実験を◯す
朝。
鏡の前で、レンは制服の右肩を確認した。
昨夜、工房の壁へ擦った部分。
裂け目は内側から縫い合わせてある。
近くで見れば分かる。
だが、上着を着ている限り、目立つほどではない。
指先に残っていた紙と煙の臭いも洗い流した。
爪の間。
髪。
靴の裏。
工房の灰へつながるものは、何も残していない。
レンは鏡の中の顔を見る。
睡眠時間は、一時間にも満たない。
目の下には、わずかに疲れが見える。
それを隠す必要はなかった。
軍の視察を前に緊張して眠れなかった学生。
そう見えるなら、むしろ都合がいい。
鏡の横には、正式な研究会員証が置かれている。
昨日、アリサが軍人の前で署名したもの。
レンは会員証を制服の内側へ入れた。
今日で、この身分も役目を終える。
◇
学院正門へ到着したのは、午前七時二十分。
軍の視察開始まで、四十分。
正門の前には、既に灰色の軍服を着た兵士が二人立っていた。
通学する学生の顔と身分証を、一人ずつ確認している。
昨日までなかった警備だった。
レンは学院の会員証を見せ、構内へ入る。
中庭の中央。
時計塔の下に、アリサが立っていた。
いつもより早い。
右手の包帯は、新しいものへ替えられている。
レンの言葉を聞いたらしい。
「おはよう」
レンが声をかける。
アリサは顔を上げた。
「……おはよう」
声が硬い。
昨日までとは違う。
「眠れなかった?」
「少し」
「軍の視察が気になって?」
「それもあるわ」
アリサは周囲を見る。
登校してくる学生。
正門の兵士。
中庭を掃除する用務員。
近くに会話を聞いている人間はいない。
それを確認してから、レンへ一歩近づいた。
「話があるの」
「昨日の答え?」
アリサの表情が、わずかに揺れる。
「違うわ」
「残念」
「冗談を言っている場合ではないの」
アリサの声が低くなる。
「封書が、なくなった」
レンは一度だけ瞬きをした。
「昨日話してた?」
「ええ」
「引き出しから?」
「今朝、確認したら消えていたわ」
「鍵は?」
「壊されていない。引き出しにも、部屋にも、荒らされた形跡はなかった」
アリサはレンの目を見る。
灰青色の瞳。
今までは、レンの中にある答えを知りたいという目だった。
今は違う。
嘘を見つけようとしている。
「最後に確認したのは?」
「昨夜。眠る前よ」
レンがカーテンの陰にいたとき。
アリサは確かに、封書を確認していた。
「家の人が動かした可能性は?」
「ないわ。お祖父様も使用人も、引き出しの鍵を持っていない」
「カナタは?」
「五年前に封書を預けてから、保管場所は教えていない」
「でも、アリサが持ってることは知ってる」
「ええ」
可能性が一つもないわけではない。
カナタが、何らかの方法で取り戻した。
家の誰かが、合鍵を使った。
軍が、昨夜のうちに屋敷へ入り込んだ。
どれも、あり得ないとは言い切れない。
だが、アリサが正確な保管場所を話した相手は、一人だけだった。
「昨日、あなたに話したばかりなの」
「そうだな」
「それまでは、五年間何も起きなかった」
アリサの声が、わずかに震える。
怒りではない。
恐怖でもない。
信じたくない。
その感情を必死に抑えている。
「レン」
アリサが尋ねる。
「昨夜は、どこにいたの?」
「寮だよ」
「ずっと?」
「夕食のあと、自分の部屋へ戻った」
嘘ではある。
だが、言葉に迷いはなかった。
「それを証明できる人は?」
「部屋へ戻るところなら、寮監が見てる。そのあとまでは、誰にも会ってない」
「部屋から出ていない?」
レンはアリサの目を見る。
「出てない」
短い答えだった。
アリサは何も言わない。
レンの制服。
靴。
手。
顔。
一つずつ見ている。
「右肩」
アリサが言った。
「縫ったの?」
「昨日、寮の物置で引っかけた」
「昨日までは破れていなかったわ」
「昨日の夜に破れたからな」
「物置へ何をしに?」
「掃除用の布を取りに行った。珈琲をこぼしたんだ」
事前に用意していた答えではない。
だが、矛盾はない。
アリサはレンの肩へ手を伸ばした。
