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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜学生研究者編〜
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9/72

実験を◯す

朝。


鏡の前で、レンは制服の右肩を確認した。


昨夜、工房の壁へ擦った部分。


裂け目は内側から縫い合わせてある。


近くで見れば分かる。


だが、上着を着ている限り、目立つほどではない。


指先に残っていた紙と煙の臭いも洗い流した。


爪の間。


髪。


靴の裏。


工房の灰へつながるものは、何も残していない。


レンは鏡の中の顔を見る。


睡眠時間は、一時間にも満たない。


目の下には、わずかに疲れが見える。


それを隠す必要はなかった。


軍の視察を前に緊張して眠れなかった学生。


そう見えるなら、むしろ都合がいい。


鏡の横には、正式な研究会員証が置かれている。


昨日、アリサが軍人の前で署名したもの。


レンは会員証を制服の内側へ入れた。


今日で、この身分も役目を終える。


          ◇


学院正門へ到着したのは、午前七時二十分。


軍の視察開始まで、四十分。


正門の前には、既に灰色の軍服を着た兵士が二人立っていた。


通学する学生の顔と身分証を、一人ずつ確認している。


昨日までなかった警備だった。


レンは学院の会員証を見せ、構内へ入る。


中庭の中央。


時計塔の下に、アリサが立っていた。


いつもより早い。


右手の包帯は、新しいものへ替えられている。


レンの言葉を聞いたらしい。


「おはよう」


レンが声をかける。


アリサは顔を上げた。


「……おはよう」


声が硬い。


昨日までとは違う。


「眠れなかった?」


「少し」


「軍の視察が気になって?」


「それもあるわ」


アリサは周囲を見る。


登校してくる学生。


正門の兵士。


中庭を掃除する用務員。


近くに会話を聞いている人間はいない。


それを確認してから、レンへ一歩近づいた。


「話があるの」


「昨日の答え?」


アリサの表情が、わずかに揺れる。


「違うわ」


「残念」


「冗談を言っている場合ではないの」


アリサの声が低くなる。


「封書が、なくなった」


レンは一度だけ瞬きをした。


「昨日話してた?」


「ええ」


「引き出しから?」


「今朝、確認したら消えていたわ」


「鍵は?」


「壊されていない。引き出しにも、部屋にも、荒らされた形跡はなかった」


アリサはレンの目を見る。


灰青色の瞳。


今までは、レンの中にある答えを知りたいという目だった。


今は違う。


嘘を見つけようとしている。


「最後に確認したのは?」


「昨夜。眠る前よ」


レンがカーテンの陰にいたとき。


アリサは確かに、封書を確認していた。


「家の人が動かした可能性は?」


「ないわ。お祖父様も使用人も、引き出しの鍵を持っていない」


「カナタは?」


「五年前に封書を預けてから、保管場所は教えていない」


「でも、アリサが持ってることは知ってる」


「ええ」


可能性が一つもないわけではない。


カナタが、何らかの方法で取り戻した。


家の誰かが、合鍵を使った。


軍が、昨夜のうちに屋敷へ入り込んだ。


どれも、あり得ないとは言い切れない。


だが、アリサが正確な保管場所を話した相手は、一人だけだった。


「昨日、あなたに話したばかりなの」


「そうだな」


「それまでは、五年間何も起きなかった」


アリサの声が、わずかに震える。


怒りではない。


恐怖でもない。


信じたくない。


その感情を必死に抑えている。


「レン」


アリサが尋ねる。


「昨夜は、どこにいたの?」


「寮だよ」


「ずっと?」


「夕食のあと、自分の部屋へ戻った」


嘘ではある。


だが、言葉に迷いはなかった。


「それを証明できる人は?」


「部屋へ戻るところなら、寮監が見てる。そのあとまでは、誰にも会ってない」


「部屋から出ていない?」


レンはアリサの目を見る。


「出てない」


短い答えだった。


アリサは何も言わない。


レンの制服。


靴。


手。


顔。


一つずつ見ている。


「右肩」


