第13話:「石の街」
燻した肉と塩の匂いが、門の手前で先に届いた。
門の脇で、角のある門番が槍を握って立つ。槍の穂先は日を弾いたまま止まっている。街道の脇から、もう一本の道が門の前へ延びてくる。その道から荷車が一台出てきて、三人の前を横切り、門へ向かう。門番の目がその積み荷へ移った。布の下から、槍の柄が束になって突き出ている。
門に近づくにつれて、轍が深くなった。溝に靴がはまり、足首が内へ取られる。アルは膝でそれを戻した。握った掌が汗で湿っている。門の影が地面に落ちていて、その端をまたぐ手前で、足の裏が先に冷えを覚えた。
顔を伏せたまま、荷車のすぐ後ろから門の下へ入る。門番の握る槍が、肩の横を過ぎていく。伏せた額の陰から、目だけを上げた。門番の目は積み荷の上にある。三人の顔には来ない。
日の届かない石の下は、外套の上からでも肌へ染みるほど冷えていた。車輪が石畳を噛み、その音が壁と天井に跳ね返って、頭の上で幾度も鳴る。三人の靴音はその響きに呑まれ、アルの耳にも届かない。
門を抜けると、音がほどけた。それでも顎の力は抜けなかった。
「……顔、見てなかったね」
「まだ中だ」
通りの両側に石の建物が並んでいる。石はどれも隙間なく組まれ、面の縁まで平らに整えてあった。窓は小さく、戸は厚い。通りを行く者は荷を抱えて先を急ぎ、誰も立ち止まらない。軒から金工の看板が下がっている。燻した肉の匂いは門の内側のほうが濃く、底に塩気が敷かれていた。
アルは轍を測りながら歩いた。踵を下ろすたびに、溝の縁が靴底の硬い端に当たる。先の荷車が通りの先で折れていく。見えなくなるまで目で追い、曲がり口の石に残る轍がどちらへ傾いているかを、足の運びを変えずに確かめる。
カリムが歩きながら、壁の目地に一度だけ指を滑らせた。指先が石の面をなぞる音は、車輪の残響に消えた。指はすぐ外套の内へ戻り、顔は前を向いたままだ。
ミュカの唇が、何かを数えるように動いている。行き交う人の足が増えるたびに、その動きも速くなる。
通りは広場へ開け、市場になった。棚という棚に保存食が載っている。肉は吊るされ、塩の袋は口を折って積まれ、干した果実は台の上に平らに広げられていた。量は多くないが、見渡せる限りの台に並んでいて、空いた台が目に入らない。日が高くなるにつれ、石畳が足の下で温みはじめた。果実の甘い匂いが燻製の匂いに混ざり、鼻の奥へ届いた。
子供が台の間を駆け抜けていき、その足音が石畳の上で乾いて鳴る。老人は石段に腰を下ろし、膝の上に両手を置いて目を細めていた。丸めた背を、日向の石に預けている。開いた戸口の奥では金工の職人が小さな金具を打っている。その音は人の声や荷を下ろす音の下で、細く途切れずに続いていた。話し声の切れ端と笑い声が行き交い、三人の脇をすり抜けていく。
アルは人の流れの向きと、荷車の通れる幅を目で見定めた。行き交う肩が外套の端を掠めるたびに、背筋が硬くなる。
通りの奥で、人の流れが割れた。
肩に荷を乗せた者が歩いてくる。角は額から後ろへ大きく反り、荷の上で揺れていた。人々は口もきかずに左右へ退き、道がまっすぐに空く。三人だけが、遅れた。
前にいたミュカが急に止まり、アルの体はその背へ詰まりかけた。脇へ逃げた先に、荷を担いだ肩が来る。踵で石畳を噛んで踏みとどまった。相手の袖と外套の端が、擦れる寸前で離れていく。
反った角はそのまま人垣の向こうへ遠ざかっていった。アルは息を吐かないまま、次の一歩を石畳に下ろした。
前を行くミュカが、振り返らずに声を漏らした。
「……ごめん」
軽い足音が近づいてくる。速い。台と台のあいだを縫って、子供が三人の前でぴたりと止まった。
瞬きをしない。見上げた目がアルからミュカへ、カリムへと移り、またアルの顔へ戻ってくる。
