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そして「神が死んだ」  作者: ぼん
第一部

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15/23

第15話:「線を断つ」

 ミュカの指先が、高みのほうを差していた。起き上がった片耳も、同じほうへ据わったまま動かない。


 斜面の上で石が転がり、続いて土を踏む重い足音が下りてきた。草の根元に頬を寄せたまま、アルは息を口の端から細く逃がす。左でリリアの外套が衣擦れを立て、すぐに静まった。右のガイルは大盾の陰に肩を沈めている。


「来たよ。そのまま、草から出ないで」


 前のミュカが唇をほとんど動かさずに囁いた。


 足音は街道へ出ると、土を叩く音に変わった。具足の金具が触れ合い、槍の石突きが路面を突くたびに短く鳴る。革の軋みに、荒い鼻息が混じった。隊は街の方角へ上っていき、先頭が草の脇を通ったとき、石突きが道端の草を擦る音がアルの耳のすぐ上を渡った。汗と油の臭いが降ってくる。兵の頭に生えた角が空を切って過ぎ、肩に担いだ槍の柄が揺れるたびに、穂先の影が顔の前を横切った。草の合間を泥の跳ねた脛当てが次々に塞ぎ、そのたびに視界が暗くなって、また開いた。


 隊の途中で、一人の兵の足が草の際で止まりかけた。踵が路面を擦り、爪先がこちらへ向く。柄の革が、掌の汗でぬめった。喉の奥に唾が張りつき、まばたきが遅れた。


 爪先が戻った。後ろの兵の足に押されたのか、自分で踏み出したのか、草の隙間からは見分けがつかない。具足の音が列へ戻り、離れていく。


 音は坂の上へ薄れていった。最後の足音が耳から消えるまで、アルは頭を上げなかった。


 右で、ガイルの胸が大きく沈んだ。押し殺した息が抜け、大盾に付いた土が小さく崩れる。


「……心臓に悪い。あいつの足、俺の盾の縁まで来てたぞ。声が出るかと思った」


 土に吸われるほど低い声だった。


 顎を草の上へ持ち上げる。高みの裏から、細い煙が立っていた。白い糸が風に押されて傾き、上でほどけていく。木の焦げる匂いが鼻をかすめた。何が燃えているのかは、ここからは見えない。煙の立つ位置だけを、アルは頭に刻んだ。


 外套の背に染みていた露が引き、乾いた布が日を吸って背を焼いている。顔の脇の草の影は朝には長く地面を這っていたのに、いまは根元に縮んで頬の横に黒い染みを作るだけになった。手の甲の産毛まで乾き、握った掌の中でだけ汗が湿っている。


 車輪の音が先に聞こえてきた。街の方角から、土を噛む音と蹄の鈍い拍が、坂を下ってくる。草の向こうに、白い布の揺れが入った。荷に布を掛けた車が、列をなして近づいてくる。引くのは馬で、腹を汗で黒く光らせ、手綱を取る兵が首筋を叩いて宥めていた。脇を槍の兵が固め、その歩調が荷車の軋みに合っている。風にめくれた布の裾から、縄をかけた木箱の角が覗いた。


 その列の中ほどに、荷台の箱の縁へ片手を置いて歩く兵がいた。轍の窪みで荷台が跳ねても、掌は縁から離れない。もう一方の手は腰に垂れたままで、歩幅は乱れなかった。


――ついてきた。


 柄にかけた指が、勝手に締まった。


 荷車が五人の前を過ぎた。馬の汗と干し草の匂いが草を越えて流れ込み、蹄が地面を揺らして頭のすぐ先を通っていく。高みの下で先頭の車輪が止まり、後ろの車が順に詰まって、軋みが途切れた。


 高みの斜面を、拠点の兵が下りてくる。荷を受けに来る足取りで、槍は肩に載せたままだ。縁には槍を手にした兵が一人残り、石突きを土に当てて動かない。下りていく兵は、足を止めるたびに顔を縁へ振り上げた。


 首を回すと、ガイルが大盾の上端に手を掛けていた。前ではミュカの耳が起き、左のリリアの向こうで、カリムが腕に伏せていた額を上げている。木立の土に指で引いた線の、右の端だった。


