第16話:「戻る土地」
木槌が杭の頭を打つ鈍い音が、畑の外れから続いていた。
守備隊の兵が杭を支え、別の兵が槌を振り下ろす。打ち込まれた杭の頭は白く毛羽立ち、杭が沈むたびに、結び渡した縄が張って低く鳴った。槌の音は一拍遅れて、畑の向こうから返ってくる。縄の内側、街道に近い側には、槍を立てた見張りが間を置いて並んでいた。一人が五人へ目を向け、背筋を伸ばして、すぐ前へ顔を戻す。槍の石突きが土を一度叩いた。
ふくらはぎの奥に、まだ重さが残っている。焼けた荷を背にして引き上げ、カルデンの門をくぐったのは日が落ちきってからだった。灯りの下で拠点を落としたと告げると、隊長は兵へ短く声を飛ばし、そのまま奥へ駆けていった。浅い眠りのあと、空が白むより先に、五人は隊長の後についてまた街を出た。
杭の列の内側では、足元の雑草が兵に踏まれた筋に沿って倒れている。潰れた茎から草の汁の匂いが上がり、朝露で靴の甲が濡れた。爪先が冷える。リリアは外套の前を合わせ直し、カリムは杭の列を端から端まで目で測っていた。畑の縁に低く続く石垣に、ガイルが大盾を立てかけている。石の面に、水滴が筋を引いて落ちた。
杭の位置を兵に指図していた守備隊の隊長が、列を回って戻ってきた。胸当てには泥が乾き、目の下に隈が浮いている。アルの前で足を止め、姿勢を正した。
「勇者様。夜のうちに、前進拠点の様子を見に行かせた兵が、先ほど戻っております」
「どうだった」
「空でした。高みに人影はなく、魔王軍は奥へ下がったものと見ております」
「そうか。ありがとう」
隊長は頭を下げ、杭のほうへ引き返していった。
アルが息を吐くと、ガイルが石垣に腰を下ろしかけ、すぐに浮かせた。
「冷てえ。朝露を全部吸ってやがる」
「座る前に触ればいいのに」
ミュカが尾を揺らして笑う。
「奥へ下がったか。俺の盾が怖かったんだろうな」
「荷車の火が怖かったんでしょ。点けたの、私だし」
「その火を点けるあいだ、斜面の連中を止めてたのは誰だと思ってる」
「はいはい、ガイルの盾です」
ガイルが鼻を鳴らし、リリアの口元が緩んだ。
アルは縄の向こう、国境の方角へ顔を向けた。雲の影が杭の列を越え、その先の緑をゆっくり滑っていく。影の下には、草しかない。
昨日、草の根に頬を付けて見上げた高みが、いま空になっている。
◇◇◇
杭のまわりの草は踏み固められて、土が剥き出しになっていた。見張りが立ち続けた場所は、丸く窪んでいる。脇の焚き火の跡には灰が溜まり、風が吹くたびに薄く舞い上がった。
街道のほうから、車輪の軋みが近づいてくる。荷車を押す者と荷を背負った者が土の道に連なり、畑のほうへ曲がってきた。男の肩では鍬の柄が揺れ、女の背の荷には布団が括りつけてある。布包みから鍋の取っ手が突き出し、手に提げた鋤の刃が歩くたびに光った。
「布団まで持ってきてやがる」
ガイルが呆れた声を出すと、ミュカの耳がそちらを向いた。
「戻るんだから、当たり前でしょ」
農民たちは畑の縁で荷を下ろすと、休む間もなく手を動かした。崩れた石垣の石を拾って積み直す者がいる。鎌で雑草を刈って山にし、燃やす者がいる。先頭の男は荷の脇の土を、靴の底で踏んで確かめていた。積み直した面には、土の中から拾い上げた石の湿った色が混じる。
白い煙が畑の上を流れ、鼻の奥に焦げた草の匂いが残った。黒く焼けた地面が、緑のあいだに広がっていく。
石垣の切れ目の先に、石を積んだ塚が低く盛り上がっている。積み石の隙間には草が根を下ろし、てっぺんの石だけが白く乾いていた。塚の裾の草だけが、刈り残されて伸びている。
