正体を◯す
残り八秒。
レンは、安全停止線を引き抜いた。
細い導線が端子から外れる。
計器盤の緑色の灯りが消え、代わりに赤い警告灯が点いた。
「何をした!」
ヴィクトルが叫ぶ。
残り七秒。
レンの腕を拘束していた兵士が動く。
レンは手首を返し、その腕を外側へ払った。
体勢を崩した兵士を計器盤へ押しつける。
残り六秒。
自動遮断装置が作動を始めた。
レンは制御盤の中央へ手を伸ばす。
魔力回路を保護するための遮断板。
それを、逆方向へ倒す。
警告音が甲高くなる。
「レン!」
アリサの声。
残り五秒。
試作品の側面から、圧力を逃がす三本の管。
レンは調整輪を続けて回した。
一つ。
二つ。
三つ。
すべて閉じる。
円筒形の外殻が、低い音を立てて震え始めた。
残り四秒。
「止めろ!」
ヴィクトルが拳銃へ手を伸ばす。
レンはアリサの肩をつかんだ。
「伏せろ」
「え――」
答えを待たず、実験台の裏へ押し込む。
身体を守るための分厚い防爆板。
アリサの背中が、その陰へ入った。
残り三秒。
高瀬が試作品へ向かおうとしている。
レンは近くにあった椅子を蹴った。
椅子の脚が高瀬の膝へ当たる。
「ぐっ!」
体勢を崩した高瀬を、カナタが反射的に受け止めた。
二人が床へ倒れる。
防爆壁の内側。
残り二秒。
「手動停止なら間に合う!」
カナタが高瀬から離れ、床を這うようにして非常停止弁へ手を伸ばす。
レンも動いた。
残り一秒。
カナタの指先が、赤い取っ手へ触れる。
その手首を、レンがつかんだ。
「レン?」
カナタが顔を上げる。
理解できないという目だった。
零。
試作品の外殻が膨らんだ。
次の瞬間。
白い光が、第二実験室をのみ込んだ。
◇
音が消えた。
そう感じたのは、一瞬だけだった。
直後に、世界そのものが割れたような轟音が響く。
金属製の外殻が破裂する。
高密度の電気と魔力が解放され、青白い光が実験室の内部を駆け抜けた。
窓ガラスが砕ける。
棚が倒れる。
金属棚の底で、もう一つの衝撃が弾けた。
軍が来る前に、レンが仕掛けておいた黒い箱。
試作品の暴走だけでは資料を焼き切れなかった場合に備えた、最後の保険だった。
底板が破れ、金属棚の内部へ炎が走る。
保留されていた帳面。
基礎理論。
測定結果。
試作記録。
十二枚の設計図。
乾いた紙は一瞬で燃え上がった。
炎が棚から棚へ走る。
図面筒が裂ける。
破損した初期試作品も、完成直前だった蓄電器も、青白い火花に包まれて原形を失った。
軍が資料を守るために一か所へ集めたことが、すべてを同時に消し去った。
レンの身体は床へ叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。
右腕に、焼けた金属片が刺さっていた。
耳鳴り。
煙。
焦げた紙と肉の臭い。
それでも意識はある。
レンはゆっくりと身体を起こした。
実験室の中央にあった試作品は、跡形もない。
金属棚の内部は炎に包まれている。
文字が残った紙は見当たらなかった。
処分対象。
すべて消去。
残るのは、一人だけ。
「……レン」
近くから声がした。
カナタだった。
左脚を棚の下敷きにされている。
額から流れた血が、片目を塞いでいた。
それでも生きている。
レンに手首をつかまれたことで、爆発の中心からわずかに離れていた。
高瀬も倒れている。
呼吸はある。
アリサは防爆板の陰から、よろめきながら立ち上がった。
「カナタ!」
彼女はすぐにカナタのもとへ向かった。
棚を持ち上げようとする。
だが、片手では動かせない。
「先生、手を貸してください!」
返事はない。
高瀬は意識を失っていた。
アリサは包帯の巻かれた右手まで使い、必死に棚を押す。
傷が開く。
白い包帯が赤く染まった。
「アリサ」
カナタが言う。
「それより、逃げたほうがいい」
「黙って。すぐに助けるから」
「火が回ってる」
「黙りなさい!」
アリサが叫ぶ。
その声が震えていた。
実験室の反対側では、ヴィクトルが壁へ背を預けていた。
軍服の肩が焼けている。
左腕は動かないらしい。
それでも意識を保ち、床に落ちた拳銃へ手を伸ばしている。
レンのほうが早かった。
拳銃を拾う。
安全装置を外す。
銃口をカナタへ向けた。
「動くな」
ヴィクトルが低い声で言った。
「それ以上やれば、帝国軍を敵に回すぞ」
「もう敵だろ」
