第12話:「角のない者」
アルが水袋を振ると、中で水が揺れた。カルデンで満たしたときより手応えが軽い。
口を湿らす程度に含む。ガイルは自分の水袋を傾けて喉を一度動かしたきりで、すぐに口を締めた。ミュカは唇をつけただけで、袋の口を掌で拭う。カリムは両手で袋を包み、時間をかけて飲み下した。
窪みの底に火はない。高みには見張りが立っている。火を焚けば、明かりは縁を越えて漏れる。
暗がりで干し肉を噛む。繊維がほどけるたびに塩気が舌へ滲み、飲み込んだあとも口の奥に残った。尻の下の土は冷え切っていて、外套越しに体の熱を吸っていく。リリアは鞄を膝に抱え、紐を指に絡めていた。
戦いのあとの腕にはまだ重さが残っていて、顎を動かすだけでも肩の付け根が鈍く疼いた。ミュカが歯で筋を裂く音と、リリアの指の中で鞄の紐が擦れる小さな音だけがする。
ガイルの左腕には、乾いた血の跡が黒く固まって残っている。大盾はガイルの脇に寝かせてある。アルの剣もミュカの短刀も、鞘の中に収まっていた。
水袋の口を締める。指に残った滴を舐めると、土の味がした。正面から当たり続ければ、向こうの列は埋まり、こちらの水袋だけが軽くなっていく。
カリムが噛んでいたものを飲み込み、口を開いた。
「補給の線を断てば、部隊は形を保てません」
ガイルの顎が止まった。
「その線がどこにあるかだ」
「この街道の先には、街があるはずです。兵に回る物の出どころは、そこかもしれません」
アルも同じ見当をつけていた。ただ、街の中を見た者は、この窪みに一人もいない。
ガイルが首の後ろへ手をやり、太い指で掻いた。
「着いたところで、俺たちには何がどこだか分からないだろ」
「門の外から眺めて分かることでもない」
アルが言うと、ガイルは唇を結んで黙った。カリムも視線を落とし、膝の上で指を組んでいる。
冷えた風が頭の上を過ぎ、顎の動く音がひとつずつ止んでいく。見上げた空は暗く、狭い。アルは息を細くして、風の音の向こうに足音が混じらないかを聞いた。
その静けさの中で、ミュカの耳が立った。土を掃いていた尾が止まり、先まで張りつめる。
「私が行く」
ガイルの手から干し肉が落ちた。拾わずに身を乗り出す。
「待て。行くって、どこに」
「街」
「街って、ミュカ。斥候の仕事の範囲を越えてるだろ。見てくるのと、中に入るのとじゃ」
「見てくるだけ」
「それが越えてるって言ってんだ。入って、もしも……」
「もしもなんて、いつでもある」
「だから、そういう話じゃ」
語尾が跳ね上がった。アルが短く遮る。
「ガイル」
ガイルの声がそこで切れた。奥歯の噛み合わさる音がした。左腕の肘を曲げて、伸ばす。また曲げる。血の跡にひびが入り、乾いた欠片が袖から剥がれて土に落ちた。
ミュカは膝を立て、ガイルの正面へ顔を据えた。目を逸らさない。
「斥候の仕事だよ」
ミュカは外套の襟元を掴んで頭の上まで引き上げ、立っていた耳をその下へ押し込んだ。縁の下に額だけが出ている。その額を、人差し指で叩いてみせた。
ガイルの唇の端が上がりかける。頬の途中で止まり、笑いに届かないまま、鼻から息が抜けた。
「……その額で行くのかよ」
「その額で行くの」
ミュカが額を叩いた指を下ろし、引き上げた外套を整える。ガイルはもう一度何か言いかけて、落とした干し肉に手を伸ばした。土を払う手つきが荒い。
カリムが組んでいた指をほどいた。
「人族に、角はありません。獣人族にも。エルフ族にも」
誰も口を挟まない。
「魔族の街では、私たちは誰であっても角のない者です。よそ者とは見られるでしょう。ですが、敵とまでは決められないはずです」