アリサが言った。


「縫ったの?」


「昨日、寮の物置で引っかけた」


「昨日までは破れていなかったわ」


「昨日の夜に破れたからな」


「物置へ何をしに?」


「掃除用の布を取りに行った。珈琲をこぼしたんだ」


事前に用意していた答えではない。


だが、矛盾はない。


アリサはレンの肩へ手を伸ばした。


指先が縫い目へ触れる。


「ずいぶん大きく裂けたのね」


「釘が出てた」


「怪我は?」


「してない」


「見せて」


「ここで脱げと?」


「そうは言っていないでしょう」


昨日なら、少し頬を赤らめていたかもしれない。


今のアリサは笑わなかった。


「レン」


もう一度、名前を呼ぶ。


「あなたが、封書を盗んだの?」


レンは一秒も迷わなかった。


「盗んでない」


昨夜。


アリサの部屋へ入った。


引き出しを開けた。


封書を持ち出した。


中身を読んだ。


そして燃やした。


すべてを知ったうえで、否定した。


アリサはレンの顔を見つめ続ける。


「本当に?」


「ああ」


「私に、嘘をついていない?」


「ついてない」


二つ目の嘘。


アリサが求めているのは、証拠ではない。


信じてもいいと言ってほしいだけだった。


だからレンは、彼女が欲しがっている言葉を与えた。


「軍かもしれない」


レンが言う。


「昨日、榊家の前に見張りがいた」


「知っていたの?」


「帰り道に見かけた。軍服ではなかったけど、たぶん軍人だ」


「どうして、昨日言わなかったの?」


「確証がなかった。余計に不安にさせたくなかった」


アリサは、すぐには答えなかった。


疑う理由がある。


同時に、信じたい理由もある。


自分を助けた。


カナタを助けた。


資料整理に協力した。


軍人の前でも逃げなかった。


包帯を巻いた。


いなくならないと言った。


それらすべてが、レンを信じる理由になっている。


本当は、同じ行動の一つ一つが、任務のためだった。


「……分かったわ」


やがて、アリサが言った。


「今は、あなたを信じる」


今は。


昨日まで、その言葉はなかった。


「ただし、軍にも確認する。もし軍が持ち出したのなら、必ず返してもらうわ」


「そうしたほうがいい」


「レン」


アリサが、もう一度呼び止める。


「もし何か知っているなら、今からでも話して」


「知らないよ」


三つ目の嘘。


アリサはゆっくりとうなずいた。


「そう」


時計塔の鐘が鳴る。


七時半。


軍の視察まで、残り三十分。


「研究棟へ行きましょう」


アリサはレンに背を向けた。


並んでは歩かなかった。


半歩だけ。


二人の間に、昨日までなかった距離が生まれていた。


          ◇


研究棟の前には、帝国軍の車両が四台並んでいた。


正面入口を守る兵士。


窓の下に立つ兵士。


裏口にも二人。


逃走を防ぐためではない。


資料が外へ持ち出されないようにするための配置。


少なくとも、表向きはそうだった。


高瀬とカナタは、既に入口で待っている。


カナタは大きな欠伸をしながら、レンを見た。


「おはよう」


「寝た?」


「三時間も寝た」


「それを寝たとは言わないだろ」


「昨日よりは三倍だよ」


「ゼロに何をかけてもゼロよ」


アリサが言った。


「少しは寝たよ」


「では、三時間は嘘ね」


「二時間半」


「減ったわね」


「体感では三時間だった」


「反省文に、虚偽報告も追加ね」


「軍の前でもそれやるの?」


「軍がいても、規則違反は消えないわ」


いつものやり取り。


だが、アリサはレンを見なかった。


カナタも、その違いに気づいたらしい。


二人を交互に見る。


「何かあった?」


「何もないわ」


「その答えは、何かあったときのやつだよ」


「視察前に余計なことを考えないで」


「レン?」


カナタが助けを求めるように見る。


「俺も何も知らない」


アリサの肩が、わずかに揺れた。


レンの答えに反応した。


「二人とも同じことを言うと、余計に怪しいんだけど」


「気にするな」


「気になるよ」


「研究者なら、分からないことを放置する勇気も必要よ」


「それ、研究者に一番必要ない勇気だと思う」


午前八時。


研究棟の入口に、ヴィクトルが現れた。


昨日と同じ灰色の軍服。


その後ろには、兵士が六人。


