第2話:「声のある世界」
組んだ両手を額に寄せ、頭を垂れたまま、アルは祈りの結びの言葉を胸の内でなぞり終えた。次に向かうべき先を、示してほしい。膝頭を受けている石の床は、夜の冷えをまだ手放していない。衣越しに染みた冷たさが、膝の骨にじかに居座っている。
アルグランツ皇国の穀倉の街、ローエンの神教会の堂内には、いまアルと神官の二人しかいない。壁際に並んだ灯りが油を吸っては小さく爆ぜ、焦げた脂の匂いが朝の冷たい空気に混じって鼻の奥へ届く。正面に据えられた偶像は、垂れた頭の先で黙っている。
傍らに立つ神官は、左腕に書き板を抱え、右手の筆を紙のすぐ上に構えたまま、衣擦れの音ひとつ立てない。
待つ。
祈りを終えてから応えが降りるまでの間を、アルはこれまで幾度も、この膝で待ってきた。長く待つときも短く済むときもあったが、急かしたことは一度もない。声に従った先で、多くの人を救ってきた。芯の鳴る音に、隣の神官が細く吐く息が重なって、高い天井へ薄くのぼっていく。首の後ろに冷えた空気が触れ、うなじの産毛が立った。顔は上げない。組んだ指の節を額に押し当てたまま、待つ間を数えもせず、膝に食い込む石の冷たさをこらえている。
厚い壁を隔てた通りのほうで、どこかの店が戸板を外している。木と木のぶつかる音が二度して、それきり聞こえなくなった。壁際の灯りのひとつが吸い上げた油を一度に燃やし、ひときわ高く伸びる。伏せた目の先で、床の明るさが一度増し、また沈んだ。
偶像から、声が降りた。
「勇者よ、国境の地で害獣を討ち、街道を守りなさい」
堂の中の音がその一言の下に沈んだ。火の爆ぜる音も神官の息も、もう耳に入らない。一語も濁らない言葉が、額から指先へ、指先から胸の奥へと順に落ちてくる。
隣で筆が走り出した。穂先が紙を擦る乾いた音だけが、声に遅れまいと細かく刻まれていく。
「あなたの力は、この地の民を救うことに最も適している」
最後の一節が膝の冷えよりも深いところへ届き、そこから熱がひろがる。
絡めた指のあいだから、詰めていた息が長く漏れていく。冷えきっていた指先へ、血が通い直す。背筋が内側から伸びていった。
――任された。
芯がまた小さく鳴り、神官の筆が最後の一画を払って紙から離れる。沈んでいた物音が、少しずつ戻ってくる。
手を下ろし、片膝ずつ石から起こして立ち上がった。こわばった膝の皿が軋み、血の戻る痺れが脛を這い上がる。神官に向き直り、顎を引く。膝に残る痺れは、姿勢を崩さずに放っておいた。
「感謝します。確かに、承りました」
神官は書き板を胸に引き寄せ、深く頭を下げた。紙の上では、書いたばかりの文字がまだ乾ききらずに艶を帯びている。
「勇者様の御役に立てて光栄です」
下げられた頭の、きちんと撫でつけた髪の分け目が灯りの色を映している。アルはうなじへ手をやり、さっき冷気の触れたあたりを指でこすった。顔を上げた神官に、口の端だけで笑って返す。
◇◇◇
奥の扉の蝶番が、乾いた音を一つ立てた。
出てきたのはリリアだった。小柄な体に飾りのない神官装束をまとい、紐で綴じた記録の控えを両腕で胸に抱えている。装束の裾が床をかすめ、軽い足音が近づいてくる。束を抱えた指先には、墨が薄く付いていた。足を止めずにまっすぐアルの前まで来ると、正面から顔を見上げた。
「終わった?」
「国境だ」
リリアは控えの束を片腕に抱え直した。目はアルの顔から動かない。
「じゃあ、支度がいるね」
それだけで、肩に残っていた力が抜けた。アルは声を立てて短く笑い、片足ずつ床を踏んで、脛の内側にまだ残る痺れを散らした。
リリアは神官に束を預けて会釈し、先に戸口へ向かった。
後を追って外へ出ると、通りはとうに朝の仕事に入っていた。
石段を下りたとたん、挽きたての粉の匂いが鼻先をかすめる。両側の店先には麦の袋が積み上げられ、荷を担いだ男たちがその脇を横向きにすり抜けていく。袋の口からこぼれた粉が、その肩を白く汚していた。どこかで子どもの呼ぶ声が上がり、すぐに人の流れへ紛れた。
店の奥からは石臼を回す低い音が続き、朝一番に戸を開けた店先では、撒かれた水が石畳を黒く濡らしている。リリアは少し先を歩き、斜めに掛けた鞄が足を運ぶたびに腰の横で弾んでいた。
