17.海の神
「よし、全員潜水装備着たな?これより帰投する!」
フランクさんが盾を背に回しながら号令をかける。
だが、その言葉にミアさんがすかさず口を挟んだ。
「待って、フランク。さっき報告した魔物がまだうろついているかもしれないわ」
「な、何の話だ!?」
ヤリスさんが慌てて顔を上げた。
地下に取り残されている間に共有された情報を、俺とヤリスさんは知らない。
「ミアがさっき君の潜水ヘルメットを取りに戻った時、バケモンに遭遇したんだってさ!危うくオヤツにされちゃうとこだったらしいぞ!」
アリシアが装備を装着しながら、軽い口調で説明した。
「はぁ!?どうすんだよ外にまだいたら!!」
「ゆっくり作戦会議したい気持ちはわかるが、水没まで数分も持ちそうにない!」
フランクさんが切り捨てるように告げた。
実際、足元の水位はもう膝の上まで来ており、選択肢はなかった。
水。冷たい水。逃げ場のない、暗い水の中。
足元から伸びてきた水の冷たさに、体が一瞬硬直した。
今は仲間がいる。大丈夫だ、と頭の中で自分に言い聞かせて、それでも、潜った。
水の中は、静かだった。
地上のあらゆる音が一気に遠ざかる。崩落の振動も、ヤリスさんの怒鳴り声も、自分の心臓の音さえも、水の膜の向こうにこもって、輪郭の柔らかい音になった。
耳のすぐそばで、自分の吐息だけが大きく響く。
その先に、洞窟の出口の青い光があった。
ロープを伝って船へ急ぐ。フランクさんが先頭、ヤリスさんとミアさんが続き、アリシアさんが俺の少し後ろを泳いでくれた。
岩の口を抜けて視界がひらいた瞬間、俺たちは外海に出ていた。
あとは水面まで戻るだけ。戻るだけだ。
その希望を、すぐ後ろから来た衝撃が打ち消した。
水を押しのけて、俺達の背後を何かが追ってきていたのだ。
岩を爆ぜさせて、追ってくる。ミアさんの言っていた怪物。
振り返るのが間違いだったかもしれないが、振り返らないわけにもいかなかった。
俺の視界に入ったのは、遠近感が崩れるくらいの巨体だった。
まるでチョウチンアンコウを巨大化させたような魚類の魔物が、岩礁の影から接近してくる。
提灯のような光器官が水中で揺れ、その下に並んだ歯の列が、こちらに向けて開いていた。
間違いなく、狙いは俺達だ。
倒す、なんて言葉は誰の中にも浮かばなかった。
この魔物から感じられる危険性は、ボルゲノンと同種のものだった。
そうして俺達が迎撃の態勢を取ろうとした時だった。
魔物の背後から、もっと深いところから、影が迫って来た。
最初、それが影だと俺は分からなかった。
視界の暗い部分が、ゆっくりと、形を持って浮かび上がってきたのだと、後になって気付いた。
深海の闇そのものが盛り上がってきて、こちらへ近づいてくるような感覚。
一瞬だった。何かが下から伸びてきて、魚類の魔物を捕らえた。
俺たちの目の前で、あれだけ大きく見えていた怪物が、まるで小魚のように真っ二つに食い千切られ、そのまま飲み込まれた。
血の代わりに黒い水が広がって、それもすぐに薄れていった。
それから、ようやく、魔物を捕食した方の輪郭が見えた。
──竜。
竜のような、と最初に思った。
ただ、竜という言葉では足りなかった。
途方もなく、大きく、頭部の一部だけしか視界に入らなかった。
それが、どこまでが体の一部なのかすら、分からなかった。
岸から見える島ぐらいの質量がゆっくりと動き、海水と巨体との境界が滲んで見えた。
目の前の信じがたい光景に、誰もが声を出せなかった。
声を出したら、あれがこちらを向く気がした。
それは俺たちに目もくれなかった。
怪物の死骸を飲み込んで、それで満ち足りたのか、それとも俺たちなど最初から眼中になかったのか。
影はクジラの鳴き声のような大きく低い音を残して、ゆっくりと、深い海の底へ沈んでいった。
深く、深く、光の届かない崖の麓へと。
水の中に、俺たちだけが残された。
「・・・・・・綺麗だ」
最初に声を出したのは、俺だった。
というのも、俺は深海から水面へと視線を移した時、上から注ぐ光の束に気づいたのだ。
水面から差し込んだ光が、無数の筋になって、ゆらゆらと水中を貫いていた。
怖い。まだ怖い。
さっきの影が、また下から戻ってくるんじゃないかと思った。
それでも、海は綺麗だった。