小さな手が上がった。指先がアルの額を差しかけ、子供の唇が開く。息を吸う音が、短く聞こえた。
アルのうなじが、ざわりと粟立った。
横から大人の手が伸びて、子供の肩を引いた。胸の前へ抱き寄せられた子供の口が閉じる。大人は何も言わない。抱いた腕に力がこもっていた。
アルは両腕を脇に垂らしたまま、子供の横を通った。ミュカもカリムも、歩みを乱さない。背後で子供のぐずる声が短く上がり、途中で途切れた。振り向かない。
市場の端、果実を積んだ台の前で、ミュカが立ち止まった。アルは台の脇に立ち、通りの左右へ目を配る。カリムはミュカの斜め後ろについた。
台の向こうに魔族の男がいた。手元に目を落としている。指は節が太く、爪の際に塩が固まっている。並んだ果実には皺が寄り、一つずつ手で置き直された跡があった。
ミュカが身を乗り出し、果実の一つを指さした。
「これ、もらうね。おいしそうだし」
懐から自分の銅貨を取り出し、台の端に載せる。男は目を上げない。
男は指された一つを台の手前に置き、手の甲でミュカの前まで押し出した。銅貨のほうは見もしない。台に伏せた指の腹で、音もなく手元へ滑らせる。ミュカの手には、触れなかった。
ミュカは銅貨のなくなったあたりを見て、それから男へ声をかけた。
「街道は混んでる?」
「北はいけない。兵が通る」
男はそれきり口を開かなかった。ミュカは重ねて聞かない。果実を掌に取る。皮は乾いて縮み、ミュカの指の下で皺を深くした。それを外套の下へしまう。アルは男の手元を見たまま、背後の足音の向きを耳で追っていた。
男は台に背を向けた。
市場を離れても、台に伏せられた男の指の形が目の裏から消えなかった。ミュカは果実をしまった外套の上に片手を当てたまま、石畳を踏んでいる。
金具を叩く音が背後へ薄れ、市場のざわめきも遠のいた。アルは石畳に刻まれた轍を辿りながら進んだ。
先へ進むにつれて戸の数が減り、通りを歩く者もまばらになった。布を掛けた荷車が、三人の横を追い越していく。
通りは緩い上りになり、突き当たりで道幅が広がった。正面の石段の上に、大きな戸口が開いている。その前から段の下、通りの端まで、人が一列に連なっていた。
戸口の脇に、魔族の神官が立っている。長衣の裾が石段に届いていた。両手は体の前で組まれたまま、列の者が通り過ぎても形を変えない。視線は列の先頭に置かれていた。
列は一歩ずつ進んだ。先頭の者が戸口の前で頭を垂れて中へ入ると、次の者が段に足をかける。荷を背負った者も、子供の手を引いた者も、段の前で足を揃えて首を下げた。衣の触れ合う音と靴音のほかに、声はない。道の端を通る三人には構わず、列は戸口へ寄っていく。
ミュカの足が止まった。外套の陰から、石段の上の戸口を見上げている。体の前に当てた手が、布を握り込んだ。アルはその二歩先で歩みを止めた。
「本当に、こっちにもあるんだ」
声は低かった。
カリムがミュカの横に並び、列に目を向けたまま口を開いた。
「神託は種族を選びませんから」
続ける者はいなかった。外套の肩が落ちた。布を掴んだ指は、ほどけない。
列がまた詰まり、石段を踏む靴音が重なった。
アルは列を一度見た。頭を垂れた背が、戸口へ順に呑まれていく。視線を通りへ戻すと、車輪の音が近づいていた。布を掛けた荷車が、列の前を止まらずに抜けていく。その音は祈る列の静けさを横切り、通りの先を折れていった。曲がりざまに荷車の尻が左へ振れ、轍がその向きに深く削れている。荷の端から、鞘の先がいくつも揃って覗いていた。
アルは荷車のあとを追って足を出した。ミュカとカリムが、半歩遅れてついてくる。
