第3話「それぞれの夕方」
七月に入って、梅雨が明けた。夕方の五時になると、日がまだ高かった。
—宗一の夕方
田中宗一は、会社から駅まで歩いて帰る。毎日同じ道だった。駅前のロータリーを抜けて、商店街を通って、住宅地に入る。途中にコンビニがあって、たまに寄る。今日はミネラルウォーターと、娘用のプリンを買った。
家に帰ると、玄関に小さい靴が並んでいた。
「おかえり」と奥の部屋から妻の由紀が言った。
「ただいま」
リビングに入ると、二歳の娘の陽菜が床でブロックを積んでいた。宗一の顔を見て、立ち上がって、よたよたと駆け寄ってきた。宗一はしゃがんで、抱き上げた。
「重くなったな」陽菜は返事をしなかった。宗一の肩をぺたぺたと叩いた。
由紀が台所から顔を出した。「今日遅かったね」
「少し残業した」
「劇団の集まりは?」
「先週で一回終わった。また来月」
「そっか」
由紀はそれ以上は聞かなかった。宗一が劇団のことをあまり話さないのを、由紀は知っていた。聞いても答えが少ないのも、知っていた。それで喧嘩になったこともあったが、今はお互いにそういうものだとわかっていた。 宗一はソファに座って、陽菜を膝の上に乗せた。陽菜はすぐにまた床に降りて、ブロックに戻った。窓の外が、橙色に変わっていた。
宗一は缶ビールを一本持ってきて、一口飲んだ。冷たかった。劇団のことをどう思っているか。由紀に聞かれたら、なんと答えるだろうとたまに考える。寂しいとか、悔しいとか、そういう言葉は違う気がする。ただ、終わるんだなと思う。それだけだった。終わるものは終わる。それが現実で、現実と向き合うのが自分の役割だと、宗一はずっとそう思って生きてきた。それが正しいかどうかは、わからなかった。
—松永の夕方
松永拓也がバイトを終えたのは、夜の七時だった。居酒屋の裏口から出ると、彩花が待っていた。
「お疲れ」と彩花が言った。
「ずっと待ってたの?」
「うん。暇だったから」彩花は店長の娘で、二つ年下だった。色が白くて、笑うと目が細くなった。松永と付き合い始めて四年が経つ。
「飯、どうする?」と松永が言った。
「どこかで食べようか。お父さんが今日賄い作ってくれたんだけど、もう食べてきちゃった」
「じゃあ俺だけ食えばいい?」
「うん。付き合うよ」 駅前の定食屋に入った。松永が生姜焼き定食を頼んで、彩花はお茶だけ飲んだ。
「最近、お父さんと話してる?」と彩花が言った。
「まあ、シフトのこととかは」
「それだけ?」
「それだけって、何が?」
彩花は少し迷うような顔をしてから「店のこと、聞いてない?」と言った。
「聞いてない。何か話してたの?」
「うん、まあ…」彩花はお茶を一口飲んだ。「いつかちゃんと話したいって、言ってた」
「どういう話?」
「松永くんに、もっと本格的に入ってほしいって」
松永は生姜焼きを食べながら、少し考えた。
「店を、ってこと?」
「たぶん」
「そっか…」
「嫌?」
「嫌ではない」松永は正直に言った。「ただ、タイミングが…」
「劇団?」
「うん」
彩花は何も言わなかった。責めているわけでも、急かしているわけでもなかった。ただ聞いた。
「公演が終わったら、ちゃんと考える」と松永は言った。
「うん」と彩花は言った。それだけだった。定食屋の有線放送が、古い歌謡曲を流していた。
—入江の夕方
入江健はアパートの自室で、封筒を開けていた。事務所からの資料だった。県内のプロダクションで、規模は小さいが舞台を中心に活動しているところだった。知人の紹介で先月コンタクトを取った。
資料に目を通しながら、入江は煙草に火をつけた。悪くない、と思った。ギャラの話よりも、どういう現場に関わっているかを先に確認した。いくつかの公演のラインナップが載っていた。知っている演目もあった。小さい劇団だが、選んでいる仕事は悪くなかった。窓を開けると、夕暮れの風が入ってきた。入江は煙草を吸いながら、空を見た。雲が西の方向へ流れていた。