干し肉を軒に吊るした店の前に、見慣れた背中が二つ並んでいる。少し離れた道の端にも、丸めた背中が一つある。近づくにつれて、軒下にこもった脂の匂いが濃くなった。店の手前で歩みをゆるめたリリアが、アルの半歩後ろに下がる。
いちばん上にあるのはガイルの頭だった。厚い鎧の背に大盾を背負い、その縁が短く刈った髪の後ろからのぞいている。腕を動かすたびに、鎧の継ぎ目が擦れて硬い音を立てた。台に並んだ肉の束は、どれも縄で口を縛られ、乾いた脂がうっすらと光っている。その束を一つずつ押さえて数え終えると、ガイルはもう一束を引き寄せ、自分の背負い袋へ押し込んだ。
その隣で、身軽な一人がくるりと振り向いた。頭の上で三角に立った耳が、こちらの足音へ先に向いている。腰のあたりからは、耳と揃いの茶色をしたふさのある尾が伸びていた。装いは隣の鎧と比べるまでもなく軽い。
「アル、リリア! どうだった?」
ミュカの声に、ガイルも台から手を離して振り返る。その顔へ向けて、アルは手短に答えた。
「国境へ行く。害獣の始末と、街道の見回りだ」
ガイルの顔に走る古い傷が、軒の影から出て朝の日にさらされた。笑っていた口元が引き締まり、踵がそろう。
「神託ですね。承知しました」
改まった声はその一言きりで、すぐに傷ごと頬が持ち上がった。
「なら、こいつはもっと要るな」
ガイルの手がまた台の上へ伸びる。店の主が奥から黙って次の束を出してきた。脇に置かれた背負い袋の口を、ミュカが横から指でつまんで広げ、首を突っ込みそうな勢いで中をのぞき込んだ。
「え、干し肉ばっかり? こっちも肉、そっちも肉。ねえ、果物は?」
後ろから、リリアのおかしそうな声が届いた。
「前も、同じこと言ってた」
「言ったよ! だから今度こそって思ったのに」
ガイルはミュカの手から袋をひったくって紐を引き絞り、カリムのほうへ放り投げた。袋は石畳の上で一度跳ね、道の端にいるカリムの膝の脇で止まる。ガイルは空いた手を腰に当て、顎でアルを指した。
「勇者様の遠征だぞ。我慢しろ」
「やめろ」
言い返したアルの声も、半分崩れていた。首筋がじわりと熱くなる。ガイルが大口を開けて笑い、向かいの店で麦を升に量っていた男がその声に一度だけ目を上げる。男はすぐに手元へ目を戻し、升の縁を掌でならした。
ミュカが口をとがらせた。
「笑いごとじゃないってば」
カリムは屈んだまま顔も上げずに自分の袋の口をほどき、広げた荷を細い指で並べ直した。重いものから順に、足元に来たガイルの袋へ移していく。顔にかかる髪をかき上げると、長く先の尖った耳がのぞいた。線の細い顔立ちに肩を越す髪がかかり、横顔だけなら女と見まがう。
台の前から、ガイルが声を張った。
「おい、カリム。なんで俺の袋ばかり重くなる」
「いちばん大きいからです」
カリムは手を休めずに答え、最後の包みを押し込んでから身を起こした。腰の紐に挟んだ帳面は角が擦れて丸く、綴じ目に筆が一本差してある。
アルのほうへ向き直り、一語ずつ区切るようにして訊く。
「日数は、十日前後でしょうか」
アルが頷くと、ガイルはカリムの足元から袋を拾い、結び目を確かめ直して片手で肩へ担ぎ上げた。
ミュカは口を閉じたものの、ガイルの肩の袋をまだ恨めしそうに見上げている。
荷を背負い直した五人は、通りを門へ向かった。麦の袋を積んだ店先をいくつも過ぎるうちに、石臼の音が後ろへ小さくなっていく。かわりに、呼び込みの声が左右から重なってきた。歩くたびに、ガイルの大盾が鎧に当たって鈍く鳴った。リリアはアルの隣に並び、カリムはいちばん後ろを急がずについてくる。
通りを抜けるまで、ミュカはさっきの話を蒸し返していた。果物を並べた店先を通るたびに、その足が遅れる。ガイルは肩の袋を揺すり上げるだけで、取り合わない。
石を積んだ厚い門の下は、両側の壁に挟まれてひやりとしている。町を出る者と入る者が、そこで肩を寄せて行き交っていた。人のあいだを縫って影を抜けると、足の下の石畳が途切れ、踏み固められた土の道が始まる。挽きたての粉の匂いは、門の内側に残った。
先頭を行くガイルが、振り向きもせずに言った。
「街道の宿は当てにするな。国境近くは店が閉まってる」
ミュカの耳がガイルの背中へ向いた。返事の代わりに、五人分の足音が土を踏んでいく。




