第21話:「読める者」
一歩入っただけで、濡れた土の匂いが途切れた。
代わりに鼻へ入ってきたのは、石と、動かない埃の匂いだった。背中にはまだ湿りが張りついているのに、雨の音はもう外の側へ退いている。足の下で細かい砂が鳴った。
入口の内側は一段暗く、岩の天井が頭のすぐ上まで下りていた。
振り返ると、外は灰色に明るく、斜めに降る雨の筋が入口の形に切り取られていた。縁から落ちる水が、間を置いて砂を叩いている。
外套の裾から落ちた水が、足元に黒い点を作る。ガイルは背の大盾を下ろして近くの岩に立てかけ、外の光が尽きる境目まで歩いていった。そこに枯れ枝が転がっていた。埃をかぶって白茶け、吹き込んだ雨で端だけが黒く濡れている。
拾った枝を脇に抱え、腕が埋まったところで膝をつき、砂の上に組んでいく。太いものを下に敷き、細いものを立てかけて、隙間に折った小枝を差し込む。折るたびに、軽い音が低い天井に当たった。
「折り口が湿ってる。このままじゃ煙ばっかり出るぞ」
リリアが鞄を肩から外し、砂の乾いたところへ置いた。ミュカは外套を脱いで両手で絞る。絞り出した水が砂に吸われて、染みが広がった。
カリムが組み上がった枝の前に屈んだ。唇が動く。
「乾け」
低く短い声だった。枝の肌から白い湯気が立ちのぼり、湿っていた折り口が乾いた木の色に戻っていく。続けてもう一度、唇が動いた。
「燃えろ」
組み目の奥に橙の芯が立った。細い火が枝を舐めて隣へ移り、小さく爆ぜて炎になる。光が岩の肌へ広がり、外の明るさが一気に遠のいた。
「ついた!」
ミュカが火の脇にしゃがみ、絞ったばかりの外套を膝に広げる。
「ガイルの組んだとこ、斜めになってる」
「燃えりゃいいんだよ。黙って当たってろ」
「燃やしたのはカリムでしょ。ガイルは拾っただけ」
「拾う奴がいなきゃ、乾かすもんもねえだろうが」
ガイルが肩を炎へ寄せると、濡れた外套から白い筋が上がった。
「ほら、肩から煙出てる」
「煙じゃねえ、湯気だ」
「焦げ臭いよ」
「焦げてんのは俺じゃねえ。尻尾、火に入ってるぞ」
ミュカが跳ね起きて、尾を両手で抱え込んだ。毛先は火から離れていて、焦げ目ひとつない。
「嘘つき!」
「この前焦がしたばっかりじゃねえか」
ガイルが腹を揺すって笑い、その声が岩に跳ね返って奥へ響いた。ミュカは尾を抱えたまま、肩を震わせて笑い出した。リリアの口元もゆるんでいる。
アルは火の脇に腰を下ろし、右手を炎へ向けた。指が根元から順にほどけた。
ミュカが焚き火から枝を一本抜いた。
「奥、確かめてくる」
もう奥へ向いているその背に、アルは声をかけた。
「何かあったら呼べ」
「分かってる」
灯りが奥へ入り、壁に映った影が長く伸びてから角の向こうへ消えた。足音が遠ざかり、砂の鳴る音に混じって聞こえなくなる。焚き火が爆ぜた。
奥から、岩に擦れて丸くなった声が返ってきた。
「まだ続いてる」
ガイルが焚き火に太い枝をくべ、燃えている枝を二本抜いて、一本をリリアに渡した。受け取ったリリアが、焚き火を振り返る。
「火、置いていって大丈夫かな」
ガイルはいまくべた一本を足先で炎の奥へ押し込んだ。
「それだけくべたんだ。戻るまでは持つ」
アルは腰を上げて火のそばを離れた。最初の曲がり角で、外の明るさは消えた。次の角の先でミュカが枝を前へ差し出して待っていて、追いついた四人を確かめると、そのまま歩き出す。そのあとにアル、カリム、リリアが続き、最後尾にガイルがついた。三つの枝から上がる煙が低い天井に溜まり、焦げた樹皮の匂いが鼻の奥に残った。
