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そして「神が死んだ」  作者: ぼん
第一部

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16/22

第16話:「戻る土地」

 木槌が杭の頭を打つ鈍い音が、畑の外れから続いていた。


 守備隊の兵が杭を支え、別の兵が槌を振り下ろす。打ち込まれた杭の頭は白く毛羽立ち、杭が沈むたびに、結び渡した縄が張って低く鳴った。槌の音は一拍遅れて、畑の向こうから返ってくる。縄の内側、街道に近い側には、槍を立てた見張りが間を置いて並んでいた。一人が五人へ目を向け、背筋を伸ばして、すぐ前へ顔を戻す。槍の石突きが土を一度叩いた。


 ふくらはぎの奥に、まだ重さが残っている。焼けた荷を背にして引き上げ、カルデンの門をくぐったのは日が落ちきってからだった。灯りの下で拠点を落としたと告げると、隊長は兵へ短く声を飛ばし、そのまま奥へ駆けていった。浅い眠りのあと、空が白むより先に、五人は隊長の後についてまた街を出た。


 杭の列の内側では、足元の雑草が兵に踏まれた筋に沿って倒れている。潰れた茎から草の汁の匂いが上がり、朝露で靴の甲が濡れた。爪先が冷える。リリアは外套の前を合わせ直し、カリムは杭の列を端から端まで目で測っていた。畑の縁に低く続く石垣に、ガイルが大盾を立てかけている。石の面に、水滴が筋を引いて落ちた。


 杭の位置を兵に指図していた守備隊の隊長が、列を回って戻ってきた。胸当てには泥が乾き、目の下に隈が浮いている。アルの前で足を止め、姿勢を正した。


「勇者様。夜のうちに、前進拠点の様子を見に行かせた兵が、先ほど戻っております」


「どうだった」


「空でした。高みに人影はなく、魔王軍は奥へ下がったものと見ております」


「そうか。ありがとう」


 隊長は頭を下げ、杭のほうへ引き返していった。


 アルが息を吐くと、ガイルが石垣に腰を下ろしかけ、すぐに浮かせた。


「冷てえ。朝露を全部吸ってやがる」


「座る前に触ればいいのに」


 ミュカが尾を揺らして笑う。


「奥へ下がったか。俺の盾が怖かったんだろうな」


「荷車の火が怖かったんでしょ。点けたの、私だし」


「その火を点けるあいだ、斜面の連中を止めてたのは誰だと思ってる」


「はいはい、ガイルの盾です」


 ガイルが鼻を鳴らし、リリアの口元が緩んだ。


 アルは縄の向こう、国境の方角へ顔を向けた。雲の影が杭の列を越え、その先の緑をゆっくり滑っていく。影の下には、草しかない。


 昨日、草の根に頬を付けて見上げた高みが、いま空になっている。


◇◇◇


 杭のまわりの草は踏み固められて、土が剥き出しになっていた。見張りが立ち続けた場所は、丸く窪んでいる。脇の焚き火の跡には灰が溜まり、風が吹くたびに薄く舞い上がった。


 街道のほうから、車輪の軋みが近づいてくる。荷車を押す者と荷を背負った者が土の道に連なり、畑のほうへ曲がってきた。男の肩では鍬の柄が揺れ、女の背の荷には布団が括りつけてある。布包みから鍋の取っ手が突き出し、手に提げた鋤の刃が歩くたびに光った。


「布団まで持ってきてやがる」


 ガイルが呆れた声を出すと、ミュカの耳がそちらを向いた。


「戻るんだから、当たり前でしょ」


 農民たちは畑の縁で荷を下ろすと、休む間もなく手を動かした。崩れた石垣の石を拾って積み直す者がいる。鎌で雑草を刈って山にし、燃やす者がいる。先頭の男は荷の脇の土を、靴の底で踏んで確かめていた。積み直した面には、土の中から拾い上げた石の湿った色が混じる。


 白い煙が畑の上を流れ、鼻の奥に焦げた草の匂いが残った。黒く焼けた地面が、緑のあいだに広がっていく。


 石垣の切れ目の先に、石を積んだ塚が低く盛り上がっている。積み石の隙間には草が根を下ろし、てっぺんの石だけが白く乾いていた。塚の裾の草だけが、刈り残されて伸びている。


