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嵐のあとで  作者: 空野 翔


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3/10

第3話「それぞれの夕方」

 七月に入って、梅雨が明けた。夕方の五時になると、日がまだ高かった。


—宗一の夕方


 田中宗一は、会社から駅まで歩いて帰る。毎日同じ道だった。駅前のロータリーを抜けて、商店街を通って、住宅地に入る。途中にコンビニがあって、たまに寄る。今日はミネラルウォーターと、娘用のプリンを買った。

家に帰ると、玄関に小さい靴が並んでいた。

「おかえり」と奥の部屋から妻の由紀が言った。

「ただいま」

 リビングに入ると、二歳の娘の陽菜が床でブロックを積んでいた。宗一の顔を見て、立ち上がって、よたよたと駆け寄ってきた。宗一はしゃがんで、抱き上げた。

「重くなったな」陽菜は返事をしなかった。宗一の肩をぺたぺたと叩いた。

 由紀が台所から顔を出した。「今日遅かったね」

「少し残業した」

「劇団の集まりは?」

「先週で一回終わった。また来月」

「そっか」

 由紀はそれ以上は聞かなかった。宗一が劇団のことをあまり話さないのを、由紀は知っていた。聞いても答えが少ないのも、知っていた。それで喧嘩になったこともあったが、今はお互いにそういうものだとわかっていた。 宗一はソファに座って、陽菜を膝の上に乗せた。陽菜はすぐにまた床に降りて、ブロックに戻った。窓の外が、橙色に変わっていた。

 宗一は缶ビールを一本持ってきて、一口飲んだ。冷たかった。劇団のことをどう思っているか。由紀に聞かれたら、なんと答えるだろうとたまに考える。寂しいとか、悔しいとか、そういう言葉は違う気がする。ただ、終わるんだなと思う。それだけだった。終わるものは終わる。それが現実で、現実と向き合うのが自分の役割だと、宗一はずっとそう思って生きてきた。それが正しいかどうかは、わからなかった。



—松永の夕方


 松永拓也がバイトを終えたのは、夜の七時だった。居酒屋の裏口から出ると、彩花が待っていた。

「お疲れ」と彩花が言った。

「ずっと待ってたの?」

「うん。暇だったから」彩花は店長の娘で、二つ年下だった。色が白くて、笑うと目が細くなった。松永と付き合い始めて四年が経つ。

「飯、どうする?」と松永が言った。

「どこかで食べようか。お父さんが今日賄い作ってくれたんだけど、もう食べてきちゃった」

「じゃあ俺だけ食えばいい?」

「うん。付き合うよ」 駅前の定食屋に入った。松永が生姜焼き定食を頼んで、彩花はお茶だけ飲んだ。

「最近、お父さんと話してる?」と彩花が言った。

「まあ、シフトのこととかは」

「それだけ?」

「それだけって、何が?」

 彩花は少し迷うような顔をしてから「店のこと、聞いてない?」と言った。

「聞いてない。何か話してたの?」

「うん、まあ…」彩花はお茶を一口飲んだ。「いつかちゃんと話したいって、言ってた」

「どういう話?」

「松永くんに、もっと本格的に入ってほしいって」

松永は生姜焼きを食べながら、少し考えた。

「店を、ってこと?」

「たぶん」

「そっか…」

「嫌?」

「嫌ではない」松永は正直に言った。「ただ、タイミングが…」

「劇団?」

「うん」

 彩花は何も言わなかった。責めているわけでも、急かしているわけでもなかった。ただ聞いた。

「公演が終わったら、ちゃんと考える」と松永は言った。

「うん」と彩花は言った。それだけだった。定食屋の有線放送が、古い歌謡曲を流していた。



—入江の夕方


 入江健はアパートの自室で、封筒を開けていた。事務所からの資料だった。県内のプロダクションで、規模は小さいが舞台を中心に活動しているところだった。知人の紹介で先月コンタクトを取った。