轍は幾筋も重なって走っていた。そのうちの底がいちばん深い筋を選び、荷車の後ろを歩く。道を折れるたびに別の筋が脇から合わさり、溝は太くなった。筋は壁沿いの狭い道に入る。窓のない石の面が両側から迫る。すぐ後ろで、二人の足音が間を空けずに続く。そこを抜けると、朝くぐった門の内側の、広い空き地に出た。
空き地の奥に、厚い石を積んだ平たい倉が建っている。その前が荷置き場で、荷車が並び、地面に木箱が積まれていた。追ってきた荷車が空いた場所へ車輪を止める。轍はそこで、倉の口に突き当たって終わっていた。地面には、荷車の輪が何度も回った跡が円を描く。開け放たれた戸の奥まで荷が詰まり、出入りする者の背が戸口で入れ替わる。その脇に、槍を持った兵が一人。並んだ荷車はどれも、門のほうへ向けてある。
三人は荷置き場の端で足を止めた。倉の壁からは離れている。
荷置き場を横切る者は多く、誰も三人に目を留めない。木箱は地面に低い山を作り、山と山のあいだは荷車が出入りできる幅だけ空いている。
角のある兵が地面の木箱に歩み寄った。片手を箱の縁にかけただけで、大きな箱が浮いた。箱は腕の動きについて荷台の上へ移り、そこへ収まる。続けてもう一つ。荷台が重みで沈み、車輪が轍の底へ落ちる。兵の腕の高さは、どの箱でも変わらなかった。
箱が移るたびに、荷台が乾いた音で軋む。荷台が埋まっても、地面の山は低くならなかった。
日が傾いて、箱の縁に当たる光が白から黄に変わった。荷車の影は箱の足元から石畳を渡り、倉の石壁を這い上がっていく。
箱の置かれる音が、石の地面に響いていた。倉の奥からは、荷を運び出す足音が絶えない。荷台の向こうでは、別の魔族が二人、箱に縄をかけていた。声は低く、アルには聞き取れない。
外套に覆われたミュカの頭で、布が内側から持ち上がった。片側だけが、荷台へ向かって張っている。顔は動かない。目は足元の石に落としたままだ。ミュカは体をアルのほうへ寄せ、襟を引き上げて口元を隠した。
「明後日の夜明けに出すって」
「確かか」
「二人とも、そう言ってた」
アルは荷台から目を離さないまま、小さく頷いた。外套の下で、拳の指に力がこもる。積み残された箱の山へ、目だけを動かした。
倉の戸口に立つ兵の首が動いた。角がこちらへ振れ、足が石を踏み替える音がする。荷に縄を掛ける音が、ぷつりと途切れた。
顔が半分、三人のほうへ向きかける。角の先に、黄色い光が走った。
アルの膝が固まった。ミュカの肩が外套の中で縮み、カリムの手が腰の刃物の上で止まる。
先に動いたのはカリムだった。荷置き場から通りへ、急がない足で離れていく。アルとミュカがその後ろにつく。
「振り向かないでください」
駆け出したがる脚を、踵から下ろす一歩ごとに押さえつけた。背中を倉へ向けたまま、壁が横を過ぎていく。通りの曲がり目で、石の壁が視界を切った。
顎の力が、そこで初めて抜けた。
門へ戻る通りでは、日がもう低い。西日が石の壁を斜めに染め、門の上の縁だけが光を受けている。下の通りは壁の陰に沈み、荷を抱えた者が三人の脇を急ぎ足で追い越していく。
門番は槍を立てたまま、通りのほうを見ていた。三人はその前を過ぎた。門の下は朝より暗かった。
門の下を抜けて外へ出ると、足の裏に土が戻った。壁の外では風が通り、外套の裾が足首に触れる。轍は傾いた日を受けて、遠くまで延びていた。
背後で車輪の響きが膨らんだ。三人は街道の端へ寄って立ち止まる。門から荷車が出てきて、その脇を抜けていった。細かな砂を立てながら、三人が歩いてきた街道へ入っていく。
積んだ箱の上に、槍の柄が束ねて括りつけてある。いちばん後ろの箱の板に、刻印が打たれていた。荷が跳ねるたびに上下に揺れ、目を凝らしても、この距離では読めなかった。
荷車は街道の轍に車輪を落として、西日の中を遠ざかっていった。