「目的は何だ?」
レンは答えなかった。
ヴィクトルが知る必要はない。
「レン?」
アリサが振り返る。
銃口を見る。
その先にいるカナタを見る。
そして、ようやく理解した。
「何を……しているの?」
「そこをどけ」
「何をしているのかと聞いているの」
レンはカナタから視線を外さなかった。
「仕事だ」
「仕事?」
「神崎カナタを殺す。それが、俺の仕事だった」
アリサの表情から、感情が消えた。
火が燃える音だけが響く。
「最初から?」
「そうだ」
「研究会へ入ったのも?」
「ああ」
「資料を整理したのも?」
「処分するものを確認するためだ」
「零号帳は?」
カナタが尋ねた。
声は静かだった。
爆発が起きた時点で、既に何かを悟っていたらしい。
「昨夜、盗んだ」
レンが答える。
「封書も?」
今度はアリサが尋ねる。
右手が震えている。
「盗んだ」
「中を見たの?」
「見た」
「どこにあるの?」
「燃やした」
アリサの唇が、わずかに開いた。
「どうして?」
アリサが尋ねる。
「カナタが何をしたの?」
「まだ何もしていない」
「なら、どうして殺すの!」
「これから世界を変えるからだ」
「それの何が悪いの?」
「よいか悪いかの話じゃない。こいつの知識は、この世界が本来進む速度を越えている」
「本来?」
カナタが笑った。
血の混じった咳が漏れる。
「未来なんて、誰かが生きているだけで変わるだろ。僕が研究をやめても、別の誰かが何かを作る」
「そうかもしれない」
「それを誰が決めたんだ?」
「俺じゃない」
「なら、誰だ?」
カナタはレンの顔を見る。
「神様にでも指示されたのか?」
レンは答えなかった。
その沈黙を見て、カナタの目がわずかに開く。
「……本当に神様なのか」
「ああ」
「僕みたいな転生者を殺して、前の世界から持ち込んだものを全部消せって?」
「そうだ」
カナタは、しばらく呆然としていた。
やがて、小さく笑う。
「神様っていうのは、ずいぶん心配性なんだな」
「否定はしない」
「神様の言うことなら、正しいと思ってる?」
「思ってない」
「それでもやるのか?」
「ああ」
「どうして?」
答えは、昔から同じだった。
「仕事だからだ」
カナタが、困ったように笑った。
「最低な答えだな」
「知ってる」
レンは引き金へ指をかけた。
アリサが立ち上がる。
カナタと銃口の間へ入った。
「どけ」
「嫌よ」
「お前は対象じゃない」
「だから何?」
「撃ちたくない」
「カナタは撃つのに?」
「どけ、アリサ」
「嫌!」
灰青色の瞳から、涙がこぼれた。
「私を利用したのね」
「ああ」
「私があなたを信用していると知っていて?」
「ああ」
「私が……あなたを好きになっていると知っていて?」
レンは答えなかった。
沈黙で十分だった。
アリサが、かすかに笑う。
「本当に、ひどい人」
「アリサ」
カナタが彼女を呼んだ。
「どいて」
「嫌よ」
「レンの狙いは僕だけだ」
「だから、守るの」
「君まで死ぬ」
「それでもいい」
「よくないよ」
カナタは動く右手を伸ばし、アリサの制服の裾をつかんだ。
「十二年間、ずっと僕の面倒を見てくれたんだ。最後くらい、言うことを聞いて」
「最後なんて言わないで」
「アリサ」
カナタの声は、どこまでも穏やかだった。
「僕のせいで、君まで死なないで」
アリサの肩が震える。
退くことも、残ることもできない。
レンは拳銃を構えたまま、カナタを見る。
「手紙を読んだんだよな」
「ああ」
「最後まで?」
「読んだ」
「なら、アリサに伝えてくれないか」
アリサが息をのむ。
レンは断ることもできた。
任務には必要のない言葉だった。
既に燃やしたもの。
この世界から消すと決めた記録。
だが、その一文だけは、今も記憶に残っている。
「君がいたから、二度目の人生も悪くなかった」
レンは言った。
「ありがとう。それが、手紙の最後だ」
カナタの表情から力が抜けた。
「覚えてたんだな」
「忘れられなかっただけだ」
「それを、覚えてるって言うんだよ」
カナタは困ったように笑う。
「最低だけど、全部が嘘ってわけでもないのか」
レンは答えなかった。
「まあ、いいか」
カナタは目を閉じる。
「ちゃんと伝えてくれるんじゃないか」
その手が、アリサの制服を軽く引いた。
アリサの身体がわずかに横へずれる。
一瞬だけ。