 一人の男が焼け跡の隣の畝へ進み出た。鋤を土に立て、刃に足を掛ける。まわりの鎌の音が、一つまた一つと止んでいった。


「入れるぞ」


 男の体重が乗り、刃が土に沈む。


 黒く湿った土が割れて返り、断たれた草の根が白く覗いた。冷たい土の匂いが煙の下から立ち、アルの喉が鳴った。隣でガイルが拳を握り込む。息を吸ったまま、アルは吐くのを忘れていた。


 男はもう一度、鋤を踏み込んだ。刃が半ばまで入ったところで、硬い音を立てて止まる。


 鋤を置いて膝をつき、素手で土をかき分ける。出てきたのは、赤黒く錆びた穂先だった。葉の形をした刃は欠け、柄を差し込む根元は割れている。男は土を払いもせずに立ち上がり、塚の脇へ放った。


 草の中で、乾いた音が鳴る。その音が消えるより先に、畝の鎌がまた動きだしていた。


 ガイルの拳が腿の脇へ落ちた。アルは錆びた鉄が草に沈むのを見ていた。胸に溜めた息が、そのまま冷えていく。


 街道から最後に、女が一人上がってきた。背負った荷を下ろしもせず、石垣沿いを塚のほうへ歩いていく。塚の前で足が止まり、次の瞬間、膝が土に落ちた。


 声が上がった。


 言葉にならない声だった。喉の底から押し出されて、畑の端から端まで渡っていく。


 鎌の音が止まり、石を置こうとした手が宙で固まった。穂先を掘り出した男は、土から目を上げて動かない。縄の内側の見張りも、槍を握って女のほうへ顔を向けている。雑草の山だけが、ぱちぱちと爆ぜ続けていた。煙が風に傾いて女の背へ流れ、荷を包んだ布が灰色にくすんでいく。


 リリアが畝を回り込んで、女の脇に膝をついた。肩へ伸ばした手が届く前に、女が身を引く。


「立たなくていい。そばにいるから」


 女は首を振りもしない。声は一度途切れ、息を吸う音を挟んで、また上がる。そのあいだも、止まった鎌は一本も草に戻らない。リリアは手を膝の上へ下ろし、女の脇から離れなかった。


 アルは石垣のそばから動かなかった。


 塚の前には、老人が立っていた。組んだ手を胸に当て、白い頭を深く垂れる。風が白髪を乱しても、女の声が続くあいだも、頭は同じ高さのまま上がらない。その横でカリムは塚の積み石に目を留めていた。


 老人が顔を上げ、畑を見渡した。焦げた土と、刈られた畝の上を、目が巡る。


「国境の向こうに魔王軍が居座ってから、ここへは来られませんでした」


 ガイルが畑を見て言った。


「取り返した土地だ」


 老人は顎を引き、アルのほうへ向き直った。


「勇者様。ありがとうございます。戻れたのは、勇者様方のおかげです」


「ああ。戻れてよかった」


 老人が白髪の頭を下げる。アルは頷いた。


 ミュカが黒い地面に目を落とした。


「まだ焼け跡ばっかりだね」


 ガイルが肩を回した。


「これからだ」


 女の声はその後ろで続いていた。


 日が頭の真上を越えたころ、風向きが変わった。石垣の影は足元まで縮み、積み直した石の面から湿った色が抜けている。


 雑草を焼く煙が畑を斜めに渡り、石垣の際へ吹きつけた。目の奥が痛み、アルは手を上げて目元を擦りかける。喉の内側には焦げた草の粉が貼りつき、乾いた咳が出た。ミュカは手の甲で鼻を押さえ、耳を伏せた。塚のそばのリリアも、外套の袖で口を覆っている。


 畝の向こうでは、農民たちが袖で顔を覆ったまま鎌を動かしていた。雑草の山は崩れるたびに火の粉を上げ、焼け跡の黒い筋が、さっきより街道の側へ伸びている。


「擦らないで。余計に入る」


 リリアが塚の脇から袖越しに言った。アルは上げかけた手を下ろした。


 街道から畑へ、守備隊の隊長が歩いてきた。煙の中を胸当ての鈍い光だけが先に近づき、顔は輪郭を結んではまた崩れる。長靴の踵には街道の土がこびりつき、砂埃で膝まで白かった。煙を割って目の前まで来ると、隊長は胸を張って立った。


