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嵐のあとで  作者: 空野 翔


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第6話「入江のオーディション」

 オーディションは、平日の午後だった。入江健は朝から何も食べていなかった。食欲がないわけではなかった。ただ午前中はずっと部屋で台本を読んでいて、気づいたら昼を過ぎていた。指定された場所は、県内の中規模な市にあるスタジオだった。電車で一時間ほどだった。入江は余裕を持って家を出た。

 電車の中で、窓の外を見ていた。景色が変わっていった。見慣れた町並みから、知らない駅、知らない商店街、知らない住宅地。どこも似たような風景だったが、知らない場所だった。入江は煙草が吸いたかったが、当然吸えなかった。


 スタジオの受付で名前を言うと、待合室に通された。椅子が十脚ほど並んでいて、すでに四人が座っていた。みんな同じような顔をしていた。緊張しているような、していないような、でも明らかに普段とは違う顔だった。入江は端の席に座った。書類を確認した。プロフィール、写真、これまでの出演歴。水曜社での公演を全部書いた。小さな劇団だったが、本数は多かった。十年以上やってきたのだから、当然だった。

 隣に座っていた男が「どこから来たんですか」と話しかけてきた。

「八王子の方から」と入江は言った。

「遠いですね」

「一時間くらいです」

「俺、地元なんですよここ」と男は言った。「だから緊張しちゃって、逆に」

「そういうもんですかね」

「地元だと知り合いに見られてる気がして」

 入江は「なるほど」と言った。それ以上続ける気はなかったが、男は少し笑って「頑張りましょう」と言った。

「ええ」と入江は言った。


 順番が来るまで四十分ほどかかった。呼ばれて別の部屋に入った。六畳ほどの部屋だった。テーブルを挟んで三人が座っていた。真ん中の男が事務所の代表らしかった。五十代で髪が薄かった。左右に女性と若い男が一人ずついた。

「どうぞ」と代表が言った。入江は椅子に座った。

「えー、入江さん。水曜社さんで長いんですね」と代表が書類を見ながら言った。

「もう十年以上になります」

「栗原さんのところですよね。お亡くなりになったと聞きました」

「はい」

「残念でしたね」

「そうですね」

 代表が書類から目を上げて、入江を見た。「今回うちに来ようと思ったのは」

「水曜社が解散する流れで」と入江は言った。「ただ、それが理由というより、タイミングが重なったという感じです」

「続けたかった?」

「役者を続けることは、最初から決めていました」代表がメモを取った。

「演技、見せてもらえますか。用意してきたもので」

 入江は立ち上がった。持ってきた台本は、チェーホフの短編を自分で翻案したものだった。五分ほどの一人芝居だった。栗原に最初に教わったのがチェーホフで、入江の中での基準がそこにあった。入江は一度、息を吐いた。それから始めた。


 終わったとき、部屋が静かだった。代表が「ありがとうございました」と言った。表情からは何も読めなかった。左右の二人も同様だった。

「結果は一週間以内に連絡します」

「わかりました」と入江は言った。

 部屋を出た。廊下に戻ると、さっきの男がまだ待っていた。「どうでしたか」と聞いてきた。

「わかりません」と入江は言った。それは本当のことだった。


 帰りの電車の中で、入江はずっと窓の外を見ていた。来るときと同じ景色が、逆方向に流れていった。知らない住宅地、知らない商店街、知らない駅。そして見慣れた町並み。

よくできたかどうか、入江には判断できなかった。自分の演技を客観的に見ることは、難しかった。舞台の上では全力でやるしかない。それが伝わるかどうかは、受け取る側の話だった。栗原がよく言っていた言葉を思い出した。

「お前の芝居は、力みすぎる。もっと手放せ」

 手放す、という感覚が入江にはずっとよくわからなかった。全力でやることと、手放すことは矛盾しない、と栗原は言っていた。でも入江にはまだその境界線が見えなかった。今日はどうだったろうと思った。わからなかった。

 駅に着いて、ホームに降りた。夕方の風が吹いていた。煙草に火をつけた。一口吸って、空を見た。夕焼けが、きれいだった。きれいだと思うだけで、他には何も思わなかった。


 その夜、隆二からラインが来た。

『今日、どうだった?』

入江は少し考えてから『わからん』と返した。すぐに既読がついた。返信はなかった。それでよかった。隆二は余計なことを言わなかった。「頑張ったね」も「大丈夫だよ」も言わなかった。わからんと言えば、わからんで終わった。それが入江には合っていた。

 一週間後、事務所から電話が来た。入江は着信を見て、一度深呼吸してから出た。

「入江さんですか。先日はありがとうございました」

「はい」

「ぜひ、一緒にやっていきたいと思っています」

 入江は「ありがとうございます」と言った。

 電話を切って、窓の外を見た。特別な感情はなかった。嬉しくないわけではなかった。ただ、『始まる』という感覚だった。ここからだという感覚だった。栗原に報告したかった、と思った。思っただけだった。


 翌日の稽古場で、入江が「受かった」と言った。

 宗一が「おお」と言った。松永が「マジで」と言った。岡崎が頷いた。

 隆二は「そっか」と言った。

「そっか、って」と松永が言った。「もっと喜べよ」

「喜んでる」と隆二は言った。

「喜んでるように見えない」

「喜んでる。ただそういう顔なだけ」

 入江が「いい」と言った。「そっかで」

 松永が「お前ら似たもの同士だな」と言った。

 宗一が「まあ、おめでとう」と入江に言った。

「ありがとう」それだけだった。

 稽古が始まった。台本を手に、それぞれが立ち位置を確認した。窓から秋の光が入ってきた。エアコンはもう使わなくてもよくなっていた。壊れかけのエアコンが、今年の夏を乗り切ったことに誰も触れなかった。


—続く—


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