銃口とカナタの間から、彼女が外れた。
「レン!」
アリサが叫ぶ。
銃声が響いた。
一発。
カナタの身体が揺れた。
アリサが振り返る。
胸元から、赤い色が広がっていく。
「カナタ?」
返事はない。
「カナタ」
アリサが膝をつき、その身体を抱き起こす。
「起きなさい」
カナタの頭が、力なく彼女の肩へ落ちた。
「反省文が残っているでしょう」
返事はない。
「明日の実験も」
返事はない。
「私がいないと、何もできないくせに」
返事は、もうなかった。
アリサはしばらく、その身体を抱いていた。
肩が何度も小さく揺れる。
だが、泣き声は出なかった。
やがて、カナタの乱れた前髪を指で直す。
一度。
二度。
既に整っているのに、同じ場所をもう一度なぞる。
制服の襟を戻す。
曲がっていた釦の位置を正す。
胸元を染める血には、触れなかった。
倒れた棚の一部が炎の中で崩れる。
大きな音が響いた。
アリサは振り返らない。
「これでいいわ」
誰に向けたものか分からない声だった。
カナタの身体を静かに床へ横たえる。
両手を胸の上へ重ねようとして、片方の腕が落ちる。
アリサはそれを戻す。
また落ちる。
三度目は、自分の手を上へ重ねて押さえた。
その間にも、涙だけは頬を伝い続けていた。
レンの足元に、淡い光が生まれる。
白に近い青色。
細い線が円を描き、見慣れた紋様を作っていく。
帰還陣。
零号帳。
封書。
学院の研究資料。
軍の記録。
試作品。
神崎カナタ。
すべての処分が完了した。
光がレンの足を包む。
「そいつを止めろ!」
ヴィクトルが叫ぶ。
残った兵士が拳銃を構える。
引き金が引かれるより先に、レンの身体が透け始めた。
任務は終わった。
帰るだけだった。
「レン」
アリサが呼んだ。
声は、不思議なほど落ち着いていた。
レンは彼女を見る。
アリサはカナタの手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
制服も。
手も。
頬も。
幼なじみの血で赤く染まっている。
涙は流れたまま。それなのに彼女は笑っていた。
しかし、どこか狂気を感じさせるような
彼女に似つかわしくない笑みであった。
「まだ、返事を聞いていないわ」
「返事?」
「昨日、答えを急ぐと間違えると言ったでしょう」
燃える実験室。
足元に横たわるカナタ。
その中で、彼女は研究会の予定を一つずつ確認するときと同じ口調で話していた。
「私は、あなたを好きになった」
灰青色の瞳がレンを捉える。
瞬きをしない。
「レンは、私をどう思っていたの?」
「今、それを聞くのか」
「今しか聞けないでしょう?」
光がレンの腰まで昇る。
「利用できる女だった?」
「そうだ」
「それだけ?」
レンは答えなかった。
「それだけなら、どうして私を爆発から守ったの?」
「お前は処分対象じゃなかった」
「では、どうして撃ちたくないと言ったの?」
「任務に必要ないからだ」
「どうして、カナタの手紙を一言も間違えずに覚えていたの?」
レンは拳銃を下ろした。
もう、持っている意味はない。
「レン」
アリサがもう一度呼ぶ。
「答えて」
昨日までなら、また話をそらしていた。
傷が塞がってから。
視察が終わってから。
そう言って、結論を先延ばしにできた。
だが、もう次はない。
少なくとも、レンはそう思っていた。
「お前は、利用するだけの相手じゃなかった」
アリサの瞳が、わずかに揺れる。
「それは答え?」
「俺が答えられるのは、それだけだ」
「私には生きていてほしかった?」
「ああ」
「好きではなかったの?」
レンは答えなかった。
アリサはしばらく待った。
「では、嫌いだった?」
「違う」
「そう」
アリサがうなずく。
「なら、今はそれで十分よ」
「今は?」
「残りは、捕まえたあとに聞くわ」
口元が緩む。
だが、涙は止まっていない。目も虚ろだ。
足元にはカナタがいる。
それでも、その視線はもう一度も幼なじみへ戻らなかった。
「いいわ。許してあげる」
レンの眉が、わずかに動く。
「何を言ってる」
「レンは、本当に悪い子ね」
くすくすと笑いながら、アリサは包帯のほどけた右手を、自分の胸へ当てた。
「私に嘘をついて。好きにさせて。カナタを殺して。そのまま逃げるつもりだったの?」
「アリサ。俺を憎め」
「憎んでいるわ」
即答だった。
