第20話:「進めない日」
靴の音が、五人ぶんしかなかった。
先頭のミュカが草を踏み、すぐ後ろでアルの靴が湿った土を鳴らす。前にも後ろにも、ほかに鳴る靴はない。荷車の列を抜けて陣を出たところで、蹄と車輪の音は背中のほうへ薄れていった。軍より半日先を行き、道と水場を確かめて戻る役目だった。
会戦の翌朝の起伏は、どこも草が踏みしだかれていた。夜露を吸った葉が靴の甲に重く貼りつき、折れた槍の柄がそこかしこで斜めに土へ刺さっている。そのあいだに、うつ伏せのまま動かない背があった。仰向けに空を見たきりの顔があった。角のある頭と角のない頭が、同じ高さで草に沈んでいる。向かいの起伏に、魔族の列の影はなかった。
濡れた土の匂いの底に、錆びた鉄の匂いが澱んでいた。ミュカの耳が頭に貼りつき、尾が脚の後ろへ巻き込まれる。リリアの足が一度だけ止まり、また動き出した。アルは草から突き出た槍の柄を跨いだ。柄の先に、穂先はなかった。
五人とも黙ったまま、体と体のあいだを縫って歩いた。
最後の起伏を越えると、草はまた立っていた。街道は土の色を濃くして、魔王領の奥へ続いている。前を行く兵の背がない道は広い。吹き抜けた風が破れた袖の裂け目から入り、発つ前にリリアが治したばかりの肌を冷やした。気づけば、先を行くミュカとの間が詰まっていた。
「前に誰もいないと、風が通るね!」
先頭で耳が前へ起き、尾が歩調に合わせて振れた。
「足が軽いな、勇者様。軍の前を歩くのがそんなに嬉しいか」
からかう声は最後尾から来た。背負った大盾が一歩ごとに揺れ、重い足音がついてくる。
「嬉しいよ」
振り返らずに答えると、大盾の揺れる音が一つ乱れた。
「……素直に言うなよ。からかい甲斐がねえ」
「ねえ、水場、見当たらないよ。まだ探す?」
道の先から叫んだミュカへ、リリアが返した。
「ミュカ。水の音は、どっちから聞こえる?」
左右へ一度ずつ回った耳が、右手の高いほうで止まる。
「上。でも遠い」
道は途中から山の斜面に身を寄せはじめた。右手には岩が立ち上がり、左手は草の混じった土が斜面の下へ落ちている。アルが岩に掌を当てると、冷たい湿りが皮に染み、苔の薄い緑が指に残った。そのあたりで風が向きを変え、背を押していたものが顔へ回り込んで、湿った土と冷えた岩の匂いを運んでくる。
見上げると、雲が山の肩まで下りていた。朝には高くにあった白い層が、灰色に濁って岩の上に居座っている。空が低い、と思った。足が重くなったのは、そのあとだった。
昼に近づくころ、頬に細かい雨が触れた。外套の肩に濃い染みが点々と増え、靴底には土が貼りついて、持ち上げるたびに抵抗が残る。
霧雨になっていた。吸う息に冷たい水気が混じり、斜面の割れ目から糸を引いて落ちる水が、道脇の草を叩いている。
後ろで足音が一つ欠けた。振り返ると、カリムが足を止めて斜面の上を見ていた。雲の底はもう道の上の岩を隠している。
「今日中に抜けるのは無理です」
言葉が一つずつ、雨音の切れ目に置かれていく。
最後尾の足音が早まり、ガイルが大盾ごと前へ詰めてくる。
「まだ半日ある」
「半日で抜けられる距離ではありません。私が見てきた山の天気は、この降り方をすると三日続きます」
「三日も止まれば軍に追いつかれる」
「追いつかれても、道がなければ同じです」
ガイルがアルの脇に並んだ。狭い道で、ガイルの靴は道の端にかかっている。古い傷の上を、雨が筋になって流れていた。
「道ならある。いま踏んでるだろうが」
「今はあります」
「この土、柔らかいよ」
リリアが爪先で道を突いていた。靴の縁に泥が盛り上がる。
「足元の話はあとだ。アル、どう思う」