指先が縫い目へ触れる。
「ずいぶん大きく裂けたのね」
「釘が出てた」
「怪我は?」
「してない」
「見せて」
「ここで脱げと?」
「そうは言っていないでしょう」
昨日なら、少し頬を赤らめていたかもしれない。
今のアリサは笑わなかった。
「レン」
もう一度、名前を呼ぶ。
「あなたが、封書を盗んだの?」
レンは一秒も迷わなかった。
「盗んでない」
昨夜。
アリサの部屋へ入った。
引き出しを開けた。
封書を持ち出した。
中身を読んだ。
そして燃やした。
すべてを知ったうえで、否定した。
アリサはレンの顔を見つめ続ける。
「本当に?」
「ああ」
「私に、嘘をついていない?」
「ついてない」
二つ目の嘘。
アリサが求めているのは、証拠ではない。
信じてもいいと言ってほしいだけだった。
だからレンは、彼女が欲しがっている言葉を与えた。
「軍かもしれない」
レンが言う。
「昨日、榊家の前に見張りがいた」
「知っていたの?」
「帰り道に見かけた。軍服ではなかったけど、たぶん軍人だ」
「どうして、昨日言わなかったの?」
「確証がなかった。余計に不安にさせたくなかった」
アリサは、すぐには答えなかった。
疑う理由がある。
同時に、信じたい理由もある。
自分を助けた。
カナタを助けた。
資料整理に協力した。
軍人の前でも逃げなかった。
包帯を巻いた。
いなくならないと言った。
それらすべてが、レンを信じる理由になっている。
本当は、同じ行動の一つ一つが、任務のためだった。
「……分かったわ」
やがて、アリサが言った。
「今は、あなたを信じる」
今は。
昨日まで、その言葉はなかった。
「ただし、軍にも確認する。もし軍が持ち出したのなら、必ず返してもらうわ」
「そうしたほうがいい」
「レン」
アリサが、もう一度呼び止める。
「もし何か知っているなら、今からでも話して」
「知らないよ」
三つ目の嘘。
アリサはゆっくりとうなずいた。
「そう」
時計塔の鐘が鳴る。
七時半。
軍の視察まで、残り三十分。
「研究棟へ行きましょう」
アリサはレンに背を向けた。
並んでは歩かなかった。
半歩だけ。
二人の間に、昨日までなかった距離が生まれていた。
◇
研究棟の前には、帝国軍の車両が四台並んでいた。
正面入口を守る兵士。
窓の下に立つ兵士。
裏口にも二人。
逃走を防ぐためではない。
資料が外へ持ち出されないようにするための配置。
少なくとも、表向きはそうだった。
高瀬とカナタは、既に入口で待っている。
カナタは大きな欠伸をしながら、レンを見た。
「おはよう」
「寝た?」
「三時間も寝た」
「それを寝たとは言わないだろ」
「昨日よりは三倍だよ」
「ゼロに何をかけてもゼロよ」
アリサが言った。
「少しは寝たよ」
「では、三時間は嘘ね」
「二時間半」
「減ったわね」
「体感では三時間だった」
「反省文に、虚偽報告も追加ね」
「軍の前でもそれやるの?」
「軍がいても、規則違反は消えないわ」
いつものやり取り。
だが、アリサはレンを見なかった。
カナタも、その違いに気づいたらしい。
二人を交互に見る。
「何かあった?」
「何もないわ」
「その答えは、何かあったときのやつだよ」
「視察前に余計なことを考えないで」
「レン?」
カナタが助けを求めるように見る。
「俺も何も知らない」
アリサの肩が、わずかに揺れた。
レンの答えに反応した。
「二人とも同じことを言うと、余計に怪しいんだけど」
「気にするな」
「気になるよ」
「研究者なら、分からないことを放置する勇気も必要よ」
「それ、研究者に一番必要ない勇気だと思う」
午前八時。
研究棟の入口に、ヴィクトルが現れた。
昨日と同じ灰色の軍服。
その後ろには、兵士が六人。
軍の技術士官が二人。
記録係が一人。
合計十人。
「時間だ」
ヴィクトルが言う。
「全員、身分証と所持品を確認する」
カナタが眉を寄せる。
「僕たちまで?」
「昨夜以降、資料へ接触していないことを確認するためだ」
「僕は自分の研究を盗みませんよ」