 アルは顎を土に付けたまま、声だけを順に送った。


「ガイル、正面を頼む。斜面の連中を盾で止めてくれ」


「おう。やっと動けるな。尻が土の形になるところだった」


 ガイルが低く笑い、鎧の肩が草の中で小さく鳴った。


「ミュカは高みの裏だ。煙の出てる側に回ってくれ」


 ミュカの顔が、肩越しにこちらを向いた。


「煙が出てるなら、下に火があるよね。……借りてくるよ」


 ガイルの首が持ち上がった。


「借りるって、おい、何を」


「いいから。私が着くまで、誰も動かないでよ」


 ガイルは口を開けたまま、続きを呑み込んだ。


「カリム。街へ戻る側の道を頼む」


「……はい。荷車が止まっているうちに、そちらへ回ります」


 カリムが肘を立て、膝を胸の下へ引き寄せた。


「俺は指揮の兵をやる。リリアは後ろに」


「うん。ここにいる」


 リリアは鞄の紐から手を離さずに頷いた。


「合図は俺が出す。それまで待て」


「分かってるって。ちゃんと見ててよ、アル」


 ミュカが外套の裾を腰に絡げ、肘と膝で草を割って下がっていく。尾の先が最後まで残り、草の波に沈んだ。遠回りの足音は、馬の鼻息と兵の話し声に紛れて聞こえない。


 荷受けの兵が車の脇に着いた。布の端を持ち上げ、箱の角を拳で叩いて回る。叩かれた箱が、乾いた音で応えた。縁の指揮の兵は柄を握った手の位置を変えず、下りた兵の背を目で追っている。


 煙の根元のあたりで、草の穂が揺れた。ミュカだ。アルは息を吸い込み、縁を見上げる。


 指揮の兵の顔が、布をめくる荷受けの手元へ落ちた。


 アルは身を起こしざま、声を張った。


「今だ! ガイル、前へ! ミュカ、頼む! カリム、道を!」


 ガイルが大盾を引き起こして草から立ち、荷車の脇へ下りてきた拠点の兵の正面へ肩から入った。盾の面を槍が叩いて、土が鳴る。同じ頃、高みの脇からミュカが飛び出した。先の赤く燃えた薪を片手に、列の最後尾の荷へ駆け寄って布の上へ投げ込む。布の端が黒く縮んで赤い舌が這い上がり、馬が嘶いて前脚を上げる。綱を引きちぎって逃げる馬が出ると、嘶きと車輪の軋みが重なって街道の土が震え、詰まった列は四方へ割れた。街の方角の道ではカリムの前で両脇の土と石が崩れ落ち、轍を埋めて荷車の退路を塞いでいく。アルはその音を背に、草を蹴って斜面へ走った。


「こっちだ、槍の連中! 盾の裏までは通さねえぞ!」


 背中でガイルが怒鳴った。


 崩れた土の向こうから、カリムの声がした。


「道は塞ぎました」


 斜面の草は短く、根が靴底に噛む。縁に立つ指揮の兵が荷の煙へ顔を振り、次にこちらを見た。槍を握った腕が肩の高さへ上がりかける。穂先が空を向ききる前に、アルの剣が脇腹へ食い込んだ。


 槍は上がらなかった。


 兵が縁から滑り、アルの足元の草へ転がった。荷を受けに下りていた兵たちは、槍を手に提げたまま顔だけを縁へ向けている。前へも後ろへも足が出ず、ガイルの盾の前でも燃える荷の脇でも、首だけが同じ向きに回って固まっていた。胸の底から熱が突き上げ、剣の重さが掌から消える。勝てる、と体が先に言った。


「縁を取った! ガイル、もう少し持たせろ!」


 荷車の列へ叫ぶと、盾越しに返事が来た。


「任せとけ!」


 その声の向こうで、荷台の箱の縁に片手を置いていた輸送隊の兵が動いた。燃え出した箱を掌一つで浮かせ、腕を振る。炎を引いた箱が、街道脇の草に伏せたリリアと、道にいるカリムのほうへ飛んだ。


「リリア、頭を下げてください」


 言い終わるより先に、炎の尾が二人の頭上へ来ていた。リリアは身を伏せて、顔も上げない。アルの足は斜面の途中にある。届かない。喉の奥で、声にならない息が詰まった。


 箱が落ちる軌道の下へ、ガイルが持ち場を捨てて駆け戻り、割り込んだ。大盾を斜めに起こし、箱の底を面で受ける。鈍い衝撃が盾の裏を打ち、膝が土へ沈みかけたが、肩で押し上げた。箱は盾の面を滑って弾かれ、草の上で跳ねて燃える中身をぶちまける。


「後ろは通行止めだ!」


 盾の影から、ガイルが吠えた。箱を投げた兵の腕は宙に残っている。次の箱へ手が伸びる前に、退く兵の背がその前を埋めた。


 リリアが草の中から顔を上げる。


「ガイル、腕は」


「何ともねえ。盾が鳴いただけだ」


 道のほうで、カリムが息をついた。


「助かりました」


 馬に押された荷車が横へ傾き、燃える荷の陰から兵が転げ出た。仲間の腕を肩に回し、高みの裏手から水場の奥の道へ向かう者がいる。その脇で槍を捨てた者が荷車の陰へ潜り込み、立ち止まって振り返る者の背に、後ろから来た者がぶつかり、構わず追い越していく。