一人の男が焼け跡の隣の畝へ進み出た。鋤を土に立て、刃に足を掛ける。まわりの鎌の音が、一つまた一つと止んでいった。
「入れるぞ」
男の体重が乗り、刃が土に沈む。
黒く湿った土が割れて返り、断たれた草の根が白く覗いた。冷たい土の匂いが煙の下から立ち、アルの喉が鳴った。隣でガイルが拳を握り込む。息を吸ったまま、アルは吐くのを忘れていた。
男はもう一度、鋤を踏み込んだ。刃が半ばまで入ったところで、硬い音を立てて止まる。
鋤を置いて膝をつき、素手で土をかき分ける。出てきたのは、赤黒く錆びた穂先だった。葉の形をした刃は欠け、柄を差し込む根元は割れている。男は土を払いもせずに立ち上がり、塚の脇へ放った。
草の中で、乾いた音が鳴る。その音が消えるより先に、畝の鎌がまた動きだしていた。
ガイルの拳が腿の脇へ落ちた。アルは錆びた鉄が草に沈むのを見ていた。胸に溜めた息が、そのまま冷えていく。
街道から最後に、女が一人上がってきた。背負った荷を下ろしもせず、石垣沿いを塚のほうへ歩いていく。塚の前で足が止まり、次の瞬間、膝が土に落ちた。
声が上がった。
言葉にならない声だった。喉の底から押し出されて、畑の端から端まで渡っていく。
鎌の音が止まり、石を置こうとした手が宙で固まった。穂先を掘り出した男は、土から目を上げて動かない。縄の内側の見張りも、槍を握って女のほうへ顔を向けている。雑草の山だけが、ぱちぱちと爆ぜ続けていた。煙が風に傾いて女の背へ流れ、荷を包んだ布が灰色にくすんでいく。
リリアが畝を回り込んで、女の脇に膝をついた。肩へ伸ばした手が届く前に、女が身を引く。
「立たなくていい。そばにいるから」
女は首を振りもしない。声は一度途切れ、息を吸う音を挟んで、また上がる。そのあいだも、止まった鎌は一本も草に戻らない。リリアは手を膝の上へ下ろし、女の脇から離れなかった。
アルは石垣のそばから動かなかった。
塚の前には、老人が立っていた。組んだ手を胸に当て、白い頭を深く垂れる。風が白髪を乱しても、女の声が続くあいだも、頭は同じ高さのまま上がらない。その横でカリムは塚の積み石に目を留めていた。
老人が顔を上げ、畑を見渡した。焦げた土と、刈られた畝の上を、目が巡る。
「国境の向こうに魔王軍が居座ってから、ここへは来られませんでした」
ガイルが畑を見て言った。
「取り返した土地だ」
老人は顎を引き、アルのほうへ向き直った。
「勇者様。ありがとうございます。戻れたのは、勇者様方のおかげです」
「ああ。戻れてよかった」
老人が白髪の頭を下げる。アルは頷いた。
ミュカが黒い地面に目を落とした。
「まだ焼け跡ばっかりだね」
ガイルが肩を回した。
「これからだ」
女の声はその後ろで続いていた。
日が頭の真上を越えたころ、風向きが変わった。石垣の影は足元まで縮み、積み直した石の面から湿った色が抜けている。
雑草を焼く煙が畑を斜めに渡り、石垣の際へ吹きつけた。目の奥が痛み、アルは手を上げて目元を擦りかける。喉の内側には焦げた草の粉が貼りつき、乾いた咳が出た。ミュカは手の甲で鼻を押さえ、耳を伏せた。塚のそばのリリアも、外套の袖で口を覆っている。
畝の向こうでは、農民たちが袖で顔を覆ったまま鎌を動かしていた。雑草の山は崩れるたびに火の粉を上げ、焼け跡の黒い筋が、さっきより街道の側へ伸びている。
「擦らないで。余計に入る」
リリアが塚の脇から袖越しに言った。アルは上げかけた手を下ろした。
