第8話:「刃が通らない」
柵の杭に手を当てると、ささくれが掌の皮に引っかかった。杭は根元の土ごとめくれ上がり、村の外へ向けて倒れている。何かが内側から押し通り、外へ出ていった。
夜通し歩いた脚は膝から下が重く、明け方の冷えが外套の内側まで染みていた。空の縁が白みはじめ、柵の切れ目をくぐると、焦げた土の匂いが鼻の奥に張りついた。舌の根に苦みが残る。
民家の戸はどれも半端に開いたままで、どの煙突からも煙が上がらず、人の声も村のどこからも聞こえなかった。右手の家畜小屋は屋根が落ちている。折れた梁が斜めに地面へ刺さり、黒く湿った藁が梁の下からはみ出していた。残った壁板は一枚ずつ外へ反り、割れ口が白い。
小屋の向こうは畑だった。畝の形だけが残り、茎は黒く縮れたまま幾冬も越して、踏むと炭になって崩れる。ここは長いあいだ戦場だった国境の土地だ。カルデンへ引かれていった男が漏らした『畑が焼けたんだ』という声が、目の前の黒い畝に重なって離れなかった。
納屋の前で足が止まった。扉の脇の壁に沿って、布をかけたものが地面に並んでいる。継ぎの入った古い布で、端が風にあおられては落ち、裾から土色の爪先がのぞいていた。報せの兵は二人と言った。端から目で追う。一つ、二つ。言われた数はもう尽きたのに、並びは納屋の角を越えて、まだ先へ続いている。その次の布は、大人の半分の長さもなかった。数えるのは、そこでやめた。
並びの前に、村人が一人座っていた。膝を立てて腕を回し、顎を膝に乗せたまま、布の一枚から目を離さない。手の甲には、乾いた泥がこびりついていた。
リリアが並びの端に立ち、胸の前で手を組んだ。その後ろで、ガイルが背の大盾の革帯を締め直し、革が短く軋む。ミュカの鼻が小さく鳴る。カリムだけが、アルが数えるのをやめたその先まで、布の列を目で追っていた。
納屋の脇から、別の村人が出てきた。こちらに気づいて立ちすくむ。アルはそちらへ歩み寄った。
「カルデンの守備隊から聞いて来た。害獣が出たのはいつだ」
村人は口を開けたが声にならず、喉を鳴らしてから言い直した。
「……昨日の夜です」
納屋の裏へ腕が伸びる。指先が定まらず、揺れていた。
裏手へ回ると、土が黒く湿っていた。血の跡は壁沿いから林の下草へ続き、途中から、幅の広い擦れた筋がそれに沿って伸びていく。草は一方へ倒れ、地面が浅く削れていた。
ミュカが先に立った。鼻先を低く落として一歩ごとに空気を嗅ぎ、三角の耳を左右へ交互に向ける。ガイルが左、アルが右に付き、カリムとリリアが後ろから続いた。林に入ると幹の低いところで樹皮が裂け、白い木肌が露わになっている。跡を追って進むうちに、背後の村の屋根は木々に隠れた。
「跡はどのくらい前のものだ」
アルが声を落として聞いても、ミュカは足を止めなかった。
「ねえ、鳥の声しない」
言われて耳を澄ます。梢の奥から返る音が何もない。枝の鳴る音さえ途切れ、ガイルが盾の縁を握る金具の音だけが大きく聞こえた。湿った下草が靴を濡らし、血の匂いの上に蒸れた毛と脂の臭いが重く被さって、息を吸うたびに喉の奥へ溜まっていく。
ミュカの耳が一点で止まり、片手が上がった。
木立の向こうで、黒い塊が起き上がった。キラーベアだった。立った背は人の背丈の倍あり、毛皮が濡れたような艶を返している。胸の毛は赤黒く固まって束になっていた。吠え声が梢を震わせ、折れた小枝が肩に降ってくる。四つ足に落ちた巨体が、藪を割ってまっすぐに来る。
ガイルが前へ出た。振り下ろされた腕を盾の面が受け、重い衝撃音が林に響く。踵が下草を削り、盾ごと後ろへ滑って、アルの肩の脇を過ぎる。
「腕ごと持っていかれたかと思ったぞ」
低く唸ったガイルが盾を構え直した。
空いた正面へアルが踏み込んだ。肩口へ振り下ろした剣は、毛皮に食い込んだところで下の脂肪に弾き返された。手首から肘まで痺れが駆け上がり、柄を握る指が開きかける。引き戻した剣には、脂の筋も血の曇りも残っていなかった。間合いを外して構えるあいだにも、巨体の吐く息が冷えた林に白く濁る。
