第6話:「相手が人であるとき」
外套の裾で乾いて固まった染みが、一歩ごとに脛を擦っていた。岩場を抜けた道は固く乾いた土に変わり、膝までの草のあいだを緩やかに下って、窪みの手前で途切れている。その窪みの底から、悲鳴が上がった。
男の声だった。叫びは喉で掠れ、半ばで切れた。あとに続く声はなかった。
アルは走り出した。草が腿を叩き、隠れた轍の縁へ爪先が引っかかりかける。下りの勢いで足が前へ引かれ、腰で跳ねる鞘を左手で押さえた。先を行くミュカの耳は前を向き、尾が真後ろへ伸びていた。右ではガイルが重い足音を響かせながら、革帯を肩から落として、背の大盾を前へ引き回す。金具が鎧の胸を打って鳴った。後ろからは、リリアとカリムの足音が遅れて追ってきた。踏み折られた草の青い匂いが鼻を抜け、胸の内側で息が熱を持ちはじめた。
窪みの縁を越えると、底の道が見渡せた。旅装の者が七人、轍の深い道の真ん中に身を寄せ合っている。背負い籠を胸の前へ抱え込む者もいれば、布で包んだ荷の上に覆いかぶさる者もいた。どの背も地面のほうへ丸まり、覆いかぶさった者の肩は息のたびに小さく跳ねていた。倒れた籠が一つ、口を横へ向けて転がり、こぼれた布が土に広がっていた。その周りを三人の男が取り囲み、こちらへ背を向けている。底では物音が絶え、聞こえるのは擦れた息遣いだけだった。斜面を駆け下りる足の下で、草が根元から倒れていく。男たちの背が見る間に大きくなった。
最初に目に入ったのは、背中と、前へ突き出された手だった。当て布がされた上着の肩は尖り、袖口から出た手首は細い。うなじには腱が浮き、擦り切れた裾の下で靴の踵が割れている。背の高い一人は袖が肘までしかなく、小柄な一人は丈の余った上着の裾を腰紐で絞っていた。鎌の反りを残したまま打ち直された刃を握る男が二人。研ぎの跡が粗い筋になって残り、握りの木は削りかけのまま、手垢で黒ずんでいる。残る一人の手には、鍔の形から兵に支給された型と分かる古い剣があった。柄頭の革は剥げ、刀身は赤茶けた錆に覆われて、握る手がその重さを持て余していた。切っ先が揺れていた。
相手は人だ。
輪には隙があった。三人で囲むには通行者が多く、立ち位置の間が大きく開いている。男たちの体は硬く、次に誰が動くのかを互いに待っていた。肩が荒い息で何度も上下している。足は開いて立っているのに膝が伸びきり、切っ先はどれも囲まれた者の胸より低いところを向いていた。どこからでも踏み込める。足はもう、その隙へ踏み出しかけている。頭の隅だけが遅れて引っかかった。何かが合っていない。
籠の縄へ伸びた手が、結び目を探して滑った。引いた拍子に持ち主の体が傾き、盗る側のほうが慌てて指を離す。別の男が足元の袋を引きずり出したが、刃を持った手が邪魔になって抱え直せず、袋は土の上へ転がった。屈みかけた背に、仲間の肘がぶつかる。袋を落とした男が、隣へ言った。
「おい」
「分かってる。黙ってろ」
「荷を置け! 置いて、さっさと……」
右端の男が叫んだ。声は途中で裏返り、続く言葉が喉に詰まって息に変わった。唾を呑む音がして、口がもう一度開く。
「動くな。動いたら、斬る……ぞ」
籠を抱えた一人が取っ手を握り直すたびに、編んだ蔓が軋む。籠の底から垂れた布の端が、土を引きずっていた。荷の陰から誰かが、駆けてくるこちらへ掌を向けた。唇が動いたが、音にならない。その隣では一人が膝を折り、土に座り込んだ。
古い剣を提げた男が、間近に迫った足音に気づき、振り返った。
「来るな! 来る、来るなって……」