「それにさ、前に兵を出してる街なら、人も荷車も行ったり来たりしてるよ。あの拠点にだって、どこかから荷が来てるんだ」
ミュカの尾が土の上で一度だけ動いた。
「出入りは絶えない、か」
アルが口にすると、ミュカが頷いた。ガイルは拳を握り込んだまま、窪みの縁の向こうを睨んでいる。リリアが鞄の紐から指を離した。
「神官装束なら通る」
リリアが外套の前を指で割った。内側に、飾りのない神官装束が覗いている。
「向こうにも神教会はあるから。神官は、国を越えて動くもの」
リリアは前を閉じ直し、その手を鞄の蓋の上へ戻した。指が蓋の縁をなぞって、止まる。
「でも、私は外に残る」
窪みの底から音が消えた。風が縁の上を渡っていく音だけが残り、その下で、ミュカの横顔がリリアへ向いた。カリムは組んだ指を見たまま、顔を上げない。ガイルが大盾の脇に手を突いて座り直すと、鎧の継ぎ目が低く鳴った。
アルの口が開きかけた。理由を問う言葉が舌の上まで来て、そこで止まる。
リリアの手は鞄の蓋に置かれたままだった。指は動かない。アルを正面から見返して、それ以上は何も足さなかった。
「なら俺も外だ」
大盾に手を残したまま、ガイルが言った。アルの目がガイルの肩から胸へ回る。肩を覆う鎧の厚みは、外套を羽織っても布を押し上げて形が出る。
「じゃあ留守番だね。荷物の番、ちゃんと頼むよ」
ミュカの軽口に、返事はなかった。ガイルは大盾の革帯を引き、金具に通して、きつく締め直す。革の擦れる音がして、締め終えた手が革帯の上に残った。
ミュカはそれ以上何も言わず、自分の外套の裾を直した。
アルはミュカとカリムの顔を順に見て、息を一つ吐いた。
「入るのは、ミュカと俺と、カリムだ」
カリムが目を上げた。
「私、ですか」
「中の造りや並びを読めるのは、カリムだ」
カリムは少し間を置いてから頷いた。
「分かりました」
「外套の下に収まるのは、私の短刀くらいだね」
ミュカが内側で短刀の位置を直す。カリムも腰の短い刃物に手をやり、裾がその上に落ちるのを確かめた。それから襟を引き上げ、耳を隠した。
アルは腰から剣を外し、鞘ごと外套の下へ差し入れてみた。鞘の先が裾から突き出た。
「置いていくしかないよ」
軽い声だった。ミュカの目は剣に向いたままだ。
「……ああ」
そう答えながら、アルの右手は柄から離れなかった。土の上に置こうと腕を下げ、途中で戻す。もう一度下げて、また戻した。指の節が柄の革に食い込んでいる。
ガイルもリリアも、黙って見ていた。
アルは荷を引き寄せ、底から布を一枚引き出した。広げて端を揃え、鞘の口に当てる。口の縁をひと回りさせると、布は革に貼りついて収まった。そこから下へ、鞘の腹に沿って、布の幅を半分ずつ重ねて巻き下ろしていく。手は遅かった。一巻きずつ指で押さえて確かめるうちに、窪みの冷えが指の先まで上がってくる。
鍔に来て、手が止まった。左右に張り出した端へ、布を斜めに渡す。余りを折り込み、引いて、形が出ないように押さえる。結び目を作って締めると、指先に鍔の硬さが布越しに伝わった。
残るのは柄だった。握り革の上へ、布を巻き上げていく。一巻きごとに指で押して皺を伸ばし、柄頭に端を被せて、巻き目の間へ挟み込んだ。握り革が見えなくなる。最後の一巻きを留めるまで、アルは指先で巻き目を確かめ続けた。
剣は細長い布の包みになった。
包みの両端に布の余りを結んで輪を作り、肩へ回して背負う。重みが肩甲骨のあいだに落ち着いた。背へ手を回し、布の上から柄を探る。握りの位置は、指が覚えていた。
「中身が剣だって、誰も思わないね」
ミュカが包みの端を指で弾いた。布の下で、鍔が鈍く鳴った。
「鳴るか」
「ちょっとだけ。歩けば消えるよ」
◇◇◇