「盗む者が、先にそう申告するとは限らない」
「信用されてないな」
「軍は、確認できないものを信用しない」
ヴィクトルの言葉に、アリサの視線が一瞬だけレンへ向いた。
すぐに外れる。
一人ずつ、鞄の中身を確認される。
高瀬。
カナタ。
アリサ。
レン。
レンの鞄に入っているのは、教科書と筆記用具。
学院から渡された研究会員証。
昨夜の痕跡はない。
兵士が上着の内側も確認する。
「右肩を縫っているな」
兵士が言った。
「昨夜、物置の釘に引っかけました」
レンは、アリサへ話したものと同じ説明をする。
ヴィクトルは離れた場所で聞いていた。
何も言わない。
全員の確認が終わる。
軍人たちは、二階の第二実験室へ移動した。
扉には、昨日貼られた赤い封印紙が残っている。
「破損なし」
兵士が確認する。
封印を切る。
アリサが鍵を開けた。
実験室へ入る。
昨日と何も変わっていない。
実験台。
測定装置。
試作品。
そして、異世界由来の技術を収めた金属棚。
ヴィクトルは最初に金属棚の封印を確認した。
「鍵を」
アリサが銀色の鍵を差し込む。
封印紙を切り、棚を開く。
兵士が資料を一つずつ取り出した。
帳面。
設計図。
試作品。
一覧表と照らし合わせる。
「数量、すべて一致」
兵士が報告する。
「整理したのは?」
ヴィクトルが尋ねる。
「私とレンです」
アリサが答えた。
「分類方法を考えたのは?」
「レンです」
一瞬、言葉に迷いがあった。
昨日なら、迷わず名前を出していた。
ヴィクトルはそれを見逃さなかった。
「ずいぶん優秀な編入生らしいな」
「研究内容ではなく、保管場所を整理しただけです」
レンが答える。
「謙虚なのか、自分の能力を隠しているのか。どちらだ?」
「できないことを、できると言わないだけです」
「では、何ができる?」
「物を数えて、同じ場所へ戻すくらいです」
「昨夜は、何を数えていた?」
空気が変わった。
カナタがレンを見る。
高瀬の眉が動く。
アリサだけは、表情を変えなかった。
変えないようにしていた。
「質問の意味が分かりません」
ヴィクトルは棚から視線を外した。
「まずは、研究内容を確認する」
◇
視察は、基礎理論の説明から始まった。
黒板の前に立つカナタ。
その横には高瀬。
軍の技術士官二人は、最前列へ座っている。
記録係は、カナタの発言を一言ずつ紙へ書き写していた。
「従来型の蓄電器では、充電時に電極表面へ反応が集中します」
カナタが図を描く。
「そのため、一部だけが劣化し、全体の容量を使い切れない。僕の装置では、電極を層状に分け、魔力回路で反応位置を順番に変えます」
「魔力は、反応速度を上げるために使うのか?」
技術士官が尋ねる。
「違います。反応を起こすのは電気です。魔力は、反応する位置を制御するために使います」
「なぜ、その発想へ至った?」
「試行錯誤です」
「何年かかった?」
「八年くらいです」
「最初に研究を始めたのは九歳だと聞いている」
「はい」
「九歳の子供が、なぜ電極表面の反応へ着目した?」
カナタの答えが止まる。
高瀬が代わりに口を開いた。
「神崎は幼少期から、魔導灯や小型機関の構造に強い関心を持っていました。既存装置の分解と観察から――」
「高瀬教授には聞いていない」
技術士官が遮った。
「神崎カナタ本人へ聞いている」
カナタは、黒板の前で軍人を見返した。
「気になったからです」
「それだけか?」
「研究を始める理由に、それ以上必要ですか?」
「研究者が一つの発想へたどり着くまでには、必ず過程がある」
「子供の頃のことまで、全部覚えてませんよ」
「記録には残していないのか?」
技術士官の視線が、金属棚へ向く。
零号帳を参照する記述。
だが、その零号帳はもう存在しない。
「昔の日記ならあります」
カナタが答えた。
レンの視線が、わずかに動く。
「今朝、持ってこようと思って開いたら、中身が全部白紙になってましたけど」
アリサがカナタを見る。
「白紙?」
「うん。黒い手帳。昔の記録を確認しようと思ったんだけど、誰かがすり替えたみたいで」