「勇者様。カルデンから、お知らせに参りました」


「何かあったか」


「検問の先に」


 隊長が拳を口に当て、体を折って咳き込んだ。


「失礼しました。検問の先に、兵を置きました。拠点のあった高みの下まで」


 また咳が挟まった。隊長は胸当てを拳で一度叩き、声を張り直す。


「こちらの槍が立っております」


「……そうか」


 踵が土を噛んだ。顎がひとりでに上がり、煙で痛む目は街道の方角から外れない。


――あそこまで、押し上げた。


 吸い込んだ息で胸が膨らみ、外套の前が内から突っ張った。剣の柄を握ってもいないのに、指が内側へ曲がろうとする。口の端が持ち上がって戻らない。笑いになりかけた息が煙を噛み、咳になって喉を叩いた。口を結んで、それも飲み込んだ。


「ほんとに? あの高みに?」


 ミュカの耳が立った。


「はい。見張りも、こちらの者に替わっております」


 近くで鎌を握っていた男が顔を上げ、街道の先へ目をやった。何も言わず、また鎌を振る。刈られた草は切り口から青い汁を滲ませ、雑草の山の裾で縮れて黒くなっていく。


 ガイルが煙に目を細めたまま、畑を見渡した。


「拠点の下まで押さえたなら、ここはもう後ろだな」


 風がまた向きを変え、煙が畑の上を回って、石垣の向こうの街道を呑んだ。隊長の姿もぼやけ、顔へ運ばれる腕の影だけが見える。アルの頬にも涙が伝い、顎から落ちた。拭わずに、街道の消えたあたりから顔を動かさなかった。


 日が傾いた。風は昼の湿りを失い、袖口から入って腕の内側を冷やした。石垣の影が畝を越えて伸び、塚の裾まで暗くなる。煙は朝から一度も晴れず、低くなった日の色を吸って赤茶けている。


 畑の隅では農民が桶を囲み、鋤の刃から泥を落としている。水に浸した手は赤く、桶の水は茶色く濁っていた。柄杓で水をかけるたびに泥が流れ、桶の縁を叩く音が鳴る。その水音のあいだにも、焦げた匂いは外套の襟にまで染みつき、首を回すたびに鼻先へ戻ってくる。畝の端に並んだ荷の布団は、煙を吸って灰色に湿っていた。


「戻るぞ。風が冷えてきやがった」


 ガイルが大盾を背負い直し、先に足を向けた。


「ああ」


 塚のほうで、カリムが積み石から目を離す。


 リリアは塚の前に座り込んだ女へ身を屈めていた。


「もう行くね」


 女は膝の前で手を握り、顔を上げない。目はその手の先、草の根元の一点から離れない。声は嗄れ、息の音だけが続いていた。リリアは腰を上げ、アルたちのほうへ戻ってきた。女の足は畑の土を踏まないままだった。


 五人は石垣沿いに街道のほうへ歩きだした。杭の列の内側で、見張りが槍を持ち替える。踏み固められた土は朝よりも硬く、草の筋を踏むたびに、乾いた茎が脛に当たった。街道の端が近づいたとき、背中に声が掛かった。


「勇者様」


 振り返ると、塚の前に老人が立っていた。顔をまっすぐアルへ向け、胸に当てていた両手を体の脇へ垂らしている。眉の下の目は乾いていた。


「戦は、いつ終わるのですか」


 礼を言った声より低く、語尾が短く切れた。水の音が途切れる。前を行くガイルの足音が止まり、ミュカの尾の揺れが消えた。


 冷えた風が煙の匂いを運んでくる。頬はこわばっていくのに、腹の底だけが熱い。アルは爪先を返し、老人と正面から向き合った。


「終わらせる」


 老人は頷かなかった。礼の言葉もない。塚へ向き直った。


 薄い上着の裾が、風にめくれた。アルの足は街道へ戻らなかった。


 桶の縁を、また水が叩きはじめる。



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