37.レイジと悪夢とフランク
夜更けの鬼人族の里は、昼間とは別の世界だった。
窓の外では風が竹林を揺らし、山から吹き下ろす夜風がひんやりと宿の木造の壁をかすかに軋ませていた。
一日の疲れを癒やすように、部屋には五人分の寝息が規則正しく重なっている。
だが、その静寂は突然破られた。
「──ッ!」
布団が大きく跳ねる。
レイジは勢いよく上体を起こすと、肩で荒く息をつきながら、暗闇を見回した。
全身から嫌な汗が噴き出し、寝巻きが肌へ張りついている。
指先が震え、歯までかすかに鳴っていた。
ここは拘置所でもないし、今のレイジは囚われてなどいない。
頭ではわかっていても、心臓だけはいつまで経っても理解してくれなかった。
『出られない』。『このまま死ぬ』。『誰にも見つけてもらえない』。
夢の中で何度も繰り返されたその恐怖が、目覚めたあとも身体から離れていかない。
レイジが転生したばかりの頃は、こんなことはなかった。
前世の悪夢を見ることはあっても、それはどこか遠い記憶でしかなかったはずだ。
だが、あの海底洞窟でヤリスと共に閉じ込められて以来、何かが変わってしまった。
眠るたびに、時折あの洞窟や前世の牢獄へ引き戻される。
夢だと分かっていても、目覚める頃には本当に何年も閉じ込められていたような疲労だけが残っているのだ。
レイジがゆっくりと寝返りを打つと、視界に飛び込んできたのは隣で眠るフランクの大きな背中だった。
その姿を見ただけで、少しだけ現実へ引き戻された気がする。
服の裾を掴むだけなら、起こさないだろう。
子どもみたいだ、という自覚はあった。
それでも今だけは、一人で恐怖に耐えるほうがよほど惨めに思えた。
レイジは布団の中からそっと腕を伸ばし、フランクの寝間着の裾をほんの少しだけ摘まんだ。
それだけでも強くて頼りになるパーティーリーダーの力を借りていられる気がして、不思議なくらい胸の締めつけが和らいでいった。
その一方で、フランクは、最初にヒイラギが飛び起きた物音で目を覚ましていた。
荒い呼吸も、震える気配も、布団越しに伝わってくる小さな嗚咽のような息遣いも、全部気付いていた。
そして服の裾が遠慮がちに引かれた瞬間、事情もおおよそ察していた。
だからこそ、振り向かず、何も言わなかった。
フランクが自ら干渉すれば、きっとレイジは遠慮して一人で我慢してしまうだろう。
フランクは寝息一つ乱さず、眠っている振りを続けた。
そのささやかな気遣いに気付く者は、誰もいなかった。
***
鬼人族の里に来て二日目。
朝の空気はまだひんやりとしていて、木造の建物が並ぶ通りには、香ばしい匂いが漂っていた。
俺達の入ったカフェは天井が高く、木の温もりを感じさせる造りをしている。
窓から差し込む朝日が、テーブルの上にゆっくりと影を伸ばしていた。
「腹減った・・・・・・」
ヤリスさんが席に着くなり、メニューも見ずにそう呟いた。
俺たちは昨夜遅くにこの里へ到着し、今朝はようやく落ち着いて食事を取れる時間だった。
フランクさんが水を一口飲んでから、静かに切り出す。
「情報提供者のハインツという男が来るまで、しばらくこの里に滞在することになる」
「へえ、暇になるってことか」
ヤリスさんが頬杖をつく。
「暇なら俺と特訓するか。ちょうど身体が鈍っていたところだ」
フランクさんの提案に、ヤリスさんが露骨に嫌そうな顔をした。
俺は小さく笑いながら、メニューに視線を落とす。
そのとき、注文を取りに来た店員の声が耳に届いた。
「ご注文はお決まりですか?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには見慣れたエプロン姿のアリシアさんが、涼しい顔で立っていた。
しれっと店員の顔をして、伝票を片手に構えている。
「・・・お前、何やってんの」
「見て分からない?バイトだよ、バイト」
当然のように言い放つと、アリシアさんは奥のテーブルから「すみませーん」と声が上がるより前に、もうそちらへ視線を向けていた。
「臨時でシフト入れてもらったんだ。里の人手が足りないんだってさ」
近くの席では、常連らしき老爺が湯呑みを傾け、空になったことに気づく間もなく、アリシアさんはすでにポットを手にその席へと歩み出していた。
「お待たせしましたー、お代わりですね」
「一日でかよ・・・・・・」
ヤリスさんが小声で漏らす。
呪文のような長い注文は完璧に覚えているし、営業スマイルも忘れない。
誰かに指示される前に、次の仕事を見つけて動く。
じっとしているくらいなら、身体を動かしていたい性分なのだろう。
「この里は広いんだし、てっきり探検するのに夢中なのだと思っていたけれど」
ミアさんがそう言うと、アリシアさんは軽く肩をすくめた。
「それは別にバイト終わってからやればいいだろ!シフトは午前だけなんだし。あ、はーい!すぐ向かいます!」
そう言うと、アリシアさんは軽い足取りで奥のテーブルへと向かっていった。
忙しなく立ち働くその背中を、俺はしばらく目で追っていた。




