第4話:「塞がれた街道」
丘のあいだで、荷車の列が止まっていた。先頭の荷車はこちらへ向いたまま、どの車輪も深い轍に沈んで動かない。列の末尾は坂の下の曲がり角を折れ、丘の陰に隠れている。荷を留めた紐は緩んで垂れ、片側へ傾いた積み荷を、直そうとする者はどこにもいなかった。
道は坂へ入ったところで両側がせり上がり、草の薄い斜面が左右から迫ってくる。道の縁に伸びた草が靴の外側を撫で、足を出すたびに靴底の下で土がずれる。背後では、歩いてきた野がもう見えなくなっている。先頭のガイルが歩幅を落とすと、後ろでミュカの足も遅れた。誰も口を開かず、砂利の擦れる音だけが、列のほうへ下る道に続いている。
坂を下るうちに、甘い匂いが漂ってきた。その底には饐えた酸味が沈んでいる。荷台が近づくと、荷を覆う布の端が黒く湿っているのが見えた。息を吸うたびに、匂いが鼻の奥へへばりつく。ミュカが手の甲で鼻を覆い、耳をぺたりと寝かせる。アルも喉の奥が縮み、息を浅くした。
荷車の陰には男たちが座り込んでいた。どの手も棒を握ったまま、指の節が白く浮いている。頬は削げ、目の下には黒ずんだ窪みができていた。額に巻いた布へ、血を黒く滲ませている男もいる。車輪に背を預けて顎を胸へ落とした男の手からも、棒は離れていない。若い男は棒の先で地面を引っかいては、同じ場所をなぞり返していた。話し声はなく、誰かが唾を呑む音がひとつした。五人へ顔を向ける者はいても、立ち上がる者はいない。
列の手前で、アルは足を止めた。車輪の軸の高さに、縄が一本、道を横切って張られている。両端は道の縁の杭に結んである。その両脇の斜面には石が積まれ、左右から道を見下ろしている。縄の向こうの荷台のまわりにも同じ石が転がり、縁の板が一か所、割れて内へめくれていた。踏み荒らされた草の筋が、石の山の裏から上へ続いていた。ガイルが半身でアルの右に並び、リリアが左に付く。いちばん後ろで、カリムの足音が途切れた。
上のほうで、草が揺れた。
風もないのに分かれた草のあいだを、灰緑色の姿が前屈みのまま二本の足で駆け、茂みの陰へ滑り込む。背丈は人の腰ほどしかない。体の割に頭が大きく、毛のないその横に小さな耳が張りついていた。
ゴブリンだ。茂みの縁をつかむ指は長く、骨ばった手足は節ばかりが目立つ。別の茂みからも、腹の突き出た姿が立ち上がった。小さく黒い目が、葉のあいだからこちらを覗いている。
草の中を、細かい足音が走り抜けていく。ガイルが背の大盾へ手を伸ばし、途中で止めた。
甲高い声が上がった。叫びが別の方角からも返り、小石がぱらぱらと転がり落ちてくる。足元まで来たひとつが、アルの靴先に当たって止まった。男たちは棒ごと腕を胸へ引き寄せ、荷車の陰で身を縮めた。
小石の降る中へ、荷車の陰から男がひとり飛び出した。縄の脇を抜け、肩に石を受けながら、こちらへ駆けてくる。座り通した膝が笑い、体が左右に振れる。石に爪先を取られてつんのめり、それでも前へ足を出す。
アルの前で足がもつれ、男は袖にしがみついた。額の髪は汗で束になり、口の端には乾いた泡がこびりついている。ひび割れた唇が開く。
「五日です。もう五日、動けていない」
袖にかかった指の震えが、腕を伝ってアルの肘まで届いた。見開いた目の縁は赤く、瞬きをしない。男は口を開けたまま、その先を継げずに喉だけを鳴らした。つかまれた袖ごと、アルの腕が下へ引かれる。頭の上で、また喚き声が上がる。
袖をつかむ手を、リリアが横から取った。肩に手を添えて指をほどかせると、男は膝から崩れ、地面に両手をついた。男の指はつかんだ形に曲がったままだった。
ミュカは斜面を見上げていた。三角の耳が小石の落ちる音をたどって左右へ動き、上を向いて止まる。
「上に十八。左の茂みにもう少し」
言われて目を上げると、草むらにも茂みの奥にも、灰緑色の頭がいくつも見えた。斜面の上の一つが草をかき分け、縄の前に立つ五人をうかがう。
ガイルが大盾を肩から滑らせ、腕に通して胸の前へ構えた。縁越しに上を仰ぎ、鼻から息を抜く。
「ブロンズ級だ。数だけだな」
