8話
コア・グリッド・テクノロジー社での事件から約1か月。
細々とした時空間の歪みはあるものの、災害を誘発するようなものもなく、狗飼班には比較的ゆとりのある日常が流れていった。
キーストーン警備保障ビル地下2階の研究フロア。筑紫は、定期的な歪みの定点観測のデータをチェックしていた。幾千ある観測エリアのデータの中で、彼の手がピタリと止まる。それは、最近追加したばかりの文京区にある『有栖川メンタルクリニック』の数値に、明らかな違和感があった。
「弦巻さん、ちょっといいですか。有栖川の病院なんですけど、検知する波形が定期的に変わるんです。数値を見るに、コア・グリッド・テクノロジー社で使われていたノイズキャンセリングのようで、こんなの一般家屋で普段使いしないですよ。……おかしくないですか?」
筑紫の話を聞きながら、弦巻は次第に笑みを深くした。今度はどんなものを使って、何をやっているのか、自分の知らない何を知っているのか――逸る気持ちに鼓動が高鳴っていく。
「あー…調べる必要がありそうだね。愉しくてイイモノが手に入りそうだよ」
「――なるほどな。それで有栖川の病院を調べたい、と」
招集を受け、地下1階の狗飼班専用ブリーフィングルームに全員が集まった。
狗飼は、弦巻達から班員全員のタブレットに一斉送信されたデータを確認した。
「絶対だよ、今一番の要注意人物だ。これはこの前のコア・グリッド・テクノロジー社と同じものが使われている可能性が高い。病院内で何を行っているか、確認しないと」
気持ちが先行して息巻く弦巻に、タブレットを見ていた氷海が、冷ややかな視線を向けた。
「でも、何もない状態で私たちは中に入れないわ。武装した私たちが入ったら、逆に不法侵入で捕まっちゃうわよ」
「――面倒だなぁ。どうするの?氷海君か創が看護師とかにでもなる?創ならパソコンに細工できるでしょ」
「大病院ならともかく、個人経営のクリニックなんて、スタッフの顔は全員把握しているんですから、すぐにバレちゃいますよ」
「えー……」
筑紫には冗談も通じない、手間取る手続きをしなければ捜査に入れないなんて、弦巻は不満をあらわにした。
息の詰まる静寂の中、スッと小さな手が上がった。
「わ、私が行きますっ」
「君が?こいつの被害者かもしれないのに?」
「大丈夫です。私、最近までの記憶が曖昧ですし。患者として診察を受けるなら不自然じゃないです。どうですか?」
決定権を持つ班長である狗飼に、鏡花は真摯に視線を向けた。
「――分かった。ただ、会話はこちらで用意したマニュアルを基準に話すように」
「はい」
「先生、次は新規の患者さんです」
看護師から渡されたカルテには『八澄鏡花』と書かれていた。この病院の院長である有栖川宗一郎は、自然とその文字を指でゆっくりとなぞった。
(――同姓同名、か。まさか本人か……)
有栖川の脳裏には、ボロボロになった鏡花が道端に転がっていた情景が思い出された。あれから、まさか生きているとは思えないが、本人ならば、此処に来た理由を探るしかないだろう。
白を基調に、大きなソファとローテーブル、落ち着いた空間の診察室に鏡花は通された。テーブルを挟んだ向こう側に、ゆったりと椅子に座る有栖川がいた。彼は、にこりとほほ笑んだ。
「こんにちは、八澄鏡花さん。不安なこともあるでしょうが、まずは焦らず、まずは世間話でもしましょう」
「はい、お願いします。先生」
(本当に先生だ!)
久しぶりに会えた有栖川に鏡花は感極まった。思わず、懐かしかったあのひとときの感覚で話し出しそうになるが、インカムから聞こえる狗飼と筑紫の声にとどまった。
彼らは病院から少し離れた駐車場に移動指揮車を停めていた。病院内の彼らの会話を聞きつつ、情報を引き出せるよう鏡花に指示を出している。
「――そうだね。君には、特別な処置が必要なようだ。かなり深刻で、私はとても心配だ。今日は夜から専用の機材を使った処置をしよう。君の大切な記憶も、きっと戻ってくるはずだよ」
鏡花の手に有栖川の温かな手が重ねられ、耳元で優しく囁かれた。その瞬間、鏡花の中で何かスイッチが入った。
「はい、先生」
気づくと、鏡花は移動指揮車の中にいた。
「戻ったな」
助手席に座る狗飼は、改造された後部座席に座る鏡花を見やって、一息ついた。
「しばらくここで様子を見ましょう。体調に変化があれば処置をします」
「あ、あの……」
催眠状態が抜けた鏡花は、一体どうなっているのか分からず、気落ちしている。そんな彼女の前に、中身いっぱいに詰められたコンビニの袋が2つ置かれた。
「そこのコンビニでロールケーキと飲み物買ったんです。えーっと、紅茶、水、コーヒー…あ!」
「筑紫、いちごみるく無いじゃん!」
「俺はブラック」
後から合流予定だった氷海、黒崎、弦巻が装備や機材を持ち込み、続々と移動指揮車に乗り込むと、狗飼班でいっぱいになった。
筑紫が置いたコンビニ袋は、お互いに分け合ううちにすぐにカラになった。
「狗飼、いい物出来たよ」
運転席に乗り込んだ弦巻はそう言うと、鈍色に光るボールを投げ渡した。
一見、つるりと綺麗な球状だが、1か所に触れれば気づくほどの凹みがある。
