第22話:「一番危ないところ」
アルは陣の端の杭に靴の脇を擦りつけ、乾きかけた泥を削り落とした。脛から下にこびりついた分は板のように固まり、膝を曲げるたびに外套の裾を引っ張る。削れた欠片が、杭の根元で粉になって崩れた。
雨が上がって道が戻ると、ミュカが先に立って街道を外れ、大きく回り込んできた。
日はまだ高かった。拠点のあった高みの下の斜面には、会戦のあとで夜を越した焚き火の黒い跡が残っている。その奥に並ぶ天幕はところどころ張り綱だけを残して歯抜けになり、空いた地面を荷車が埋めていた。荷台には負傷兵が並べて寝かされ、歩ける者は仲間の肩を借りて、国境の側へ向かう道へ流れていく。車輪の軋みが途切れず、風が膿と汗の匂いを運んでくる。荷を引く輜重の男が、顔を上げないまま脇を過ぎていった。
リリアは鞄を肩から下ろして荷台の列へ向かい、いちばん手前の兵の脇にしゃがみ込んだ。腿に巻かれた布に指をかけ、手早く外していく。ミュカは耳を前へ立てたまま、尾だけを脚に巻きつけている。
「軍って、先に行ったんじゃなかった?」
「行ったさ。で、戻されたんだろ」
ガイルは斜面の上の高みを見上げたまま言った。カリムは足を引きずって下がっていく兵の背を目で追っている。乾いた泥の殻を踏み割って、アルは天幕のあいだを奥へ進んだ。ガイルとミュカとカリムがあとに続き、兵の手当てを終えたリリアが鞄を拾って追いついてくる。水桶の底には濁りが沈み、柄杓が縁にかかったまま動いていない。縫い目の切れた布を縄で吊り直している兵が、アルの靴の先を見て手を止めた。
前衛隊の隊長は、いちばん奥の天幕の陰に立っていた。額には会戦で負った傷の布が、茶色く汚れたまま巻かれている。アルの顔を見つけると、背筋を伸ばして踵を揃えた。
「勇者様。補給が追いつかず、前へ出た隊が孤立しました」
隊長は額の布へ指をやりかけて、途中で下ろした。
「街道の先の起伏の陰で、後ろからの荷車が着く前に退路を切られました。魔族は正面では受けず、退きながら削ってきます」
ガイルが低く言った。
「それは、こちらが同じことを」
声はそこで切れた。
隊長は短く息を継いだ。
「勇者様には、これまでどおり遊撃で、崩れた箇所へ入っていただけますか」
「分かった」
アルが短く返し、リリアは負傷兵のもとへ引き返していった。四人は槍を並べた列のすぐ後ろの持ち場に就いた。
◇◇◇
日が西へ傾いて、斜面の影が陣の上まで伸びてきたころ、ミュカの耳がぴんと横を向いた。正面の起伏に魔族の姿はなく、槍の列も動かない。耳の先にあるのは、陣の脇に並ぶ輜重の列だった。
「あっち。足音が正面から外れてる」
ミュカが持ち場を離れて先に走り、ガイルが大盾を背負ったまま続いた。アルも剣を抜いて地面を蹴った。後ろでカリムの靴が土を叩く。肩越しに振り返ると、リリアは天幕の奥でまだ負傷兵の脇にいて、その背が見る間に小さくなる。
輜重の列は斜面の下へ続いていた。手前の荷車が横倒しになり、車輪を宙に向けている。荷台から火が噴き、積んだ袋の布が黒く縮んでいく。炎の奥で、魔族の影が揺れた。
ガイルがその脇へ飛び込んだ。下で、荷を引いていた男が脚を挟まれてもがいている。大盾を背から外して魔族のほうへ向けて地面に突き、空いた肩を荷台の縁の下へ入れる。低い唸りとともに重みが持ち上がり、男の脚が抜けた。
カリムは隣の一台の前に立ち、側板を這い上がる火へ両手を向けた。
「降れ」
その一台にだけ雨が降り、火が黒い煙になって細っていく。ミュカは火の脇を身を屈めて抜け、短刀を逆手に握って魔族の側面へ回り込んだ。
アルは熱を頬に受けながら駆け寄り、最初に斬りかかってきた魔族の剣を受けた。鉄の衝撃が腕を抜け、相手の体重が乗って踵が土を擦る。その肩越しに、列の奥で二台のあいだに空いた切れ目から、次の一隊が角を並べてなだれ込もうとしているのが見えた。
そこまでは、剣が届かない。組み合った魔族に背を向ければ、その場で斬られる。
相手の剣を右へ流し、胸を蹴って突き放した。切れ目の幅いっぱいに、土の壁が立つ像を頭に描いた。
