エピローグ 新しい零号帳
「おかえりー!」
白い部屋へ戻った瞬間。
聞き慣れた明るい声が、レンを迎えた。
「今回は早かったね! 一ヶ月くらい? 前は五年もかかったのに、すごい進歩じゃん!」
女神が笑顔で手をたたく。
人間なら誰もが見惚れるほど整った顔。
この世のものとは思えない美しさ。
それなのに、言動からは神聖さがまるで感じられなかった。
レンは帰還陣の中央に立っている。
右腕に刺さっていた金属片は消えていた。
焼けた制服も。
爆発で受けた傷も。
身体へ染みついていた血と煙の臭いも残っていない。
最初から、何もなかったように。
「それじゃ、確認するね」
女神が指先を振る。
光で形作られた文字が、空中へ浮かんだ。
【対象――神崎カナタ】
【異世界由来の技術資料――消去】
【技術的影響――許容範囲まで縮小】
【任務――完了】
「はい、合格!」
女神が両腕で大きな丸を作る。
「対象は死亡。零号帳も封書も、学院の研究資料もなくなった。軍に技術を取られる未来も消えたよ。完璧、完璧!」
「ずいぶん楽しそうだな」
「だって、今回は待たされなかったからね。レン君、やればできるじゃん」
レンは右手を見る。
拳銃を握っていた感触も消えている。
残っているのは、記憶だけ。
銃声。
力を失ったカナタの身体。
涙と血に濡れたアリサの笑顔。
「一つ、確認していいか」
「なになに?」
「帰還陣を見られた」
「軍人たちに?」
「それもある。アリサが、構造を覚えたと言っていた」
女神は一度だけ瞬いた。
それから、声を上げて笑う。
「あははっ! 何それ。レン君、追いかけてくるって言われたの?」
「笑いごとじゃない」
「だって、世界を越えて追いかけるってことでしょ? すごいね。愛が重い!」
「再現できるのか?」
「無理無理」
女神は軽く手を振った。
「神様の術式だよ? 人間が一度見ただけで再現できるわけないって」
「カナタも、似たようなことを言われていたらしい」
「あの子は前世の知識を持っていたでしょう? 榊アリサには何もないよ」
零号帳も。
青い封蝋の資料も。
すべて燃やした。
アリサには、前の世界の技術知識はない。
転移術式について書かれた記録もない。
残されているのは、彼女自身の記憶だけだった。
「世界がいくつあると思ってるの?」
女神が続ける。
「仮に転移できたとしても、レン君がいる世界を見つけるなんて無理だよ。砂漠に落とした砂粒を探すほうが、まだ簡単かも」
「そうか」
「もしかして、ちょっと期待してる?」
「してない」
「本当に?」
「してない」
「ふうん」
女神がレンの顔をのぞき込む。
レンは視線をそらさなかった。
「カナタに聞かれた」
「何を?」
「神様の言うことが正しいと思っているのか、と」
「それで?」
「思ってないと答えた」
女神は楽しそうに笑い、指で丸を作った。
「せいかーい!」
「正解なのか」
「正しいかどうかなんて知らないよ」
女神は何でもないことのように答える。
「神様なんて、だいたいそんなものだよ?」
「自分で言うか」
「神様の都合と言ってほしいな」
既に聞いた言葉だった。
レンが人を殺す理由。
異世界人の知識を消す理由。
それを正しいと証明する者はいない。
命じている女神自身ですら、正しさを保証するつもりはなかった。
「でも、レン君は仕事を終わらせた」
女神が言う。
「だったら、それでいいんじゃない?」
「簡単に言うな」
「難しく考えても、死んだ人は生き返らないよ」
笑顔のまま。
女神は躊躇なく言い切った。
人間の命を軽視しているわけではない。
最初から、人間の価値を同じ高さで見ていない。
レンはそれ以上、何も言わなかった。
女神の手元に、新たな紙が現れる。
次の依頼書。
「じゃあ、次の世界ね!」
紙がレンのほうへ飛んでくる。
レンは受け取らなかった。
依頼書が胸へ当たり、そのまま床へ落ちる。
「あれ?」
「少し休む」
「珍しいね」
女神が目を細める。