脇からガイルの目が、後ろからカリムの目が来た。前では、道がまだ雨の奥へ続いている。背中のほうでは、軍の来る道が白く煙っていた。
「ミュカ、上を頼む。決めるのはそれからだ」
返事より先に、ミュカが岩へ取りついた。濡れた岩場を、尾を揺らして登っていく。
「見に行かせてるあいだにも、半日は減るんだぞ」
カリムが頬に貼りついた髪を指で払った。
「アル。急がなくて構いません」
「構うんだよ」
ガイルの声が岩に跳ね返り、雨に吸われた。
「水が出てる。道が流れるよ」
岩場の上から、ミュカの声が落ちてきた。
ガイルは口を閉じた。顎だけが道の先を向いている。
霧雨が太い雨に変わった。外套の肩を打つ粒が重くなり、袖の裂け目から入った雨が、傷のあった肌を伝って肘へ落ちる。斜面の上から濁った水が幾筋にも割れて走り下り、道を横切るたびに土をさらっていった。踏み固められていた道の肌が、靴の下で溶けた。
「戻って! 水が来る!」
ミュカが斜面を滑り降りてくる。五人は来た方へ体を返した。左の岩に肩を擦るアルの隣で、ガイルが道の端を踏んだまま向きを変える。
その足元で、土の剥がれる鈍い音がした。
ガイルの右足の下で、道の端が土ごと沈んだ。膝が落ち、背負った大盾の重みが体を斜面の下へ引いていく。泥の上で靴が滑り、伸ばした手が空を掻いた。アルは右手を突き出してその大盾の縁を掴んだ。濡れた縁が指の腹で滑りかけ、握り込んだところで肩ごと持っていかれて、踵が土を削る。
「ミュカ!」
呼ぶより早く、横から細い腕が伸びた。ミュカがガイルの腕を両手で掴み、体を後ろへ倒して引く。アルも腰を落とし、泥を噛んだ靴底に全身の重みを乗せた。道の端がもう一度崩れ、泥の塊が斜面の下で水音に呑まれる。
引き上げた。
ガイルの膝が道の中ほどに乗り、重い体が岩のほうへ転がり込む。四つん這いになった背で、大盾が雨を弾いていた。アルの右手は、まだその縁を握っている。
指が開かない。ミュカが手を離し、胸を大きく上下させながらアルの手とガイルの背を交互に見ている。岩際のリリアは、口元に手を当てたまま動かない。
ガイルが肩越しに振り返り、泥だらけの手をアルの手の上に載せた。親指から順に、縁にかかった指を一本ずつ剥がしていく。外れた指は握った形のまま宙に残った。
ガイルは膝をついて身を起こし、崩れた道の端から目を離さずに言った。
「止まるべきじゃなかった」
泥に片膝をついたアルの頭の上を、その声が越えていった。カリムは答えなかった。濡れた髪の先から、雨が落ち続けている。
崩れた道に背を向け、斜面の浅い岩陰へ五人で移った。雨は粒が見分けられないほど密になり、岩肌に残っていた白い明るさが薄れて、靴の中の指先が冷えはじめている。
ガイルが背から大盾を下ろした。ミュカが駆け寄り、縁に手を添えようとする。
「持つよ」
「いい」
短く返して、ガイルは一人で盾を起こした。雨の吹きつけてくる側へ斜めに立て、下端を土に埋め、上端を斜面の岩に預ける。左腕で裏の握りを押さえると、盾の面を叩く雨が低く鳴り、その裏だけ風が止んだ。添え損ねたミュカの手が、縁の手前で下りる。
五人は外套を頭まで引き上げ、盾の陰に身を寄せた。吹きさらしの端にはガイルが片膝を立てて座り、その隣でアルは岩陰の縁に腰を預けた。剣の柄に載せた右手の袖へ雨がしみ、手首の内側が冷える。奥の岩壁にはリリアとカリムが背をつけ、いちばん奥でミュカが膝を抱えた。外套の内側には吐いた息がこもり、濡れた革と土の匂いが狭い陰に溜まっている。
リリアが鞄から干し肉を出し、一人ずつ手渡していく。受け取った指の腹に、塩の粒が貼りついた。固い肉は噛むほど塩の味が出てくる。岩陰の外の斜面は色を失い、灰一色に沈んでいた。
「カリム、寒くない?」
リリアが隣へ首を向けた。
