18.乗船
潮を含んだ風が、頬を撫でた。
「すごい、すごいぞ!見てくれ、ここから水平線の端まで見えるんだ!」
アリシアさんが両手を広げて木製の甲板を駆けていく。
風に煽られた赤髪が大きく弾み、ブーツの音が船板を軽く叩いた。
船はまだ港を出たばかりで、振り返れば桟橋に並ぶ漁師の姿も小さく見える。
「アリシア、あんまり走ると転ぶぞ!」
「大丈夫だって!海の上だぞ、海の上!」
そう言いながら欄干に飛びつき、身を乗り出して海面を覗き込む。
俺は思わず一歩前に踏み出してから、結局その手は伸ばせずに引っ込めた。
あんまりはしゃぐので俺達も周りから注目を浴びてしまうのではないか、と思いながらも、口元が勝手に少しだけ緩んでいるのに気づいてしまう。
「初めて乗ったとは思えん身軽さだな」
フランクさんが呆れたように呟いた。
「みんなも来いよ!」
アリシアが振り返って大きく手招きをする。
「ここから見ると港長室の窓も小さく見えるぞ! ざまあみろって感じだ!」
「それは、あんまり大きな声で言わない方が・・・・・・」
その言葉で、俺の脳裏に半日前のやり取りが鮮明に蘇った。
港長室でのことだ。
潮で曇った窓ガラスの向こうで港の灯りが滲み、机の上の油ランプが、書類の山に黄ばんだ光を落としていた。
「以上だ。書類はこちらで処理する。乗船許可は出る」
ヤリスさんが膝の上で拳を握ったのは、その時だった。
「・・・あの、もう一度だけ、確認してもいいですか」
港長は顔を上げなかったが、ヤリスさんは続けた。
「洞窟のダンジョンのことじゃないんです。帰りの、海中で見たもののことで」
「ああ、超巨大な竜の話か。そんなもの、海にいるはずがないだろう」
「でも──」
「本当だって!」
アリシアさんが横から身を乗り出した。
「私達はこの目で見たんだ!数百メートルくらいはあるんじゃないのかってくらいデカかったんだぞ!」
港長はようやく顔を上げて、薄く笑った。
「お嬢さん。海にそんな図体の生き物が出ていれば、漁師の一人や二人は必ず目撃する。だがこの一年、そんな報告は一件も上がっていない。短い時間とはいえ、洞窟内で濃い魔素を浴びていただろう。幻覚を引きずる例はいくらでもある」
「幻覚なら、全員で同じものは見ないだろ!」
「ならば集団幻覚だな。いずれにせよ、こちらで動かす案件ではない」
俺も何か言いたかったが、口を閉じた。
あれが確かにいたと証明する手段が、自分の口にも、頭にもなかった。
何も言わないフランクさんとミアさんも同じ考えなのだろう。
ここで主張しても信じてもらえることはない。
ペン先がまた、紙の上をカリカリと擦り始める。
ムッと膨れていたアリシアさんだったが、突如何かを思いついたように表情を変えた。
「港ってさ、船が一隻通るかどうかを決められる人が、一番偉いんだろ?海の上の話は海の上で済むけど、岸に上がる時は、結局この机の前を通るしかないんだから」
アリシアさんの言葉に、港長のペンが空中で止まった。
「・・・何の話だ」
「私達は今回のクエストで心身ともに大きなダメージを負ってしまった。それこそ、魔素に当てられて集団で幻覚を見てしまうほどにな」
「契約は契約だ」
「もちろんそうだけどさ、釣り合いってものがあるだろ?」
アリシアさんは机に両手をつき、ぐっと身を乗り出した。
「身分偽造の書類一枚と命の交換は、ちょーっと割に合わないんじゃないかなってさ」
「・・・何が望みだ」
「いやなに、ちょっとくらい見返りに色がついたっていいんじゃないかとな!例えば・・・スイートと、護衛枠を一つ。私達のおかげで、無事航路も取り戻せたんだからさ」
自慢げに胸に手を当てるアリシアさんに、港長は長く息を吐いた。
あの瞬間、たしかにその表情に、面倒くさい、という色が滲んだ。
「・・・スイートなら船内に余った部屋がある。護衛はつけない。代わりに、船内で問題は起こすな」
「本当か!?いやぁ、いい船旅になりそうだ!」
アリシアさんは満面の笑みで手を差し出した。港長は、その手は握らなかった。
「・・・それで、本当にスイート、取れちゃったんですよね」
俺が甲板の上でぼそりと言うと、欄干の上にあったアリシアさんの頭が、勢いよくこちらを向いた。
「だろ?私の交渉術にかかればこんなものさ!」