残る二人も肩越しにこちらを見た。三人とも頬骨が浮き、目ばかりが大きく見えた。視線は迫るアルたちと足元の荷とのあいだを行き来して、どこにも定まらなかった。汗と古い布の匂いが、もう鼻に届いた。
「え」
ミュカが声を漏らした。
アルの少し前を走っていたミュカの足が、そこで乱れた。並びかけると、三角の耳が前へ立ったまま固まり、腰の短刀へ伸びていた手が柄の手前で止まっているのが見えた。横顔の目が男たちの顔を順に追い、また最初の顔へ戻っていく。口が開きかけて閉じる。尾の先が下がった。一拍遅れて抜いた短刀の切っ先は、下を向いたまま上がらない。
アルはそれを目の端で捉え、視線を前へ戻した。ミュカの横を抜けると、囲みの輪が目の前に迫った。
「ガイル、右を塞げ。逃がすな」
言いながらも足は土を蹴り続けていた。返事の代わりに、盾の縁が草を押し分け、土を擦る音が右から詰まってきた。
アルは剣を抜きながら踏み込んだ。
靴底が土を噛み、外套の裾が脛を打つ。最も近い男が向き直りかけた。アルより頭一つ低く、見開いた目は剣の動きを追えていなかった。返した剣の腹がその手首を打ち、握られていた刃が足元へ落ちて一度跳ねた。枯れ枝を叩いたほどの手応えしか返ってこない。掌がそれを受け取るより先に、体は次の男へ向かっていた。
手首を押さえて膝をついた男の脇を過ぎる。古い剣の男が後ずさり、踵を草に取られた。その肩をつかんで足を払い、地面へ叩き伏せる。掌に、骨の形がそのまま当たった。男は腕も出せず、短い息を吐いた。手から抜けた剣が、届かないところまで滑っていく。左手を離すと、仰向けの胸だけが激しく波打っていた。三人目はもう背を向け、斜面へ走り出していた。その行く手を、回り込んでいたガイルの大盾が草ごと塞ぐ。
男は盾の面に胸を打ち、尻から土に落ちた。
音が引いていった。三人目の倒れた鈍い響きが消え、草を踏む足音も絶える。窪みの底では、荷を抱えて伏せた者たちの浅い息と、めくれた布の端が風に鳴る音しかしない。転がった籠からこぼれた袋の紐が、轍の底に垂れている。踏み込んだ脚の腿には熱が残り、吸う息が胸の底で荒かった。
布の包みに覆いかぶさっていた者が、ようやく首を持ち上げた。目は剣から道に崩れた男たちへ、五人の足元へと移る。アルの顔には上がってこない。立ち上がる者はいなかった。地面についた手が、土をつかんだまま離れない者もいる。
アルは剣を右手に下げたまま、足元を見下ろした。最初に打った男は地面に両膝を落としたまま背を丸め、額が土に触れる近さまで首を垂れている。その膝の先に、打ち落とした刃が転がっていた。爪先で道の脇へ払うと、草の根に当たって止まる。少し離れた草の中には、古い剣が半ば埋もれていた。仰向けの男の腕は、胸の上に投げ出されたままだった。背後のミュカは足音ひとつ立てない。
ガイルが腕から抜いた大盾を土に立て、三人目の前に立った。尻をついた男は、膝を胸へ引きつけて肩を震わせている。肘を取って立たせ、男の腰に提げてあった縄の束を外し、手の中で振りほどく。
「動くなよ。すぐ済む」
体を返させて後ろへ回した両手首に巻くと、毛羽立った縄が食い込むたびに男の肩が竦んだ。縄尻を結び、引いて確かめる。肘を放すと、男はその場で膝から崩れ、うずくまった。
ガイルは縄の続きを引いて、刃を落とした男の前に屈んだ。男は押さえていた手を、言われる前に背へ回す。手首の内側が赤く膨れ、指が曲がりきらずに開いていた。ガイルはその上に縄を重ねて巻き、結び目を引き絞る。
