第1話:「神が死んだ」
埃と、湿らない石の匂いが閉じた建物の中に溜まっている。打ち捨てられて久しい壁は上へ行くほど灰色にかすみ、天井の高さは闇の濃さでしか測れない。石の継ぎ目はどれも欠けて縁が丸くなり、その欠けを埃が埋めて、壁と床の境に細い線を引いている。
扉は閉じている。埃の線は扉の下まで延び、その真ん中の幅だけが擦れて途切れている。
途切れた幅から内側へ、足の跡が続く。厚く積もった埃は踏まれたぶんだけへこんで縁を盛り上げ、踏まれなかったぶんは元の厚みのまま平らに残っている。跡は乱れて重なり合い、どれが先に付いたのか見分けがつかない。
跡の行き着く先で、明かりが一つ石の床に落ちている。光は床の上に広がって縁をぼかし、届く範囲では石の目地がはっきりと見える。積もった埃の粒の一つ一つに細かな影が付き、光の中だけが周りよりも白く粗い。光の縁を越えると、埃の白さは灰色へ溶けていく。
空気は動かない。石の冷えは床に近いほど濃く、低いところへ淀んで沈んでいる。光の中に浮かんだ埃の粒は、昇りも降りもしない。
明かりの届く端に、四人が立っている。横へ広がった四人の間は腕を伸ばせば触れるほどで、足先はそろって明るい床へ向いている。足の縁で削れた埃は角を立てたまま、どこも崩れていない。四人の手はどれも体の脇に下がっている。ただ一人の手は、何かを握り込んだまま開かない。
影が石の上を、四人の背後の闇へ伸びている。影は互いに重ならず並び、先端から暗がりに呑まれている。
音がない。四人の息さえ、積もった埃が吸い取っていく。石の壁は何も返さない。
四人の足先が向く先、光と闇の境目に、一人が倒れている。輪郭は床に沿って低く、胸から先は闇の中に入り、石の上へ投げ出された腕の先で、指が軽く曲がって目地にかかっている。体の形のとおりに埃が押し潰され、床に貼りついている。その一人は動かない。
四人から倒れた一人までは、歩けばすぐに届く。その間を、誰の足も詰めていない。声を出す者もいない。
外で風が吹き、扉が一度だけ鳴った。その音は奥へ届く前に薄れ、天井の闇に消えた。四人の誰も、扉のほうを振り向かない。
明かりは揺れない。
神が死んだ。
◇◇◇
偶像の前で、神官が膝をついている。背後には人が詰めかけ、肩と肩のあいだに隙間がなく、後ろの列は奥まで途切れない。最前列の者は組んだ手を胸に当てたまま身を乗り出し、その後ろの者は前の者の肩越しに偶像を仰いでいる。人いきれで、偶像の前の空気が温い。
神官は頭を垂れて祈る。筆を持つ手は祈りのあいだも膝元の紙の上から動かず、筆先が白い面に浮いている。
祈りが終わり、神官が顔を上げる。偶像を見据えて待つあいだ、人々の咳も衣擦れも途切れる。最前列の誰かが喉の奥で唾を呑む音だけがする。何も降りない。
神官は肩を上下させ、もう一度頭を垂れる。さきほどより深く、顎が胸につくまで身を折って祈る。
やはり降りない。筆を握る指に力が入り、軸が小さく軋む。手元をのぞき込んだ者の目が、何も書かれていない紙に落ちる。
背後の列から、押し殺した声が問う。
「……何と」
神官は振り返らない。口が開き、言葉の形を探して、閉じる。
最初の声に別の声が重なり、後ろの列で衣の擦れる音が広がっていく。前へ出ようとする肩が前の背中を押し、人の群れが大きく揺れた。
◇◇◇
別のところでも、偶像の前に人が列を作っている。先頭の者は祈りを終えても場所を空けず、後ろの者に背を押されてもその場から退かない。列の途中では、子供の手を引いた親が前の者の背に額をぶつけて詫び、詫びたところを別の者に押し返される。手を引かれた子供だけが、何も問わずに大人の脚のあいだで揺られている。
