第5話「宗一の家」
宗一から連絡が来たのは、九月の初めだった。『暇だったら来い。飯食おう』
隆二は『いつ』と返した。
『土曜』
『わかった』
それだけだった。
宗一の家は、駅から歩いて十五分ほどのところにあった。築十年ほどの、二階建ての借家だった。隆二は来たことが何度かあったが、陽菜が生まれてからは初めてだった。インターホンを押すと宗一が出てきた。Tシャツとジャージ姿だった。仕事のときのスーツ姿とは別人みたいだった。
「来たか」
「うん、来た」
玄関に入ると、小さい靴が並んでいた。ピンクのサンダルと、白いスニーカー。
「由紀は?」
「買い物。陽菜連れて」
「じゃあ二人か」
「そう」
リビングに通された。テレビが点いていて、野球中継をやっていた。宗一はビールを二本持ってきた。
「昼間からいいのか?」
「土曜だからな」
隆二はビールを受け取った。二人でソファに座って、しばらく野球を見た。特に話すことがなかった。それでよかった。宗一と二人のときは、昔からこういう感じだった。
三回が終わったあたりで、宗一がテレビを消した。
「どうだ、最近」と宗一が言った。
「どうって、何が」
「仕事とか」
「バイトは続けてる」
「えっ、それだけ?」
「うん、それだけ」
宗一はビールを一口飲んだ。「就活は?」
「してない」
「そっか」責めるような口調ではなかった。ただ聞いた。それが宗一だった。
「お前はどうなの、仕事」と隆二が聞いた。
「まあ、慣れてきた。最初はきつかったけど」
「何がきつかった」
「毎日同じ時間に起きること」宗一が少し笑った。「それだけで最初の一ヶ月は精一杯だった」
「それだけ?」
「それだけ。あとはなんとかなった」隆二はその言葉を少し考えた。毎日同じ時間に起きること。それが一番きつかった、という話。
「向いてると思う? 今の仕事」
「向いてるかどうかはわからん」と宗一が言った。「でも、やれてる。それでいいかなと思って」
「やれてるかどうか…か」
「うん。向いてる仕事なんて、探してたらきりがないから」
隆二は窓の外を見た。宗一の家の庭には、小さいビニールプールが置いてあった。まだ夏の名残りで畳んでいなかった。
「陽菜、プール好きなの」
「好きだよ。毎日入りたがる」
「そっか」
台所の方から、炊飯器の音がした。ご飯が炊けた音だった。
「カレー作った」と宗一が言った。「昨日の夜から」
「手が込んでるな」
「由紀に教わった。市販のルーだけど」
「充分だろ」
宗一が立ち上がって、台所に入った。隆二はソファに座ったまま、音を聞いていた。鍋を温める音、皿を出す音。こういう生活を、宗一は手に入れた。隆二にはまだ何もなかった。それが羨ましいのかどうか、隆二にはよくわからなかった。羨ましいという言葉が正確じゃない気がして、かといって別の言葉も見つからなかった。
カレーを食べていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」と由紀の声がした。
「おかえり」と宗一が言った。由紀がリビングに入ってきた。スーパーの袋を両手に持っていた。陽菜はその後ろから、よたよたと入ってきた。
「あ、隆二さん。久しぶりです」
「あっ、お邪魔してます」
「全然、来てください」由紀は袋を台所に置きながら「陽菜、隆二さんだよ」と言った。
陽菜は隆二を見た。見知らぬ人間を見る顔だった。隆二も陽菜を見た。
「こんにちは」と隆二が言った。陽菜は何も言わなかった。宗一の膝に駆け寄って登ろうとした。宗一がカレーの皿を避けながら抱き上げた。
「カレー食べる?」と宗一が陽菜に聞いた。陽菜は首を横に振った。
「さっきパン食べたから」と由紀が言った。「もう食べないと思う」
「そっか」由紀はエプロンをつけて、買ってきたものを冷蔵庫にしまい始めた。リビングでは宗一が片手で陽菜を抱えながらカレーを食べていた。隆二はその光景を見ていた。絵みたいだと思った。作ったような絵ではなく、そこにある日常という意味での絵だった。
「隆二さん、最近どうですか」と由紀が台所から声をかけてきた。
「まあ、ぼちぼちです」
「劇団の公演、十一月でしたっけ」
「十月の予定で。まだ確定じゃないですが」
「見に行きますよ。陽菜連れて」
「ありがとうございます」
宗一が「お前の演技、由紀に見せたことなかったな」と言った。
「村人Bとかしか出てないから」
「今回は?」
「郵便配達員」
「昇格じゃないか」と宗一が笑った。
「昇格かどうかはわからん」
陽菜が隆二を見た。さっきより警戒が薄れていた。
「こんにちは」と隆二がもう一度言った。陽菜はまた何も言わなかった。でも今度は、少しだけ笑った気がした。
夕方になって隆二は帰ることにした。玄関で靴を履いていると、宗一が「また来い」と言った。
「由紀さんに悪い」
「由紀は来てほしいって言ってる。賑やかなの好きだから」
「そっか」
外に出ると、九月の夕方の風が吹いた。夏より少しだけ涼しかった。宗一が玄関に立ったまま「隆二」と言った。隆二が振り返った。
「別に急がなくていいと思うけど」と宗一が言った。「次のこと」
「うん」
「ただ、あんまり一人で抱えるなよ」
「抱えてないよ」
「抱えてないように見えて、抱えてるタイプだから」
隆二は少し間を置いた。「そうか」
「そうだよ」宗一が中に入って、ドアが閉まった。隆二は歩き始めた。
夕方の住宅地は静かだった。どこかの家から夕食の匂いがした。子どもの声がした。犬が吠えてすぐ止んだ。
抱えてないように見えて、抱えてるタイプ。宗一はそういうことを、たまにひとことで言った。多くは言わない。でも外さなかった。隆二は空を見た。まだ明るかった。星は出ていなかった。
—続く—