「何があろうと、襲っていいことにはならん」
男は土に目を落としたまま顔を上げなかった。唇を結び、手首は動かさず、指だけが一度握られて開く。
アルは剣を鞘に戻した。切っ先を鞘口に合わせて滑らせると、鍔が当たって止まった。長く息を吐く。右の掌がまだ軽い。守るべき相手が街道にいて、襲う側がいる。それだけだ。
窪みの縁から斜面の草、轍の先へと、順に目を走らせる。斜面の草が乱れているのは、五人が駆け下りた筋だけだった。潜む者の気配はない。
仰向けのままの男のそばに屈み、襟元を取って引き起こすと、手を放した。男は喉の奥で咳き込み、座ったまま体を二つに折る。頬についた土が、咳のたびに歪んだ。そこへ回り込んだガイルが、両手首をまとめて後ろへ取り、残りの縄を回した。縛り終えると、三人を道の脇の草に並べて座らせ、結び目を一人ずつ指で押さえていく。
アルは立ち上がり、荷の陰に固まった者たちへ声を向けた。
「怪我をした者はいるか。荷が足りなければ言ってくれ」
顔を見合わせた者たちのうち、一人が首を横に振る。別の一人は布の包みを開き、中を指で探ってから、また結び直した。
リリアは斜面を下りきったところで足を止め、鞄の紐に手を添えたまま、草に並んで座る三人のほうを見ていた。
カリムは倒れた籠を起こし、土に広がった布を拾って畳んでいた。付いた土を指で払い、角を揃えてから、持ち主の腕へ一枚ずつ戻していく。肩から落ちた長い髪を片手で背へ払い、轍に垂れていた袋の紐を拾って口を縛り直したところで、目を上げた。
「カルデンの守備隊に引き渡しましょう」
背後で、短刀が鞘に収まる乾いた音がした。目をやると、ミュカが柄に手を残したまま口を結び、草に座る男たちの背へ顔を向けている。
荷を受け取った者は、それを胸に抱き直してから、背負い籠の底へ押し込んでいく。革紐を肩に掛け直す者の手が、細かく震えていた。戻ってきた布の端を握りしめたまま、しばらく指をほどけない者もいる。一人が五人のほうへ頭を下げかけた。縛られた男たちの顔が目に入ったところで、首がそれ以上下がらなくなる。そのまま顔を背け、肩をすぼめて歩き出した。ほかの者も三人のほうへは目を向けずに続き、カルデンの方角へ先に進んでいく。足の運びが早い。荷が擦れる音と足音が、轍の先へ細く遠ざかる。アルはその背を見送った。
荷を抱えた者たちが目の前を行き来するあいだも、ミュカの顔は男たちの背から動かなかった。
窪みの底には踏み倒された草と、靴底の形に潰れた土が残った。ガイルが大盾を背に回して革帯に腕を通し、縄の余りを左手にまとめて握る。
「立て。足は縛ってない。自分で歩け」
三人目の肘を引き上げると、男たちは膝を立て、草の上から腰を上げた。引かれた三人目の膝が一度折れ、縄に支えられて踏みとどまる。後ろ手に縛られたまま、轍の上に縦に並んだ。
ガイルを先頭に、列が動き出した。鎧の継ぎ目が鳴るたびに、握られた縄がたるんでは張る。手首を打たれた男は列の真ん中で、アルはその隣に付いた。後ろにはミュカ、さらにリリアとカリムの足音が続く。縛られた三人の靴が乾いた轍を踏むたびに、土の粉が低く舞った。後ろ手のまま肩だけが前へ傾いている。道の先では、通行者の背負い籠が草の際で小さくなっていった。
土を踏む音だけが続いた。風が草の先を一方へ倒しては戻していく。隣の男は伏せた頭を上げない。アルの目の高さから見えるのは、乱れた髪の天辺と、土の粉をかぶった靴の先だけだった。その口が、誰に向けるでもなく開いた。
「……畑が焼けたんだ」