「カナタを殺したことも。私を利用したことも。部屋へ忍び込んだことも。手紙を燃やしたことも」
一つずつ。
確認するように数える。
「全部、憎んでる」
「なら――」
「でも、好きでもある」
アリサの声に迷いはなかった。
「どちらか一つにする必要があるの?」
血に濡れた指先で、頬の涙を拭う。
赤い線が、白い肌へ薄く伸びる。
彼女は気づいていないのか、そのまま微笑んだ。
「いいのよ、レン。悪いことをしたなら、私が直してあげるから」
「直す?」
「もう誰も殺せないようにするの」
叱りつけるような言葉。
それなのに、声はひどく優しかった。
「二度と私から離れないように、ちゃんと見ていてあげる」
レンは何も言えなかった。
これまで、何度も憎まれてきた。
殺した者の家族に。
友人に。
恋人に。
ユリとマドカも、最後までレンを呪った。
お前だけは許さない。
必ず後悔させる。
その声を背に、レンは世界を去った。
だが、アリサは違った。
彼女はレンを許すと言った。
許したうえで、自分のそばへ置こうとしている。
憎しみさえも、レンとのつながりとして手放すつもりがない。
「今回は逃がしてあげる」
アリサが一歩近づく。
炎が彼女の背後で揺れる。
「でも、絶対に見つけるから」
「俺がどこへ行くのか、お前には分からない」
「今はね」
「世界が違うんだぞ」
「カナタの前世も、別の世界にあった」
アリサは足元の帰還陣へ目を向ける。
灰青色の瞳が、光の線を一つずつ追う。
涙の跡を残したまま、その目だけが静かに紋様を読み取っていた。
「そして、あなたは今から別の世界へ移動する」
「これは人間が使える術式じゃない」
「今は、でしょう?」
「一度見ただけで何が分かる」
「色。線の数。紋様の配置。魔力の流れる順番」
アリサは再びレンを見る。
「全部、覚えたわ」
レンは何も言えなかった。
一度説明された分類方法を間違えない。
資料の置き場所を忘れない。
必要な仕事を、指示される前に始める。
それはレンだけではない。
アリサも同じだった。
「分からないなら調べる。足りないものがあるなら作る」
「何年かかると思ってる」
「一生かかっても構わないわ」
「俺が同じ場所にいる保証はない」
「なら、すべての世界を渡れるようにする」
アリサは当然のことのように答えた。
「会長として正式に認めたのよ」
血に濡れた顔で、彼女は微笑む。
「私の許可なしに、研究会を辞められると思わないで」
アリサの口元から、小さな笑い声が漏れた。
楽しそうにも、泣いているようにも聞こえる。
本人にも、もう区別はついていないのかもしれない。
「逃げてもいいわ、レン」
灰青色の瞳が、まっすぐにレンを見つめる。
「追いかけて、捕まえる楽しみができるから」
帰還の光が、レンの胸まで達する。
残された時間は、もう短い。
「絶対に捕まえて、今度は私が一生管理してあげる」
笑みを浮かべたまま、アリサは告げる。
「もう誰も殺せないように」
白い光が満ちる。
「どこへも行けないように」
世界が消える。
「ずっと、私のそばに置いてあげるから」
最後に見えたのは、涙と血で濡れたアリサの笑顔だった。
「次に会ったら、もう絶対に離してあげない」
レンが光の中へ消える直前、アリサは彼の胸元へ駆け寄った。
届かないはずの距離を、最後の一歩で埋める。
「レン」
呼ばれて、レンが振り返る。
アリサは両手で彼の頬を包み、血と涙に濡れた顔を近づけた。
触れた唇は、ほんの一瞬だった。
それでも、拒絶も迷いもない、まっすぐなキスだった。
離れたあと、アリサは震える息で笑う。
「これで、忘れられないでしょう?」
レンの身体が、白い光の中へ溶けていく。
答えを返す時間はなかった。
ただ、消える直前に伸ばした指先が、アリサの頬へ触れた。
それだけで、彼女には十分だった。
光が弾けた。
◇
レンは、白い部屋へ戻った。
音も。
炎も。
血の臭いもない。
何も存在しない空間。
任務は完了した。
処分対象は残っていない。
それなのに、レンはしばらく動けなかった。
ユリとマドカの怨嗟とは違う。
アリサの言葉は、呪いではなかった。
いつか必ず実行される、約束のようだった。
――絶対に捕まえて、私が一生管理してあげる。
世界を隔てる白い光の中でも。
その声と、最後に触れた唇の感触だけが、いつまでも耳の奥と記憶に残っていた




