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そして「神が死んだ」  作者: ぼん
第一部

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17/23

第17話:「これで、いい」

「ねえ、叩く音が違わない?」


 門の下で、ミュカが足を止めた。耳だけが通りの奥へ傾いている。


 一歩遅れて、アルにも聞こえた。日の落ちた通りでも槌の音はあちこちから届くが、どれも軽い。剣や盾を叩くときの、腹の底へ沈む鈍さがなかった。


 門を抜けると、夜気が外套の裾から入ってきた。鞘に添えた指の先が冷え、襟からは畑で染みた煙の匂いが上がる。そこへ炭の焦げた匂いが重なり、鼻の奥で混ざった。


 軒先を端から見渡した。剣も盾も、どこにも出ていない。


 最初の火床の赤い光の前に並んでいたのは、鋤の刃だった。幅の広い鉄が壁際に立てかけられ、隣の台には鎌が積まれている。反った刃の内側を、火の色が滑った。


 前掛けの職人は焼けた鉄に槌を振り下ろしていて、手を止めなかった。顎だけを引き、目をアルへ寄せる。


「勇者様。鋤の注文がまだ来るんですよ」


 槌が落ちて火花が散る。声はそれきりで、職人の目は鉄へ戻った。アルは頷いた。みぞおちの奥から何かが昇ってきて、喉元で止まっている。


 向かいの軒先では、水桶で冷まされた刃が白い湯気を上げている。火床から飛んだ火の粉が石畳で赤い点になり、靴の前で消えた。ミュカの耳は音の軽いほうへ、右へ左へと動き続けた。


 通りを進むと、一軒だけ打つ音の違う火床があった。細長い鉄が台に据えられ、槌が先端を絞っていく。赤く焼けた先が細り、穂先の形が伸びた。アルの目はそこを過ぎ、次の軒の鎌へ移った。


 戸口が次々に開いていた。前掛けの女と、鍋を提げた男が、敷居の内側から手を上げる。声はなかった。掌が肩の高さで止まるだけで、アルが頷き返すと、一本ずつ下りていく。


 革の鳴る音が、背後から駆け足で近づいてきた。振り返ると、守備隊の隊長が門のほうから追ってきている。火床ばかり見ていて、門の内側に立っていた姿を見落としていた。アルが立ち止まると、隊長は隣に並んで姿勢を正した。


「勇者様。宿に席を用意しております。今夜は、酒を出させてください」


「酒か。ありがてえ」


 ガイルが真っ先に門のほうへ顎をしゃくった。


 宿の戸を押すと、こもった人いきれが顔を包んだ。どの卓にも客が詰まり、閉めた板戸の内側の息は、外の夜気より温かい。隊長に通された奥の卓で、アルは戸口に背を向けて座った。隣にガイルが腰を下ろし、大盾を床に立てて肩で支える。向かいにはリリアとカリム、卓の端の椅子をミュカが引き寄せた。


