セカイが終わるその前に
「……元の世界に帰る方法はないのか」
「ケンジまで、あの世界に帰りたいの?」
「いや」
別に俺は現実世界でやり残したこともなければ、将来やりたいこともない。
帰りたいとは微塵も思わなかった。
それでも、彼女のいる世界を否定する声があまりにも大きすぎる。このままだと腕の中に収まる彼女が、暴徒化した群衆に危害を加えかねられない。
彼女を守るためにも、なんとかみんなを元の世界に返す方法はないのかを探った。
顔を上げて辺りを見回すと、入ってきたときとは違う空間が広がっていた。空も海もない。あるのは空中に漂う小さな鏡の破片だった。
よく見ると、その破片に映し出されているのは俺たちの姿ではなかった。目を凝らすと、テレビのように映像が映っている。
「なに、ここ」
カミサマはゆっくりと立ち上がって、破片の一つに近づいた。彼女は流れる映像を見入ったまま、しばらく動く気配がなかった。
何が映っているのか気になって、俺も立ち上がると、彼女の後ろから破片を覗き見た。
「——あいつにかっこいいとこ見せないと」
歓声の中、サッカーコートにユニフォームを着た少年が真剣な表情で一点を見つめていた。
それがすぐにタツキだと分からなかったのは、鏡の向こうに映る姿が若干幼かったからだった。
「あいつ」が誰を指すのか分からず、首を捻っていると、タツキには弟がいたのを思い出した。
一度だけ会ったことがあるが、真面目で物静かという印象だった。特に言葉を交わすこともなく、会釈されただけだったが。
場面が切り替わると、自室でノートと向き合うタツキが頭を掻きながら不満を吐いていた。
「くっそ、わかんねー。世界滅亡したら模試に行かなくても済むのにな」
文武両道で人当たりも良いなタツキからは想像できないような言葉が聞こえてきた。
「もっと弟と話したい。もっとサッカーしたい」
それが彼の本心だと思った。中学の頃からの仲だが、タツキがそんなふうに思っていたことなんて全く知らなかった。
「……でも、それを叶えるにはやるっきゃないんだよな」
タツキはぐっと伸びをすると、水色の塗装が剥げたシャープペンシルを握り、再び机にかじりついた。
別の鏡には先ほど失意の念に駆られた男性が映っていた。
「あのクソ編集! 締切なんてクソ喰らえってんだ‼︎ 世界なんて滅んじまえ‼︎」
缶ビールを開けて雑誌や生活ゴミが散らばったワンルームで、男性は声を荒げていた。
映像が切り替わると、机に向かう男性の姿があった。
「それでも描き続けねぇと。届けるんだ、俺みたいな思いをした子が、少しでも生きる意味を見出せるように」
真剣な眼差しの先には物語が紡がれていた。その一コマには大きく「生きろ」とだけ書かれていた。
それは世界的にヒットした作品の有名なワンシーンだった。俺も話題になってから数話、電子で読んだことがあった。
「……みんな矛盾してる」
カミサマはふと呟いた。呆れたような、理解できないといったような、そんな声だった。
「辛い事象から目を背けて、自分を取り巻く環境そのものの消失を願うのに、その環境があるからこそ前を向けるなんて、変なの」
カミサマは赤黒い跡がついた鼻の下を指で擦った。すっかり血は止まっていた。
「でも、少しだけわかった気がする」
カミサマはふっと息を吐いて、目を閉じた。自嘲するような、どこか切ない表情を浮かべていた。
「希望は、暗く辛い環境から抜け出すためにある。だからこそ輝く。私なんかが手を加える必要なんて、最初からなかったのね」
彼女の独白をただ静かに聞いていた。彼女が一人納得する隣で、俺はどこか煮え切らない気持ちで、心がざわついた。
みんな、クソみたいな世界を恨んで、それでも立ち上がって前を進んでいる。
対して俺は、環境のせいにしっぱなしで、滅んだ後もどこか安心していた。いかに自分が小さい存在か思い知らされた。己の不甲斐なさに拳を握ると、傷口がズキズキと傷んだ。
——このまま、情けない自分で終わりたくない。
俺はここに来て初めて、現実世界に帰りたいと思った。自分を変えなければならないと、覚悟のようなものが芽生えた。
「……勝手に連れてきてごめんなさい、終わらせちゃってごめんなさい、救えなくてごめんなさい」
ポロポロと右目から涙を流すカミサマをそっと抱きしめて、慣れない手つきで頭を撫でた。今の俺にできることは、これくらいしかなかった。
たとえ世界に否定されても、俺は、俺だけは彼女の一番の味方でいてあげたいと思った。
「……時間、戻せば帰れるよ」
「時間を戻す?」
カミサマは腰に取り付けられた懐中時計を手に取った。よく見ると、その時計には長針も短針もなく、時を刻む秒針が十二を少し進んだところで停止していた。
「この時計の針を戻せば、予言も滅亡もなかったことになる。私は、人間に望まれなくなったら、消えちゃうけど」
「消えるって、君はそれでいいの?」
「うん、いいよ」
「でも、ひとりぼっちは、寂しいんだろ」
返答はなかった。ただ、右目を腫らした少女に太陽のような笑顔を向けられるだけだった。
俺は彼女になんて返して欲しかったのだろう。
「怖い」とか、「不安だ」とか、「もう少しそばにいて欲しい」とか?
そもそも初めから一緒に行こう、俺はここに残るよ、そう切り出せていたなら、また違う回答が返ってきたかもしれない。しかし、いくらたらればを想像したところで、一度形にした言葉を取り消すことはできなかった。
「俺はこの世界、悪くないと思ったよ」
俺の本心であることに間違いないが、捻くれているとこういう回りくどい言い方しかできないのかと、自分に辟易した。
「……ケンジ、この世界が終わる前に、一つだけお願いしてもいい?」
「ああ、俺にできることならなんでもする」
「ありがとう」
少女は緊張するように胸の前で異能用に手を重ねると、ふうっと息を吐いた。
「どうか、幸せになって。終末世界の方が良かったって、失望しないで」
「わかった。でもそれじゃ、二つだな」
「確かに」
くすくすと笑う少女の声がだんだんと遠くなった。




