第23話:「退く日」
継ぎ目から先がごっそり空いた右の列へ、魔族が押し入ってくる。
槍を失った兵が、空いた幅の両端で素手のまま踏みとどまっていた。アルはそのあいだへ滑り込み、最初の剣を受けた。左の二の腕に力がこもった途端、袖の下で傷が引きつれる。奥歯を噛んで押し返し、横から伸びた別の剣を鍔で受け流して、先頭の脇腹へ剣先を送った。倒れた魔族の体が、あとから来る足の前で道を塞ぐ。踏み荒らされた土と血の匂いが、吸うたびに喉の奥へ貼りついた。
右の耳元で、鉄と鉄が噛み合った。追いついたガイルが継ぎ目の右の端へ大盾をねじ込み、押し寄せる角の列を肩ごと押し留めている。
「縁は俺が受ける! 入った奴を頼む」
ミュカは列の後ろの持ち場で、短刀を下げたまま顔を左へ振った。耳が大きく動いて止まる。
「真ん中、声が全部後ろへ流れてる」
左の奥から、叫びがひとつにまとまって上がった。言葉は潰れて音だけが届く。首を回すと、陣の中ほどで兵が次々に向きを変え、後ろへ走り出していた。土埃が立ち、どの隊の背なのか見分けがつかない。立てたまま置き去りにされた槍が一本、人の流れに押されて斜めに倒れていく。その方向へ踏み出しかけた踵を、正面から来た剣が縫い止めた。
前衛隊の隊長が、兵の肩を押し分けて後ろから駆け込んできた。額の布から垂れた血が、片目の上まで伝っている。
「中央が抜かれました! 全軍、後退です。勇者様方にしんがりをお願いします」
正面の剣を弾き上げた拍子に、喉から声が出た。
「任せろ! ガイル、ミュカ、荷車の後ろにつけ!」
隊長は頷く間も惜しんで、次の隊のほうへ走っていった。ガイルが盾を押し出して先頭を突き飛ばし、できた間に身を引く。幅の両端にいた兵が身を翻し、そのまま陣の奥へ駆けていく。
天幕の張り綱を跨いで走るあいだにも、荷車の列は動きはじめていた。誰かが蹴り倒した水桶から濁った水が流れ出し、乾いた土に黒い筋を引いて吸われていく。畳む者のいない天幕の布が、風を孕んで張り綱ごと鳴った。その水桶のそばから、帳面を腰へ押し込んだカリムが、荷車の脇を列の前のほうへ急いだ。いちばん後ろの荷台の脇で、リリアが負傷兵の腕を肩に回して荷台へ押し上げながら、顔だけをこちらへ向けた。アルは走る足を緩めずに呼んだ。
「リリア! 荷車と先に下がれ!」
「分かった」
リリアは荷台の縁を叩いて輜重の男に合図し、動き出した車輪の脇へ入っていく。神官装束の裾が、荷車の陰へ消えた。
荷車に追いつくと、歩ける兵が肩を貸し合い、車輪の跡を踏んでついていた。荷車は人が歩くより遅い。列の先頭までは、まだ声の届く距離だった。日はもう西へ寄りはじめ、車輪の巻き上げる土埃が斜めの光の中に白く浮いて、口を開けるたびに舌がざらついた。振り返ると、魔族の角が草の上へ横に並んでいた。
ミュカが走りながら耳を立て、首を左右へ振る。
「左の起伏の陰、固まってる! ……違う、まだ増える!」
列の先頭のほうで、荷車の軋みが途切れた。前寄りの一台が割れた轍に車輪を取られて傾き、後ろの荷車が次々に止まった。その車輪の前にカリムが屈み込み、片手を道の土へ押し当てていた。うつむいた口元から、短い声が地面へ落ちる。
「ならせ」
割れた轍の縁が崩れて埋まり、道が一枚の平らな帯に戻る。車輪が土を噛んで回り出した。カリムは立ち上がらず、手を次の轍へ移す。そちらの土にも、もうひびが走っている。
「カリム! 後ろへ回れるか!」
アルが叫ぶと、カリムは顔を上げないまま首を振った。
「離れられません。次の轍も割れています」
