第9話:「勇者として生きている」
「勇者様だ! 勇者様がお戻りだぞ!」
城壁の上で、兵が槍を振っていた。声は門の下まで降りてきて、門番たちが一斉に顔を上げる。
靴の先に落ちる影は短い。傷はもう塞がっていたが、帰りは急がず、道中で一晩野宿をした。先へ行きかけるミュカの歩幅を、リリアが声で戻す。そんなことが何度もあった。外套には、ゆうべの焚き火の匂いが残っている。
「勇者様、ご無事で何よりです!」
門番の兵が駆け寄り、槍の柄を握って背を伸ばした。
「村の害獣を討ってくださったそうですね。先に戻った者が、倒れているのを確かめました」
アルが頷くと、兵の目が五人の顔を順に渡った。
「皆様もお怪我は……」
「大丈夫。もう治したから」
リリアが答えると、兵は息をついた。
「それなら安心しました。皆様が通ってこられた北の街道も、荷が通るようになりました。あの荷車が、さっき着いたばかりで」
兵の目が門の脇へ動く。荷車が一台止まっていた。麦袋が積まれ、袋と袋のあいだに土のついた野菜が詰めてある。泥の乾ききらない野菜から湿った土の匂いが立ち、外套の煙臭さと混ざった。荷を下ろす男の足元で、車輪の軸が低く軋んだ。麦袋が一つ地面に置かれるたび、鈍い音が響く。
「そうか」
短く返して荷から目を戻し、門をくぐると、後ろでミュカの声がした。
「あの野菜、おいしそう」
「腹が鳴ったぞ、今」
「鳴ってない」
ガイルとミュカの言い合いは、門を抜けても後ろからついてきた。
通りに入ると、鉄を打つ音が幾重にも重なって聞こえた。その音が、先頭を行くアルの前から順に途切れていく。鍛冶場の職人が槌を止めて頭を下げ、向かいの店先では守備隊の兵が槍を立てて道の中央を空けた。
「勇者様」
「お帰りなさい、勇者様」
「勇者様、うちの店にも寄っていってくれ!」
軒から降ってくる声に、片手を上げて応えながら進む。
一軒だけ、槌が止まらなかった。火床の前の男は顔を上げず、赤く焼けた鉄に腕を振り下ろし続けている。五人が前を過ぎても拍は変わらず、背後へ遠ざかっていった。足は止めない。
振り返ると、ガイルの背の大盾には爪の溝が何本も走っていた。リリアの左袖は前腕のところで裂けたままだ。
「やけに顔が知られてるな」
「ガイルの盾がでかいからだよ」
「盾のせいかよ」
ガイルの返しに、ミュカはふんと横を向いた。
鍛冶の通りを抜けると、井戸のある石畳の広場に出た。槌の音が背中へ回り、代わりに桶の縁が石に当たる音が聞こえる。石畳は日を吸って温かく、水の跡が黒く残っていた。
最初に駆けてきたのは小さな子だった。足音が石畳を叩き、あちこちから子どもが集まって、五人の周りに輪ができる。
「勇者様だ!」
「ほんとに剣持ってる!」
「抜いて! 抜いてみせて!」
柄へ伸びてきた小さな手を、アルは掌で押し返した。
「街中で抜くもんじゃない」
「えー」
一人が盾の後ろへ回り込み、爪の溝に指を突っ込んでみせた。別の子は縁に両手をかけて引っぱっている。
「おもっ! 動かない!」
「そりゃ俺が背負ってるからな」
ガイルが肩を揺すっても、盾にぶら下がった子は手を放さない。溝に入れた指も抜かない。
「おい、削るなよ」
輪の中ほどから男の子が一歩出てきた。兵の古い胴着を、袖を何度もまくって着ている。裾は足首まで垂れていた。
「あの、あのさ」
言い淀んだ子が、アルの腰の剣を指さした。
「竜を斬ったやつ?」
ローエンから下る街道沿いの宿で、手拍子とともに聞いた歌が、この広場の子どもの口にまで来ている。アルは笑いをこらえきれず、息だけが鼻から抜けた。
「斬ってない」
「うそだあ」
「斬ったよ! ぜったい斬った!」
「ねえ、さわっていい?」
「だめ、おれが先!」
横から別の子が割り込み、胴着の子の腕を引いた。輪が詰まって、アルの外套の裾に誰かの手が触れる。
ミュカが輪の中へ入ってきた。親指でアルを指す。