「僕が作った『ディメンション・アンカー』。その凹みには、指紋認証があって今のところ狗飼班しか使えないように生体ロックがかかっている。そこに5秒ほど指を当てると、本体の術式コアが起動する。んで、対象の近くの壁や床に投げると、衝撃で有栖川が使っていたノイズキャンセリングを転用した、歪み、怪異をそこに閉じ込める空間が形成される。出来立ての試作品だから、これ1つしかない」
「なるほどな。これで今後は対処中に起きる被害が減らせる」
「まあ、使ってみてよ」
そして、深夜。
変わらず、有栖川メンタルクリニックから少し離れた駐車場に止められている移動指揮車の中、狗飼班と突入の手順を話して、待機していた鏡花の視界に映る時計が23時を表示した。これは、有栖川と彼女が約束をした時間だ。
(あ、約束の時間だ――)
鏡花は虚ろな目で表情を落とし、おもむろに座っていた椅子から立ち上がった。周囲には、何も告げず、視界にも入っていないようで、社内後方に向かっていく。
「八澄……?どうした」
声をかけた狗飼に見向きもせず、ただ、自然な動作で鏡花は移動指揮車から出て行ってしまった。昼間の診察の際に、有栖川に手を重ねられて耳元で囁かれたあの瞬間、彼女の脳内には指定した時間になるとクリニックに向かう催眠が仕組まれていた。
「え、クリニックに行くのって24時でしょ」
動揺する氷海の問いかけに、筑紫は急いで診察時の音声を確認する。
「そうです。診察のときの会話でも24時って約束してました。……班長、これはカモフラージュです!有栖川は催眠をかけるときに23時を指定したんです」
有栖川は怪異対策課を欺くために、診察で指定した時間より早く催眠で指定した時間を変えていたのだ。インカムで鏡花に声をかけても、一切応答がない。
その時、鏡花のインカムから、彼女とは別の男の声が聞き取れた。
「よく来たね、鏡花」
出迎えた有栖川は、鏡花の頭を優しく撫でた。
そして、耳にかかるインカムを外し、マイクを口元に持っていく。
『――こんばんは、キーストーン警備保障…いや、怪異対策課の諸君。僕の可愛い鏡花を、ここまで綺麗に仕上げてくれて感謝する。僕は君たちのことをよく知っているし、君たちも僕のことをある程度分かっているだろう?で、あれば……今夜の祝宴には君たちも参加することを許可しよう。来てくれるのを待っているよ』
プツリと通信が途絶えた。どうやら、有栖川に鏡花のインカムの電源を落とされたようだ。
「黒崎と氷海は俺とクリニックに急行!弦巻と筑紫は指揮車でバックアップを頼む!」
狗飼班の戦闘員3人は、それぞれ武器を手に、指揮車を飛び出した。
静まり返ったクリニック内を、捜索もそこそこに地下への階段を駆け下りる。
冷えた空気に、吐いた息が白い。暗い廊下を進む中、有栖川が待つ部屋は、すぐに見つかった。半開きの扉が一つだけ、不気味に明りが漏れていた。そこに近づくほどに、検知器のアラームが強くなる。疑うこともなく、狗飼がその部屋に足を踏み入れる。
壁も床も一面、白い部屋の中心に椅子に座らされた鏡花。その隣に有栖川は悠然と立っていた。入ってきた武器を構える狗飼たちに特に驚きもせず、迎え入れた。
「顔を合わせるのは初めてだね、諸君。まさか1年前に使えなくなった人形を、再び使えるように返してくれるなんて……君たちとは、分かり合えないと思っていたが。こんなおもちゃを付けて【ヨグ=ソトース】への道を切り開いてくれるとは思わなかった」
「有栖川そこを動くな!」
狗飼がナイフを構え、冷徹な視線を外さずに慎重に近づこうとすると、有栖川が、嘲笑うかのように手元でスイッチを押した。
「さあ、儀式を始めよう。僕ももう一つのおもちゃを残しておいてよかったよ。これで完全な邂逅がなされるはずだ!」
――その瞬間、グルンと世界が一転した感覚とともに、全員の背筋がゾワッとする悪寒が走った。
今までとは違う、重み、視線、息遣いが白い部屋全体に充満していく。
ドゴオオォォ……ンッ!!
唐突に、狗飼たちの左側のコンクリートの床が大きく凹んだ。
そこには、確実に圧倒的な力を持つナニかがいる。
狗飼たちに緊張が走る中、鏡花の叫び声が響き渡る。
「右から来ます!!」
咄嗟に反応した黒崎が、身を挺して『エルダーサイン』の盾を最大展開した。エルダーサインの盾は、彼の大柄な体躯を覆い隠してしまうほどだ。しかし、虚空から放たれた不可視の衝撃は強く、凄まじい衝撃音とともに、盾ごと黒崎は力任せに弾かれてしまう。何とか潰されることは避けられたが、先程まで彼がいた場所は、深く凹んでいた。
「八澄、ヤツが見えるのか?!」
「はい!とても大きい触手が歪みから出てきています!」
有栖川が押したスイッチは、奇しくも弦巻が開発した『ディメンション・アンカー』と同じ機能の物をオフにしたのだった。それにより、怪異が部屋の中に溢れ出し、洗脳されていた鏡花は、歪みの影響で『魔術義眼デバイス』のショートによる痛みによって解放された。脳を焼くような痛みから咄嗟に奥歯を噛み締め、デバイスの機能をオフにした。目の前に、ぬらりと動くいくつもの触手を見た。
その様子を、有栖川は何かを待つように、部屋の隅で見ていた。