道は少し先で左右から盛り上がった地面に挟まれ、荷車がやっと通る幅まで狭まっていた。最後の荷車がそこを抜けると、ガイルがその狭まりへ飛び込んで振り返り、大盾の下端を土へ突き立てて道幅いっぱいに構える。追ってきた先頭の魔族が盾の面へ角から突っ込み、後ろの者がその背にぶつかって止まった。受け止めた重みに、ガイルの肩が盾ごと沈んだ。欠けの増えた縁を剣が叩くたびに、盾の裏で息が短く鳴った。
「ここで塞ぐ! アル、左の斜面だ! 奴ら、そっちへ流れるぞ!」
アルは盾の左脇へ走り込み、振り向きざまに兵へ腕を振った。
「下がるな、並べ!」
しんがりに残った兵が数人、槍を構えてアルの脇へ並んだ。
道を塞がれた魔族が、左の盛り上がりを滑り降りてくる。受けた剣を横へ流し、返しざまに脛を払うと、体勢の崩れた胸を味方の槍が突いて止めた。続く剣を跳ね上げたとき、左の袖が突っ張って肘が遅れる。
斜面の上から、ミュカが鼻先を風上へ向けて叫んだ。
「奥の草、匂いが近い! 足も速い!」
アルの脇で、兵の一人が横から入った魔族の剣を肩に受け、前へ倒れ込んだ。手を離れた槍が、土の上を滑っていく。伏せた背の革帯が裂け、肩から流れたものが草の根へ染みていった。目がその背から離れず、足がそちらへ寄りかけて、アルは怒鳴った。
「詰めろ!」
空いた脇へ、別の兵が槍を構えたまま詰めた。盾の先では、剣のぶつかる音がまだ続いている。
「右の草が動いた! 回り込んでくる!」
ミュカの声に、ガイルが大盾を土から引き抜いて構え直し、前のめりに崩れた魔族を押し返した。
「下がるぞ、アル! 次の起伏までだ!」
アルはしんがりの兵と並び、ガイルの背を追って後ろへ足を送る。
窪地へ下りる道は、傾いた日に片側の斜面だけを赤く焼かれ、荷車の車輪が地面へ長い影を引いていた。道の脇には溝が走り、最後尾に近い一台がその縁へ寄っている。背後で盾を打つ剣の音が、さっきより間を詰めている。
軋みが止まった。右の後輪が溝へ落ち、荷台が斜めに沈んで、積まれた負傷兵が板にしがみつく。引き手の輜重の男が轅へ体重をかけても、車輪は溝の壁に噛んだまま回らない。
アルは列の先頭へ目をやった。カリムは片手を地へ置いたまま、轍を一本ずつ埋めている。
「荷車を出せ! 後ろは俺が持つ!」
盾に肩を当てたまま首だけを捻って、ガイルが吼えた。そのとき、左手の起伏の向こうで別の叫びが上がった。
「寄せろ! 槍を寄せろ!」
起伏の肩越しに、低みで槍の穂先が一か所へ寄り集まっているのが覗いた。味方の一隊が本隊から切り離され、その周りを魔族の角が輪になって狭めていく。声はすぐそこで鳴っている。そこへ続く地面は、起伏を越えた先にあった。
足が左へ向いた。踏み出した靴が土を蹴り、体が起伏のほうへ傾く。
「勇者様!」
荷台からの声だった。肩に布を巻いた兵が、傾いた荷台の縁を掴んで身を乗り出している。指が板に食い込んでいた。
アルの足が土に刺さった。左では叫びが続き、右では板を掴む手が揺れている。吸いかけた息を止めて、踵を返した。
溝へ駆け下りながら、上の兵と輜重の男へ声を張る。
「掴まってろ! 引け! 俺が上げる!」
左の肩を荷台の底の梁へ当て、溝の壁に片膝を突く。梁が肩甲骨へ食い込み、重みが背骨まで落ちてきた。袖の中で、塞がりかけていた傷の縁が裂ける。温かいものが内側いっぱいに広がり、布が腕に張りついた。
膝を伸ばす。男が轅を引き、軋みとともに車輪が溝の壁を這って道へ戻った。荷車はそのまま前へ出ていく。しがみついていた兵の唇が動いたとき、アルの顔はもう左へ向いていた。起伏の先は影に沈んでいる。
叫びが途切れていた。
「抜かれた! アル、荷車だ!」