 卓の木肌には、丸い輪の跡が幾つも重なっている。掌を置くと、拭き残しの湿りが指に貼りついた。


 給仕が素焼きの壺を運んできて、皿を並べた。隊長が自分で壺を傾け、木の杯を一つずつ満たしていく。酒の面に、灯りの揺れが映った。


「皆様の無事に」


 杯が触れ合い、短い音が重なった。酒が喉を焼いて降り、腹に落ちる。煙で乾いていた目の奥が、そこでゆるんだ。ミュカは杯の縁に鼻を寄せ、顔をしかめてから口をつけた。


 隊長が杯を置いた。


「勇者様。前進拠点を落とした話が、もう街に届いております。街道から戻った兵たちが話したようです」


 口へ運びかけたアルの杯が、途中で止まった。


「広まるのが早いな」


「確かなのは、それだけです。街の話はすぐ大きくなりますので」


 隣の卓で、椅子の脚が鳴った。こちらに背を見せていた男が、杯を持ったまま体ごと向き直る。頬が酒で赤い。


「その話だろ。聞こえちまってな」


 隊長が口を開く前に、男は身を乗り出した。


「勇者様が夜のうちにお一人で拠点へ乗り込んでよ、兵を残らず斬り伏せたんだろ。荷もあれだけあったのを全部一人で焼いたって話だ」


「いえ、そこまでは」


 隊長の声は男の声に押された。


「聞いたか、勇者様」


 ガイルが肘でアルの脇を突く。


「夜のうちに、お一人でだとさ。俺たちは荷物持ちだ」


「待って。待ってよ」


 ミュカが卓に両手をついた。


「火を点けたのは私だってば。燃えてる薪を荷の上に投げ込んだの、私」


「あんたが?」


 男の目が丸くなる。カリムが手の中の杯を下ろした。


「順に直しておきます。荷車が着いたのは、夜ではありません。日が高くなるころでした」


「昼間かい」


「それから、動いたのは五人です。燃える箱を大盾で弾いたのは」


「俺だな」


「……街へ戻る道を土と石で塞いだのは、私です」


「そこまで細かく直すんだ」


 リリアが肩を揺らして言う。カリムは指を一本立てて続けた。


「アルが斬ったのは、指揮の兵と、退かなかった兵と、見張りだけです」


 男の口が開いたまま止まり、次の瞬間、膝を打って笑いだした。


「なんだそりゃ、俺の話はほとんど外れじゃねえか! 昼間かよ!」


「外れてない分もあるよ。落としたのは本当だし」


 ミュカは卓の縁を掴んで身をよじり、その隣でガイルが仰け反った。肩で支えていた大盾が床を擦って鳴る。リリアは腕に額を伏せ、背を波打たせていた。


 カリムの肩が遅れて揺れた。口元を指で押さえても堪えきれず、喉から短く高い声が洩れた。


 アルは椅子ごと後ろへ傾き、天井へ向けて笑った。拳が卓を叩き、杯が跳ねて手の甲に酒がこぼれる。構わず掴み直し、残りを一息に呷って空にした。肩から腰まで震えが走って息が足りなくなり、咳き込んだ。その途中で、また喉が鳴った。目尻に滲んだものを指で拭う。


「いい話だな。カリムが直したほうも、一緒に広めてくれ」


「おう、広めてやらあ!」


 男が杯を高く掲げた。


「勇者様方に!」


 周りの客の杯が次々に上がる。声が重なり、食堂の端まで広がった。隣の卓の端にいた兵が一人、杯に手を伸ばさずに席を立つ。誰とも目を合わせないまま、アルの後ろを通って戸口へ向かった。アルは首を回して背を追う。戸が開いて夜が覗き、閉まった。


 目を戻すと、ミュカが何か言い、ガイルが吹き出したところだった。席はまだ沸いている。向かいではカリムの口元が緩んだままで、隊長は杯で顔の下半分を隠し、肩だけを上下させている。


 アルは卓に手をついて、一人で立ち上がった。


◇◇◇


 城壁の石段は、一段ごとに踏み面の真ん中が磨り減って、浅く窪んでいた。靴底でそこを拾って上がるうち、脚が弾んで段を飛ばしかけた。風の音は上へ行くほど太くなり、上がりきったところで正面からぶつかってきた。通路は左右へ延びて、どちらの端も闇に溶けている。通路の先で、槍を脇に立てた見張りの兵が一人、外へ顔を向けて立っている。足音にも振り向かない。


 アルは南側の縁まで進み、両の前腕を石に預けた。縁は腰より少し上の高さにあり、肘から先を並べてちょうど載る幅だった。掌を滑らせると、積んだ石の継ぎ目が指の腹に引っかかり、削れた粒がざらりと残る。身を乗り出すと、足元から下は真っ暗で、壁面の石さえ見分けられなかった。昼の熱はとうに抜けていて、袖越しの冷たさが骨まで染みてきた。南から吹く風が、酒で火照った頬と耳を冷やしていく。


 足の下から、槌の音が石組みを伝って上がってくる。門をくぐったときよりも間遠で、一打と一打のあいだに、宿のほうの人声が薄く混じった。誰かが出入りしたのか、声が一瞬だけ膨らみ、閉まる音とともに細った。あの声のどこかで、仲間はまだ卓を囲んでいるはずだった。前腕の骨にも、槌の拍が響いてくる。風が縁の角に当たって、短く鳴った。