資料に目を通しながら、入江は煙草に火をつけた。悪くない、と思った。ギャラの話よりも、どういう現場に関わっているかを先に確認した。いくつかの公演のラインナップが載っていた。知っている演目もあった。小さい劇団だが、選んでいる仕事は悪くなかった。窓を開けると、夕暮れの風が入ってきた。入江は煙草を吸いながら、空を見た。雲が西の方向へ流れていた。

 役者を続けることは、高校のころから決めていた。水曜社に入ったのもそのためだった。栗原に教わったことは多かった。台詞の間、身体の使い方、客席との距離感。それが今の自分を作っている。だから感謝はしている。ただ、ここに留まるつもりはなかった。最初から。

 それを口に出したことは一度もなかった。隆二たちにも言ったことがない。言う必要がないと思っていた。言えば何かが変わるわけでもないし、誰かを傷つけるつもりもない。ただ、自分の中にある地図に従って動いているだけだった。

 封筒を机の上に置いて、入江は煙草を消した。来週、もう一度連絡してみようと思った。



—岡崎の夕方


 岡崎誠は、夕方の光の中で木材を切っていた。市内のイベント会社の倉庫で、知り合いの伝手で見学がてら手伝いに来ていた。ベニヤ板を決められた寸法に切って、重ねて、端を揃える。単純な作業だったが、手を動かしているとき、岡崎は余計なことを考えなかった。

「うまいね」と隣で作業していた会社の社員、田所さんが言った。三十代の男で、寡黙な人だった。

「慣れてるだけです」と岡崎は言った。

「劇団でやってたって言ってたっけ?」

「はい」

「舞台美術?」

「まあ、そんな感じです」

田所さんはそれ以上聞かなかった。二人でしばらく無言で作業を続けた。岡崎はこういう時間が好きだった。言葉より手が先に動いて、形が出来上がっていく。完成したものを誰かが見て、その場所で何かが起きる。舞台でも、イベントでも、それは同じだった。

 作業が一段落して、田所さんがお茶を持ってきた。二人で倉庫の入口に座って、外を見た。

「うちに来る気ない?」と田所さんが言った。唐突だったが、岡崎は驚かなかった。なんとなく、そういう話になるかもしれないと思っていた。

「条件とか、教えてもらえますか?」

「給料はそんなに出せないけど、仕事はある。しばらくは忙しいと思う」

「いつから、ですか」

「急がないけど、年内には来てほしい」

岡崎はお茶を一口飲んだ。

「少し考えさせてください」と言った。

「あぁ、もちろん」

 夕方の光が、倉庫の床に斜めに差し込んでいた。木材の匂いがした。岡崎はその匂いが嫌いじゃなかった。



—隆二の夕方


 中西隆二は、今日は特に何もしていなかった。コンビニのバイトが今日は休みで、午後からずっとアパートにいた。テレビをつけて、すぐ消した。スマホを開いて、特に見るものがなかった。ベッドに横になって、天井を見ていた。

 夕方になると、窓の外が赤くなった。隆二は起き上がって、窓を開けた。向かいのマンションの壁に、夕日が当たっていた。風があった。洗濯物を干しっぱなしにしていたことを思い出した。もう乾いているだろうと思ったが、取り込む気にはなれなかった。

 スマホにグループラインの通知が来ていた。松永からだった。

『来月の稽古、第二土曜でいい?』

 宗一が『OK』と返していた。入江が『大丈夫』と返していた。岡崎は既読だけで何も返していなかった。隆二は『いいよ』と打って、送った。それだけだった。

 隆二はまた窓の外を見た。夕日が少しずつ沈んでいくのを、特に何も考えずに眺めていた。今日、何をしたかと聞かれたら、答えられない一日だった。昨日もそうだった。明日も、たぶんそうだろうと思った。

 それが今すぐどうにかなるとは、隆二には思えなかった。なるようになる、という言葉は好きじゃなかった。なるようにしかならない、のほうが正確な気がした。そしてそれは、別に希望でも絶望でもなかった。ただ、そういうものだと思っていた。

 洗濯物を、結局取り込まないまま、隆二は窓を閉めた。


—続く—


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