第10話:「国境の向こう」
縄が張って軋み、検問の横木が持ち上がっていく。街道の幅いっぱいに渡した太い丸太で、多くの手に擦られた肌が黒く光っている。その下から、道の続きが開けた。轍が横木の下をくぐって先へ延び、曲がり角で途切れている。
カルデンを朝に発った五人の影が、土の上に細く長く伸びていた。外套の裾から、冷えた空気が入り込んでくる。
持ち上がりきった丸太の先が、空を指して止まった。縄を柱に結んで留めた兵が一歩下がり、張った縄の震えが収まる。槍の石突きが地面を突く。硬い音が一つ、朝の空気を抜けて消える。兵は口を開かず、顎の動きだけで五人に道を示した。
背後で、ガイルが背負った大盾の位置を直した。金具が短く鳴る。その脇で、ミュカが耳を一度横へ振ってから前へ立てた。
横木の下に、隊長が立っていた。額に汗はなく、胴着の襟も乾いたまま、頬の線は硬く動かない。アルが近づくと一歩前へ出て、肩が触れそうな距離で声を落とす。右手は腰の剣の鞘を押さえている。
「勇者様」
隊長の喉仏が動き、息を詰める間が一拍あった。
「この先には魔王軍がいます」
隊長の目はアルを見ていない。横木の向こう、街道が曲がって見えなくなるあたりに据えられたまま、瞬きが少なかった。
「分かってる」
アルが答えると、隊長は短く頷き、半歩だけ横へ退いた。
勇者に任じられた日に受けた神託は、魔王を討つことを命じていた。ローエンで示された務めは、もう果たした。害獣を追い、盗賊を縛ってきた道は、この検問で終わる。ここから先が、勇者としての本来の役目になる。
背筋が伸びた。肩が開き、胸が前へ出る。足元には、横木の影が一本の黒い線になって落ちていた。顎を引き、アルはその線を踏み越えて横木の下へ入る。木肌が頭の上を過ぎ、背後で石突きがもう一度地面を突いた。正面から朝の冷気が顔に当たり、後ろから足音が揃ってついてくる。靴底の下で、乾いた土がかすかに崩れた。
◇◇◇
日が高くなるにつれて、足元の影は縮んでいった。検問が背後の曲がり角に隠れる頃には、外套の肩に日が当たり、布越しに熱が染みてくる。影は靴のまわりにまとまり、踏み出す足と一緒に揺れた。外套の下で背に汗が一筋伝い、アルは襟元を指で引いて首筋に風を入れる。
街道の両側には、打ち捨てられた畑が広がっていた。畑だった区画には膝の高さまで雑草が伸び、背の高い草の茂る筋と地面を這う細い草が覆う筋とが、畝の向きに沿って縞になって畑を走っている。どこまでが畑でどこからが道端なのかは見分けがつかない。踏み固められた街道の土だけが、畑のあいだを細く先へ延びている。道の際の草に足を踏み入れれば靴の甲に葉が貼りつき、青臭い匂いが立った。匂いは昼に近づくほど濃くなり、喉の奥に残る。畑の向こうには林の縁が低く横たわり、その上の空は、検問を出たときより白く高く見えた。街道の先は、遠くで緩く折れて草の中に隠れていた。
鳥の声はあった。小さな鳥の影が草の上を低く横切り、どこかで短い声が上がる。遠い空でも、別の鳥が長く声を引いた。その声がやむと、風が雑草を倒していく音に替わった。風は畑を斜めに渡り、雑草は根元から一斉に伏して、裏返った葉が銀色に光る。鍬を打つ音も荷車の軋みもなく、人の手が立てる音は畑のどこからも返ってこない。自分の呼吸と外套の擦れる音まで、耳に届いた。その中を五人の足音が進んでいく。ガイルの背で大盾が小さく揺れ、リリアが水袋の口を締め直す。ミュカは手近な草の先を指で弾いて軽い音を立てながら、数歩先を行った。草から跳ねた虫が、アルの靴に当たって落ちた。