ガイルの声に振り向くと、大盾の脇を抜けた魔族の先頭が、荷車の後輪へ角を突き出して迫っていた。アルは荷台の後ろへ回り込み、振り下ろされた剣を受けた。濡れた袖の下で、左の二の腕の傷が脈を打った。押し返す腕が震え、魔族の体重が剣の腹へ乗ってくる。退けば、背後の荷台が斬られる。
「勇者様!」
先頭の荷車のほうから、遠い声が一度だけ届いた。
首は回らない。目を正面の剣に据えたまま、声だけが背の向こうを通っていく。
魔族の二人目が荷台の端へ手をかけ、一人目の剣が押し込まれる。重みが肩の上へ下り、左腕が下がった。
そのとき、足の裏が揺れた。
「右から、味方の騎兵!」
斜面の上でミュカが叫んだ。
蹄の音が地面を叩き、横合いから常備軍の騎兵が追撃の側面へ入ってくる。馬の胸が魔族の脇を打ち、のしかかっていた剣が浮いて、後ろの者が崩れて下がる。蹄に跳ね上げられた草の切れ端が、頬に当たった。
追ってきた魔族は、草の向こうへ散った。
蹄の音が遠ざかり、馬の汗の匂いが血の匂いの上を過ぎていく。アルは剣先を下げ、荷車の脇に立った。左の袖から、血が指先を伝って土へ落ちた。
◇◇◇
夜は晴れていた。風はなく、陣の焚き火から上がった煙が、崩れもせずに星のほうへ立っている。煙の先で、星が細かく瞬いていた。焦げた薪の匂いが動かない空気に溜まり、荷台の板の上で、呻きが低く途切れない。
荷車は一列に止まり、そのあいだをリリアが屈んで渡っていく。アルは車輪の脇に腰を下ろし、左腕を膝に載せていた。
前衛隊の隊長が焚き火の輪へ入ってきて、足を止めた。
「数えられた範囲で、戻っていない隊があります」
「左の起伏にいた隊は」
口が先に動いていた。隊長の目がアルの顔に止まり、それから焚き火へ落ちた。
「……まだ、です」
隊長は頭を下げ、輪を出ていった。
その背を追っていた目が、荷台の上へ移った。肩に布を巻いたあの兵が、板に手をついて上体を起こし、こちらを見ている。溝のそばで見た指は、まだ強張ったまま曲がっている。
「勇者様。勇者様のおかげで、ここまで来られました。荷車ごと置いていかれるもんだと、思ってたんです」
右の拳が上がり、荷台の縁を一度打つ。板が鳴り、兵の礼の続きが口の中で止まった。火を挟んだ向かいで、ガイルが大盾から背を離した。
「アル一人で全部は無理だ! 俺だって盾一枚で、道一本を塞ぐのがやっとなんだぞ!」
焚き火の周りで、兵が顔を上げる。拳を板から引きはがし、アルは立ち上がった。
「分かってる!」
ガイルが一歩前へ出る。黒ずんだ布で短刀を拭っていたミュカの手が、刃の上で固まった。
別の車輪にもたれ、帳面を膝に開いていたカリムが、それを閉じた。
「これは軍の敗北であって、アルの敗北ではありません」
アルは車輪の脇へ腰を落とした。右の拳は腿の上で握ったままだった。ガイルは前へ出した足をそのままに、その拳を見下ろしていた。
リリアが荷台のあいだから来て、アルの前に膝をついた。黙って左の袖の端をつまみ、肘の上までまくり上げる。血で張りついた布が肌から剥がれ、小さく鳴った。
傷は二の腕の外側で口を開けていた。縁は赤黒く腫れ、新しい血が滲んでいる。リリアは傷の周りの乾いた血を親指で拭い落とし、左手でアルの肘を下から支えた。右の掌が傷口へじかに重なる。
「治れ」
息に混ぜて言った。
掌の下で熱が広がった。裂け目が内側から埋まり、赤い筋が細くなって皮の下へ消える。腕の中でずっと疼いていたものが引いて、袖の血の染みだけが冷えて肌に残った。
リリアはまくった袖を手首のほうへ戻し、手を離した。アルは左の肘を曲げ伸ばしして、その顔へ目を上げた。
「ありがとう」
「うん」
いつからそこにいたのか、輪の外に隊長が立っていた。
「勇者様。将軍がお呼びです」