「熊なら斬ったよ。でっかいの」
両手を左右へ大きく広げてみせると、子どもたちが沸いた。
「熊!」
「こんなに?」
「もっとでかいって!」
ミュカの両手がさらに外へ伸びる。どこまでも届きそうな腕に、悲鳴に近い歓声。
輪の外を、荷車を引いた男が通り過ぎていく。梶棒を握り、輪をよけて広場の縁を回った。車輪の軋みが騒ぎの下を抜けていく。
「勇者様の武勇伝だ、よく聞いておけ」
ガイルが輪に向けて顎を上げると、輪の声が一段高くなった。その上から、カリムの落ち着いた声が届く。
「脚色は三割までにしてください」
「さんわりってなに?」
足元の子が誰にともなく聞いたが、ミュカはもう振り返っていた。
「三割も盛っていいの?」
輪が弾けた。
隣の子の肩を叩いて笑う子がいる。胴着の子は腹を押さえて跳ね、まくった袖がずり落ちた。ガイルの笑い声に背の大盾が揺れ、ぶら下がった子ごと弾む。アルも吹き出していた。笑い声は井戸の石組みにぶつかって、輪の上へ返ってくる。
笑いの尾が石畳に残っているうちに、輪の子はもう熊の大きさを競い合っていた。このくらいだ、いやこんなにでかいと腕を振り回しては、声を上げる。ガイルの背の大盾には、まだ子が取りついている。ガイルが大盾ごと身をひねると、浮いた足がばたついた。
「おい、そろそろ降りてくれ。肩が抜ける」
カリムが別の子の前にかがみ、指を三本立ててみせた。
「三割までです」
子は首をかしげ、カリムの長い耳の先を指さした。
「その耳、ほんもの?」
「本物です。引っぱらないでください」
子は三割、三割と叫びながら駆けていった。足をもつれさせて転んだ子の前に、リリアが片膝をつき、掌の砂を払ってやる。子が輪へ紛れ込むと、リリアも立ち上がった。ミュカは開いた両手をそのままに、広場の縁へ首を伸ばしていた。
広場の奥から、硬い靴底の音が近づいていた。輪が外側からほどけ、小さな背が左右へ退いていく。開いたところを、守備隊の隊長が歩いてきた。脚には小さな子がしがみつき、引きずられても手を放さない。隊長はアルの前で足を止めた。
「勇者様」
腰を折ると、脚の子が体ごと前へ傾く。隊長は片手でその頭を支えて顔を上げた。額には汗が浮き、胴着の襟が濡れていた。
「門の脇の荷車は、ご覧になりましたか」
「ああ。麦の袋が積んであった」
アルが答えると、隊長は鍛冶の通りの奥へ腕を伸ばした。そちらからは、槌の音が一つだけ途切れずに届いていた。
「ローエンの麦です。この半年、北の街道は荷車が途中で引き返すばかりで、まともに着いた荷はありませんでした」
脚の子が隊長を見上げた。
「ローエンって、どこ?」
隊長は子の頭に掌を置く。目はアルから動かない。
「半年ぶりです」
隊長のもう一方の腕は、門の方角を指して止まっている。その先へ目をやると、屋根の上に城壁の縁がのぞいていた。あの向こうから、北の街道が下ってくる。
「半年、か」
繰り返した声に、隊長は頷いた。
「荷がまた動きます。ありがとうございます、勇者様」
隊長の目を見返した。
「着いたなら、よかった」
隊長はもう一度深く頭を下げた。指していた腕が下り、脚の子の頭まで一緒に前へ垂れる。まわりで笑いが起き、隊長の口からも短い息が漏れた。身を起こした隊長は子を片腕に抱え、広場の出口のほうへ戻っていく。抱えられた子の脚が、隊長の腕の外で宙を蹴っていた。
「あっち、人がいっぱい集まってる。野菜かな」
ミュカがようやく両手を下ろし、その手で井戸のほうを指さして一歩踏み出した。
「ミュカ」
リリアが呼ぶと、その足は宙で止まり、つま先だけが地面を擦った。
「見るだけだってば」
「見るだけでも、先に行かない」
ガイルが盾の子を地面に降ろし、大盾を担ぎ直して、肘でアルの背を押した。
「勇者様が先頭だ。お先にどうぞ」
「押すなって」