道沿いに石垣が崩れて残っていた。畑の縁を区切っていたらしく、腰の高さで途切れ途切れに続き、人の頭ほどの石が草の中にいくつも埋もれている。道へはみ出した一つをガイルの靴が蹴ると、草の根元で硬い音が跳ねた。通りすがりに、アルは石垣の角へ手を伸ばした。面には灰緑の地衣が薄く広がり、欠けて丸くなった角はざらついている。日の当たらない側にだけ朝の冷たさが残っていた。崩れた口には石の断面が並び、大きな石を下に据えて、上へ向かうほど小さな石が重ねてある。ローエンやカルデンの石垣と、同じ形に積まれて見えた。指を離して、そのまま歩き続ける。
石垣の切れ目で、ミュカが足を止めた。草を弾いていた指が離れ、軽い音がやむ。アルも数歩手前で立ち止まった。リリアとカリムの足音も、そこで途切れる。ミュカは草の向こうを見ていた。耳が風に向いて細かく動く。その先でも、草は波打ちながら街道に沿って続いている。
「向こうも同じなんだね」
ぽつりとこぼれた声が、風に流される。ミュカの口の端は上がっていない。
ガイルは前を向いたまま、足を止めなかった。アルの横を過ぎ、ミュカの脇を抜けていく。背の大盾が革帯を鳴らした。
「同じでも、敵だ」
雑草が同じ向きに倒れ、また起き上がる。誰も続けなかった。先を行くガイルとの間が、その足の運びのぶんだけ開いていく。
ミュカは口を結んだまま、耳を前へ向けた。小鼻が動き、膝が沈む。
「見てくる」
言うなり、街道の先へ向かって草の中へ踏み出した。足は音を立てず、草を倒さない場所を選んで、足を置いていく。アルは頷き、その背を見送る。
ミュカの背が遠ざかり、最後に耳の先が草の中へ沈んだ。草の揺れた筋は、風が渡った筋にすぐ紛れていく。残った四人のあいだには、揃わない足音だけが続いていた。
◇◇◇
街道から外れた窪みの底で、四人は草の陰に身を沈めていた。縁に切り取られた空は狭く、日は西へ寄り始めている。
ガイルは大盾を背負ったまま片膝をつき、その陰でカリムが腰の帳面に指を添えている。開こうとはしない。リリアは窪みの壁に背を預けて座っていた。
草がざわつくと、そのつど上へ目が走る。風だった。次の音も風だった。遠くで金具が一度鳴り、途切れる。ガイルが唾を飲む音が、耳のすぐ近くで鳴った。リリアの外套の裾が土を擦り、すぐに静まった。
頭上の草が一本、周りと逆に揺れた。ガイルの肩が持ち上がる。虫だった。羽音が草の奥へ遠ざかる。
ガイルの膝が土に沈み、鎧の革が鳴った。顔をしかめ、そのまま動きを止める。カリムは帳面の角を親指で押さえ、離し、また押さえた。見上げた空から、白さが抜け始めていた。
アルは剣の柄に掌を乗せたまま、握らずに待った。汗ばんだ肌に、柄の革が吸いつく。膝から這い上がった冷えが、腿の付け根に届く。目は縁の一点から動かさない。草の先が揺れるたびに、息が止まった。
草が割れた。
ミュカが転がり込んできた。土を蹴って底で止まり、両手を地面についた。アルが差し出した手を、ミュカは払わずに掴んだ。引き起こされても、肩は大きく上下したままで、喉から掠れた息が漏れている。尾の先に草の種が貼りついていた。
「いた」
それだけ言って息を継ぎ、ミュカは顔を上げた。
「魔王軍。街道沿い。隊がいる」
「部隊、か……」
ガイルが低く繰り返す。
「数は」
アルが聞いた。
「たぶん、三十ぐらい」
「気づかれたか」
ミュカは首を振った。
「風下から回ったから、大丈夫」
「どこにいる」
「この先、街道が折れたあたり。道を見下ろせる高みがあって、そこに見張りが立ってる」
ミュカはその場に屈み込み、土に指を突いて街道の線を引いた。折れ目の脇に短い横棒を置き、その下を指先で叩く。
「隊はここ。街道の脇。その裏に水場」
「街道を行けば」
「丸見え」
アルの問いが終わる前に、ミュカが答えた。
「あっちは草が低いから。窪みを伝って戻ってきた」