下ろした盾の下端が地面を打ち、乾いた音が斜面に跳ね返る。座り込んだ男たちが顔を上げた。腰を浮かせかけた男が、棒を持ち直してまた腰を落とす。視線はガイルの肩と斜面のあいだを行き来するだけで、握った指は開かない。膝をついた男の背が、荒い息に合わせて上下していた。
ミュカは口の端を吊り上げ、足踏みして肩を回した。尾が左右へ大きく振れ、耳の先まで跳ねている。
アルは剣の柄に手を置き、斜面の左右と縄を順に見た。縄までの足場を目で測る。右の石の山の根元は土が緩く、左は茂みが近い。縄の下の土は踏み固められ、石も少ない。
「縄を切る。ガイルは正面、ミュカは上、カリムは左」
ガイルが盾を押し出して正面へ体を入れ、ミュカが身を低くして上へ目を据える。男のそばを離れたリリアが、アルの後ろへ付いた。
カリムが腰の帳面にかけていた指を離し、左の茂みへ目を移す。
「承知しました」
返事のあとも、カリムの唇がかすかに動いていた。
アルは縄へ向かって踏み出した。靴底が土を噛む。右の斜面で、石の山がぐらりと傾いた。
山のいちばん上の石が浮き、下の石とこすれ合って鈍い音を立てる。斜面の上はいつのまにか静まり返っていた。踏み込むたびに、目の端で山の傾きが大きくなる。縄までの数歩が、なかなか詰まらない。揺れが地面を伝い、縄の上で砂粒が跳ねた。列のほうでは、男たちの口が開いたまま固まっている。柄にかけた掌に汗が滲む。横でガイルの盾が地面を擦って踏ん張る音がし、後ろでリリアの足が土を踏み直した。
その刹那、左の茂みが燃え上がった。
悲鳴が斜面の上へ広がった。燃える茂みから小さな体が次々と転がり出て、頭を抱えたまま草の中へ潜り込む。左では火が茂みから斜面を這い上がり、奥でも金切り声が重なった。
右手の山の隙間に、灰緑色の肩が並んで押し当てられていた。裏から、こちらの足元めがけて押し出している。山が崩れた。浮いた石が縁を越え、下の段を巻き込んで道へなだれ込んでくる。鈍い音が足の裏まで響いた。ガイルが踏み込み、構えていた大盾を前へ突き出して腰を沈めた。
石は大盾の面で砕け、欠けた破片が鎧の肩を削って後ろへ飛ぶ。続く石を肩で押し返し、支える腕が沈んでも足は下がらない。山の裏から跳び出してきたゴブリンを、盾の縁が横から弾き飛ばした。その脇を、アルは走り抜けた。緩い土に足を取られ、踏み直して縄へ詰める。
頭上の斜面を、ミュカが駆け上がる。腰から抜いた短刀が茂みの縁で低く払い、うずくまっていた一体が草をなぎ倒して滑り落ちていく。ミュカが体をひねるたびに、茂みの奥がざわりと波打つ。
縄は目の前にあった。アルは剣を抜き、勢いを殺さず振り下ろす。張りつめていた縄が杭のあいだで弾け、両端が地面へ落ちて跳ねた。背後で、右の斜面の草が鳴った。振り向いた顔の前へ、長い指が肩口を狙って伸びてくる。アルの剣が、その先のゴブリンの頭を捉えた。
ゴブリンは縄の上へ落ち、動かなくなった。叫びが裏返る。草の中の頭がその体を見下ろして固まり、じりじりと後ずさった。山を崩した群れが真っ先に草を割って逃げ出し、つられて左の茂みも右の斜面も、丘の向こうへ散っていく。斜面の中ほどで、ミュカが短刀を下げて足を止めた。
叫びが絶えた。
縄の切れた道の向こうで、棒が土の上に転がった。荷車の脇で膝を抱えていた男が、持っていた棒を放り出して立ち上がる。口から声とも呻きともつかないものが漏れ、隣の男の腕を揺さぶった。その男もつられて立つ。あちこちの荷車のそばで、しゃがみ込んでいた男たちが身を起こしていく。
額に布を巻いた男は立った拍子によろけ、仲間に腕を支えられて、顔をくしゃくしゃにして笑った。棒にかけた指が離れない若い男は、もう片方の手で自分の指を一本ずつこじ開けては、肩を震わせている。車輪にすがって声を上げて泣く男がいる。その奥では、抱き合った者どうしが互いの背を叩き合い、荷台へよじ登った男が両腕を突き上げて吠えていた。笑い声と泣き声が混ざって、列の端から端へ走った。
「通れる! 通れるぞ!」
列の後ろで声が上がった。
