛志の声は熱を帯びていた。

美沙の頬も赤らんでいく――それは酒のせいばかりではなかった。


剛志の手は、すでにその控えめな胸元へ。


「あっ……剛志さん……」


熱に浮かされたように声を漏らす妻に、剛志の昂ぶりはさらに強くなる。

久しぶりの夫婦の夜は、露天風呂から始まった。


(……本当に、弟か妹ができちゃうかも)


そう思わせるほどに、剛志は激しく、熱く、美沙を求めた。


「あぁ……剛志……もっと、もっと奥まで……!」


その瞬間だけは――外泊しているはずの愛娘の不安げな様子さえ、完全に頭から消えていた。



やがて、荒い息を整えた美沙は小さく笑った。


「……年甲斐もなく、頑張るんだから」


湯から上がったあとも、ひと息つく間もなく二度、三度と抱かれ――

剛志は満足げに眠りについた。


「ふふ……満足したのは仕事? それとも、私?」


全裸のままシーツを胸にかけて、そんな独り言を漏らす。

照れくさくも、女としての幸福を噛みしめる夜だった。



荒い息を整え、ようやく落ち着いた美沙は、枕元に置いた携帯を手に取った。

愛娘・優香の番号を押す。


……繋がらない。


胸に小さな不安がよぎる。だが、美沙は思い出した。

優香が出かける前に言っていた言葉。


『カラオケ屋は電波の入りが悪いから、繋がらなかったら千紗の携帯にかけてみて』


――どこか抜けている娘だが、千紗ちゃんと一緒なら大丈夫。

しっかり者の彼女がそばにいると思うと、不思議な安心感があった。


美沙は千紗の番号を呼び出した。

今度はすぐに繋がる。


『あっ、美沙さん、こんばんは』

「優香、近くにいる?」

『今……少しだけ離席してます』


と答えた千紗の声に重なるように、別の声が聞こえてきた。


『ねえ、優香遅いね。ドリンク持ちきれないんじゃない? 私、運ぶの手伝いに行ってくる』


聞き覚えのある声だった。

――早乙女莉子。

娘の親友であり、隣家のお嬢さんと同じ名前だったからこそ、美沙はよく覚えていた。


(あぁ、ちゃんと友達と一緒にいるのね……)


そう思った途端、美沙は自分の“いまの姿”に気づき、頬が赤くなった。

ついさっまで夫に激しく抱かれていた――その余韻をまとったまま、娘の友人たちと会話している。

恥ずかしさと気まずさが入り混じり、それ以上追及することなく電話を切った。


まさか、その時すでに愛娘が“初めての夜”を迎えようとしているなど、想像するはずもなかった。



その後、美沙は再びひとりで温泉へ。

身体を清めたあと、もう一度携帯を手に取った。


やはり優香には繋がらない。

代わりに再び千紗へと掛けた


「」優香は今トイレ行ってて……さっきフリードリンクだからって欲張っていっぱい持ってきちゃって。莉子に叱られて、ぜんぶ飲み干したんですよ』


(あぁ、容易に想像つくわね)


美沙は思わず笑みを漏らし、肩の力が抜けた。


「じゃあ、優香に“お大事に”って伝えてね」


冗談まで言えるほどに安心して、そのまま眠りについた。


――剛志も美沙も、久しぶりの熱に任せた夜にすっかり疲れ切っていた。

だからこそ、今まさに愛娘が枕を涙で濡らしているとは、夢にも思わなかったのだ。



時は少し遡る。

剛志と美沙が夕食に舌鼓を打っていたころ――

晴道と優香は、ホテルの一室にいた。


部屋の空気は重かった。

晴道は、胸の奥にずっと圧迫感を抱いていた。


優香からの手紙は、熱を帯びていた。

率直で、切実で、真正面から自分に向けられた想い。

(優香を“だいて”あげなきゃ)

そう思ったからこそ、ここに来た。


コンビニの袋を机に置き、二人で缶を開ける。

テレビから流れる笑い声が、空虚に響いた。


優香がそっと腕に触れる。

小さな手の温もり。

その意味を分かっていながら、何も言葉が出てこない。


顔が近づき、唇が触れ合う。

それでも彼は黙ったままだった。


――ここで止めたら、優香は深く傷付く。


そう理解しながらも、心はどこか遠くにあった。


服を脱がせる手つきは、ぎこちない。

震える肩を抱き寄せるたびに、彼女の声がかすかに漏れる。

痛みに顔を歪めても、晴道は声をかけなければならないと分かっていた。

けれど――喉は塞がれたように、音を発せなかった。

それは、まるで呪いのようだった。


優香が枕を涙で濡らしていると気づきながらも、晴道は何もできなかった。


……その瞬間、脳裏に浮かんだのは千紗の顔だった。


(……俺は千紗に捨てられたから、ここに来たんじゃないのか?