 一人だけが退かなかった。


 その兵は仲間の背と斜面のあいだに立ち、槍をアルの胸へ据えていた。踏み込むと、穂先は剣の通る筋へ半歩ずれ、受けた剣が柄の根元で止まる。押し返す腕に迷いがなく、体重を前の足から後ろの足へ流して、こちらの勢いだけを逃がしている。打ち込むほど押し返され、足場の悪い斜面ではアルの踵のほうが先に下がった。右から打てば柄が待ち、左へ回れば足が先にそこにある。


 読まれている。


 肩を落とし、わざと胴を空けると、槍が突き出された。その一瞬を待って身を捻る。穂先は思ったより低く入り、左の前腕を縦に裂いた。熱いものが袖の内を伝って、指先から落ちる。アルは剣を引かず、柄に沿わせて相手の手元へ潜り込んだ。兵の指が柄から離れかけ、手首を返すより先に、胸へ剣が通る。兵は膝を折り、槍を放さないまま倒れた。最後まで、背後の仲間を振り返らなかった。


 胸から剣を引き抜く。


 息を継いで見上げると、縁の向こうに見張りが一人残っていた。石突きを土に突き立てたまま、退く仲間の背も煙を上げる荷車も見える位置から足を引かない。


 斜面を上る。左腕から落ちた血が、草に点を打っていく。縁を越えると、見張りは立てていた槍を倒し、穂先をこちらへ向けた。打ち合いは短かった。剣が胸に通り、見張りは自分の槍の柄を抱えたまま、膝から崩れた。


 高みの上に、他に動く者はいない。裏手では炊事の火が一つ残り、細い煙を上げていた。薪を抜かれた跡のまわりで、走り去った足跡が土を乱している。アルは剣を下げて、それを見下ろした。


 斜面を下りて街道へ戻る。日はとうに昇りきっていたが、荷の煙が街道に低く溜まり、光は白く濁っている。荷車の影さえ、地面に落ちない。布の焼け落ちた荷台には、干した果実の袋が口を開けて黒く焦げ、塩の袋は裂けて白い粒が灰に混じっている。縄に吊られた燻した肉は端から縮んでいた。果実の焦げる甘い匂いに脂の焼ける匂いが混ざり、喉の奥に絡みつく。別の車には箱が並び、割れた蓋の隙間から剣の鞘や槍の穂先が覗く。


 荷車の陰に、逃げ遅れた拠点の兵がうつ伏せに倒れていた。背中に煤が降り積もり、投げ出された手は轍の端に指をかけて、もう動かない。


「ミュカ、火傷は」


 呼ぶと、ミュカは燃えさしを掴んでいた右手をひらひらと振って見せた。


「してない。尻尾の毛が少し焦げただけ」


 ミュカは荷台の端に屈み、焦げた果実を一つ拾いかけた。黒く縮んだ皮の皺に、灰が詰まっている。指が離れ、実は荷台の板に転がった。尾の先が、地面すれすれまで下がる。ミュカは隣の箱の蓋に手をかけた。


「剣と槍の穂先ばっかり。どれも同じ造りだよ」


 蓋を持ち上げたミュカの手が止まる。箱の板に、刻印が打たれていた。


「ガルドって書いてある」


「東の鍛冶の街ですね」


 崩した道の側から歩いてきたカリムが、足を止めて答えた。


 煙が地を這って流れ、箱の刻印を一度隠し、また見せた。ミュカの指先は、刻印の溝に置かれたままだった。


 左の袖が血で重い。アルは荷車の車輪の脇に腰を下ろした。伸ばした靴の先から腕一本ぶん向こうに、煤をかぶった兵の背がある。歩み寄ったリリアが、アルの正面に膝をついた。


「深く入ってる。動かないで」


「平気だ、このくらい」


 アルは腕を預けて言った。


「治ってから言って」


 柔らかい声のまま、リリアは袖をまくり、裂け目に掌を当てる。その下で傷の縁が寄っていく。熱が引き、袖の内側には乾きかけた血だけが残った。アルは拳を握って開き、指が全部動くのを確かめる。


「痛みは?」


 リリアが顔を上げた。


「ない。助かった」


 立ち上がると、足の下で灰が崩れた。


「肉も果実も丸焼けか。昼飯は自前で探すしかねえな」


 ガイルが盾を土に突いて笑った。いつもなら真っ先に混ぜ返す声が、刻印の箱の前から来ない。ガイルの笑いは咳払いに変わり、そこで途切れた。


 剣を鞘に納め、アルは言った。


「引き上げる」


 五人は国境側へ向かう街道に足を向けた。先を行くガイルが、倒れた兵の腕を大きくまたぐ。アルの靴も、同じところを越えた。背後では、荷の煙がまだ上がっている。


 一度だけ、肩越しに高みを仰いだ。縁に立つ影はない。その奥へ延びる道を、退いた者たちの背が散り散りに下がっていく。高みの陰を過ぎても、足を止める背は一つもなかった。



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