 南には闇しかない。空と地面の境が、どこにもない。門から延びる街道だけが、闇より一段薄い帯になって先へ続いている。帯の途中、検問のあたりに火が一つ。さらに先、拠点のあった高みの下には、まとまって幾つか灯っていた。高みそのものは黒く塗りつぶされて形がなく、火の並びだけがその位置を教えている。どの火も風に押されて細く傾いては、また持ち直した。手前から奥へ、その火を目でなぞった。


 畑のあるはずの方角へ目を凝らした。何も見えない。それでも、そこに土があることが、掌の下の石の冷たさと同じ手触りで分かった。


 北の街道を下って門に着いた荷車の、麦袋の角ばった輪郭が、閉じかけた瞼の裏に浮かんだ。続けて、鋤の刃に割られた土が返ったときの震えが、石垣のそばに立っていた足の裏へ戻ってくる。どちらも息を一つ吸うあいだに過ぎ、指の下には石の硬さだけが残った。


 掌を返して、闇の中で眺めた。柄を握り続けて固くなった皮が、指の付け根に盛り上がっている。親指で押すと、皮の下の骨まで鈍く響いた。卓を叩いた拳の付け根が、まだうっすら疼いている。その疼きの奥で、脈が速く打っていた。


 両手を石に据え直し、体重を預けて爪先立ちになった。踵を石へ落とした瞬間、背骨を下から上へ、一本の硬い筋が通った。


 両腕を頭の上へ突き上げた。肩甲骨が軋み、背の筋が端から端まで伸びていく。外套が風を孕んで膨らみ、剣の鞘を叩いた。肺の底まで冷たい空気を詰め込むと、脇腹が張った。吐ききらないうちにまた吸い、もう一度吐いて、ようやく腕を下ろした。


 口を大きく開けた。声にはせず、息だけを外へ吐き出す。冷えた夜気が歯の裏を洗い、吐いたそばから押し戻してくる。


 外套の留め具を探り当て、指が痛むほどきつく留め直した。風の真正面に肩を据える。気づけば、爪先が石を叩いていた。下から届く槌の拍と合っている。止めずにそのまま叩かせておくと、足は縁を離れて通路を半ばまで行き、また戻ってきた。靴底の音が槌とずれて、また合う。通路の端で見張りの背が一度こちらへ傾き、すぐ前へ戻った。


 縁に両手をつく。石は掌の熱を吸っても冷えたままだった。指先が細かく震え、力を込めても止まらず、肘にまで伝わった。


 背後の石段で、窪みに靴底の嵌まる音が一段ずつ近づいてくる。歩幅が小さく、間が揃っていた。首を回すと、外套の裾を片手でたくし上げたリリアが、最後の段に足を掛けている。アルは手をついた姿勢のまま、その足が通路に載るのを待った。


 リリアは通路を数歩で渡って、アルの左に並んだ。縁に手を置くと、冷えた石に指を一度縮めて、横から顔を見上げた。


「いい顔をしてる」


「そうか?」


 アルは頬に片手を当てた。張りつめていた肉が掌の下で動き、耳の付け根までかっと血がのぼった。リリアの目はまだこちらを向いている。顔を引き締めてみたが、掌をどけると、頬はまた勝手に緩んだ。風が耳を撫でても、熱はひかなかった。


 リリアは答えなかった。石から手を離して、顔を南へ戻す。風が外套をあおり、その手が前を合わせた。手は胸の前で止まったまま、下りない。アルは横目で顔を見た。外套が風で背に張りつくと、リリアの肩の細さだけが浮いた。足元の石の隙間では、溜まった砂が筋を引いて走っている。通りの奥で槌が一打鳴り、間を置いて、もう一打続いた。アルも口を閉じ、同じほうへ目を戻した。


 二人で同じ闇を見ていた。並んで立つと、リリアの肩口はアルの二の腕ほどの高さだった。外套の裾どうしが、触れては離れた。通りから届いていた槌の音が、そのうちに絶えた。最後の一打が足の下を震わせ、あとは風の音になった。


「これで、いい」


 口に出した声は、思ったより低かった。隣の肩が一度だけ動いた。


 味方の火のさらに奥、闇の底に、新しい火が一つ灯った。細い光は一呼吸ごとに太っていく。間を置いた場所にもう一つ。その横に、また一つ。最初の一つはもう、味方の火と変わらない大きさに育っていた。どれも地面に近いところで燃えている。


 数え終わる前に、闇の奥で次の火が灯った。



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