役者を続けることは、高校のころから決めていた。水曜社に入ったのもそのためだった。栗原に教わったことは多かった。台詞の間、身体の使い方、客席との距離感。それが今の自分を作っている。だから感謝はしている。ただ、ここに留まるつもりはなかった。最初から。
それを口に出したことは一度もなかった。隆二たちにも言ったことがない。言う必要がないと思っていた。言えば何かが変わるわけでもないし、誰かを傷つけるつもりもない。ただ、自分の中にある地図に従って動いているだけだった。
封筒を机の上に置いて、入江は煙草を消した。来週、もう一度連絡してみようと思った。
—岡崎の夕方
岡崎誠は、夕方の光の中で木材を切っていた。市内のイベント会社の倉庫で、知り合いの伝手で見学がてら手伝いに来ていた。ベニヤ板を決められた寸法に切って、重ねて、端を揃える。単純な作業だったが、手を動かしているとき、岡崎は余計なことを考えなかった。
「うまいね」と隣で作業していた会社の社員、田所さんが言った。三十代の男で、寡黙な人だった。
「慣れてるだけです」と岡崎は言った。
「劇団でやってたって言ってたっけ?」
「はい」
「舞台美術?」
「まあ、そんな感じです」
田所さんはそれ以上聞かなかった。二人でしばらく無言で作業を続けた。岡崎はこういう時間が好きだった。言葉より手が先に動いて、形が出来上がっていく。完成したものを誰かが見て、その場所で何かが起きる。舞台でも、イベントでも、それは同じだった。
作業が一段落して、田所さんがお茶を持ってきた。二人で倉庫の入口に座って、外を見た。
「うちに来る気ない?」と田所さんが言った。唐突だったが、岡崎は驚かなかった。なんとなく、そういう話になるかもしれないと思っていた。
「条件とか、教えてもらえますか?」
「給料はそんなに出せないけど、仕事はある。しばらくは忙しいと思う」
「いつから、ですか」
「急がないけど、年内には来てほしい」
岡崎はお茶を一口飲んだ。
「少し考えさせてください」と言った。
「あぁ、もちろん」
夕方の光が、倉庫の床に斜めに差し込んでいた。木材の匂いがした。岡崎はその匂いが嫌いじゃなかった。
—隆二の夕方
中西隆二は、今日は特に何もしていなかった。コンビニのバイトが今日は休みで、午後からずっとアパートにいた。テレビをつけて、すぐ消した。スマホを開いて、特に見るものがなかった。ベッドに横になって、天井を見ていた。
夕方になると、窓の外が赤くなった。隆二は起き上がって、窓を開けた。向かいのマンションの壁に、夕日が当たっていた。風があった。洗濯物を干しっぱなしにしていたことを思い出した。もう乾いているだろうと思ったが、取り込む気にはなれなかった。
スマホにグループラインの通知が来ていた。松永からだった。
『来月の稽古、第二土曜でいい?』
宗一が『OK』と返していた。入江が『大丈夫』と返していた。岡崎は既読だけで何も返していなかった。隆二は『いいよ』と打って、送った。それだけだった。
隆二はまた窓の外を見た。夕日が少しずつ沈んでいくのを、特に何も考えずに眺めていた。今日、何をしたかと聞かれたら、答えられない一日だった。昨日もそうだった。明日も、たぶんそうだろうと思った。
それが今すぐどうにかなるとは、隆二には思えなかった。なるようになる、という言葉は好きじゃなかった。なるようにしかならない、のほうが正確な気がした。そしてそれは、別に希望でも絶望でもなかった。ただ、そういうものだと思っていた。
洗濯物を、結局取り込まないまま、隆二は窓を閉めた。
—続く—




