第19話:「会戦」
アルグランツの兵が構えた槍の穂先が、前列から順に下がっていった。
カルデンを発ったその日のうちに拠点のあった高みの下まで進み、そこで夜を越して、高みの向こうへ出た朝だった。
その先は、緩い起伏が幾重にも続く開けた土地だった。街道が草のあいだをまっすぐ抜け、低い朝の日が白い土を斜めに照らしている。左右のどちらへ首を回しても味方の兵の背が続き、列の端は起伏の向こうに沈んで見えない。向かいの魔族の列は夜のうちに火の灯っていた辺りに腰を据え、角の影を草の上へ長く落として、横へ伸びていた。
「固まるな。押し流されるぞ」
ガイルの声が、前の列の背へ飛んだ。背から降ろした大盾が左腕に収まり、下端が土を噛む。
「向こうの列、どこまで並んでんの!」
右でミュカの耳が伏せ、尾が大きく振れた。
「ガイル、右は私が見ます」
背後からカリムの声がした。肩越しに振り返ると、すぐ後ろにカリムがいた。リリアは遊撃の列のさらに後方に立っている。
どちらの列も、まだ動かない。葉先に残った夜の露が靴の甲を濡らし、両軍を隔てる草地を風が渡って、湿った草と革の匂いを鼻へ運んだ。列のどこかで誰かが唾を飲む。握り直された槍の柄が擦れて鳴り、前に立つ兵の背で汗の染みが広がっていく。
「へへ、やっと始まる」
ミュカが小声で言い、短刀の柄を叩いた。
剣を抜く。鞘の口が短く鳴り、柄の革が掌に張りついた。肘から先がひとりでに固まり、背中の真ん中に熱が溜まっていく。
後方で号令が飛んだ。最前の肩が一斉に沈み、足音が揃って土を叩く。向かいの列も動き出した。二つの足音が草地の真ん中へ寄っていき、足の裏から地鳴りが這い上がってくる。
穂先が届くより先に、敵の列の奥で光が走った。橙の細い線が草の上を横へ薙ぎ、すぐ前に並んでいた味方の列が土ごと跳ね上がる。折れた槍が回りながら宙を舞い、兵が何人もまとめて後ろへ転がった。
その左右で二つの列がぶつかった。槍の柄の折れる乾いた音と倒れた者の喚きが重なり、耳の中が一度に塞がる。土埃が喉へ入って咳が出かかった。正面に口を開けた裂け目へ、魔族の兵が剣を立てて雪崩れ込んでくる。
「うわ、こっち来る!」
右で、短刀の鞘走る音がした。
「入る。ガイル、続け」
「おう!」
アルは裂け目へ駆けた。最初に飛び込んできた敵の剣を受けると、鉄の音が腕を抜けて肩へ響く。
裂け目の中は、剣と槍の柄と人の肩でひしめいていた。受けた魔族の剣をそのまま押し上げ、がら空きの脇腹へ膝を入れて突き放す。顔を上げると、右の継ぎ目でも味方の槍が折れていた。
「抜かれた! アル、右もだ! どこから湧きやがる!」
ガイルが盾で敵を押し返しながら怒鳴る。
「勇者様、左の列がもちません!」
前衛隊の隊長が、ひしゃげた胸当てのまま兵の肩を押しのけて駆け寄ってきた。額から流れた血が片目を塞いでいる。隊長は返事を待たず、左へ身を翻した。
右では、押し込まれた味方の兵が背を向けて下がりはじめていた。その背を追って、魔族の前列が剣を振り上げて間を詰める。
詰め寄る魔族の靴の下で、草が白く染まった。露が固まり、霜が地面を舐めて広がる。先頭の兵が足を滑らせて膝を折り、後ろの者を巻き込んで止まった。
「ガイル、今のうちに。長くは止められません」
背後でカリムが言う。霜の縁は、もう溶けて水に戻りかけていた。
その隙にミュカが草の際を低く駆け抜け、敵の列の脇へ消えた。ガイルは下がりかけた味方の兵の背を押し戻し、抜かれかけた継ぎ目へ大盾を叩き込んで穴を塞ぐ。アルは盾の脇から滑り出て、槍を握ったまま立ち尽くす兵の襟を掴んで後ろへ引き下げ、空いた場所で霜に足を取られた敵の肩口を斬り割った。返す剣で、もう一人の槍を払い落とす。吸った息が胸の上までしか入らない。左の列から穂先の折れる音が続き、足はもうそちらへ向いていた。
「右の奥! 手で合図してる奴がいる!」
敵の列の向こうから、ミュカの声が跳ねた。
「ミュカ、深追いしないでください」
カリムが後ろから声を張った。言い終わらないうちに、返事が被さる。
「してないよ!」
アルは走りながら首だけ振り向けた。
「聞こえた。ガイル、そこを頼む」
「行け! ここは持つ!」
