第8話「松永と彩花」
居酒屋「たちばな」は、駅から商店街を抜けた路地にあった。カウンター席が六つと、テーブルが三つ。こじんまりした店だった。壁に手書きのメニューが貼ってあって、常連客が多かった。店主の橘健一は六十二歳で、頑固そうに見えるが話しかければ話す人だった。
松永拓也がここでバイトを始めたのは、大学を中退した年の秋だった。最初は皿洗いだった。今は仕込みから接客まで全部やっていた。彩花とは、松永がバイトを始めて二年目に付き合い始めた。
水曜日の昼過ぎ、松永は仕込みをしていた。玉ねぎを切って、出汁を取って、煮物の下準備をする。健一さんは市場に行っていて、店にいるのは松永一人だった。
仕込みをしていると、彩花が二階から降りてきた。橘家は店の上に住んでいた。彩花は今日、仕事が休みだった。市内の不動産会社に勤めていて、水曜が定休だった。
「何か食べる?」と松永が言った。
「まだいい」と彩花は言った。「昨日の煮物、残ってる?」
「うん、冷蔵庫に」
彩花が冷蔵庫を開けて、タッパーを取り出した。レンジで温めて、カウンターに座って食べ始めた。松永は仕込みを続けた。
二人の間に会話はなかったが、静かではなかった。包丁の音と、レンジの音と、外を通る車の音があった。
「お父さん、今日市場で何買ってくるかな」と彩花が言った。
「秋刀魚じゃない?そろそろ」
「また? 先週も買ってきたのに」
「好きなんでしょ」
「お父さん、秋刀魚好きすぎる」
松永が笑った。彩花も笑った。
昼過ぎに健一さんが戻ってきた。手には発泡スチロールの箱を持っていた。
「秋刀魚ですか」と松永が言った。
「おっ、わかるか」と健一さんが言った。
「えぇ、そろそろかなと思って」
「いい顔してたから買ってきた」健一さんは箱を台所に置いて、手を洗った。「今日の夜のおすすめに出す」
「了解です」
健一さんはエプロンをつけながら「松永」と言った。
「はい」
「少し話せるか。夕方、彩花も入れて」
松永は手を止めた。「はい」と言った。
彩花がカウンターから健一さんを見た。健一さんは何も言わなかった。台所に入って、秋刀魚の箱を開け始めた。
夕方の四時、開店前の時間に三人でテーブルを囲んだ。健一さんはお茶を三つ持ってきた。しばらく誰も話さなかった。松永は待った。健一さんが話し始めるまで待った。急かすのは違う気がした。
「この店のことなんだが」と健一さんが言った。
「はい」
「俺も年だしな。いつまでも一人でやれるかわからん」
「お体は」
「悪くはない。ただ、先のことを考えたとき、誰かに入ってほしいと思って」
松永は頷いた。
「松永がいてくれると、助かる。率直に言うと」
「ありがとうございます」
「ただ、劇団のこともあるだろう。急かすつもりはない」
「劇団は、今年の秋に最後の公演をやります」と松永は言った。「その後は、特に決めていません」
「そうか」
「だからタイミング的には、話を聞かせていただけると」
健一さんがお茶を一口飲んだ。彩花は二人を交互に見ていた。
「給料のことや、将来のこともちゃんと話したい」と健一さんが言った。「曖昧にするつもりはないから」
「はい」
「もちろん、彩花のこともある」
松永が彩花を見た。彩花は少し目を逸らした。
「俺が言うことじゃないかもしれんが」と健一さんが言った。「二人のことは、二人で決めなさい。ただ、松永が店に入るなら、それはそれで俺は嬉しい」
「ありがとうございます」と松永はもう一度言った。
健一さんは立ち上がって「さて、仕込みの続きをするか」と言った。それだけだった。台所に戻っていく健一さんの背中を、松永は見ていた。
開店準備をしながら、松永と彩花は少し話した。
「怖かった?」と彩花が言った。