「寒いです。ですが、耐えられない寒さではありません」
「ガイルの盾、屋根になってるね。宿代、いくら?」
抱えた膝の上から、ミュカが顔を出した。ガイルが鼻から息を抜き、短い笑いが盾の裏にこもる。
「高いぞ。干し肉一本だ」
「えー、もう食べちゃった」
「なら、ツケにしといてやる」
ミュカの尾が外套の裾を持ち上げて揺れた。ガイルは笑いの残る頬で、雨の向こうへ目をやる。
「明日には上がるさ」
「明日上がったとしても、道が戻るまでにもう一日かかります」
カリムの目は雨の先に据わっていた。笑いがガイルの頬から引いていく。
「カリム。言い方ってものがあるでしょ」
ミュカが身を乗り出した。カリムは首だけを向け、同じ速さで答える。
「言い方を変えても、道は戻りません」
ミュカの肩が縮み、揺れていた尾が膝の脇に落ちた。
ガイルは大盾の縁に親指を伸ばし、欠けの角を探りはじめた。ひとつに触れては離れ、隣の欠けへ移る。引っかかるたびに、親指が止まった。
アルは盾の縁越しに外を見た。来た道の先は雨の白い幕に埋まり、動くものはひとつもない。軍はあの幕の向こうにいる。崩れた道の端が流れる水に削られ、細くなっていく。
視線を戻すと、リリアがアルの右手を見ていた。
「手、開かないの?」
言われて、柄の上で指を開いてみた。開ききる手前で止まる。握り直そうとすると、今度は柄に届く前で固まった。濡れた縁の硬さが、掌の内側にまだ残っている。
「なんでもない」
ガイルの目がその手に来て、止まった。盾を打つ雨の音がいくつか落ちるあいだ、そこから動かない。親指がまた欠けへ戻っていく。
雨が強まった。盾を叩く音が間を詰めて重なり、岩陰の縁を越えた水が土の上を細く這ってくる。最初はガイルの靴の先に触れ、アルの腰の脇を抜けて、奥のミュカの爪先まで届いた。腰の下の土が少しずつ柔らかくなる。
「足の下、水が来てる」
ミュカが爪先を引いた。リリアが鞄を膝から持ち上げ、外套の内側へ入れる。
乾いた土は、奥の岩壁に沿った細い帯ひとつになっていた。裾を浸したミュカの外套は黒く重くなり、吹きさらしの端のガイルは、足首まで水に浸かっている。
「ちょっと上、見てくる」
ミュカが立ち上がり、盾の陰を出かけた。
「滑るなよ」
「ガイルに言われたくない」
言い終わってから、ミュカの耳が根元から後ろへ倒れた。振り返らずに岩へ手をかけ、尾の先が岩陰へ消える。欠けを探っていたガイルの親指が、角に掛かったきり離れなくなった。
盾を打つ低い響きと、岩陰へ集まる水の音が残った。アルの手は、柄の上で軽く握った形のままだった。
戻ってきたミュカは、岩陰の縁にしゃがんで、アルにだけ顔を向けた。鼻の頭から雫が垂れ、外套から濡れた草と土の匂いがする。
「上に穴がある。獣の匂いはしない」
アルは柄から手を離して立ち上がった。外套の裾から水が落ちる。
「行こう」
「先に行け。俺は最後でいい」
ガイルが土から大盾の下端を引き抜いたのは、皆が斜面に取りついてからだった。
斜面は水を含み、掴んだ草の根が千切れかけて、爪の間に泥が詰まる。ミュカが先を行き、アル、リリア、カリムの順に続いた。濡れた岩は冷たく、掌の熱を奪っていく。
すぐ下でリリアの靴が一度滑り、岩の角を掴んで持ち直した。そのさらに下から、カリムの声が追ってくる。
「一足ずつ。足場を確かめてから」
いちばん下からは、重い靴が土を削る音が上がってくる。
斜面の岩が低く口を開けていた。入口の脇でミュカが待っていて、あとから上がった三人がその横に並ぶ。遅れて上がってきたガイルが、背の大盾を揺すり上げてアルの隣に立った。外套の背を、雨がまだ叩いている。
濡れた頬に、奥から乾いた冷たい空気が流れてくる。