「せり上がれ」
切れ目の土が一息に腰の高さまで立ち上がり、端から端までを横切る低い壁になった。先頭の魔族が腰を打ちつけて前のめりに止まり、後ろの者がその背に突き当たって、続く足が詰まった。
ミュカがアルの脇へ滑り込んだ。短刀の先を下げたまま、驚いた様子もなく尾を振っている。
「アルが魔法使うの、久しぶりに見た」
「毎回見せたら、ありがたみがなくなるだろ」
「自分で言うんだ」
ミュカが笑った。
土の壁の先で、影が一つずつ夕闇のほうへ下がった。アルが踏み出した先で輪郭は暗がりに溶け、草を擦る足音だけが遠ざかった。
ガイルは男の腕を肩に回し、陣の奥へ引いていった。
剣を下げて立つアルの前で、荷車はまだ燃えていた。車輪の縁が赤い弧になって浮かび、積んでいた袋の灰が火の粉と一緒に暗い空へ上がっていく。
◇◇◇
火を灯さない正面の闇から、魔族が穂先の届く際まで寄ってきた。触れる前に先頭が踵を返し、後ろの影も同じ足並みで引いていく。味方の兵がそれを追って前へ出た。靴底が固い土を擦る音が重なる。
その左の端で、列と斜面のあいだが空いた。引いたはずの影がいくつも、その隙間へ低く流れ込んでいった。
アルは剣を握って走った。ガイルとミュカは右の列に回っていて、声は遠い。
右の列の端で、カリムが片手を高く上げていた。
「光れ」
その手の上に白い光が浮き、寄る影の輪郭を闇から剥がした。
空いた幅は剣一本で受けるには広すぎた。アルはその隙間を土が塞ぐ形を思い描いた。
「せり上がれ」
足元の土が膨らみ、列の端から斜面の際まで伸びた。兵の腰に届く土の壁が、そこに据わる。
入りかけた影は、その壁に当たらなかった。先頭が壁の前で身を捻り、端を回って右隣へ流れていく。そちらにも、前へ出た兵の分だけ口が開いていた。
壁沿いに右へ駆け、口の開いたところへ入った最初の一人に剣を叩きつけた。続けて次の剣を弾く。
影は闇の底へ沈んだ。追わなかった。
列へ戻る途中、陣の縁でリリアが兵の脇に屈んでいた。肩の傷の上へ手をかざすと、裂けた肌が寄って閉じていく。足を止めずに通り過ぎた。
◇◇◇
眠った覚えのないまま、明け方になっていた。
斜面の下の低みに、白い霧が溜まっている。列を組んだ兵の目は、どれも前に据えられていた。離れた持ち場から、列の背後の草が一筋だけ寝ていくのを、アルは見つけた。風はなかった。
筋は列の背のすぐ後ろで途切れた。草の中から身を起こした魔族の剣が、端にいた兵の背に入った。前だけを向いていた列が、後ろから割れた。
「後ろだ! 向きを変えろ!」
ガイルの怒鳴り声が飛び、振り返ろうとした兵の足が絡まる。割れ目へ魔族が次々に入ってきた。踏み込んで最初の剣を受け、脇へ流す。その陰から別の一人の剣が伸び、左の二の腕の外側をなぞった。袖が裂け、濡れたものが肘へ向かって下りていく。
身を引き、その魔族の胸へ剣先を送って突き放した。左の肘を曲げるたびに、傷が引きつれる。
崩れた列のこちら側では、カリムが腕を前へ伸ばしていた。
「吹け」
いちばん近い魔族へ、正面から風が吹きつけた。先頭が腕で顔を覆い、足が止まる。
その奥の草に、なおも角の影が揺れている。アルはそちらへ顔を向けた。
「せり上がれ」
土が草を押し分けて奥へ走り、腰の高さで盛り上がった。壁が立ったとき、その前にはもう誰もいなかった。角の影は霧の側から大きく回り込んでいて、脇の草がざわりと倒れた。
抜けてきた一人の剣を、立ったばかりの土を背にして受けた。体ごと当たって押し戻し、続く一人の剣を跳ね返す。
ミュカが草の筋を追って駆け下りていき、ガイルが大盾を構えて兵の前に立ちふさがる。魔族は霧の濃い低みへ消えた。背を斬られた兵は草の上に伏したまま動かず、押し倒された草が青く匂った。
戻ってきたミュカが、息を弾ませて下を指さした。
「引いたよ。霧のほうに、みんな」
ガイルの右の上腕から、血が滴っていた。リリアが負傷した兵のあいだを抜けて駆けつけ、傷の縁に指先を添える。血の筋が止まり、ガイルは腕を曲げ伸ばして息を吐いた。リリアの手はもう隣の兵の背へ移っている。