軍の技術士官が二人。


記録係が一人。


合計十人。


「時間だ」


ヴィクトルが言う。


「全員、身分証と所持品を確認する」


カナタが眉を寄せる。


「僕たちまで?」


「昨夜以降、資料へ接触していないことを確認するためだ」


「僕は自分の研究を盗みませんよ」


「盗む者が、先にそう申告するとは限らない」


「信用されてないな」


「軍は、確認できないものを信用しない」


ヴィクトルの言葉に、アリサの視線が一瞬だけレンへ向いた。


すぐに外れる。


一人ずつ、鞄の中身を確認される。


高瀬。


カナタ。


アリサ。


レン。


レンの鞄に入っているのは、教科書と筆記用具。


学院から渡された研究会員証。


昨夜の痕跡はない。


兵士が上着の内側も確認する。


「右肩を縫っているな」


兵士が言った。


「昨夜、物置の釘に引っかけました」


レンは、アリサへ話したものと同じ説明をする。


ヴィクトルは離れた場所で聞いていた。


何も言わない。


全員の確認が終わる。


軍人たちは、二階の第二実験室へ移動した。


扉には、昨日貼られた赤い封印紙が残っている。


「破損なし」


兵士が確認する。


封印を切る。


アリサが鍵を開けた。


実験室へ入る。


昨日と何も変わっていない。


実験台。


測定装置。


試作品。


そして、異世界由来の技術を収めた金属棚。


ヴィクトルは最初に金属棚の封印を確認した。


「鍵を」


アリサが銀色の鍵を差し込む。


封印紙を切り、棚を開く。


兵士が資料を一つずつ取り出した。


帳面。


設計図。


試作品。


一覧表と照らし合わせる。


「数量、すべて一致」


兵士が報告する。


「整理したのは?」


ヴィクトルが尋ねる。


「私とレンです」


アリサが答えた。


「分類方法を考えたのは?」


「レンです」


一瞬、言葉に迷いがあった。


昨日なら、迷わず名前を出していた。


ヴィクトルはそれを見逃さなかった。


「ずいぶん優秀な編入生らしいな」


「研究内容ではなく、保管場所を整理しただけです」


レンが答える。


「謙虚なのか、自分の能力を隠しているのか。どちらだ?」


「できないことを、できると言わないだけです」


「では、何ができる?」


「物を数えて、同じ場所へ戻すくらいです」


「昨夜は、何を数えていた?」


空気が変わった。


カナタがレンを見る。


高瀬の眉が動く。


アリサだけは、表情を変えなかった。


変えないようにしていた。


「質問の意味が分かりません」


ヴィクトルは棚から視線を外した。


「まずは、研究内容を確認する」


          ◇


視察は、基礎理論の説明から始まった。


黒板の前に立つカナタ。


その横には高瀬。


軍の技術士官二人は、最前列へ座っている。


記録係は、カナタの発言を一言ずつ紙へ書き写していた。


「従来型の蓄電器では、充電時に電極表面へ反応が集中します」


カナタが図を描く。


「そのため、一部だけが劣化し、全体の容量を使い切れない。僕の装置では、電極を層状に分け、魔力回路で反応位置を順番に変えます」


「魔力は、反応速度を上げるために使うのか?」


技術士官が尋ねる。


「違います。反応を起こすのは電気です。魔力は、反応する位置を制御するために使います」


「なぜ、その発想へ至った?」


「試行錯誤です」


「何年かかった?」


「八年くらいです」


「最初に研究を始めたのは九歳だと聞いている」


「はい」


「九歳の子供が、なぜ電極表面の反応へ着目した?」


カナタの答えが止まる。


高瀬が代わりに口を開いた。


「神崎は幼少期から、魔導灯や小型機関の構造に強い関心を持っていました。既存装置の分解と観察から――」


「高瀬教授には聞いていない」


技術士官が遮った。


「神崎カナタ本人へ聞いている」


カナタは、黒板の前で軍人を見返した。


「気になったからです」


「それだけか?」


「研究を始める理由に、それ以上必要ですか?」


「研究者が一つの発想へたどり着くまでには、必ず過程がある」


「子供の頃のことまで、全部覚えてませんよ」


「記録には残していないのか?」


技術士官の視線が、金属棚へ向く。


零号帳を参照する記述。


だが、その零号帳はもう存在しない。


「昔の日記ならあります」


カナタが答えた。


レンの視線が、わずかに動く。