「疲れた?」
「疲れてない」
「それとも、女の子のことが気になってる?」
「違う」
「レン君、そういうところだよ」
「どういうところだ」
「自分で考えてね」
女神は笑いながら、白い光の中へ溶けていく。
「大丈夫だよ。人間だけの力で世界を越えて追ってくるなんて、絶対にないから」
姿が消える直前。
女神は楽しそうに手を振った。
「休んだら、次の世界も頑張ってね~!」
白い部屋に、レンだけが残された。
音はない。
時間の流れすら曖昧な空間。
レンはその場へ腰を下ろした。
床に落ちた依頼書を拾わないまま、目を閉じる。
最初に思い出したのは、カナタの最後の言葉だった。
――最低だけど、全部が嘘ってわけでもないのか。
次に浮かんだのは、アリサの声。
――残りは、捕まえたあとに聞くわ。
「……本当に来たら、どうするか」
答える者はいない。
女神は不可能だと言った。
なら、考える必要もない。
そう結論づけたはずなのに。
レンは、しばらく次の依頼書を開けなかった。
◇
神崎カナタの葬儀は、事故から七日後に行われた。
朝から、弱い雨が降っていた。
黒い傘が並ぶ。
学院の学生。
教師。
研究者。
カナタの技術へ期待していた企業や軍の関係者。
多くの人間が参列した。
事故について公表された内容は、試作品の異常による爆発。
レン・クロードについては、事故を引き起こした疑いのある学生として指名手配された。
ただし、その行方は不明。
遺体も発見されていない。
軍が目撃した消失現象については、何も発表されなかった。
葬儀が終わったあと。
アリサは、雨の中でカナタの墓を見つめていた。
右手には、新しい包帯が巻かれている。
掌の傷は既に塞がり始めていた。
それでも、レンが最初に巻いたときと同じ形で包帯を結んでいる。
「アリサお姉ちゃん」
後ろから呼ばれた。
ミオだった。
泣き腫らした目で、アリサの隣へ立つ。
「お兄ちゃん、最後に何か言ってた?」
アリサは墓碑へ視線を向けたまま答える。
「私に、逃げろと言ったわ」
「お兄ちゃんらしくない」
「そうね」
「いつも、自分が先に逃げるのに」
「本当にそうね」
アリサが小さく笑う。
ミオも少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を曇らせる。
「レンお兄ちゃんは?」
「いなくなったわ」
「死んだの?」
「いいえ」
アリサは即答した。
「生きている」
「どこにいるの?」
「今は分からないわ」
アリサは包帯の巻かれた手を握る。
「でも、必ず見つける」
ミオは横からアリサの顔を見る。
「怒ってる?」
「ええ」
「レンお兄ちゃんのこと、嫌いになった?」
雨粒が傘をたたく。
アリサは、すぐには答えなかった。
「嫌いよ」
やがて、そう答える。
「でも、それだけではないの」
「どういうこと?」
「ミオには、まだ少し難しいかもしれないわね」
「子供扱いしないで」
「なら、見つけてから説明するわ」
「レンお兄ちゃんを?」
「ええ」
アリサが微笑む。
ミオは、なぜか一歩だけ離れた。
「アリサお姉ちゃん」
「何?」
「今、ちょっと怖い」
「そう?」
「うん」
「大丈夫よ」
アリサは墓碑から目を離し、ミオの頭を優しくなでた。
「怖いことをするのは、捕まえたあとだから」
ミオは何かを聞き返そうとした。
だが、アリサは既に歩き始めていた。
雨の中。
黒い傘の群れとは反対の方向へ。
学院の研究棟へ向かって。
◇
第二実験室が再び使用できるようになったのは、事故から三十二日後だった。
焼けた壁は塗り直されている。
割れた窓も。
倒れた棚も。
破壊された実験台も、新しいものへ交換された。
それでも、部屋の隅には焦げた臭いがわずかに残っていた。
「本当に、ここを使うのか?」
高瀬が尋ねる。
杖をつき、入口に立っている。
爆発で痛めた右脚は、まだ完全には治っていなかった。
「第二実験室は、応用科学研究会の活動場所です」
