3話
無機質なコンクリートの室内は地下ということもあって窓はなく薄暗く、とても静かだ。
先程までは、氷海冴が『鏡花ちゃんと買い物♪』という事由で外出許可が下りたと、嬉しそうにスキップをしながら部屋を出て行った。彼女から部屋で待っているように言われた八澄鏡花は、ぽつんとベッドに腰かけたまま、改めて室内を見回した。『魔術義眼デバイス』で見える景色が慣れないものだったからだ。
ゆっくりと立ち上がり、久しぶりに目にする色彩を一つずつ捉えていく。電子のレンズとこめかみにある魔術の回路を介して、冷たいコンクリートの灰色、ベッドシーツの清潔な白、医療機器やパソコンから発せられる刺さるような緑や赤色が流れ込んでくる。どれもが暗闇の中、活動が低迷していた脳には刺激が強い。
再び色を感じることは、失ったものが満たされる充足感もあったが、どこかで物足りなさもあった。その物足りなさは何なのか―例えばあの『虹色の泡』に包まれた景色、あれは――
「鏡花ちゃん、おっまたせ!」
扉を開けた氷海は、ウキウキした気持ちを隠しもせず軽快に入室した。その姿は先程の黒に統一されセキュリティジャケットではなく、肩を落とした黒いMA-1、野菜をモチーフにしたキャラクターがプリントされたロンT、スウェットカーゴパンツにローテクスニーカー。気だるげな雰囲気がありつつも、彼女の格好良さが溢れている。
「さ、上に行くわよ。ここに来る前の服は汚れちゃったし、組織に置いてある色味の無い予備の服じゃなくて、かわいい服を探しに行きましょう!やっぱり渋谷?原宿?下北?」
服を買うのは鏡花のはずなのに、氷海の方があからさまにテンションが上がっている。
「大丈夫、私と一緒なら歩けるわ」
「はいっ」
外に出ることを不安に思っている鏡花の焦りに気づいたのか、氷海は悪戯っぽくウィンクをして彼女の手を引き、エレベーターホールへ向かう。今いる階は地下1階らしい。
慣れた手つきで氷海が操作し、すぐにエントランスホールのある地上1階に移動すると、大きなガラス窓から容赦なく射し込む太陽の光に、鏡花は思わず目を瞑った。
「まぶしいよね。ゆっくり目を開けてごらん」
氷海に優しく声をかけられ、目を開いた先に見えたのは、警備用の制服を身にまとった人やスーツ姿の人が忙しなく行き交う広々としたロビーだった。
「キーストーン警備保障へようこそ。ここは一般フロアだから下の階みたいに物騒じゃないわ」
鏡花は、久しぶりに数か月前の日常の中に戻った開放的な感覚に放心してその光景を見回した。徐々に嬉しさがこみ上げてくる。氷海とともに外の駐車場に向かいながら、今まで一度も行ったことのない憧れの街―渋谷に行きたいと声を弾ませて語った。
渋谷の大型ビルにあるファッションフロアでセレクトショップやブランド店などを見て回っていると、鏡花はある店に並ぶ服に吸い寄せられるように、向かった。
「それが気に入ったの?」
「あ、はい。この花柄いいなって」
鏡花が嬉しそうに氷海に見せた服は、白い花柄のシャツ。デバイスが映し出すカラーの視界の中で、その服の模様だけがパチパチと奇妙なノイズを立てて明滅している。「いいね」と答えようとしたが、次第に奇妙な見え方になる。
「花柄…?ちょっと幾何学模様っぽくない?」
「そうですか?」
「まあ、気に入ってるなら好きなの買いな。色違い何着かと…これからの為に半袖でしょ、下着もいるでしょ」
結局、「経費で落ちるから」という氷海の言葉で15着近く買ってしまい、彼女に持ってもらうことになってしまった。気に入った花柄のシャツとピンクのカーディガン、氷海が合わせて選んでくれたプリーツのスカートに着替え、残りの服は大きい紙袋2つに分けた。それを自分の方が鍛えて力持ちだからと氷海が両腕に下げ店舗から出ると、太陽はちょうど一番高い位置を越えたくらいになっている。
「さ、ちょうど昼時だ。喫茶店にでも行く?」
「はい」
「私のお気に入りの店があるんだよね。ナポリタンとかハンバーグランチとかめっちゃ美味しいからおすすめ!いこ!」
