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嵐のあとで  作者: 空野 翔


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9/10

第9話「本番、そして」

 十月の第三土曜日だった。公演会場は市内の小ホールだった。定員百二十名の、こぢんまりした場所だった。水曜社はこのホールで何度か公演をやってきた。隆二が初めて舞台に立ったのも、この場所だった。

 搬入は朝の八時から始まった。岡崎が中心になって、セットを運んだ。木の柱と、古いベンチ。それだけだった。他の劇団員も手伝った。三浦さんは腰が悪いのに荷物を持とうとして、松永に止められた。

「三浦さん、見ててください」

「でも…」

「いえ、見ててもらうのが一番助かります」

三浦さんは少し不服そうだったが、結局椅子に座って見ていた。

 岡崎がセットを組みながら、細かい調整をした。柱の角度を少し変えた。ベンチの位置を三十センチ動かした。照明担当の木下くんと打ち合わせをした。二人とも無口だったが、話は早かった。

隆二は自分の出番が来るまで、舞台袖で台本を読んでいた。郵便配達員の台詞は、全部で七つだった。長い台詞はなかった。ほとんどが短い一言だった。ただ、タイミングが全てだった。栗原が置いた台詞は、どれも場面の呼吸と一緒だった。

 松永が隣に来て、座った。

「緊張してる?」と松永が聞いた。

「してない」と隆二は言った。

「俺はしてる」

「おお、珍しいな。松永が緊張してるなんて」

「そりゃあ、後半書いたの俺だから」松永は台本を膝の上に置いた。「栗原さんの前半と、俺の後半がうまく繋がってるかどうかがさ」

「繋がってたよ、稽古では」

「本番は違うから」

「そうだな」と隆二は言った。

 しばらく二人で黙っていた。

「栗原さんが書いてた続き、どんなのだったんだろうな」と隆二は言った。

「考えたことある」と松永が言った。「でも、わからなかった。だから自分で書いた」

「それでよかったと思う」

「うん、そうかな」

「そうだよ」

 松永が少し笑った。「お前に言われると、なんか信用できる」

「なんで?」眉を少し上げる。

「お世辞言わないから」

 入江が袖に入ってきた。「もうすぐ開場だぞ」と言った。二人は立ち上がった。


 客席は、七十二名だった。定員の六割ほどだった。少ないといえば少なかったが、水曜社の公演としては悪くなかった。木村さんが当日券も含めて数えた数字だった。三浦さんの知り合い、福田さんの家族、近所の常連客、高校演劇部の生徒たち。そして宗一の妻の由紀が、陽菜を連れて来ていた。

隆二は袖から、少しだけ客席を覗いた。由紀が陽菜に何か耳打ちしていた。陽菜は席に座って、きょろきょろしていた。宗一は由紀の隣で、プログラムを読んでいた。健一さんと彩花も来ていた。彩花が健一さんに何か話しかけていた。健一さんは頷いていた。それ以上は見なかった。


 幕が上がった。入江が最初に出た。舞台には木の柱とベンチだけがあった。照明が当たると、木の柱が思っていたより存在感を持った。岡崎が言っていた通りだった。シンプルだから役者が見えた。入江の最初の台詞が、ホールに響いた。静かな声だった。でも、届いた。

 隆二の出番は、前半の終わりと後半の始まりだった。袖から舞台に出たとき、客席が視界に入った。七十二人の顔が、こちらを見ていた。隆二は郵便配達員として、舞台を横切った。台詞を言った。

「お届けものです」それだけだった。でも場面が変わった。栗原が書いたとおりに、変わった。袖に戻りながら、隆二は思った。こういうことか、と。

 場面の転換点に立つということ。引っ張るわけでも、目立つわけでもない。ただそこにいて、流れを変える。それが自分に合った役だと、隆二はそのとき初めて、素直に思った。


 終演後、木村さんが舞台に上がって挨拶をした。

「栗原が最後に書いたものを、皆さんにお届けできました。ありがとうございました」

短かった。それでよかった。拍手が来た。温かかったが、静かだった。泣いている人が何人かいた。三浦さんも泣いていた。

五人は舞台に並んで、頭を下げた。隆二は客席を見た。七十二人の顔があった。宗一が拍手していた。由紀も拍手していた。陽菜はよくわかっていないようで、隣の由紀を見ていた。健一さんが静かに拍手していた。彩花も拍手していた。