俺って、最低だ……)


初めて結ばれた夜。

それは幸福であるはずだった。

だが、二人の間には埋めがたい空白が横たわっていた。


終わったあと、優香は震える声で「ありがとう」とだけ言った。

その小さな声に、晴道は答えることができなかった。



――成熟した夫婦が互いを労い、言葉を重ね、心も体も繋いでいた同じ夜。

その陰で、十八歳の二人はただ形だけの行為に身を委ね、言葉を失ったまま朝を迎えた。


剛志と美沙が”確かに結ばれた”と実感する夜であったなら、

晴道と優香のそれは”結ばれたはずなのに、何も交わらなかった夜”だった。


残ったのは――沈黙と後悔だけだった。



次の朝、氷室剛志と美沙は、すがすがしい気分で目を覚ました。

昨夜の余韻が残るその寝室は、どこか温もりに満ちていた。


二人は連れ立って再び露天風呂へ。

澄んだ山の空気の中、白い湯けむりが立ちのぼり、湯面に木々の影が揺れる。


「なあ美沙」

「なんですか? 剛志さん」


湯に肩まで浸かりながら、剛志が言った。

「優香がな、友達と卒業旅行に行きたいと言っていたろ」

「ええ。三人でって、そう言ってましたね」


美沙は心の中で思う。――きっと千紗ちゃんと莉子ちゃん。昨夜も一緒にいたはずの、あの二人。

「ここはどうだろう?」

「えっ……そうね、それは良いかもしれませんね」

「ああ。後で草の女将に相談してみるとしよう」


二人の視線は未来に向けられていた。

愛娘のこれからを思い、笑みを交わす朝。



同じころ、優香はひとりで朝を迎えていた。

すぐそばには晴道の寝姿がある。

けれど、そこに触れることもなく、心は遠く離れたまま。


千紗に言われた言葉が胸に残っていた。

『ホテルは必ず別々に出なさい。最後が一番気が抜けて危ないのよ』


優香は静かに身支度を整える。

鏡の中に映る自分の顔は、泣き腫らして赤い。

それでも顔を整えて、髪に櫛をとおして、扉に手をかけた。


「……さようなら」


それは永久の別れではない。

けれど、確かに“別れの言葉”だった。

幼かった自分との決別でもあった。



その後の朝食も、驚くほど素晴らしかった。

炊き立ての米に、旬の野菜と川魚の塩焼き。

夫婦は舌鼓を打ちながら、互いに笑みを交わす。


「やっぱり旅って良いものね」

「うむ、人生こんな時間も必要だな」


夫妻は旅を満喫していた。

その姿は、誰が見ても幸福な夫婦のそれだった。



優香は、ひとりホテルを出た。

秋風が冷たく頬を撫でる。

その寒さが、心の隙間を突き刺す。


早朝の街はまだ眠っている。

人影のない道を歩くたびに、靴音だけが虚しく響いた。


誰にも見送られることなく、ただひとり。

向かう先は、千紗との待ち合わせ場所。


その背中には――昨夜まで抱いていた淡い期待も、少女らしい夢も、跡形もなく崩れ去っていた。



氷室夫妻が“未来”を語りながら朝を楽しんでいた同じ時刻。

優香は“過去”と決別しながら、孤独な道を歩いていた。


幸福と孤独。

成熟と未熟。

その落差が、あまりにも残酷に際立つ朝だった。



千紗はカラオケ屋で朝を迎えた

アリバイは完璧に仕組まれていた。

あとは、優香が笑顔で帰ってきてくれれば――そう思っていた。


けれど、そうはならなかった。



早朝の駅前。

淡い朝の光の中に、現れたのは優香ひとりだった。

当然のことだ。

せっかく用意した“嘘”も、ふたり一緒にいるところを誰かに見られれば一瞬で崩れる。

だからこそ、千紗は「最後が一番危ないの」と念を押し、別々に出るよう伝えていた。


それでも、彼女の顔はあまりにも暗かった。

髪は整えられているのに、目だけが泣き腫らして赤い。

頬の血色も、夜明けの冷たい空気に奪われていた。


「……うまく、いかなかったの?」

千紗が恐る恐る問いかける。


優香は、少しだけ笑った。

けれど、その笑顔はどこか寂しげで、痛々しかった。


「ううん。痛かったけど……しあわせだったよ」


小さな声。

“ありがとう”と同じ重さで、その言葉は落ちた。


「そっか……じゃあ、ちゃんと告白してくれたの?」

千紗の声には、わずかな期待が滲んでいた。


優香はゆっくりと首を横に振る。


――また、言ってくれなかった。


その事実が、胸に鉛のように沈む。

優香の頭には、千紗の顔がちらついた。

(あの“抱いてもらった”っていう言葉……あれは、冗談じゃなかったの?)