ガイルの声を背に聞きながら、血の匂いと踏み潰された草の汁の匂いを吸い込んだ。喉へ貼りついて咳が出る。左の列に近づくと、下がりかけた兵が肩をぶつけて流れてきた。槍を持つ手が震え、顎紐の切れた兜が傾いている。その中から一人、頬の細い、肩当ての外れかけた槍兵が足を止め、アルの顔を見た。口が開く。
「勇者様だ! 戻れ、戻れ!」
槍兵は近くの兵の腕を掴んで引き、自分が先に持ち場へ駆け戻っていった。外れた肩当てが、走る背で跳ねる。
左の列は、穂先がばらばらに揺れていた。先に左へ回っていた隊長が兵の肩を叩いては槍を揃え直させ、アルはその列の後ろへ滑り込む。
「槍を並べろ! 勇者様が前に出る!」
隊長の怒鳴り声に、さっきの槍兵が隣と肩を寄せた。石突きを土に叩きつけた槍が、握る指ごと小刻みに震えている。靴だけは、土に踏みとどまっていた。
槍の並びを挟んだ先に、剣を片手に提げた魔族の兵が立っていた。
空いた片手が前へ出る。掌の前で光が白く膨らみ、弾けて味方の列を押した。槍の柄が束になって折れ、兵が薙ぎ倒されて宙へ浮く。
あの槍兵が、アルの目の前へ落ちた。
土の上を転がって止まる。胸当てが内側へへこみ、肩当ては紐一本で土を擦っていた。脱げた兜が草の上で回っている。目は開いたまま、アルの靴を越えた先を見ていた。口の端で赤い泡が割れ、胸の上下はそれきり止まった。
喉が詰まる。胃の底が持ち上がり、膝が抜けかけて、剣の切っ先が土を掻いた。指は柄から離れない。掌のなかで、革が汗に滑っている。周りの喚き声が遠のいた。
「持て! 持てえ!」
左のどこかで、味方の誰かが声を裏返らせた。
足音が近づく。剣を提げた兵が、倒れた槍兵の脇を踏み越えて前へ出てきた。切っ先を下げたまま、間合いを詰めてくる。
「勇者様、そいつを!」
左の後ろで、隊長が叫ぶ。
アルは膝を伸ばし、槍の並びを割って前へ出ると、背後へ叫んだ。
「下がれ!」
槍の並びが半歩ずつ後ろへ引き、魔族の兵とのあいだが空いた。
頭上から落ちる剣を受けると、腕が痺れて踵が土を滑った。体ごと当たって弾いても、兵は間を空けずに次を打ち込んでくる。何度か受けるうちに、痺れが肘から肩へ上がってきた。
脇から味方の槍が突き出され、兵の脇腹を割った。血が胸当てを伝って落ちる。それでも兵は持ち場から動かず、アルの前に立ち続けた。
奥歯を噛んで柄を握り込む。膝を沈めると、滑っていた踵が土を捉えた。振り下ろされた剣を弾き上げて、開いた胸へ踏み込む。
剣が通った。
胸に剣を残したまま膝が折れ、角が、転がった槍兵の肩口の脇で地面を打った。
剣を引き抜いた腕が、まだ細かく震えていた。そこへ背後で、土を蹴る足音が一度に重なった。
振り返ると、半歩引いて揃っていた槍の列が、今度は止まらずに後ろへ流れ出している。最前の兵が一歩下がると隣が下がり、そのまた隣の槍が傾いて、兵の背が起伏の向こうへ遠ざかっていく。列の中ほどで常備軍の旗が斜めにかしぎ、人垣のあいだに沈んでいった。号令は聞こえない。足の遅い者だけが、列の端に残された。踏み荒らされた草から土の匂いが立ち、誰かが取り落とした槍が足元へ転がり込んだ。
「退くな! 槍を捨てるな! ……退くなと言っているだろう!」
額の血を拭う手も使わず、隊長が逃げる兵の肩を掴んで前へ向け直す。兵は一度足を止め、隊長の手が離れるとまた下がった。
向かいの起伏を越えて、魔族の列が足並みを揃えて迫ってくる。
「下がれ。後ろは俺だ」
横から割り込んだ大盾が、アルの前で敵の剣を受けた。ガイルが盾の陰から顔を出し、歯を見せる。
「勇者様にしんがりなんて贅沢はさせられねえ。……と言いたいが、手が足りねえ。付き合え」
「ああ」
列が下がる速さに合わせて、足を後ろへ送る。叩きつけられた魔族の剣を盾が受け、その脇からアルが斬り上げる。受けては半歩、斬っては半歩、草の上を後ろへ退いていった。盾の面に敵の剣が当たるたび、鈍い衝撃が地面を伝って踵まで届く。右から伸びた切っ先が、前腕の袖を裂いた。熱い線が走ったが、握りは緩まなかった。肘から先の感覚は薄れ、剣の重みだけが手の中に残っている。
盾の陰で、ガイルが吠えた。
「右から来るぞ!」
大盾が右へ回り込んだ。
「勇者様、列を頼みます!」
