第18話:「軍の中の一人」
カルデンの門の外まで、街道がアルグランツの常備軍の兵と荷車で埋まっていた。
城壁の根元には天幕が張られ、兵が張り綱を引いて布を起こしている。杭に繋がれた馬が首を振り、鼻息で足元の埃が舞った。列のあいだから槍の穂先が突き出し、兵が一歩進むたびに、並んだ先端の光が左右へ流れる。その上には常備軍の旗がところどころに掲げられ、竿の先で布が揺れていた。荷車は太い車輪を軋ませて隙間を縫い、轍から巻き上がった土埃が舌の奥でざらついた。馬の汗と、油を引いた革の匂いが、開け放たれた門扉の脇に溜まっている。天幕のあいだからは煮炊きの煙が上がり、焦げた薪の匂いがそこへ混ざった。
兵の流れは門の手前で二つに割れていた。一方は門扉の内側へ吸われていき、もう一方は街道をそのまま南へ下っていく。どちらの列も足が揃い、靴底が土の道を叩く低い音が途切れなかった。
門前で深くえぐれた轍に車輪を取られた荷車が、斜めに傾いて止まっている。兵が何人も肩を入れて押し、御者が手綱を鳴らした。車輪が溝から抜けると、押していた兵の一人が土の上に尻をついて笑い、そのまま列へ戻っていく。列の脇を行く兵は革の胸当てに土の筋を付け、前の兵の背だけを見て歩いていた。
アルは門扉のそばに立ち、その流れを見ていた。汗ばんだ掌を外套の脇で拭う。胸骨の裏で脈が速くなり、奥歯を合わせていないと口が開きそうだった。靴の底から、兵の足並みが脛へ響いてくる。ふくらはぎには走り出す前の痺れが溜まり、気づけば膝の裏が伸び、足が前へ半歩出ていた。
隣でミュカの耳が立ち、茶色の尾が左右へ大きく振れた。
「あ、さっきの人、尻もちついたのに笑ってる!」
「手が多けりゃ、転んでも笑えるんだ」
ガイルが肩を揺すった。
「ねえ、あっちの荷車、麦袋が山積みだよ! あれ全部、兵の分?」
ミュカが列の奥を指す。ガイルは顎で列の先を示した。
「食う口がそれだけいるってことだ。おい勇者様、端が見えねえぞ」
「見えないな」
「先頭、見てこようか。走ればすぐだよ」
ガイルが鼻で笑った。
「迷子になるぞ」
「ならないよ! 斥候だよ、私」
ミュカが爪先立ちで跳ねるたび、尾が外套の裾を叩いた。リリアは肩掛けの鞄の紐を両手で握り、荷車を引く馬の鼻先を見ている。
「馬の水、この数で足りるのかな」
ガイルが荷車の列へ目をやった。
「軍が考えるさ」
カリムは門へ入っていく列を、端から端まで目で追っていた。その脇でガイルが歯を見せて笑い、拳でアルの肩を押す。
「いい眺めだな、アル。道の先まで全部味方だぞ」
押された肩が揺れ、足が土を踏み直した。
「ああ」
風が列の上を渡り、兵の汗の酸い匂いが鼻を突いた。南へ下る列の先では、土の道が埃で白く霞んでいた。城壁の上から火が灯るのを見た方角だった。
門のほうへ身を返すと、内側では守備隊の兵が荷車を一台ずつ手で招き、通りの奥へ導き入れていた。御者を叱る声が石畳に何度も跳ね返る。軒下には降ろされた荷が通りの両側へ積み上がり、戸口に立つ人々が荷を避けて壁際へ身を寄せていた。
「奥だ。手綱を引け」
声の主が荷車のあいだから抜けて、こちらへ来た。守備隊の隊長だった。胸当ての縁に土埃を溜めたまま、アルの正面で立ち止まる。
「勇者様。うちの街が、軍の駐屯地になりました」
声に抑揚はなかった。
「そうか。忙しいところ、悪いな」
「いえ。皆様の部屋は、宿に押さえてあります」
隊長の目がアルの肩越しに動いた。街道を南へ遠ざかる兵の背に、一拍長く留まる。アルが口を開く前に、目は戻っていた。
カリムが列から目を離さずに言った。
「私たちが開けた場所に、軍が入ってきました」
ガイルが大盾を持ち直す。
「そういう順番だ」