あの一件が、二人の間にどれだけ重くのしかかっているのか。

その勘違いが、何かを壊してしまったのではないか――そんな不安が、胸の奥で蠢く。


「……何も、言ってくれないの。ずっと。何も……」

優香はぽつりとつぶやく。


顔をあげる。

そこには、涙と、怒りと、哀しみがないまぜになった瞳があった。


「ねえ、千紗……なんでなの? なんで、先にしちゃったの?」


声が震えた。

胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切って溢れ出していく。


「出会うのも、初めてキスも、初めての手作りプレゼントも、初めての手作りチョコも、初めてのデートも、初めてラブレターを渡すのも――」


そして、最後に絞り出すように言った。


「……初めて結ばれるのも。

なんで……なんで全部、千紗なの……!」


その叫びは、怒鳴り声というより、心の奥底から吐き出された悲鳴だった。

少女が抱いていた全ての“初めて”が、砂のように崩れていく感覚。

涙が頬を伝い、声が震え、立っているのがやっとだった。


千紗は、その光景をただ見つめていた。

あの時、ほんの少し違う言葉を選んでいれば。

あの夜、優香がどんな顔で待っていたか、想像していれば――そう思っても、もう戻れない。


言い訳はいくらでもある。

でも、今はただ、優香の涙を受け止めるしかなかった。



夜明け前の空は、ほんの少しだけ白んでいた。

静かな住宅街の道を、二人は肩を並べて歩いていた。

まだ眠る街の匂いと、早朝の湿った空気。

昨日のカラオケの余韻も、優香の涙も、もうどこか遠くの出来事のように感じられた。


「……ねえ、千紗」

ぽつりと、優香がつぶやく。


「私ね、明日から受験勉強に専念する」


千紗は、ふと立ち止まりたくなった。

けれど歩幅は変えず、隣でその言葉を受け止める。


「うん。そっか……もう、そんな時期だもんね」


二人は高校三年生。

進学先は、ずっと前に決めていた。

三人で同じ大学に通うことを前提に――やりたいこと、学びたいこと、学力、それらを全部考えたうえで選んだ東京郊外の大学。


ただ、今のマンションからは少し遠い。

通えなくはないけれど、毎日はきついかもしれない。

そこは、合格してから考えよう――そう決めていた。


「推薦、もう決まってるんだっけ?」

優香が、かすかに皮肉っぽく笑った。


「ちぇ、自分だけ余裕だもんねー」


「違うし。……晴道と一緒に推薦受けただけだし。

ってか、あんたもA判定目前でしょ?」


千紗の内申も模試の成績も、ほぼ完璧だった。

晴道も安定して上位をキープし、二人とも既に推薦枠内。

けれど、優香は――この前の模試では、まだB判定だった。


「……晴道のことも、大学受かってから、かな」


優香の声は、小さく、けれど確かに聞こえた。


「恋人同士になってから、ちゃんと勉強に集中したかったのかも。

だから焦って、あんなこと……しちゃったのかもね」


千紗は、ポケットの中のスマホをそっと握りしめた。

まだ、時間はある。

取り返せるものも、きっとある。


「受かろうね、絶対」


「うん。……絶対」


優香は、ぽつりと続ける。


「私、ちゃんと晴道のこと見てなかったのかも。

晴道の“本当”とか、“過去”とか、そういうの、ちゃんと聞こうとしなかった。

だから、晴道も言葉をくれなかったのかなって……」


千紗は、少し驚いた。

いつもの優香なら、こんなに素直なこと、なかなか言わない。


「ねえ千紗」

「なに?」


「ありがとう、私にチャンスをくれて」

「……そっちこそ、ありがとう。信じてくれて」

「信じてはないよ?」

「ちょ、ひどっ」


ふたりは、くすっと笑う。

その瞬間、少しだけ――心が、ほどけた気がした。


そして、二人はまた、静かに歩き出す。

少し先にある朝の光を目指して進んだ。



氷室夫妻はチェックアウトの際、女将に娘の卒業旅行について相談を持ちかけた。

時期は来年の2月、天皇誕生日を含む三連休での二泊三日。


「もちろんですとも!