歩き出すと、四人が後ろについた。子どもたちの足音も追ってくる。歩幅の小さい足音が遅れまいと忙しく鳴り、その中に、裾を引きずる軽い音もあった。
「勇者様、どこ行くの?」
前を横切った子が、後ろ向きに歩きながら訊く。
「井戸だ」
「なんで?」
「野菜を見に行く」
子は首をかしげたが、すぐ別の子に腕を引かれて離れていった。
井戸の手前で立ち止まる。桶の鳴る音が重なって、途切れない。広場に入ったときは、間をあけて一つずつ聞こえていた。
縁の石は水に濡れて色が濃い。そこへ野菜が広げてある。濃い緑の葉が積まれ、太い根の先に土の粒が残っている。折れた葉の切り口から青い匂いが立ち、桶の水の匂いと混ざった。
女たちを中心に、人が囲んでいる。葉をめくっては根を握って重さを量り、切り口を指で押して水気を確かめる。子を背負った若い女が束の葉に鼻を寄せ、年配の男は根を引き抜いて、親指で土を落とした。
「見て、まだ湿ってる!」
一人が束を頭の上に掲げると、横から別の女の手が伸びた。
「そっちを寄こして! 先に見つけたのは私だよ」
「洗ってみな。根が白いよ」
根を抜いた男がそれを桶にくぐらせ、水を切って持ち上げる。
「その束、まだ奥にあるかい?」
「あるよ。門の荷車に、まだ積んである」
通りから来た男がのぞき込むのと、井戸の縁の女が顎をしゃくるのが一緒だった。背中の子を揺すり上げて、若い女は束を一つ胸に抱え込み、隣の女の肩を叩く。
「葉は今日のうちに使わないとね。あんた、鍋を持ってきな。私は半分もらうから」
麦の袋を肩に担いだ男が井戸を回り、人混みを抜けていく。縫い目から麦の粒が落ち、地面の隙間に転がって消えた。野菜が行き交うたびに、葉がこすれ合う。
取り合う手のまわりで、女たちが声を立てて笑った。洗われた根の泥が石畳に細い筋を引き、桶から溢れた水がそれを押して流す。通りからは前掛けで手を拭きながら来る者が増えていく。広場に面した軒先では閉めてあった板戸が内側から押し開けられ、子を抱いた女が首を出した。通りの奥からも笑い声が広場へ流れ込んでくる。
街道を守りなさい。ローエンの堂で聞いた声のうち、その一句が耳の底にある。アルは腰の剣に手を置いた。柄は掌の形に馴染んでいる。
納屋の前に並んでいた布の、いちばん短い一枚が浮かんだ。柄の上で指が止まる。
井戸端の女たちがこちらに気づいた。束を持った手が次々に上がる。アルは柄から手を離し、その手を振り返した。声が跳ね上がった。
「勇者様!」
「こっち向いて、勇者様!」
「手、振った! いま手、振った!」
あちこちで子どもの声が重なる。通りの別の店先では、前掛け姿の職人が槌を手に表へ出てきて、肩の高さに振り上げた。板戸の女は子の手を取って振らせた。
「ありがとう、勇者様!」
火床の槌は歓声の底で鳴り続けている。五人が前を過ぎたときと、拍は変わらない。
リリアの目が野菜から笑う顔へ移っていく。ミュカの耳は井戸のほうを向いて動かない。歓声が広場を渡って、アルの胸に当たった。吸った息を頷きと一緒に吐き、前を向く。
神に選ばれたことを、押し付けられたと思ったことは一度もない。歌の中の勇者は竜を斬る。その男と自分は重ならない。それでも、女たちが握る根の重さは本物だ。
これでいい。
裾を引きずる軽い音が、歓声の下から近づいてくる。五人のまわりには子どもたちが戻っていて、一人がガイルの腕に飛びつき、別の子がカリムの外套を引っぱっていた。その隙間を、胴着の子が抜けてきた。人の脚のあいだをくぐるたびに裾が引っかかり、袖が手の甲まで下りてくる。それを片手でたくし上げ、また別の脚をくぐって、子はアルの腰のすぐ前で止まった。爪の先が黒い。鞘はちょうど子の目の高さにある。
「竜の剣だ」
子は声を落として言った。アルは立ったまま見下ろす。細い腕が上がる。袖の継ぎ目はほつれ、開いた指が鞘へ伸びた。
指先が鞘の腹に触れた。