アリサが答える。
「研究会員が一人になっても?」
「二人です」
「神崎は亡くなった」
「カナタのことではありません」
アリサは机の上へ、部員名簿を置く。
榊アリサ。
レン・クロード。
二つの名前が並んでいた。
「レン・クロードは、学院から除籍処分になる」
「認めません」
「会長に拒否権はない」
「では、規約を改定します」
「私が顧問として認めない」
アリサは一枚の書類を高瀬へ差し出した。
「既に理事会の承認を得ています」
高瀬が書類を見る。
研究会規約改定承認書。
榊家当主と、学院理事三名の署名がある。
「いつの間に……」
「昨日です」
「このためだけに、理事を動かしたのか?」
「必要な手続きでしたから」
アリサは部員名簿を閉じた。
「レンは、まだ研究会員です」
高瀬は何かを言おうとして、やめた。
代わりに、実験台の上を見る。
見慣れない黒い手帳が置かれていた。
「それは?」
「新しい研究記録です」
アリサは手帳を開く。
最初の頁には、事故当日に目撃した帰還陣が描かれていた。
円の大きさ。
光の色。
紋様の配置。
線が現れた順序。
アリサが記憶している情報のすべて。
「異世界への転移を研究するつもりか」
「ええ」
「神崎の頭脳は失われた。今の学院に、そんな研究を進める知識はない」
「だから、今から作るのです」
「根拠は、この図だけだろう」
「十分です」
「何が十分なんだ」
「不可能ではないと、確認できました」
アリサは新しい黒板を見る。
そこには、既にいくつもの仮説が書かれていた。
空間座標。
魔力位相。
術式の展開順序。
帰還条件。
どれも、まだ理論と呼べるものではない。
始まりにも届かない、思いつきの羅列。
それでも、アリサの目には迷いがなかった。
「軍も協力するそうです」
「軍が?」
「ハイン大尉は、レンを国家への脅威と判断しています。異世界間転移の研究に、予算と人員を提供すると」
「軍を利用する気か」
「使えるものは、すべて使います」
アリサの手が、黒い手帳の表紙へ触れる。
「必要なものを揃えるだけです」
高瀬はそれ以上、何も言わなかった。
アリサは黒い手帳の最初の頁へ、題名を書き加える。
【異世界間転移理論・零号】
「零号帳か」
「始まりは、零からでしょう?」
「神崎の真似か?」
「いいえ」
アリサは静かに首を振る。
「これは、私の研究です」
次の頁を開く。
研究目的を記入する。
一、異世界の存在証明。
二、世界間移動術式の解析。
三、転移先座標の追跡。
四、レン・クロードの生存確認。
五、対象の捕獲。
ペン先が止まる。
少し考えたあと、最後の一行を加えた。
六、捕獲後の長期管理。
高瀬が、その文字を見る。
「榊」
「何でしょう」
「神崎の復讐が目的ではないのか?」
アリサは包帯の端へ触れた。
レンが巻いたものと同じ位置。
同じ結び方。
「もちろん、カナタのことは憎んでます」
「なら、捕らえたあとは軍へ引き渡すのか?」
「いいえ」
アリサは手帳を閉じる。
黒い表紙へ、短い銀色の鍵を置いた。
「レンの管理は、私が行います」
窓の外では、雨が上がり始めていた。
雲の隙間から差し込んだ光が、黒板に描かれた転移陣を照らす。
まだ動かない。
光ることもない。
別の世界へ通じているわけでもない。
それでも、アリサは完成した装置を見るように、その円を見つめていた。
「待っていてね、レン」
誰にも聞こえないほど小さな声。
その口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「次に会うときまでに、絶対に逃げられない場所を用意しておくから」
神崎カナタの零号帳が灰になった日。
榊アリサの零号帳が生まれた。
一人の異世界人が残した研究は、そこで終わった。
けれど、終わりはいつだって、次の頁を開くためにある。
世界の壁の向こうへ消えた男を追うために。
アリサは、まだ白紙の頁へ最初の一行を書き始めた。