脇腹へ回り込んで横に払えば剣は毛皮の表を滑り、勢いのまま前脚の付け根へ突き込めば切っ先が分厚い脂肪に押し戻されて、屈んだ頭の上をキラーベアの肘が掠めていく。肩へ戻り、首の下へ、背の中ほどへと場所を替えて打ち込む。手に返るのは同じ硬さだった。
ミュカが反対の側面から何度も入った。短刀が毛皮の上を走るたびに爪が下り、跳び退いた足元の土が裂ける。背へ回って首筋へ振るった切っ先も、毛をなぞるだけで終わった。
「硬い! どこも滑る!」
叫ぶミュカの声はもう掠れていた。肩口でカリムの火が爆ぜ、毛の焦げる臭いが立つ。火は間を置かず脇腹へ、背へと続いた。どの焼け跡も掌ほどの広さしかなく、体は沈みもしない。
背後で、乱れた息の合間にカリムの声がした。
「火も、通りません」
「ガイル、持つか」
アルが呼ぶと、盾の陰から短い返事が来た。
「持たせる」
腕が幹を薙ぎ、裂けた樹皮と木片が飛んだ。ガイルは受けるたびに一歩下がる。盾の面に爪の溝が一本増えるごとに、縁の高さが落ちていく。靴が掘った筋は、下草の上に長く尾を引いていた。
アルは続けて脇へ、また前脚へ打ち込む。痺れだけが肘に溜まる。足元の下草は土と血で滑る。踏みとどまって目を落とした頭上を太い腕が過ぎ、若木が幹ごと折れた。
カリムの火がもう一度散った。顔の近くで。キラーベアが首を大きく振り、一歩退く。初めて見る動きだった。目がそこへ留まった瞬間、次の腕が来た。
ミュカがまた側面へ跳び込む。耳の先が下がっていた。踏み込みが一拍遅れ、横から払われた腕に小柄な体が浮いて、幹に背から叩きつけられる。鈍い音が一つ響き、口から空気だけが抜けた。吸う音は返ってこない。
根元に滑り落ちたまま、ミュカは動かない。
振り向きかけた首を、顎を引いて前へ留めた。目の端を、リリアが駆け抜けていく。装束の裾が草を払い、根元のミュカの脇に膝をつく。胸の上へ手を置き、唇を動かす。
その背へ、大きな頭が向いた。巨体が前へ傾いて腕が持ち上がり、アルが横から踏み込む前に、ガイルが間へ割り込む。降ってきた爪を盾で受けると、衝撃は靴底から膝まで抜け、片膝が土に落ちた。
盾を引き上げるより早く、腕が続けざまに下りてくる。ガイルの頭上を越えた爪が地面を裂き、跳ねた土塊と風圧に煽られて、リリアの手が胸から浮いた。唇が止まる。リリアは身を伏せ、ミュカの上に背を丸めて覆いかぶさった。片膝をついたガイルの腕は、盾の縁を肩の高さまで戻せずに震えている。アルの後ろでカリムの息が詰まる気配がしたが、火はまだ上がらない。
キラーベアの肩が後ろへ大きく引かれた。爪が向かう先は、伏せた二人の背だ。弾けば、逸れた爪が二人の頭に落ちる。受けるなら真下で、両手で支えるしかない。そう決まるより先に、アルは剣を横に寝かせて握り込み、腕が落ちてくる前に二人の前へ体を割り込ませていた。
爪が剣を叩いた。重みが両腕に落ちて肘が曲がり、剣が頭の上で軋む。擦れるたびに鍔が指の節へ食い込み、金属の削れる音が耳の奥を引っ掻いた。柄を放せば腕は軽くなる。指は開かなかった。踵が土を割り、押されるたびに体が後ろへ傾ぐが、背後にはリリアとミュカがいる。そこから先へは下がれない。
爪の先が剣の脇を抜け、視界の外へ消えた。振り向く余裕はない。後ろで、短く咳き込む音がした。ミュカの息が戻っている。肩に入っていた力が抜けかけて、すぐに込めた。
キラーベアが体重を預けてきた。剣の向こうへ鼻面が下りてきて、熱い息が顔を打つ。生肉の臭いが目に沁みた。唇がめくれ、牙のあいだから垂れた涎が肩口に落ちる。黒い鼻先が開いては閉じ、剣の根元を嗅ぎ回るようにひくついていた。
背後で、鋭く息を継ぐ音がした。肩の上を火が抜け、ひくつく鼻先をかすめて散る。巨体が短く吠えて鼻面を引き、剣を押す力が一瞬だけ緩んだ。次の息で、重みはまた落ちてきた。