隊長は二人へ目礼し、荷車の誘導へ引き返していった。軒下に積み上がった荷の前で足を止め、御者に置き場所を指で示す。胸当ての音が遠ざかり、兵の声の中に紛れた。
入れ替わりに、陣のほうから兵が一人、列をかき分けてきた。荷を背負った兵とすれ違うたびに身を斜めにし、土埃を蹴ってまっすぐこちらへ向かってくる。靴は白く粉を被り、肩で息をしながら、右手に巻いた紙を握っていた。指先に、墨の染みが付いている。
踵を揃える。
「勇者様。将軍の書付です」
紙が広げられ、縁が風にはためいた。伝令の親指が紙の端を押さえ、その目が墨の並ぶ行を下へ辿っていく。
「進発は三日後。配置は遊撃」
伝令は紙から目を上げ、アルを見た。
「勇者様には、崩れた箇所へ入っていただきます」
ガイルが一歩前へ出て、伝令へ向き直った。
「一番危ないところを回される、ということですね」
「そうなります」
誰も口を開かなかった。ミュカの唇が動きかけて止まり、リリアの手は鞄の紐の上で動かなくなる。伝令は広げた紙を胸の高さに保ったまま、返事を待って立っている。五人の背後では車輪が軋み、足音が地面を打ち続けていた。荷車が次々と脇を過ぎ、風に押された外套の裾が脛に貼りついては離れる。馬がいなないて、天幕の布が張り綱の先で煽られている。
ガイルが拳で胸当てを叩いた。鉄の音が一つ鳴り、近くの兵が首を回した。
「結構です」
古い傷が引きつれて口の端が吊り上がり、伝令を正面から見る目が笑っている。大盾の下端が地面を突いた。
アルは伝令へ顔を向けた。息を深く吸うと、肺の底まで埃と革の匂いが入った。
「分かった。俺たちが入る」
伝令が踵を鳴らして頭を下げる。ミュカの耳がぴんと起き上がった。アルは剣の柄に掌を載せた。握り込んだ指の関節が、続けて鳴った。
伝令は門の脇に止まっていた荷車の荷台へ書付を置き、巻き込んであった二枚目の紙を引き出して広げた。大判の紙は端から反り返り、風にあおられて荷台の板の上で鳴る。ガイルは大盾の縁で一方を押さえ、反対の角にはリリアの指が載った。ミュカとカリムが両脇から身を寄せる。アルも板に手をつくと、掌の下で木目が冷たかった。
細かな地名と線の書き込まれた図面だった。上の縁近くに、カルデンの名が小さくある。そこから黒い太線が一本、紙の下へ伸びていた。途中で曲がらず枝分かれもしない。アルの目は線を追った。紙の半ばを過ぎても太さは変わらず、下端に近づいて字が密になるあたりで、ようやく細くなっていく。
カリムが身を屈め、肩から滑った髪を耳にかけた。人差し指を線の頭に置く。
指が線を下へ辿る。爪の先が紙を擦り、乾いた音が荷台の上を這った。
「魔王領の北部へ、まっすぐ向いています」
ガイルが顔を上げ、伝令を見た。
「道は、この一本ですか」
「将軍が引いた線です」
伝令の指が線の端で紙を押さえる。ミュカが板の端に両手をかけ、爪先で伸び上がった。
「この線、ずっと下まで続いてるね」
目が線に沿って紙の下端へ走り、線の尽きるところにある細かな字で止まった。
「トールンって書いてある」
尾が跳ねた。ミュカは荷台の上へ身を乗り出し、胸が板に付きそうになる。伸ばした指がその字の上に載った。
「ここだよね。ここ、行くんだよね」
カリムは指を線の途中へ戻した。ミュカの指す字からはるかに離れた場所で、指先が紙を一度叩く。それから目だけを、ミュカの指の下の字へ落とした。
「まだ先です。ここは通過点ですらない」
ミュカの両耳が前へ倒れた。尾が荷台の外へ垂れ、先が車輪の縁を撫でる。
「そっか。まだ先かあ」
ミュカは紙から指を離し、板の上で握り込んだ。
ガイルが大盾を持ち上げ、図面の端が放たれた。反った紙が跳ね返り、リリアが押さえた角に皺が寄る。
「進路は、承知しました」
「はい」