「今朝、持ってこようと思って開いたら、中身が全部白紙になってましたけど」


アリサがカナタを見る。


「白紙?」


「うん。黒い手帳。昔の記録を確認しようと思ったんだけど、誰かがすり替えたみたいで」


「どうして、先に言わなかったの?」


「軍が来る直前だったから。視察が終わってから話そうと思ってた」


「部屋が荒らされた形跡は?」


ヴィクトルが尋ねる。


「ありません。机の鍵も閉まってました」


「昨夜、最後に確認した時刻は?」


「十時半くらいです」


「今朝、気づいた時刻は?」


「六時です」


ヴィクトルは記録係を見る。


「記録しろ」


「待ってください」


アリサが立ち上がる。


「昨夜、私の部屋からも、カナタに預けられた封書が消えています」


カナタの表情が固まる。


「封書?」


「十二歳の頃、私へ預けたものよ」


「あれが?」


カナタが黒板から離れる。


「どうしてなくなるんだ?」


「分からないわ」


「引き出しに入れてたんだろ?」


「ええ」


「鍵は?」


「閉まったままよ」


カナタは何かを言いかけ、レンを見る。


ただの偶然ではない。


同じ夜。


二つの家。


鍵のかかった引き出しから、重要な資料だけが消えた。


「その封書の存在を知っていた人間は?」


ヴィクトルが尋ねる。


「私と、カナタ」


アリサは答える。


続きが出てこない。


「ほかには?」


ヴィクトルが促す。


アリサの指が、包帯の上から強く握られる。


「昨日……レンへ話しました」


室内の視線が、一斉にレンへ集まった。


カナタ。


高瀬。


軍人たち。


そして、アリサ。


「保管場所も?」


「はい」


「それは、昨日が初めてか?」


「はい」


ヴィクトルは、ゆっくりとレンへ向き直った。


「興味深い偶然だな」


「俺には関係ありません」


「そうか」


「昨夜は寮にいました」


「その話を、あとでゆっくり聞こう」


ヴィクトルは兵士へ合図した。


「視察が終わるまで、レン・クロードを一人にするな」


兵士二人が、レンの左右へ立つ。


カナタが前へ出る。


「待ってください。レンが盗んだ証拠はないでしょう」


「神崎」


アリサが止める。


「でも、そうだろ?」


「ええ。証拠はないわ」


アリサは答えた。


その声には迷いがある。


カナタは気づかなかった。


「レンは、僕を助けてくれた。研究資料だって、誰かに盗まれないように整理したんだ」


「だからこそ、資料の場所をすべて知っている」


ヴィクトルが言う。


「そんな言い方なら、アリサだって高瀬先生だって同じです」


「君は、随分と彼を信用しているらしいな」


「友達ですから」


即答だった。


昨夜。


眠ったまま、明日を頼むと言った。


今朝、自分の大切な手帳が盗まれたと知っても、最初にレンをかばった。


タクミと同じだった。


疑うべき理由があっても、仲間だという理由で信じようとする。


「カナタ」


レンが呼ぶ。


「いいよ」


「何が?」


「軍に説明すれば済む」


「でも――」


「視察を終わらせろ。時間がないんだろ?」


カナタは納得していなかった。


それでも、黒板の前へ戻る。


アリサだけは、レンを見続けていた。


          ◇


試作品の実演が始まったのは、午前十時過ぎだった。


円筒形の新型蓄電器が、実験台の中央へ固定される。


周囲には測定器。


温度計。


圧力計。


魔力反応を記録する針。


高瀬が全体を確認する。


アリサが安全装置を点検する。


カナタが制御盤の前へ立つ。


軍の技術士官は、その動作を一つも見逃さないように観察していた。


レンは壁際。


両側には兵士。


目の前の金属棚は、開いたままになっている。


技術士官が必要な資料を取り出すためだった。


上段。


基礎理論。


試作記録。


設計図。


すべての処分対象が、そこにある。


記録係の机には、新たに書き写された資料が六枚。


一枚目には、電極構造。


二枚目には、魔力回路。


三枚目には、電解質の組成。


短い時間で、処分対象が六つ増えた。


「充電を開始します」


カナタが操作棒を下げる。


装置の内部から、低い振動音が響く。


一倍。


二倍。


三倍。


計器の針が上がっていく。


「従来品の最大容量へ到達」


高瀬が告げる。