 幕が下りた。


 片付けが終わったのは、夜の九時過ぎだった。最後に稽古場に戻って、道具を戻した。岡崎が木の柱を丁寧に立てかけた。もとの持ち主に返すつもりだった。

 木村さんが「今日は本当にありがとうございました」と言った。

「こちらこそ」と三浦さんが言った。

 劇団員たちが一人ずつ帰っていった。木下くんは無言で帰った。福田さんは「お疲れさまでした」と言って帰った。三浦さんは最後まで残って、壁のポスターを一枚一枚見ていた。それから「じゃあ」と言って帰った。最後に残ったのは、五人と木村さんだった。

「解散の手続きは、年内に進めます」と木村さんが言った。「場所の契約は来年の春までですが、実質的にはこれで最後になると思います」誰も何も言わなかった。

「皆さん、長い間ありがとうございました」木村さんが頭を下げた。

「こちらこそ」と宗一が言った。他の四人も頷いた。

 木村さんが帰った。五人が稽古場に残った。電気がついていた。エアコンは今日は使っていなかった。十月の夜は、もう寒くなかった。

「これからどうする?」と松永が言った。

「飯でも食う?」と宗一が言った。

「なら、どこに行く?」

「たちばな、空いてる?」と宗一が松永を見た。

「今日は定休日だよ」

「じゃあ中華でいいか」と入江が言った。

「いい」と岡崎が言った。

「隆二は」

「いい」と隆二は言った。


 近くの中華料理屋に入った。五人と、木村さんから預かったお疲れ様の一言を持って。それだけだった。他の劇団員は誘わなかった。誰かが誘わなかったわけではなく、自然にそうなった。

 餃子と炒飯と唐揚げと、麻婆豆腐を頼んだ。ビールを頼んだ。

「乾杯しよう」と入江が言った。五人がグラスを持った。

「何に乾杯する?」と松永が言った。

「じゃあ、お疲れさまで」

「それだけでいいのか?」

「充分だろ」

「そうだな」

「じゃあ、お疲れさま」

グラスが当たった。飲んだ。料理が来て、食べた。特別な話はしなかった。公演の感想を少し言って、餃子が熱いと言って、岡崎が麻婆豆腐を黙って食べて、松永が炒飯をおかわりした。

「よく食えるな」と入江が言った。

「腹減ってた」と松永が言った。

「緊張してたんじゃなかったの」

「緊張してたから余計腹減った」

 宗一が笑った。隆二はビールを飲みながら、五人の顔を見ていた。こういう夜が、あと何回あるだろうと思った。思っただけで、言わなかった。言っても仕方がなかった。


 それから、月日が経った。解散の手続きは年内に終わった。書類を整えて、口座を閉じて、場所の契約を確認した。木村さんが全部やってくれた。

稽古場の退去は、翌年の二月だった。荷物を出す日に、五人で集まった。岡崎が道具を整理して、使えるものは引き取り手を探した。ポスターは欲しい人が持っていった。隆二は自分が初めて出た公演のものを一枚だけ持って帰った。

 最後に、部屋を掃除した。モップをかけて、窓を拭いて、ゴミを袋にまとめた。一時間ほどで終わった。鍵を木村さんに渡した。階段を下りて、外に出た。元・時計屋の前に立って、五人で建物を見上げた。

「お世話になりました」と松永が言った。誰かに向かってではなく、建物に向かって。誰も笑わなかった。


 春になった。宗一は仕事に慣れてきた。由紀が二人目を妊娠した。陽菜は保育園に通い始めた。

入江は事務所に入って、小さな役を続けた。県内のケーブルテレビのドラマに出た。隆二はアパートで一人でそれを見た。入江が画面に映った時間は短かったが、やはり目を引いた。

岡崎はイベント会社で働き始めた。忙しかった。連絡の頻度が減った。たまにグループラインに現場の写真を送ってきた。道具や木材が並んでいる写真だった。人は写っていなかった。

松永は店に入った。春に彩花と入籍した。式は家族だけの小さなものだった。写真が送られてきた。彩花が笑っていた。松永も笑っていた。

 隆二は、バイトを続けながら過ごした。春の終わりに、ハローワークにまた行った。窓口の人に「どういった仕事を希望されますか」と聞かれた。少し考えて「人の話を聞く仕事があれば」と言った。

 窓口の人が「たとえばどういった」と聞いた。

「たとえば、が、まだわからないんですが」と隆二は言った。

「わかりました。これから一緒に考えましょう」と窓口の人は言った。それだけだった。でも、前回よりは少しだけ前に進んだ気がした。


—続く—


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