「どうして、先に言わなかったの?」
「軍が来る直前だったから。視察が終わってから話そうと思ってた」
「部屋が荒らされた形跡は?」
ヴィクトルが尋ねる。
「ありません。机の鍵も閉まってました」
「昨夜、最後に確認した時刻は?」
「十時半くらいです」
「今朝、気づいた時刻は?」
「六時です」
ヴィクトルは記録係を見る。
「記録しろ」
「待ってください」
アリサが立ち上がる。
「昨夜、私の部屋からも、カナタに預けられた封書が消えています」
カナタの表情が固まる。
「封書?」
「十二歳の頃、私へ預けたものよ」
「あれが?」
カナタが黒板から離れる。
「どうしてなくなるんだ?」
「分からないわ」
「引き出しに入れてたんだろ?」
「ええ」
「鍵は?」
「閉まったままよ」
カナタは何かを言いかけ、レンを見る。
ただの偶然ではない。
同じ夜。
二つの家。
鍵のかかった引き出しから、重要な資料だけが消えた。
「その封書の存在を知っていた人間は?」
ヴィクトルが尋ねる。
「私と、カナタ」
アリサは答える。
続きが出てこない。
「ほかには?」
ヴィクトルが促す。
アリサの指が、包帯の上から強く握られる。
「昨日……レンへ話しました」
室内の視線が、一斉にレンへ集まった。
カナタ。
高瀬。
軍人たち。
そして、アリサ。
「保管場所も?」
「はい」
「それは、昨日が初めてか?」
「はい」
ヴィクトルは、ゆっくりとレンへ向き直った。
「興味深い偶然だな」
「俺には関係ありません」
「そうか」
「昨夜は寮にいました」
「その話を、あとでゆっくり聞こう」
ヴィクトルは兵士へ合図した。
「視察が終わるまで、レン・クロードを一人にするな」
兵士二人が、レンの左右へ立つ。
カナタが前へ出る。
「待ってください。レンが盗んだ証拠はないでしょう」
「神崎」
アリサが止める。
「でも、そうだろ?」
「ええ。証拠はないわ」
アリサは答えた。
その声には迷いがある。
カナタは気づかなかった。
「レンは、僕を助けてくれた。研究資料だって、誰かに盗まれないように整理したんだ」
「だからこそ、資料の場所をすべて知っている」
ヴィクトルが言う。
「そんな言い方なら、アリサだって高瀬先生だって同じです」
「君は、随分と彼を信用しているらしいな」
「友達ですから」
即答だった。
昨夜。
眠ったまま、明日を頼むと言った。
今朝、自分の大切な手帳が盗まれたと知っても、最初にレンをかばった。
タクミと同じだった。
疑うべき理由があっても、仲間だという理由で信じようとする。
「カナタ」
レンが呼ぶ。
「いいよ」
「何が?」
「軍に説明すれば済む」
「でも――」
「視察を終わらせろ。時間がないんだろ?」
カナタは納得していなかった。
それでも、黒板の前へ戻る。
アリサだけは、レンを見続けていた。
◇
試作品の実演が始まったのは、午前十時過ぎだった。
円筒形の新型蓄電器が、実験台の中央へ固定される。
周囲には測定器。
温度計。
圧力計。
魔力反応を記録する針。
高瀬が全体を確認する。
アリサが安全装置を点検する。
カナタが制御盤の前へ立つ。
軍の技術士官は、その動作を一つも見逃さないように観察していた。
レンは壁際。
両側には兵士。
目の前の金属棚は、開いたままになっている。
技術士官が必要な資料を取り出すためだった。
上段。
基礎理論。
試作記録。
設計図。
すべての処分対象が、そこにある。
記録係の机には、新たに書き写された資料が六枚。
一枚目には、電極構造。
二枚目には、魔力回路。
三枚目には、電解質の組成。
短い時間で、処分対象が六つ増えた。
「充電を開始します」
カナタが操作棒を下げる。
装置の内部から、低い振動音が響く。
一倍。
二倍。
三倍。
計器の針が上がっていく。
「従来品の最大容量へ到達」
高瀬が告げる。
「温度、正常」
アリサが確認する。
「内圧、正常」
カナタが二本目の操作棒を下げた。
振動音が強くなる。
装置の外殻に刻まれた魔力回路が、青白く発光する。