我が新別館の輝かしい予約第1号ですわ!」

そう笑顔で応じた葉月の隣では、若女将の花音が手早く予約台帳を準備していた。


「やあ、花音君。立派になったな、この宿は」

剛志の言葉に、花音は頭を下げる。


「すべて氷室様のおかげです」


(……全くこの母娘は)

剛志は口には出さず、少しだけ頬を緩めて話題を変える。


「そういえば、新別館の発表会の日に司会をやってた千晴君、な」

※仲居頭・高橋冬美との混同を避けるため、剛志は一貫して“千晴君”と呼んでいる。


「俺の旧知の仲間がやってる会社に就職したんだ」


「高村不動産という会社と聞いております」


「そう、その社長とは昔の同期でな。今でもよく仕事を廻してもらってる」


「氷室様のことは、その高村不動産様で知ったと、千晴さんが話してました」


「ああ、そうみたいだな。あの発表会のあと、奴の自宅の設計を受注して、それからメールのやり取りも増えてな。たびたび千晴君の自慢話が出てくるんだよ」


花音は笑って言った。

「千晴らしいですね。おじ様キラーですから」


剛志は内心、次に高村と飲みに行ったら、美優の話ではなく千晴の話ばかりになるんじゃないかと苦笑する。


「……美優のことは、もう少し黙っておくか」


「美由?」


「いや、すまない。ここの看板娘の美由さんのことじゃない。昔の知り合いの話さ」


実際、剛志は自分と蘭、美優が三人一堂に会すような機会があれば、いつか脅かしてやろうと──ずっと、同じマンションに住んでいることを黙っていた。


だが気がつけば、それももう十九年近く前の話だ。

さすがに今さら言い出すきっかけもなく、そのまま時が過ぎてしまっている。



氷室夫妻を送り出した後、葉月は午後に予定されていたテスト運用の準備に取りかかろうとしていた。


「……葉月母様」


呼び止めたのは花音だった。

その呼びかけは、娘としてではなく、“草”の頭としてのもの。


葉月はすぐに表情を引き締め、周囲に誰もいないことを確認する。

すると花音は手元の予約台帳を開いて見せた。


「何かあったの?」


「……この予約、見てください」


花音が指し示したのは、ほんの数分前に母・美沙が記入したばかりの宿泊予定だった。


そこに記されていたのは──


 宿泊代表者:氷室 優香


「この名前……どこかで聞いたような気がするわ」


「小泉晴道と如月千紗の、幼馴染と同じ名前です」


「住所も一致しています」


これまで氷室家は、仕事先である設計事務所の住所を用いていた。

だが今回記されたのは、自宅の住所だった。


「ということは……」


「泊まるのは、小泉晴道、如月千紗、そして氷室優香の三人です」


花音は迷いなくそう断定した。


「仕方ないわね。彼らの部屋の隣も、空けておきましょう」


葉月は即座に判断を下す。


「冬美には悪いけれど、24時間体制で監視を。必要があれば美由にも協力を要請しましょう」


「……次から次へと偶然が重なる。縁とは、本当に怖いものね」


葉月はふとため息混じりに呟いた。



……けれど、それは本当に“怖いもの”なのだろうか?


花音の胸に、微かな疑問が芽生える。


たしかに、一ノ瀬の血筋を引く者たちが、次々とこの里へと関わりを持ち始めている。

地理的に“来訪”するという意味ではなく、因縁のように“絡み合ってくる”という意味で。


だが──それが即ち脅威なのだろうか。


──和也が洗脳されて千晴と別れ、新倉南に向かわせられた?

だが、洗脳とは無関係に、今まさに和也が自ら同じ道を選ぼうとしているものではないか。


──和也が美久と久美を、愛人や性奴隷にしようとした?

けれど、美久と久美はそれを“不幸”だと感じていただろうか?


思い返せば、新倉南も高倉南も、少なくとも今の時点では“脅威”とは言いがたい存在だった。


和也や美由の能力はたしかに恐るべきものだが、

それすらも──この“草の里”にとっては「大きな戦力」になり得る。


小泉晴道と如月千紗、そしてその母たち──沙織と美優。

彼らの力は未知数だ。


けれど、それを“脅威”と断ずるには、花音には決定的な根拠が見いだせなかった。



縁とは、本当に葉月母様の言うように“怖いもの”なのだろうか。

それを“怖い”と判断するのは、一体誰の役目なのだろう?


──答えの出ない問いを胸に、花音は予約台帳をそっと閉じた。


初めて結ばれれば、すべてがうまくいく――

そんな単純な話ではありません。


言葉がないまま重なった夜は、

むしろ二人の距離をはっきりさせてしまうこともある。


十八歳の選択は、

まだ取り返せるけれど、確実に何かを変えていきます。


次回、

和也、美由、由美、そして美久と久美。


偶然が重なった一夜は、

やがて誰も予想しなかった形で動き始める。


それぞれの“一番”が揺らぐとき、

和也はどんな選択をするのか。

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