偶像の脇に立つ神官が、人々へ向けて手のひらで宙を押さえる。見ている者はいない。
赤子を抱いた女が、偶像を見上げて声を上げる。
「熱が下がらないんです。この子に何をしてやればいいんですか」
答えは返らず、女の声だけが偶像の前の床に落ちる。その横から、前掛けをした壮年の者が割り込んだ。
「店を誰に渡せばいい。もう決めないと……」
「種を蒔く日を教えてください。土はもう起きています」
泥のついた靴の男が、人を肩で分けて前へ出てくる。髪を結い上げた娘は胸の前で手を握り合わせ、「あの人と一緒になって、いいのでしょうか」と細い声で問う。
列の途中から、背の低い少年が叫ぶ。
「おれはどの働き口を選べばいいんだ」
問いが終わるより先に次の問いが上がり、どの声も語尾まで届かない。新しく来た者が列の最後に付くたびに最後尾は遠のき、遠のいた先からまた声が飛ぶ。
「熱が、まだ」
「店だ。店を、誰に」
「種を」
赤子を揺すり上げる女の肘が、偶像へ伸ばした前掛けの者の腕にぶつかる。泥のついた靴の男の声は、そこで割れて続かない。
娘が前の背中にすがりつく。
「返事を、せめて返事だけでも」
「聞こえてるだろ。おれの働き口は」
少年の声を押しのけて、列の後ろで誰かが怒鳴る。
「前の者はどけ。こっちにも聞くことがある」
偶像の脇で、神官の手のひらは下へ向いたまま止まっている。戸口からは、まだ人が入ってくる。後から来た者は壁際を伝って、奥へ押し込まれていく。
◇◇◇
また別のところでは、集まる人が少ない。偶像に向かった者が祈りの言葉を終えて顔を上げ、待ち、待ちきれずに背を向けて出ていく。入れ違いに入ってきた者は、偶像と神官を見比べて立ち止まり、そのまま引き返す。出がけに一度振り返った者も、偶像に目を戻さずに敷居をまたぐ。
床に腰を落として膝を抱える者がいる。少し離れて、偶像のほうを向いたまま脚を投げ出している者もいる。その靴の先がときおり床を擦る。どちらも、そこから立ち上がらない。
帰る者の足音は戸口へ向かって遠ざかり、座り込んだ者の息は床の近くに溜まっている。偶像の前の床は、何人もの膝を受けて白くすり減っている。
神官は帰る者にも座り込む者にも目を向けないまま偶像の正面に立ち、短い祈りを唱えては返らない間を置き、同じ言葉を最初から唱え直して、その背中を据えたまま少しも動かさない。
◇◇◇
明かりの輪の端に、四人が立ったままでいる。
一人が、握り込まれたままの手に手を重ねる。
指は開かない。上の手も離れない。明かりは揺れず、光の中の埃も宙に浮いたきり沈まない。
床から冷えが四人の足の甲まで上がってくる。
重ねた手の下で、握り込まれていた指が開く。上の手が、握られていたものごと離れる。
一人が膝を折り、倒れた一人の傍らへ身を低くする。そのまま長く身じろぎもしない。
別の一人が屈み込み、倒れた体の肩の下と脚の下へ腕を差し入れる。胸の前まで抱え上げ、立ち上がる。傍らにいた一人も身を起こす。
抱えた一人は腕の中を見下ろしたまま、扉のほうへ向き直らない。
傍らにいた一人が扉へ歩き出す。足音が床を渡って戸口の前で止まる。手をかけて押すと、重い音が建物の中を転がって扉が外へ開く。
外の光が入る。床に落ちていた明かりが、そこで消える。
外の光は石の床を伝い、残る三人の足元まで伸びてくる。
抱えた一人も向き直り、四人が外へ出ていく。
床の奥で、押し潰された埃が体の形を残している。
開いたままの扉から入る光は床の途中で尽き、足音の遠ざかった建物に、積もった埃と動かない空気が戻っている。