道は進むほど狭くなった。右の肩が岩に触れ、外套の濡れた布が擦れて鳴る。岩は水を吸わず、押し当てた肩の跡も残らない。足の下の砂はいつの間にか硬い岩肌に変わり、踏むたびに靴底が高く鳴った。その音が壁に当たって遅れて戻り、先に出た音より低く濁っている。
「天井が低くなります。頭を」
カリムの声がすぐ後ろでした。アルは首を縮め、低くなった岩の下をくぐる。
後ろで、ガイルの枝の先が天井をこする音がして、岩の屑の落ちる音が続いた。
「……盾を置いてきて正解だな」
先頭の灯りが角を回るたびにアルの前から光が消え、足は前を行くミュカの背を探して進んだ。その炎は歩みに合わせて傾き、岩の割れ目の影が伸びては縮んだ。割れ目の奥までは灯りが届かず、通り過ぎたあとも黒く目の端に残る。後ろからはリリアの灯りが、アルの影を前へ長く落とした。その影はミュカの背の影と重なって、先の暗がりへ溶けていく。
角をいくつ過ぎたのか分からなくなったころ、ミュカの足が止まった。
「……ねえ、これ」
その肩の向こうで、道が開けていた。天井が遠のき、枝が頭上へ上がる。
炎の届くかぎり、壁が字で埋まっていた。
岩の肌が見えないほど細かい線が、天井近くから膝の高さまで、途切れずに行を連ねている。灯りが揺れると線が浮いては沈み、字の列が壁一面でうごめいた。ミュカはそれきり口を閉ざし、枝を持つ腕だけが、壁を照らす高さで止まった。
最後に入ってきたガイルは、部屋へ一歩踏み込んだところで足を止めた。持った枝の炎が、背後の岩に大きな影を作っている。
カリムがアルとミュカの脇を抜けて、壁の前へ進んだ。靴が砂を踏む音は、部屋の隅へ吸われて戻ってこない。ミュカが灯りを壁へ寄せ、カリムはその下へ顔を寄せて、いちばん高い行の端から目で追いはじめる。行の終わりで目が止まり、次の行の頭へ戻り、また止まる。指は壁から浮いたまま、行をなぞって動く。
アルはミュカの隣に立ち、カリムの背と、その向こうの壁を見ていた。枝の脂が爆ぜる音だけが部屋に残る。ミュカの手の枝は短くなり、火が指へ寄ってくると、握りを枝の端へずらす。リリアは枝を下げたまま、壁の左の端を見ている。
「これは古い言語ですね。……読めます」
カリムは壁から目を離さずに言った。
「何が書いてある」
部屋の端からガイルが問う。声が石の壁に当たり、短く返った。カリムは答えず、目を下の行へ移していった。炎が一度大きく揺れ、字の線が壁の上を滑る。ミュカが左手に枝を移した。
「神への恨みです」
カリムの目がひとつの行で止まり、低い声がそれを読み上げた。
「……お前の示した道を、皆で歩いた。だけど、誰一人帰って来なかった。……返せ返せ返せ。家族を仲間を」
壁際で、灯りを掲げたミュカの肩が固まった。振り返ると、部屋の端でガイルの顔から表情が抜けていた。
「そういうものを読むな……」
声は荒れなかった。低く、部屋の隅まで届いた。カリムのほうは見ていない。灯りの外の、床の砂に目を落としている。
「不敬だ」
枝を握るガイルの手の甲に筋が立ち、岩に映った影が小さく震えた。カリムは壁の右の端まで目を走らせ、左の端へ戻した。
「これは記録ではありませんね」
「どういう意味だ」
アルが訊いた。
「残すために書かれていません。吐き出すために書かれています」
炎だけが字の上で揺れ、リリアの枝の先から火の粉が落ちて、砂の上で消えた。カリムは下の段を目で追ったまま続けた。
「誰が、いつ書いたのかは分かりません。ただ、ずいぶん昔のものです」
カリムが壁に寄せていた顔を離し、一歩退いた。
「長居する場所じゃない」
言い終える前に、ガイルは燃える枝を持ち直して来た道へ体を返していた。大きな背が狭い道を塞ぎ、一度も振り返らずに出ていく。靴音が遠ざかっていく。ガイルの去った側から、壁の字が暗がりに沈んだ。