「温度、正常」


アリサが確認する。


「内圧、正常」


カナタが二本目の操作棒を下げた。


振動音が強くなる。


装置の外殻に刻まれた魔力回路が、青白く発光する。


四倍。


五倍。


六倍。


技術士官たちの表情が変わった。


紙に書かれた数値ではない。


実際に、従来品の六倍を越える電力が、小さな円筒の中へ蓄えられている。


「六・四倍」


高瀬が言う。


「先日の実験で、破裂した数値です」


「安全装置は?」


技術士官が尋ねる。


「正常に作動しています」


アリサが答える。


「外殻温度、規定内。圧力逃がし弁も問題ありません」


「続けます」


カナタが三本目の操作棒へ手をかける。


「待て」


ヴィクトルが止めた。


「この装置を、帝国軍技術部の施設へ移送する」


「まだ実演の途中です」


「十分だ。六倍を越えたことは確認した」


「目標は十二倍です」


「完成させる場所が、学院である必要はない」


カナタの表情が硬くなる。


「どういう意味ですか?」


「神崎カナタ。帝国軍技術部は、君を特別研究員として迎える用意がある」


室内が静かになった。


「研究費は、現在の十倍を保証する。必要な素材、設備、人員も、すべて軍が用意する」


「断ります」


カナタは即答した。


「条件を聞く前に?」


「軍へ入る条件なんて、聞く必要がない」


「軍属になれと言っているのではない。民間の研究者として、技術部へ協力すればいい」


「僕の研究を、何に使うつもりですか?」


「帝国の発展だ」


「兵器にも?」


ヴィクトルは答えなかった。


それだけで十分だった。


「なら、断ります」


「君の研究費の一部は、帝国軍が負担している」


「だから、途中経過を見せました。研究者本人まで買ったつもりですか?」


「カナタ」


高瀬が低い声で止める。


「でも、先生」


「言葉を選べ」


ヴィクトルは怒らなかった。


むしろ、少しだけ笑った。


「若いな」


「十七歳なので」


「自分の技術を、自分だけのものだと思っている」


「僕が作ったものです」


「違う」


ヴィクトルは、実験台の上に置かれた設計図を指さした。


「この素材を作った者がいる。測定器を作った者がいる。学院を建てた者がいる。研究費を出した国がある」


「だから、僕の考えたことまで国のものになるんですか?」


「世界を変える技術を、一人の少年の感情へ任せることはできない」


世界を変える。


女神と同じ言葉だった。


一人の人間が持ち込んだ異物によって、何億という命の運命が書き換えられる。


だから管理する。


女神は殺す。


軍は奪う。


方法が違うだけで、カナタ本人の意思を無視していることに変わりはなかった。


「視察終了後、装置と資料は軍の管理下へ置く」


ヴィクトルが告げた。


「神崎カナタにも、技術部への同行を求める」


「拒否したら?」


「任意だ」


「なら、行きません」


「今日はな」


ヴィクトルの言葉に、カナタが黙る。


今日は任意。


明日は違うかもしれない。


軍が技術の価値を知った以上、もう以前の生活へは戻れない。


審査会を待つ必要すらなくなった。


カナタが生きている限り、軍はその頭の中を求め続ける。


「実演を続けます」


カナタが言った。


「まだ終わってません」


「好きにしろ」


ヴィクトルは止めなかった。


軍の所有物になる装置が、どこまで性能を伸ばすのか見たい。


その目だった。


カナタが三本目の操作棒を下げる。


七倍。


七・五倍。


八倍。


装置の振動が、さらに強くなる。


「八・三倍」


高瀬が告げた。


「温度、正常」


「内圧、正常」


アリサが確認する。


軍の記録係が、数値を書き写す。


技術士官は設計図の一部を、自分の書類鞄へ入れようとした。


「待ってください」


アリサが止める。


「それは開示保留資料です」


「軍の管理下へ移す」


「まだ正式な命令は出ていません」


「大尉の指示だ」


「なら、命令書を見せてください」


アリサが技術士官の前へ立つ。


右手は包帯に覆われている。


それでも、資料から退かなかった。


金属棚は開いている。


資料は実験台へ広げられている。


新たな写しも、すべて同じ部屋。


試作品の内部には、従来品の八倍を越える電力。


必要なものが、そろっている。


あとはカナタを殺すだけ。