四倍。
五倍。
六倍。
技術士官たちの表情が変わった。
紙に書かれた数値ではない。
実際に、従来品の六倍を越える電力が、小さな円筒の中へ蓄えられている。
「六・四倍」
高瀬が言う。
「先日の実験で、破裂した数値です」
「安全装置は?」
技術士官が尋ねる。
「正常に作動しています」
アリサが答える。
「外殻温度、規定内。圧力逃がし弁も問題ありません」
「続けます」
カナタが三本目の操作棒へ手をかける。
「待て」
ヴィクトルが止めた。
「この装置を、帝国軍技術部の施設へ移送する」
「まだ実演の途中です」
「十分だ。六倍を越えたことは確認した」
「目標は十二倍です」
「完成させる場所が、学院である必要はない」
カナタの表情が硬くなる。
「どういう意味ですか?」
「神崎カナタ。帝国軍技術部は、君を特別研究員として迎える用意がある」
室内が静かになった。
「研究費は、現在の十倍を保証する。必要な素材、設備、人員も、すべて軍が用意する」
「断ります」
カナタは即答した。
「条件を聞く前に?」
「軍へ入る条件なんて、聞く必要がない」
「軍属になれと言っているのではない。民間の研究者として、技術部へ協力すればいい」
「僕の研究を、何に使うつもりですか?」
「帝国の発展だ」
「兵器にも?」
ヴィクトルは答えなかった。
それだけで十分だった。
「なら、断ります」
「君の研究費の一部は、帝国軍が負担している」
「だから、途中経過を見せました。研究者本人まで買ったつもりですか?」
「カナタ」
高瀬が低い声で止める。
「でも、先生」
「言葉を選べ」
ヴィクトルは怒らなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「若いな」
「十七歳なので」
「自分の技術を、自分だけのものだと思っている」
「僕が作ったものです」
「違う」
ヴィクトルは、実験台の上に置かれた設計図を指さした。
「この素材を作った者がいる。測定器を作った者がいる。学院を建てた者がいる。研究費を出した国がある」
「だから、僕の考えたことまで国のものになるんですか?」
「世界を変える技術を、一人の少年の感情へ任せることはできない」
世界を変える。
女神と同じ言葉だった。
一人の人間が持ち込んだ異物によって、何億という命の運命が書き換えられる。
だから管理する。
女神は殺す。
軍は奪う。
方法が違うだけで、カナタ本人の意思を無視していることに変わりはなかった。
「視察終了後、装置と資料は軍の管理下へ置く」
ヴィクトルが告げた。
「神崎カナタにも、技術部への同行を求める」
「拒否したら?」
「任意だ」
「なら、行きません」
「今日はな」
ヴィクトルの言葉に、カナタが黙る。
今日は任意。
明日は違うかもしれない。
軍が技術の価値を知った以上、もう以前の生活へは戻れない。
審査会を待つ必要すらなくなった。
カナタが生きている限り、軍はその頭の中を求め続ける。
「実演を続けます」
カナタが言った。
「まだ終わってません」
「好きにしろ」
ヴィクトルは止めなかった。
軍の所有物になる装置が、どこまで性能を伸ばすのか見たい。
その目だった。
カナタが三本目の操作棒を下げる。
七倍。
七・五倍。
八倍。
装置の振動が、さらに強くなる。
「八・三倍」
高瀬が告げた。
「温度、正常」
「内圧、正常」
アリサが確認する。
軍の記録係が、数値を書き写す。
技術士官は設計図の一部を、自分の書類鞄へ入れようとした。
「待ってください」
アリサが止める。
「それは開示保留資料です」
「軍の管理下へ移す」
「まだ正式な命令は出ていません」
「大尉の指示だ」
「なら、命令書を見せてください」
アリサが技術士官の前へ立つ。
右手は包帯に覆われている。
それでも、資料から退かなかった。
金属棚は開いている。
資料は実験台へ広げられている。
新たな写しも、すべて同じ部屋。
試作品の内部には、従来品の八倍を越える電力。
必要なものが、そろっている。
