第7話「岡崎の現場」
岡崎誠が初めて現場に入ったのは、九月の終わりだった。市内のイベント会社、田所さんのところだった。正式に雇用というわけではなく、まず数回手伝いに来てほしいという話だった。条件の話はそれからだった。
現場は商業施設のイベントスペースだった。週末にステージイベントがあって、その設営だった。朝の七時に集合だった。岡崎は六時五十分に着いた。田所さんがすでにいた。
「おっ、早いね」と田所さんが言った。
「早い方がいいかと思って」と岡崎は言った。
「そういう人、好き」
他にスタッフが三人来た。みんな岡崎より年上だった。自己紹介は名前だけだった。それで充分だった。
作業は午前中いっぱいかかった。鉄パイプを組んでステージの骨格を作り、床板を張って、幕を吊る。岡崎は指示を聞きながら動いた。わからないことは聞いた。余計なことは言わなかった。
昼休みに、田所さんと二人で弁当を食べた。施設の裏の駐車場で、縁石に座って食べた。
「慣れてる?」と田所さんが言った。
「大体は」と岡崎は言った。「鉄パイプの組み方が少し違いました」
「劇団とは違う?」
「劇団は木材が多かったので」
「なるほどね」田所さんは弁当の蓋を閉めた。「木材の方が好き?」
岡崎は少し考えた。「木材は匂いがある」
「それが好き?」
「嫌いじゃないです」
田所さんが笑った。「そういう答え、好き」
岡崎は何も言わなかった。弁当の続きを食べた。
午後は細かい調整だった。照明の位置を確認して、幕の張り具合を直して、床の段差をなくす。一つ一つは小さい作業だったが、全部揃ったときに初めて場所になる。その過程が岡崎は好きだった。
夕方、設営が終わった。スペース全体を見渡した。さっきまで何もなかった場所に、ステージができていた。まだ誰もいないステージだった。田所さんが隣に来た。
「どう」
「いいと思います」と岡崎は言った。
「どのへんが」
岡崎はしばらく見てから「奥行きが出た」と言った。「最初、このスペース、平らすぎると思ってた」
「言ってくれればよかったのに」
「言おうと思ってたんですが、気づいたらそうなってた」
「自然にそうなったか」田所さんが頷いた。「そういうのわかる人、なかなかいないんだよね」
岡崎は答えなかった。ステージを見ていた。明日、ここで何かが起きる。自分は来ない。でも、この場所は残る。そういう仕事だった。舞台美術と同じだった。作った人間は、本番には関係ない。でも、作ったものは残る。岡崎はそれで充分だと思っていた。
帰り道、電車の中で隆二からラインが来た。
『今日、現場だったろ。どうだった』
岡崎はしばらく考えてから『悪くなかった』と返した。
隆二から『そっか』と来た。それだけだった。
岡崎は電車の窓に頭をもたれて、目を閉じた。体が少し疲れていた。悪くない疲れだった。
次の稽古のとき、岡崎はセットの図面を持ってきた。A3の紙に、手書きで書いてあった。線が細くて、正確だった。
「見てほしい」と岡崎が言った。五人に向かって。
全員が紙を覗き込んだ。シンプルな構成だった。舞台の中央にベンチが一つ。上手に木の柱が一本。それだけだった。背景は何もなかった。
「えっ、少なくない?」と松永が言った。
「うん、少なくていい」と岡崎は言った。「役者が浮くんじゃないか」と入江が言った。
「浮いてもいい」
「はっ、浮いてもいい?」
「そのほうが、役者が見える」
入江が少し考えた。「なるほど」
「木の柱は本物の木を使う」と岡崎が言った。「知り合いからもらえる」
「ん、本物?」と松永が言った。
「そう、本物」
「匂いがするな」
「する」
「それもいいか」
「いいと思う」
宗一が「予算は」と言った。現実的な声だった。
「ほとんどかからない」と岡崎が言った。「木はもらえる。ベンチは稽古場にある古いやつを使う」
「ああ、あの古いベンチか」
「磨けばいい」
隆二は図面を見ていた。シンプルだった。でも、見ていると何かが浮かんできた。ベンチと柱だけの舞台。そこに人間が立つ。それだけで、何かが起きる気がした。
「栗原さん、喜ぶかな」と隆二は言った。誰かに向けて言ったわけではなかった。ただ、口から出た。岡崎が隆二を見た。
「喜ぶと思う」と岡崎が言った。短かった。でも、迷いがなかった。
松永が「じゃあこれで行こう」と言った。誰も反対しなかった。
稽古の帰り、岡崎は一人で稽古場に残った。道具箱を片付けながら部屋を見渡した。壁のポスター。古いエアコン。傷のついた床。窓の外の電柱。この部屋で、十年以上過ごした。特別なことを思うわけではなかった。ただ、見ていた。別に目に焼き付けようとしているわけでもなかった。ただ、見ていた。
道具箱を閉めて、立ち上がった。電気を消して、ドアを閉めた。階段を下りた。商店街の夜は静かだった。岡崎は自転車に乗って、走り出した。木材の匂いが、まだ手に残っている気がした。
—続く—