夜明け前に窪みを発った。
足元はほとんど見えない。ミュカが先に立ち、その踏んだ場所に合わせて、ほかの四人が一列で続く。高みには近づかず、遠く回り込んで進んだ。草が膝の近くまで伸びていて、踏むたびに露が靴の革へ染みる。畑の跡らしい盛り上がりが、靴底に何度も当たった。ミュカは時おり手のひらを下に向けて、足を止めさせた。
カリムは遅れずについてくる。足の運びが小さく、草の音がほとんど立たない。アルの背では、布を巻いた剣が一歩ごとに揺れた。
ガイルは歩幅を詰めていた。金具の音を殺すため、片腕で鎧の継ぎ目を胸へ寄せている。それでも板の触れ合う音が、ときどき闇に出た。そのたびにミュカが肩越しに振り向き、ガイルが歩みを落とした。リリアは最後尾で、足音を土に吸わせて歩いている。
東の端が白みはじめるころ、高みはずっと後ろに遠ざかっていた。草を分けて、街道へ戻る。
朝の光が土を薄く照らしている。街道の石ころが、ひとつずつ形を持ちはじめた。道の先から、滑車の軋みがかすかに届いてきた。
ミュカが足を止め、後ろに目を向けた。ガイルが街道の脇へ顔を振る。木立が一かたまり、道から外れた場所にあった。
ガイルがアルを見た。何も言わず、短く首を縦に振る。
ガイルとリリアは、そちらへ向かった。ガイルは大盾を背負い直し、リリアは外套の前を合わせる。二人が木立の陰に入ると、枝が揺れて、すぐに静まった。
アルとミュカ、カリムの三人は、街道に残った。三人とも外套を目深に引いている。
ミュカが後ろへ首を回して、声を張らずに言った。
「ガイル、寝ないで待っててよ。戻ったとき起こすの、面倒だから」
枝の下から、手が一つ上がった。ガイルの腕だった。声は返ってこない。
その横に、リリアが立っていた。外套の合わせ目を片手で握っている。口は開かない。三人が歩き出すまで、リリアはそこから動かずに見ていた。
アルは一度だけ振り返った。木立の枝が見えるだけで、人の形は分からなくなっていた。前へ向き直る。
街道を進むうちに、脇に家が一軒見えた。戸口の前に井戸がある。男が一人、つるべの縄を引いていた。
老いた魔族だった。額の両側から角が伸びている。縄を手繰る腕に、滑車の軋みが重なった。
アルは歩調を落とし、ミュカの半歩後ろについた。カリムが並ぶ。ミュカだけが歩みを変えず、男のほうへ進んだ。足取りは軽い。
井戸から少し離れたところで、ミュカが立ち止まり、首をかしげる。
「ねえ、おじさん。街って、この道でいいの?」
カリムは男を見ず、道の先だけを見ている。
男の手が、縄の上で止まった。
つるべが宙に揺れた。滴が井戸の底へ落ちる音が、やけに大きく聞こえる。
男の目が三人を見て、額のところで留まった。肩が上がり、縄を握る指に力が入った。アルは外套の縁を引き下げたくなる手を、腰の横で握りとどめた。背の包みが揺れないよう、肩も動かさない。
男の喉が、一度動いた。
「街ならこの先だ。轍をたどればいい」
「そっか。ありがと」
ミュカが軽く手を挙げた。男は縄を握ったまま、三人が通り過ぎるのを目で追った。背中に視線が貼りつく。アルは足を速めず、同じ歩調で道を進んだ。
井戸が後ろへ遠ざかる。足元に目を落とすと、轍が深く刻まれていた。縁は踏み固められて硬く、底に乾いた泥が筋を引いている。両側の草は潰れたままだ。
足を止めずに進む。道は緩やかな下りになり、坂の終わりで視界が開けた。
石の壁が街道の先に横たわっていた。壁の中ほどに門がある。轍はその門の下へ続いていた。
ミュカが額の上の縁を指でつまみ、眉にかかるまで引き下ろした。
背へ回りかけた右手を、アルは肩の高さで止めた。
三人で、門へ足を向けた。