退いたカリムと入れ替わりに、壁の前へ出た。ミュカが枝を掲げたまま体をずらし、火が肩越しに回ってきて、頬に熱が触れる。
顔を寄せるほど煙の匂いが濃くなった。どこで一字が終わり、どこから次が始まるのか、目では切れ目が拾えない。ただ、同じ形の字が行の中に幾度も戻ってきていた。
ミュカが持ち替えると影が動き、さっきと同じ形が、今度は別の行の中から顔を出した。
アルは体を引き、壁から離れた。
隣で、ミュカが見上げていた。腕が伸びきり、火が天井近くの行に届いている。
「……怖い」
耳が左右へ寝た。枝を持たない手が尾の先を握る。ミュカは字の列から目を外し、その手をほどかないまま通路へ歩き出した。
アルは揺れる火を追って部屋を出かけ、後ろを振り返った。
リリアが壁の前に立っていた。火は腰の高さまで下がり、足元の砂と最下段の行だけを照らしている。こちらには、その背中しか見えなかった。カリムの姿は、その灯りの中にはなかった。
通路はすぐに曲がっていた。天井にガイルの枝が残した煙が細く流れ、目にしみる。ミュカの枝は次の角へ回りかけていて、アルは足を速めた。背後でリリアの灯りが岩に遮られ、細くなって見えなくなる。
角をひとつ曲がるごとにミュカの背が光の縁に出ては消え、足元に落ちた自分の影が、背へ長く引かれては消えた。
いくつか角を曲がったところで、背後に音が追いついた。靴底が岩を打つ音の合間に、乾いた物が岩肌をなぞる音が挟まる。その間合いは崩れずに続き、前を行くミュカの歩調より長い。
前方の曲がりに焚き火の橙が滲み、ミュカの灯りがその先の開けた場所へ出て広がった。アルが火の明るみに入って振り返ると、通路の闇から右手を岩に当てたままのカリムが出てきた。そこで、その手が下りた。
火のそばには、ガイルが先に着いていた。大盾は入口寄りの岩に立てかけたままで、持ち帰った枝が炎の縁で黒く細っていた。
アルはガイルの斜め前に腰を下ろし、カリムがアルの左に座った。濡れた外套の裾が、膝の上で重い。
ミュカがアルの隣にあぐらをかき、短くなった枝を炎へ放った。目がガイルへ向き、声が一段持ち上がる。
「ガイル、靴、まだ水入ってるでしょ。歩くたびにぐちゅぐちゅ言ってた」
「言ってねえ」
「言ってた。右だけ」
「右は斜面で泥に浸かったんだよ」
「だったら脱ぎなって」
ガイルが体を傾けて右の靴を脱ぎ、踵を持って逆さにした。溜まっていた水が砂へ落ちて、細い筋を引く。ガイルはその靴を、脇に置いた。
「ほらよ。これで満足か」
「乾くまで履いちゃだめだよ」
ミュカが声を立てて笑った。その顔のまま、火を見て言う。
「あの壁さ」
「その話はよせ」
ガイルは炎から目を上げなかった。砂に置かれた靴の口から雫が一つ落ちて、それきり続かなかった。
ミュカの口が閉じた。膝に広げた外套の端を、指が握り込む。
アルは身を乗り出しかけ、膝の上で拳を作って、また開く。指のあいだを、炎の熱が抜けていった。
入口のほうから、雨の音が途切れずに届いている。
ガイルの肩越しに、通路の口の先へ目をやる。いちばん手前の角の岩肌に、橙の色が薄く映っていた。
その色は動かなかった。ミュカが外套を握り直しても、角に映る色は同じ場所にある。
色の縁が揺れ、濃さが増した。角の向こうから小さな火が覗き、光が岩の凹凸を順に照らして、リリアが戻ってきた。
ガイルの背のすぐ脇を通って焚き火の輪に入り、アルとカリムのあいだに膝を折る。持ってきた枝を、火の中へ寝かせた。
元の炎の際で、その火だけが細く一本、立っていた。