肩や背にいくら火を浴びても、この巨体は一歩も引かなかった。首を振って退いたのは、顔の近くで火が散ったときだけだ。
アルは奥歯を噛んだまま声を押し出した。
「鼻先だ」
草を踏む足音が、背後からアルの脇へ出てきた。視界の端にカリムの横顔が入り、唇が動く。鼻面の前で、狙いすました火が弾けた。光がキラーベアの目を打ち、潰れた声が漏れて、首が跳ね上がる。剣を押さえつけていた重みが、一度に抜けた。
剣を引き戻し、上を向いた顔の真下へ踏み込んだ。まぶたは光を浴びて閉じかけている。閉じきるまでの隙間に切っ先を通すしかない。滑る足元に靴底を噛ませて膝を伸ばし、剣を突き上げた。
切っ先が、目の奥へ沈んだ。
キラーベアは前脚から崩れ、草を押し潰して横に倒れた。脇腹が一度沈み、それきり膨らまなかった。アルは鼻面に片足をかけ、剣を引き抜く。目の奥から黒い血が糸を引き、土を叩いた。柄を握った指は固まったままで、こめかみでは自分の脈が打っている。両膝が抜けそうになり、剣先を地面に突いて体を支えた。
ガイルの手から盾が離れた。縁が草に沈み、もう一方の膝も折れて、そのまま腰を落とす。顔の古い傷が汗で光っている。
ガイルは座り込んだまま、目の前に横たわるキラーベアを見上げて言った。
「スチール級か……」
カリムは幹に片手をつき、薄い肩を何度も上げ下げしていた。息が整うのを待ってから口を開く。
「……ギルドが付けた格です。人が決めた物差しですから」
「物差しのほうが短かったってことか」
震えの残る腕を膝に乗せたまま、ガイルは鼻で笑った。
「じゃあ次からは、級を一つ上に見とく」
「それも、人が決めた物差しですよ」
ガイルは返す言葉を探すように顎を撫で、それから肩を揺らした。
リリアが身を起こし、ミュカを抱えて幹にもたれさせると、その隣にかがんだ。ミュカは片手を脇腹に押し当てて、顔をしかめている。
「肋が折れてる。動かないで」
掌が脇腹に当たる。今度は爪も風も来ない。言葉は途切れずに最後まで続き、ミュカの背が一度反って、戻る。食いしばっていた歯がほどけ、眉が開いた。
「痛いのが消えた」
大きく息を吐いてから、ミュカは立ち上がった。自分の脇腹を拳で叩いて確かめ、動かなくなったキラーベアのそばへ歩いていく。リリアも立った。左の袖が前腕のところで裂け、そこから伝った血が指先に集まって、一滴ずつ落ちている。視界の外へ消えた爪の先を、アルは遅れて思い出した。剣を支えにした腕を、今になって冷たいものが這い上がった。
「リリア、腕」
「大丈夫。かすり傷だから」
リリアは右の掌を裂けた腕に添え、低く言葉をかけた。血の筋の下で傷が閉じていく。破れた袖を引き下ろして、裂け目を覆った。
一人ずつ、目で数えた。草に脚を投げ出して梢を仰ぐガイルの胸が、大きく膨らんでは沈む。カリムはもう幹から手を離して立っている。ミュカは脇腹から手を下ろして、土を踏みしめていた。最後に、袖口を押さえたリリアが背を伸ばしてこちらを向く。目が合うと、小さく頷いた。
全員、息をしている。
剣の柄にもたれていた体を、ようやく自分の脚が受け止めた。
アルが地面から剣先を抜いて提げると、戦いの音が絶えた林に、枝の折れる音がした。折れた若木の隙間から、林の縁が覗いている。そこに人影が並んでいた。枝の陰に次々と増えていくが、誰もそれ以上は林に入ってこない。どの袖も煤で黒く、肩が下がっている。
先頭の男は木の肌に片手を預けて立っていた。袖から出た手首は細く、指の節が白い。その手の甲に、乾いた泥がこびりついていた。
男の顔は来た道の先、村のあるほうへ向いたままだった。倒れたキラーベアのほうは、見ようとしない。草の上のガイルが人影のほうへ顔を上げたが、すぐ盾へ目を戻した。
アルは剣を提げたまま、男の横顔を見ていた。腕の感覚はまだ戻りきらず、剣先が揺れている。男は何も言わず、アルも口を開かなかった。
ミュカはキラーベアの脇にしゃがみ、村に背を向けて、毛皮に残った焼け跡を指でなぞっている。
「これ、歌になるかな」