次の兵へ向かう途中で、リリアの足が緩んだ。目がアルの左の袖にある。
リリアの視線がアルの顔へ上がり、もう一度腕へ落ちた。何も言わずに、倒れた兵のほうへ向かった。腕を伝う血はまだ温かかった。
◇◇◇
拭った剣はすぐまた汚れた。
日が高くなった。魔族は正面で押しては退くのを繰り返した。最初は穂先に届く前に、次は端の兵の手元を叩いてから背を見せる。そのたびに兵の列が一歩ずつ前へ出て、列と後ろの隊のあいだの土の帯が広がっていった。
アルは前の列と後ろの隊のあいだに立ち、寄せては引く動きを数えていた。何度目かで、魔族は引かなかった。
角を並べた塊が、広がった土の帯へ一点に集まって突っ込んでくる。その前に土の壁を思い描きかけたところで、先頭が左右へほどけた。両端の者が帯の縁を回り、兵の脇へ伸びていく。
アルの歯の隙間から声が漏れた。
「くそ、また回られる」
像を手放し、剣だけを構えて左へ回る先頭の前へ入った。受けた剣の衝撃が、裂かれた腕の傷まで響く。足が土を削って下がり、横から来た剣を肩で外す。帯の縁から、魔族が続けて入ってくる。両脇の兵がまとめて押し潰され、一人は膝から崩れ、もう一人は仰向けに倒れた。
相手の剣を弾き上げる前に、踏ん張った踵が滑った。体が横へ流れて片膝が落ち、直前まで立っていた場所を、ほどけずに来た一団の肩が通り抜けていく。
背後の隊の兵が叫んだ。
「持たねえ! 下がるぞ!」
その隊が一斉に背を向けた。
地に片手を突いて起き、抜けた魔族の背へ剣を伸ばす。届く前に、横から大盾が割り込んだ。ガイルが肩を入れ、その胸を面で押し返す。鉄を叩く音が耳の横で弾けた。
「代われ!」
盾の陰からガイルが怒鳴った。
その声を背に、足元の兵を跨いだ。さっきまで隣に並んでいた兵は、横たわったまま身じろぎもしない。その手は、土を掴む形で固まっていた。
左の隊の穂先が傾き始めている。剣を握り直し、そちらへ走った。すぐ脇で、運び込まれた兵が土の上に横たえられている。
◇◇◇
水桶の脇で、アルは剣を膝に載せ、布で汚れを拭っていた。左の袖は、乾いた血の上にまた血が染みて黒く重なり、腕を上げると硬くなった縁が皮に食い込む。近くで兵の呻きが続いている。
リリアは兵の脇腹に布を押し当て、両の手首まで赤く染めていた。その後ろにも、順番を待つ兵が土に座っている。ガイルは脇に立ち、カリムは帳面に筆を走らせていた。ミュカはアルの正面にしゃがみ、外した鞘を指に引っかけて回している。
ミュカが鞘を回す指を止めた。
「ちょっと休みなよ」
「休んだら誰が入る」
アルの手は剣を拭い続けている。ミュカの指が鞘を握り込んだ。
「知らないよ、そんなの。休まなきゃ倒れるでしょ」
剣の腹を擦る音だけが返った。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「……聞いてるだけじゃん」
リリアの手が、兵の脇腹を押さえたまま止まった。
「ミュカ……」
ミュカは膝を伸ばして鞘を腰へ押し込み、耳を伏せて陣の端の持ち場へ歩いていく。
ガイルが大盾の縁に手を置いたまま言った。
「俺が入る」
アルは剣から目を上げた。
「ガイルの持ち場は誰が埋める」
ガイルの手が盾の縁を掴み直し、踵が土にめり込んだ。
帳面の上で筆が止まった。
「軍は勇者を、穴の塞ぎ役として計算に入れています」
アルは頷き、剣の腹に布を当て直した。
カリムの肩の向こうに、陣の後ろへ下る道が見える。前を行く者の背に片手を添えた列がそこへ流れ込み、先頭が斜面の陰に消えた。それでも天幕のあいだから足を引きずる者が出てきては尻に継ぎ足されていく。
剣を半ばまで拭ったところで、陣の奥から声が飛んだ。
「右が割れます! 来てください、勇者様!」
前衛隊の隊長が、肩で息をしながら駆けてくる。剣を掴んで立ち上がると、左の腕が遅れてついてきた。
隊長とすれ違い、座り込んだ兵の肩を避けて、アルは前へ走った。