だが、レンの両側には兵士。


ヴィクトルは室内全体を見ている。


動くには、まだ早い。


そう判断したとき。


実験室の扉が開いた。


軍の通信兵が入ってくる。


手には、細長い電信紙。


「ハイン大尉。北部方面司令部から返信です」


ヴィクトルが紙を受け取る。


短い文章を読む。


その視線が、ゆっくりとレンへ向いた。


「レン・クロード」


「はい」


「北部ローデン郡、ハルツ村の出身だったな」


「そうです」


「父親は、農機具修理を営むノエル・クロード」


「はい」


「奇妙だな」


ヴィクトルは電信紙を閉じた。


「ハルツ村の住民台帳に、クロードという姓は一人も存在しない」


カナタが振り返る。


高瀬の表情が固まる。


アリサは動かなかった。


「過去二十年の納税記録、出生記録、死亡記録も確認させた」


ヴィクトルが続ける。


「ノエル・クロードも、レン・クロードも存在しない」


「記録の不備では?」


レンが答える。


「村の記録は、五年前の洪水で一部失われています」


「よく知っているな」


「出身地ですから」


「確かに、教会の出生簿は失われた。だが、郡の徴税記録は残っている。農機具の修理で商売をしていた人間なら、記載がないはずはない」


ヴィクトルは兵士へ目を向けた。


「拘束しろ」


レンの左右にいた兵士が、一歩近づく。


「待ってください」


アリサが声を上げた。


「レンの編入書類は正式なものです。身元保証人は、学院理事である私の祖父です」


「その祖父からも話を聞いた」


ヴィクトルが答える。


「榊宗一郎は、レンの父親に世話になったと話した。だが、名前を尋ねると答えられなかった。どこで知り合ったのかも、いつ約束をしたのかも覚えていない」


アリサの顔から、血の気が引く。


女神が植えつけた、曖昧な確信。


深く調べれば崩れる身分。


ついに、その綻びへ手が届いた。


「レン」


カナタが制御盤から離れようとする。


「動くな」


技術士官が止める。


「装置は稼働中だ」


「でも――」


「いいよ、カナタ」


レンが言った。


「俺が説明する」


「何を?」


「軍に」


「ここで説明すればいいだろ」


カナタは、まだレンを信じている。


軍が間違えている。


記録に不備がある。


レンには事情がある。


そう考えている。


アリサは違った。


消えた封書。


零号帳。


昨夜の所在。


縫い直された制服。


存在しない故郷。


信じたい理由の横に、疑うべき事実が積み重なっている。


「レン」


アリサの声が震える。


「あなたは……誰なの?」


答える必要はなかった。


もうすぐ、この世界から消える。


説明しても意味はない。


ヴィクトルが右手を上げる。


「連れていけ」


兵士がレンの腕をつかもうとする。


その瞬間。


レンは室内を見渡した。


開いた金属棚。


取り出された基礎理論。


十二本の設計図。


机に積まれた試作記録。


記録係が作った六枚の写し。


軍の技術士官が持つ書類鞄。


八・三倍まで充電された試作品。


神崎カナタ。


すべてが、同じ部屋にある。


計画通りではない。


軍の人間が多すぎる。


アリサと高瀬も近い。


ヴィクトルは、レンを警戒している。


それでも、これ以上の機会はない。


ここを出れば拘束される。


資料は軍の施設へ運ばれる。


カナタも、いずれ連れていかれる。


影響は、帝都中へ広がる。


待つ時間は終わった。


レンは両手を上げた。


抵抗しない意思を示す。


兵士の力が、わずかに緩む。


「分かりました」


レンは穏やかに答えた。


一歩、後ろへ下がる。


兵士に連れていかれるように。


実験台へ近づく方向へ。


もう一歩。


背中が、試作品から伸びる安全停止線へ触れる。


昨日、すべての資料を整理した。


圧力逃がし弁の構造も見た。


安全装置が、どの順番で作動するのかも覚えている。


安全停止線を切断。


魔力回路の遮断を妨害。


圧力逃がし弁を閉鎖。


八・三倍まで充電された状態なら、内圧が限界へ達するまで八秒。


レンの指が、安全停止線へ触れた。


カナタが、その動きに気づく。


「レン?」


残り八秒。


任務の最後が、始まった。

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