「えっ、何が?」
「お父さんとの話」
「怖くはなかった」と松永は言った。「緊張はした」
「お父さん、ああ見えて緊張してたと思う」
「そうか」
「松永くんのこと、気に入ってるから」
「ありがたいな」
彩花はグラスを並べながら「松永くんはどう思ってるの」と言った。「店のこと」
「やってみたいと思ってる」松永は正直に言った。「向いてるかどうかはわからないけど」
「向いてると思う」
「なんで?」
「人好きだから」と彩花が言った。「松永くん、お客さんに好かれるじゃない。それって大事だと思う」
「お世辞がうまいだけかもしれない」
「お世辞じゃないよ。自然にやってる」
松永は少し考えた。「そっか」
「うん」
「劇団のこと、寂しくないの?」と彩花が言った。
「寂しいよ」と松永は言った。「でも、終わるものは終わるから」
「えっ、何でそんな風に割り切れるの?」
「割り切れてないけど、でも次がある」松永はグラスを一つ手に取った。「次があるって思えるのは、まあ、彩花のせいでもあるけど」
彩花が少し笑った。「えー、何それ」
「褒めてるんだよ」
「聞こえ方が微妙だよ」
「褒めてる」
彩花はグラスを並べ続けた。松永も並べた。開店まで、あと三十分だった。
夜、店が終わって片付けをしていると、隆二が暖簾をくぐって入ってきた。
「まだやってる?」
「片付け中だけど」と松永が言った。「飲むか?」
「なら、少しだけ」
隆二がカウンターに座った。松永がビールを一本出した。
「今日、健一さんと話したんだろ」と隆二が言った。
「えっ、なんで隆二が知ってるの?」
「松永がラインしてきたじゃないか。今日話すって」
「ああ、そうだった」
「どうだった」
「まあ、よかった」と松永は言った。「健一さん、真剣に考えてくれてて」
「そっか」隆二はビールを飲んだ。
「彩花さんとは」
「それはこれから」と松永は言った。「順番があるから」
「順番?」
「まず公演やって、それから店のことちゃんと決めて、その上で彩花とちゃんと話す」
「丁寧だな」
「こういうのは丁寧にやらないと」
隆二は「そうだな」と言った。
カウンターの奥で、健一さんがグラスを磨いていた。松永に気づいて「友達か」と言った。
「劇団の仲間です」と松永が言った。
「ああ」と健一さんは言った。それだけだった。グラスを磨き続けた。
隆二が「いい店だな」とぼそっと言った。
「でしょ」と松永が少し誇らしげに言った。
「なんか、落ち着く」
「常連さんがそう言う」
「何かわかる気がする」
松永はカウンターを拭きながら「隆二、就活どうすんの」と言った。
「まだわからん」
「そっか」
「松永みたいにうまくいかないよ、みんな」
「うまくいってるわけじゃないけど」と松永は言った。「ただ、目の前にあったから」
「目の前に?」
「うん。気づいたらここにいた。それだけかもしれない」
隆二はビールを飲み干した。
「もう一本いる?」と松永が聞いた。
「いい。帰る」隆二が立ち上がって、財布を出した。
「いらない」と松永が言った。
「いや、払う」
「だから、いらないって」
隆二は少し間を置いてから「ごちそうさま」と言った。
「また来いよ」
隆二が出ていった。暖簾が揺れた。
健一さんがグラスを棚に戻しながら「いい顔した子だな」と言った。
「そうですね」と松永は言った。
「何かあるのか」
「特には」と松永は言った。「ただ、迷ってるんだと思います。いろいろ」
「若いうちは迷えばいい」
「そうですね」
健一さんはそれ以上何も言わなかった。松永はカウンターを拭き終えて、椅子を逆さにテーブルに乗せた。窓の外、路地に隆二の後ろ姿が見えた。少しして、角を曲がって消えた。松永はしばらく、その角を見ていた。
—続く—