伝令は図面を手早く転がし、書付を重ねて巻き、紐を二重に回して結んだ。胸に抱え、アルへ一礼する。
荷車を離れ、兵の列を斜めに割って陣のほうへ戻っていく。荷を背負った兵の肩にぶつかり、詫びる声を残して走り出し、天幕の布の陰へ入って見えなくなった。
◇◇◇
天幕のあいだの通路には、篝火が間を置いて燃えていた。組んだ薪が赤く崩れ、火の粉が天幕の布へ散って、端に小さな焦げ目を作る。炭と焼けた脂の匂いが、夜気の冷たさの底に溜まっていた。天幕の垂れ布が風にめくれ、中に敷かれた寝藁と、畳んだ毛布の角が覗く。張り綱を跨ぐたびに、靴の下で土が硬く鳴る。
アルは火と火のあいだを歩いていた。左にリリアがいる。
道の端で車座になっていた兵が、次々に腰を上げた。槍を肩に預けた見張りが一歩脇へ退き、鍋を火から下ろしかけた兵が手を止めて背を伸ばす。アルの進む先から人が左右へ割れ、土の道が前へ前へと開いていく。胸当ての金具が鳴る。顎を引いて目で送る兵が、道の両側に並んでいった。
胸当ての革が胸に食い込むほど息が入る。靴底が土を蹴る幅は一足ごとに広がり、裾が脛を打つ間が長くなった。左で外套が小さく跳ね、リリアが小走りに追いついてくる。篝火が一つ後ろへ過ぎるたびに、背を温めていた熱が薄れ、次の火の熱が頬に来た。
火の列が尽きるあたりで、槍を持った若い兵が一人、道の真ん中に立っていた。兜の下の頬がまだ細い。槍の石突きを地に突いて垂直に立て、空いた左手を胸に当てる。穂先が篝火の色を拾い、肩当てが耳に付くほど肩が上がっていた。
口が開いた。アの形になりかけて、止まる。喉が上下し、唇が閉じ、もう一度開く。
「勇者様」
アルは顎を引き、右の拳を胸当てに置いて礼を返した。若い兵の脇を抜けると、篝火を背にした足元から、長い影が前へ伸びた。
影の先で、また兵が左右へ分かれていく。
「顔が知られてるね」
リリアが前を向いたまま言った。
「そうだな」
薪が爆ぜた。二人分の足音が続いた。
◇◇◇
門扉の内側に、守備隊の隊長の姿があった。胸当てが磨かれ、革帯がすべて締まっている。石畳は夜露で黒く、空には薄い雲が一面に張って、朝の光は白くぼやけていた。閂の外された門扉が、内側へ大きく開いたままになっている。門の外からは、馬の鼻息と金具の触れ合う音が絶え間なく届く。
近づくと、隊長は半歩前へ出て、右手を胸当ての前に置いた。
「勇者様。道中、お気をつけて」
「ああ。街を頼む」
「はい」
肘は言い終えたあとも同じ高さから下りなかった。
ミュカがガイルの脇から顔を出した。
「宿のごはん、おいしかった! 部屋もふかふかだったし」
「ありがとうございます」
ガイルが喉の奥で笑い、隊長の二の腕を掌で一つ叩いた。
「世話になった」
リリアとカリムが並んで頭を下げる。隊長は礼の形のまま、五人が門を出るのを待っていた。
門の外では、軍の列が南へ向いて並んでいた。先頭のほうで号令が一度飛び、列の頭から順に兵の背が動き出す。荷車の御者が手綱を握り直し、馬が最初の一歩を踏み出した。馬の蹄と車輪の音が列の後ろへ順に送られ、門の下まで届くと、足元の土が細かく震え始めた。
アルは門を抜けて、列の脇で足を止めた。前の兵と、その後ろの兵のあいだに、肩幅ほどの隙間が空いている。
「私たち、どこに入ればいいの?」
ミュカが列を見回して言った。アルは隙間を指した。
「空いてるところへ入れ」
ガイルが大盾を背負い直して前の隙間へ入り、ミュカがすぐ後ろの隙間へ潜り込んだ。耳が兵の肩の高さで揺れる。カリムがリリアを先に通し、荷車の脇に続いた。
アルは隙間へ足を入れた。
前の兵の背が目の前にあった。肩の革帯が一歩ごとに擦れて鳴り、後ろからは別の足音が重なってくる。
アルの靴が土を踏み、前の兵と同じ歩幅で進んだ。