「武装は」
ガイルが口を挟んだ。
「槍と剣。あと、みんな角がある。大きいのも混じってた」
ミュカは引いた線の上に指を置いた。
「休んでるのに、誰も座り込んでない」
「見張りは、ずっと同じ奴か」
アルは土に引かれた横棒へ目をやった。ミュカの指が、そこへ戻る。
「ううん。決まった間で入れ替わってる。どのくらいの間かは、まだ分からない」
言い終えると、ミュカの息がようやく整った。頬が少し緩む。
「ちゃんと交代してた。私より真面目」
「それなら大抵の奴は真面目だろ」
ガイルが鼻を鳴らした。ミュカの耳が後ろへ倒れる。
「うるさい」
「褒めてるんだよ」
「ミュカ」
カリムが呼んだ。
「水場の、さらに奥は。道はありましたか」
「ある。奥へ抜けてる」
「……そうですか」
カリムは目を伏せ、一度だけ瞬きをした。窪みの外で草が鳴り、また静まる。
「見通しの利く高み。水。逃げも呼び込みもできる道」
一語ずつ間を置いて言う。声は低く、窪みの壁の外へは出ない。
「通りがかりの隊なら、低い所で休みます。ここは高みを取っています」
言葉を切り、息を一つ入れる。
「……前進拠点です」
「後続まで来るってのか」
「ガイル」
アルが止めた。声が草の上へ漏れかけていた。ガイルは口を閉じ、膝に置いた拳を開いて、また握る。それから膝をついたまま、笑いの抜けた顔でアルへ向き直った。
「アル。勇者に任じられたときの神託のとおりです」
アルは頷いた。
「ああ。魔王を討つなら、ここが最初だ。あの部隊を叩く」
言い切って柄を握り込むと、指の先まで血が回った。耳の奥で鼓動が鳴り、息が深く入る。腿の冷えは、もう感じなかった。
「おう。そう来なくちゃな」
ガイルの声に、ミュカの尾が土を叩いた。
「はい」
低く応じたカリムが、腰の短い刃物の位置を確かめる。
リリアは何も言わなかった。肩掛けの鞄の紐を引いて締め直し、蓋を開けて中を覗く。指が中の物を一つずつ押さえていく。アルの目の端で、蓋が閉じた。
ミュカが窪みの縁を顎で指した。
「あそこまで這えば見える。自分の目で確かめて」
「行く。ミュカ、前を頼む。ここからは声を出すな」
アルが言うと、ミュカは頷いて短刀の鞘を押さえた。
五人は身を低くして、窪みの壁に手をかけた。ミュカが先に這い上がり、アルがすぐ後ろを追う。カリムが外套の裾を腰へたくし込み、ガイルは背の大盾が草より高く出ないよう、膝で土を送って続いた。盾が草を擦る音が立つ。
「くそ、引っかかる」
ガイルが喉の奥で毒づいた。ミュカが振り返り、指を唇に当てる。ガイルは頷いて動きを止めた。
上へ行くほど、草は低くなる。横に並んだミュカが、アルの後ろ頭へ掌を乗せて押し下げた。
アルは腹這いになり、縁の草を指で分けた。顎の下の土が冷たい。湿った土の匂いが鼻に入り、草の根が頬を擦る。右にミュカ、左にガイルの肩がある。カリムは一歩下がった位置で、草のあいだから目だけを出している。最後に、リリアが鞄を胸へ抱えて追いついた。
草の隙間に、街道が見えた。白い土の帯が、緩い高みの足元を回って先へ消えている。
高みの上に、人影が二つあった。どちらも動かない。地面に立てた槍は揺れもせず、穂先だけが傾いた日を受けて白く光る。
その下、街道の脇に隊がいた。腰に剣を下げた兵たちが、ひと塊になって立っている。端のほうで、一人が槍を持ち替えた。どの頭からも角が突き出し、土の上に影を長く落としている。
低い話し声が、風に乗って切れ切れに届く。
左で、ガイルの大盾の金具が鳴った。今度は近い。
草を分けたアルの指が、その形のまま止まった。
高みの上で、見張りの一人が首を巡らせた。その顔が、こちらへ向きかける。