隊長の声がまだ前から届く。アルは下がる兵の背へ声を張った。
「列を崩すな! 歩いて下がれ!」
流れていく兵の肩のあいだから、リリアが現れた。息を切らしたまま、目だけでアルの全身を確かめている。
「アル。……怪我は」
「かすり傷だ。それより下がれ」
「分かった」
リリアは鞄を胸に抱え、兵の背のあいだへ引き返した。
列の脇から、ミュカが尾を逆立てて走り戻ってきた。
「奥の奴、見失った! 私も下がる!」
アルは振り向かずに返した。
「いいから走れ」
すぐ後ろで、カリムが言った。
「足は私が止めます。下がってください」
魔族の先頭の足元で、乾いた土が舞い上がった。風が地面を這って砂を巻き上げ、先頭の兵が腕で顔を覆って足を緩める。
下がる足の脇で、草が途切れた。越えてきたばかりの窪みに、味方の兵が一人倒れている。槍の石突きを土に突いて起き上がろうとして、膝が言うことをきかない。顔が上がり、こちらを向いた。片手が宙へ伸び、指がいっぱいに開いて何かを探している。手の甲には泥と血が固まり、口が動いているのに声は届かなかった。
アルの右手が前へ出かけた。窪みとのあいだへ、敵の兵がもう踏み込んでいる。指先から感覚が引き、鍔が掌に食い込む。爪先が草を噛んで止まった。
「アル、来い!」
ガイルの声が、背中を引いた。伸ばされた手が、草の上へ落ちる。先を走る魔族が窪みの縁へ足をかけ、倒れた兵を踏み越えようとした。
「そこ、通さないよ!」
アルの横をすり抜けて、ミュカが低く飛び出した。窪みに踏み込んだ先頭の脇へ回り込み、短刀を走らせて足首を払う。支えを失った魔族が前のめりに倒れ、後ろの者の脚を絡めて止まった。
ミュカは転がった魔族を飛び越えて戻り、アルの脇に並んで息を吐いた。
「ぎりぎりだった。耳、切られるかと思った」
「助かった」
「でしょ。もっと褒めていいよ」
奥で号令が聞こえ、魔族の列は窪みの手前で足を止めた。ガイルが大盾を背負い直し、五人は列の最後尾について起伏を下がっていった。
◇◇◇
呻き声と、誰かの名を呼ぶ声が、闇の向こうから続いていた。呼ばれた名に返事はなく、同じ名がまた呼ばれる。
日は落ち、空の端に残っていた赤も草の上から引いている。前の晩に野営した高みの下、味方の陣の縁まで戻っていた。荷車の並ぶ脇に焚き火がいくつか灯り、それを囲んだ兵が槍を膝に載せて座り込んでいる。水桶の柄杓が、手から手へ回っていた。
闇の奥の呻きがどちらの兵のものか、声だけでは聞き分けられない。
陣の縁に運び込まれた味方の兵の脇で、リリアが膝をついていた。腹を押さえた兵の手をどけ、血の染みた布の上へ掌を当てる。開いていた傷が寄って閉じ、兵の息が長く抜けた。隣では足を投げ出した兵が、脛に刺さった折れた穂先を自分で握ったまま震えている。リリアはその手をほどかせ、穂先を抜いて、傷口に手を添えた。抜いた穴の縁から、新しい皮が張っていく。
アルは焚き火の脇に腰を落とし、破れた袖を手首のほうへ引っぱった。前腕の血はもう乾いて、布に張りついている。立ち上がったリリアの目が、その袖に落ちた。
「……腕」
「乾いてる。そっちを先に診てくれ」
リリアは口を開きかけて閉じ、次の兵の脇へ移った。
荷車の車輪にもたれたガイルが、脇に寝かせた大盾の縁を指でなぞった。欠けが増えている。
「勝ったのか、これは」
「どちらでもありません」
カリムが帳面を膝に置いたまま答えた。
「だよな」
「ねえ、窪みにいた人さ」
ミュカが耳を闇のほうへ立てた。誰も答えない。その先で、また同じ名が呼ばれた。
「……やっぱいい」
「ミュカ。水、飲んでおいて」
リリアが振り返らずに言った。
「飲むよ」
ガイルが腹をさすった。
「飯は残ってるか。腹が鳴ってしょうがねえ」
焚き火を挟んで、ミュカの尾が立った。
「ガイルの分、私が貰う」
「やらねえよ」
「ガイル、座ってろ。見張りは俺が立つ」
「アルに立たれたんじゃ、俺が寝られねえ」
アルは立ち上がり、陣の縁へ向かった。焚き火の輪を出ると、足元が暗がりに沈む。並んだ轅の端で足を止めた。破れた袖の下で、乾いた血が布ごと肌を引きつらせる。草地のほうから届く呻きは、まだ途切れない。
荷車の轅は、どれも南を向いたまま夜を越えた。