あとはカナタを殺すだけ。
だが、レンの両側には兵士。
ヴィクトルは室内全体を見ている。
動くには、まだ早い。
そう判断したとき。
実験室の扉が開いた。
軍の通信兵が入ってくる。
手には、細長い電信紙。
「ハイン大尉。北部方面司令部から返信です」
ヴィクトルが紙を受け取る。
短い文章を読む。
その視線が、ゆっくりとレンへ向いた。
「レン・クロード」
「はい」
「北部ローデン郡、ハルツ村の出身だったな」
「そうです」
「父親は、農機具修理を営むノエル・クロード」
「はい」
「奇妙だな」
ヴィクトルは電信紙を閉じた。
「ハルツ村の住民台帳に、クロードという姓は一人も存在しない」
カナタが振り返る。
高瀬の表情が固まる。
アリサは動かなかった。
「過去二十年の納税記録、出生記録、死亡記録も確認させた」
ヴィクトルが続ける。
「ノエル・クロードも、レン・クロードも存在しない」
「記録の不備では?」
レンが答える。
「村の記録は、五年前の洪水で一部失われています」
「よく知っているな」
「出身地ですから」
「確かに、教会の出生簿は失われた。だが、郡の徴税記録は残っている。農機具の修理で商売をしていた人間なら、記載がないはずはない」
ヴィクトルは兵士へ目を向けた。
「拘束しろ」
レンの左右にいた兵士が、一歩近づく。
「待ってください」
アリサが声を上げた。
「レンの編入書類は正式なものです。身元保証人は、学院理事である私の祖父です」
「その祖父からも話を聞いた」
ヴィクトルが答える。
「榊宗一郎は、レンの父親に世話になったと話した。だが、名前を尋ねると答えられなかった。どこで知り合ったのかも、いつ約束をしたのかも覚えていない」
アリサの顔から、血の気が引く。
女神が植えつけた、曖昧な確信。
深く調べれば崩れる身分。
ついに、その綻びへ手が届いた。
「レン」
カナタが制御盤から離れようとする。
「動くな」
技術士官が止める。
「装置は稼働中だ」
「でも――」
「いいよ、カナタ」
レンが言った。
「俺が説明する」
「何を?」
「軍に」
「ここで説明すればいいだろ」
カナタは、まだレンを信じている。
軍が間違えている。
記録に不備がある。
レンには事情がある。
そう考えている。
アリサは違った。
消えた封書。
零号帳。
昨夜の所在。
縫い直された制服。
存在しない故郷。
信じたい理由の横に、疑うべき事実が積み重なっている。
「レン」
アリサの声が震える。
「あなたは……誰なの?」
答える必要はなかった。
もうすぐ、この世界から消える。
説明しても意味はない。
ヴィクトルが右手を上げる。
「連れていけ」
兵士がレンの腕をつかもうとする。
その瞬間。
レンは室内を見渡した。
開いた金属棚。
取り出された基礎理論。
十二本の設計図。
机に積まれた試作記録。
記録係が作った六枚の写し。
軍の技術士官が持つ書類鞄。
八・三倍まで充電された試作品。
神崎カナタ。
すべてが、同じ部屋にある。
計画通りではない。
軍の人間が多すぎる。
アリサと高瀬も近い。
ヴィクトルは、レンを警戒している。
それでも、これ以上の機会はない。
ここを出れば拘束される。
資料は軍の施設へ運ばれる。
カナタも、いずれ連れていかれる。
影響は、帝都中へ広がる。
待つ時間は終わった。
レンは両手を上げた。
抵抗しない意思を示す。
兵士の力が、わずかに緩む。
「分かりました」
レンは穏やかに答えた。
一歩、後ろへ下がる。
兵士に連れていかれるように。
実験台へ近づく方向へ。
もう一歩。
背中が、試作品から伸びる安全停止線へ触れる。
昨日、すべての資料を整理した。
圧力逃がし弁の構造も見た。
安全装置が、どの順番で作動するのかも覚えている。
安全停止線を切断。
魔力回路の遮断を妨害。
圧力逃がし弁を閉鎖。
八・三倍まで充電された状態なら、内圧が限界へ達するまで八秒。
レンの指が、安全停止線へ触れた。
カナタが、その動きに気づく。
「レン?」
残り八秒。
任務の最後が、始まった。