街道から畑へ、守備隊の隊長が歩いてきた。煙の中を胸当ての鈍い光だけが先に近づき、顔は輪郭を結んではまた崩れる。長靴の踵には街道の土がこびりつき、砂埃で膝まで白かった。煙を割って目の前まで来ると、隊長は胸を張って立った。
「勇者様。カルデンから、お知らせに参りました」
「何かあったか」
「検問の先に」
隊長が拳を口に当て、体を折って咳き込んだ。
「失礼しました。検問の先に、兵を置きました。拠点のあった高みの下まで」
また咳が挟まった。隊長は胸当てを拳で一度叩き、声を張り直す。
「こちらの槍が立っております」
「……そうか」
踵が土を噛んだ。顎がひとりでに上がり、煙で痛む目は街道の方角から外れない。
――あそこまで、押し上げた。
吸い込んだ息で胸が膨らみ、外套の前が内から突っ張った。剣の柄を握ってもいないのに、指が内側へ曲がろうとする。口の端が持ち上がって戻らない。笑いになりかけた息が煙を噛み、咳になって喉を叩いた。口を結んで、それも飲み込んだ。
「ほんとに? あの高みに?」
ミュカの耳が立った。
「はい。見張りも、こちらの者に替わっております」
近くで鎌を握っていた男が顔を上げ、街道の先へ目をやった。何も言わず、また鎌を振る。刈られた草は切り口から青い汁を滲ませ、雑草の山の裾で縮れて黒くなっていく。
ガイルが煙に目を細めたまま、畑を見渡した。
「拠点の下まで押さえたなら、ここはもう後ろだな」
風がまた向きを変え、煙が畑の上を回って、石垣の向こうの街道を呑んだ。隊長の姿もぼやけ、顔へ運ばれる腕の影だけが見える。アルの頬にも涙が伝い、顎から落ちた。拭わずに、街道の消えたあたりから顔を動かさなかった。
日が傾いた。風は昼の湿りを失い、袖口から入って腕の内側を冷やした。石垣の影が畝を越えて伸び、塚の裾まで暗くなる。煙は朝から一度も晴れず、低くなった日の色を吸って赤茶けている。
畑の隅では農民が桶を囲み、鋤の刃から泥を落としている。水に浸した手は赤く、桶の水は茶色く濁っていた。柄杓で水をかけるたびに泥が流れ、桶の縁を叩く音が鳴る。その水音のあいだにも、焦げた匂いは外套の襟にまで染みつき、首を回すたびに鼻先へ戻ってくる。畝の端に並んだ荷の布団は、煙を吸って灰色に湿っていた。
「戻るぞ。風が冷えてきやがった」
ガイルが大盾を背負い直し、先に足を向けた。
「ああ」
塚のほうで、カリムが積み石から目を離す。
リリアは塚の前に座り込んだ女へ身を屈めていた。
「もう行くね」
女は膝の前で手を握り、顔を上げない。目はその手の先、草の根元の一点から離れない。声は嗄れ、息の音だけが続いていた。リリアは腰を上げ、アルたちのほうへ戻ってきた。女の足は畑の土を踏まないままだった。
五人は石垣沿いに街道のほうへ歩きだした。杭の列の内側で、見張りが槍を持ち替える。踏み固められた土は朝よりも硬く、草の筋を踏むたびに、乾いた茎が脛に当たった。街道の端が近づいたとき、背中に声が掛かった。
「勇者様」
振り返ると、塚の前に老人が立っていた。顔をまっすぐアルへ向け、胸に当てていた両手を体の脇へ垂らしている。眉の下の目は乾いていた。
「戦は、いつ終わるのですか」
礼を言った声より低く、語尾が短く切れた。水の音が途切れる。前を行くガイルの足音が止まり、ミュカの尾の揺れが消えた。
冷えた風が煙の匂いを運んでくる。頬はこわばっていくのに、腹の底だけが熱い。アルは爪先を返し、老人と正面から向き合った。
「終わらせる」
老人は頷かなかった。礼の言葉もない。塚へ向き直った。
薄い上着の裾が、風にめくれた。アルの足は街道へ戻らなかった。
桶の縁を、また水が叩きはじめる。




