第4話「最後の演目」
八月の稽古は、夜にやることが多かった。さすがに昼間は暑すぎた。エアコンが壊れかけている稽古場では、夜でも充分に暑かったが昼よりはましだった。窓を全部開けると、たまに風が入ってきた。
この日は五人と、三浦さんと福田さんと木下くんの八人が集まっていた。木村さんが団長の遺した台本のコピーを配った。A4で二十枚ほどだった。タイトルは「水の記憶」とだけ書いてあった。
「途中までしか書けてなかったんですが」と木村さんが言った。「後半は、皆さんで作ってもらえればと思って」全員がページをめくった。静かだった。
隆二は台本を読みながら、栗原の字を思い出した。太くて、右上がりで、独特の癖のある字だった。プリントアウトされた文字からはその字は見えなかったが、隆二の中ではなぜか栗原の手書きで読めた。
「どうですか?」と木村さんが言った。しばらく経ってから。
「いいと思います」と三浦さんが言った。「栗原さんらしい」
「後半、誰かやる?」と松永が言った。
福田さんが「私は脚本はちょっと」と言った。木下くんは黙っていた。
入江が「松永がやれば?」と言った。
「なんで俺?」
「いや、向いてるだろ」
「そうか?」
「うん、向いてるよ」と隆二が言った。
松永は台本を見ながら「まあ、やってみるか」と言った。断るとは思っていなかった。松永は昔から、こういうとき引き受ける側だった。
「配役は…」と宗一が言った。
「それも決めていきましょう」と木村さんが言った。
配役を決めるのに、一時間かかった。別に揉めたわけではなかった。ただ、誰もすぐに手を挙げなかった。それぞれが台本を読みながら、どの役が自分に合うかを静かに考えていた。最終的には自然に決まった。栗原がいたときは、団長が決めていた。今日は誰も仕切らなかったが、それでも決まった。
隆二は中年の郵便配達員の役になった。台詞は多くなかったが、要所に出てくる役だった。
「これ、隆二に合ってる」と松永が言った。
「なんで?」
「なんとなく…」
「それは説明になってない」
「でも合ってる」
入江が「俺もそう思う」と言った。岡崎は何も言わなかったが、頷いていた。宗一は「お前が郵便配達員か」と言って少し笑った。
「そんなに似合う?」
「うん、似合う」頷く四人。
隆二は台本を見た。郵便配達員の台詞を読んだ。短い台詞だったが、場面の転換点に置かれていた。そういう役だった。栗原がこの役を作ったとき、誰かを思い浮かべていたのだろうかと、隆二は思った。それはわからなかった。
稽古が終わったのは、夜の十時過ぎだった。全員で階段を下りて、商店街に出た。夜でも蒸し暑かった。木村さんが「ありがとうございました」と言って、先に帰った。三浦さんと福田さんも、駅の方向へ歩いていった。木下くんは自転車で来ていて、無言で乗って走り去った。
五人が残った。
特に示し合わせたわけではなかったが、誰も帰らなかった。元・時計屋の前に立って、なんとなく夜の商店街を見ていた。
「腹減った」と松永が言った。
「今更?」と入江が言った。
「俺は、稽古中から減ってた」
「早く言えよ」
「言っても終わらなかったろ?」
宗一が「コンビニ行くか」と言った。五人でコンビニに歩いた。二十四時間営業のチェーン店だった。蛍光灯が眩しかった。
松永はからあげ棒を二本買った。入江はコーヒーだけ買った。宗一はサンドイッチと水を買った。岡崎はアイスを一個買った。隆二はしばらく棚の前で考えて、結局肉まんを買った。八月なのに肉まんが売っていた。
「なんで肉まん?」と松永が言った。
「いや、あったから」
「八月に肉まん?」
「だって、食べたかったから」
「変なやつ」
駐車場の端のベンチに座った。五人で並ぶには少し足りなかったが、詰めれば座れた。松永がからあげ棒を食べながら「本番、いつにする?」と言った。
「十月か十一月だろ?」と宗一が言った。「場所の空き状況もあるし」
「その辺、今度木村さんに聞いてみる」
「チラシとかどうする?」と入江が言った。
「作る。岡崎、頼める?」と松永が言った。
岡崎はアイスを食べながら「デザインは誰かに頼んだほうがいい」と言った。「俺は印刷と配布はできる」
「デザインできる人、いたっけ?」
「木下くん、確かやってたよ」と隆二が言った。
「あいつに頼むか」
「聞いてみれば?」
宗一が「集客どうする」と言った。「栗原さんのときより減るかもしれない」
「そうだよな」と松永が言った。「でもまあ、来た人に見せればいい」
「よくそんな風に割り切れるな」
「いや、割り切るしかないだろ」
入江がコーヒーを一口飲んでから「集客より中身だよ」と言った。「ちゃんとやれば人は来る」
「根拠は?」と宗一が言った。
「ない」
「正直だな」
岡崎がアイスを食べ終えて、棒をゴミ箱に投げた。入った。
「セット、シンプルにしようと思う」と岡崎が言った。みんなが岡崎を見た。岡崎はあまり自分から話し出すことがなかった。
「台本読んで、あんまりごちゃごちゃしないほうがいいと思って。栗原さんが書いたやつだから」
誰も何も言わなかった。言わなくても、全員がわかった。それが正解だった。
「じゃあそれで」と松永が言った。
「うん」と岡崎が言った。
八月の夜だった。蒸し暑かったが、風がたまに吹いた。国道の向こうに、コンビニと牛丼屋と、その先にマンションが並んでいた。
隆二は肉まんを食べながら、五人のやりとりを聞いていた。こういう時間が、もうあまりないと思った。思っただけで、口には出さなかった。肉まんは、八月なのに悪くなかった。
十時半を過ぎて、さすがに帰ることになった。ベンチから立ち上がって、ゴミを捨てた。
「次の稽古、第二土曜な」と松永が言った。
「わかった」と宗一が言った。
入江はすでに歩き始めていた。岡崎がそれに続いた。宗一が「隆二」と声をかけてきた。
「何?」
「元気か?」
隆二は少し間を置いた。「うん、元気だよ」
「そっか…」
「なんで?」
「いや、なんとなく」と宗一が言った。「最近、ぼーっとしてるなと思って」
「前からそうだろ」
「まあな」宗一が笑った。隆二も少し笑った。
「またな」と宗一が言って、歩いていった。
松永はもう曲がり角の向こうに消えていた。隆二は一人、コンビニの駐車場に残った。夜空を見上げた。街灯が明るすぎて、星はほとんど見えなかった。一つだけ、見えた気がした。気のせいかもしれなかった。隆二は自転車に乗って、帰った。
—続く—