縄のこちら側では、袖にしがみついてきた男が、まだ土に両手を置いたままでいる。顔だけを起こし、荷台にかかった布の、黒く湿った端を見ていた。つかんだ形に曲がった指が、地面の上で動かない。
斜面を滑り降りてきたミュカが、最後は跳んで道へ下り、短刀を握った手を頭の上で振り回す。腰の後ろでは、尾がちぎれんばかりに暴れていた。
「ねえアル、見てた?」
剣を収めたアルが頷くと、ミュカはその腕をつかんで激しく揺すった。されるがままのアルの頬も、いつしかゆるんでいる。ミュカの放した拳が、ガイルの大盾を叩く。ガイルは縁を握ったまま、肩を揺らした。
リリアは切れた縄をまたぎ、血の滲んだ布を額に巻いた男の前に立っていた。それをほどかせ、傷口へ掌を当てる。その手が離れたとき、裂けていた皮膚は薄く塞がっていた。
荷台の脇で、男たちが荷の覆いをはぎ取った。途端に、重く湿った匂いが道へ流れ出す。舌の根に苦みが乗った。男が染みの浮いた袋を持ち上げると、底から滴った汁が袖を濡らした。男は拭いもせずに、袋を道端の草の上へ下ろした。袖で顔を覆い、背けたまま運ぶ者もいる。足元の草が汁を吸って暗く濡れていく。さっきよろけていた男も、口を固く結んで次の袋の下へ肩を入れる。別の男が樽を転がしてきて、その横へ据えた。袋が草に落ちる音が、間を置いて続く。声を掛け合う者はいない。
ミュカが荷の山のそばまで駆け寄り、男たちへ向き直った。
「もう大丈夫だよ! これでやっと」
声が途切れた。ミュカの目は道端に増えていく荷へ向いたまま動かない。耳が荷のほうへゆっくり傾いた。短刀の切っ先が、地面へ下がった。ガイルの肩も止まっていた。荷の山から目を離せないまま、アルの頬からゆるみが引いていく。
列の後ろから、馬が引かれてきた。毛艶の落ちた馬は首を垂れたまま、先頭の荷車の前へ回された。綱を掛ける男の手は震え、結び目が定まらず、同じ場所をやり直した。繋がれた馬が前脚で土を掻く。ガイルは大盾を背負い直し、散った石を足で道の端へ寄せる。切れた縄の端も、草の中へ蹴り入れた。
先頭の車輪が回った。石を噛む音を立て、轍の中から前へ出る。綱が張り、馬の背が揺れて、後ろの荷車が順に動き出した。列が坂の上へ向けて進み始める。荷台の板が一枚ずつ、アルの肩先をかすめていく。継ぎ目には、固まった泥が筋になって残っていた。
荷台の上からも御者台からも、通りすがりに頭が下がる。荷台の縁につかまった男が、拳で目元をこすった。
「助かった」
「恩に着ます」
低い声がいくつも重なる。荷台の上の男が、五人のほうへ棒を高く掲げてみせた。ガイルが片手を挙げて応える横で、カリムとリリアも会釈を返した。
最初に駆け寄ってきた男は、その輪に加わらなかった。地面についていた手の土をそのままに立ち上がり、道端に積まれた荷のほうを見たまま、前を過ぎる荷台へ体を引き上げる。アルの袖にはつかまれた皺が寄ったままだった。
列の半ばで、年かさの男が御者たちへ手で出立の合図を送っていた。男は荷車の脇を離れずにアルの前で足を緩め、頭を下げた。白髪の混じった髭が顎を覆い、目尻の皺が深い。
「助かりました」
男は足を止めないまま、声を落とした。
「この先の害獣は、もっと質が悪いのが出る。……狼です。人を狙って、待ち伏せる」
ガイルの手が背の大盾の縁で止まった。
「狼」
ミュカの耳が坂の下へ向く。アルは男に顔を向けた。
「ありがとう。道中、気をつけて」
男はうなずき返し、荷車と並んで歩き去った。
列は坂の上へ遠ざかっていく。先を行く荷台の上で、五日と言った男の顔だけが、後ろの道端を向いていた。荷車の背が小さくなり、最後の車輪の音が聞こえなくなるまで、アルはその場で見送った。
左の茂みの焼け跡から、細い煙が上がっていた。アルは坂の下を振り返った。ガイルが先に立ち、短刀を収めたミュカがその横へ並ぶ。煙から目を戻したカリムが、リリアと後ろに付いた。五人は坂を下りはじめた。道端の荷の脇を通ると、重い匂いが肩口にまとわりつく。
ミュカの耳だけが、ずっと曲がり角のほうへ立っている。