氷海のおすすめの喫茶店は、表通りから路地裏に入ったところにあるらしい。歩を進めるごとに、表通りの人混みと騒がしさが少しずつ遠のいていく。お目当ての喫茶店が見えてきたところで、微かなガラスが擦れる音が鏡花の脳を震わす。
(また、あの音だ――)
その瞬間、辺りの時間がピタリと止まったような奇妙な感覚に陥り、周囲の色彩がドロリとモノクロに変色しはじめる。
誘われるように視線を動かすと、ビルの非常階段近くが捻じれるように歪み、暗い幾何学模様の隙間から虹色の泡が溢れだしているのを見つけた。
まるで吸い込まれるように、鏡花の心に懐かしさと親近感が湧いてくる。
「――ちゃん、鏡花ちゃん」
「―――っ!!」
氷海に肩を揺さぶられ、一気に鏡花の周辺の色彩、音、時間、すべてが現実へと戻ってきた。視界はいつもの鮮やかなカラーに戻り、虹色の泡はどこにもない。胸を突くような、凄まじい喪失感。
「大丈夫?ずっとあそこ見てたけど…」
心配する氷海が屈みこんで鏡花と視線が合った、その瞬間。こめかみに埋め込まれたデバイスがバチッ、と小さく電子ノイズを弾いた。義眼レンズを通して、彼女の脳内に奇妙な映像が勝手に流れ込んでいく。
それは両腕に荷物を提げた氷海が、MA-1のポケットから着信で震えるスマホをうまく取り出せずに地面に落として、画面が派手にひび割れてショックを受けている映像だった。
――♪~
現実の静寂を破り、軽快な着信音が鳴り響く。
「あ、ちょっと待って」
そうして先程の映像と同じ行動を氷海がする。
(あ、落ちる!)
鏡花は考えるよりも先に、咄嗟に彼女のMA-1のポケット近くへと手を差し出していた。ポケットから滑り落ちたスマホは、地面に落ちる前に鏡花の手のひらへ吸い込まれるようにしっかりとキャッチした。
「――わ、ありがと!あんた、反射神経すごいのね」
「あ、……た、たまたまです」
目の前で起こった現実と、全く同じ映像が事前に脳内に流れ込んできた。
鏡花は『魔術義眼デバイス』によって変わってしまったのか。自分自身の体に起きている異変に、ただ静かに戸惑っていた。
――キーストーン警備保障ビル地下・怪異特殊対策課狗飼班ブリーフィングルーム
「どうだった、氷海」
鏡花との外出から戻ってきた氷海に狗飼の鋭い眼光が向けられる。そこには氷海以外のメンバーが揃って出迎えていた。
すぐに呼び出されたのは、こういうことか。と彼女は自分のデスクの椅子に乱暴に腰掛けた。
「そうね。幾何学模様のような花柄への過剰な興味、突然ある場所を見つめるて動かなくなること、瞬時に動ける反射神経かな。どれも彼女が盲目になる前の一般的な大学生としての記録にはなかった」
「うん、いい進度だ」
弦巻は氷海の報告に笑みが止まらない。これは【ヨグ=ソトース】が時間・空間そのものを司る『全知全能』の最高神であり、『どこにでも存在し、どこにも存在しない』という世界の理そのものであるからこそ起きる現象だった。
すべての時間、すべての次元の壁そのものである【ヨグ=ソトース】は、現世のあらゆる場所にその身の影を潜ませている。そして、両目を彼に捧げた八澄鏡花という「空っぽの器」は、今やその神の波長をダイレクトに受信する、世界で唯一の生体アンテナと化していた。
「計測値の中で昼頃に一度だけ小さな乱れがあります」
「それはきっと、あのビルの影を見つめていたときね」
筑紫と氷海の会話は、更に弦巻の考えを確信に導いた。
「つまりさ、あの個体は僕たちの最新センサーすら欺く、現世に残留した神の形跡を『視ていた』んだよ。そして、再び奴と繋がるタイミングを待っている」
「弦巻、まだ可能性の話だ」
テンションの上がる弦巻を、狗飼は低い声で牽制した。だが、そんなことで彼が止まるはずもない。その場にいる全員を見回し、熱のこもった演説を続ける。
「そうだね。でも彼女の行動とデータがそれを立証しているよ。それほど時間をかけなくても、すぐにわかるさ。僕たちは八澄鏡花という【ヨグ=ソトース】に謁見する為の生きた門であり鍵を手に入れたんだ」
―その時、ピコンッと軽快な通知音が緊張した空間を和ますように鳴った。
中央の巨大モニターには複合ビルで起きている『神隠し事件』の捜査の通知が表示されていた。




