王を◯す
「いい加減、休んだでしょ? はやくいきなさーい!」
白い部屋に、女神の声が響いた。
レンは床に座ったまま、返事をしなかった。
右手には、火のついた煙草。
傍らの灰皿には、既に何本かの吸い殻が重なっている。
「聞こえてる?」
「聞こえてる」
「じゃあ、せめてこっち見てよ」
「今、忙しい」
「煙草を吸ってるだけじゃん」
「それで忙しい」
レンは煙を吐いた。
白い空間の中で、紫煙がゆっくりと形を崩していく。
時間の流れさえ曖昧な場所だった。
どれほど休んだのか、正確には分からない。
女神の言葉を信じるなら、十分に休んだらしい。
レンにとっては、まだ足りなかった。
「そんなに吸ったら、身体に悪いよ?」
「人を殺しに行かせる奴が、健康を気にするな」
「それとこれとは別でしょ」
女神は頬を膨らませた。
その手には、一通の封書がある。
既に何度か、レンへ投げつけていた。
だが、レンは拾おうともしなかった。
本人に行く意思がなければ、転送は拒否できる。
女神がその気になれば、無理やり送り込むこともできるが、それでレンが任務そのものを放棄しては困る。
「前の世界のこと、まだ気にしてる?」
「煙草の話をしてる」
「私はしてないけど」
レンは答えなかった。
吸いかけの煙草を見つめる。
異世界へ行けば、次にいつ吸えるか分からない。
煙草そのものが存在しない世界もあった。
宗教上の理由で禁じられている世界も。
身分や立場の都合で、人目を避けなければならないこともある。
前回は学生だった。
学院内で煙草を吸えば、それだけで目立つ。三週間の潜入中、一度も吸うことはできなかった。
次の世界がどうなっているのかは、まだ知らない。
レンは煙草を口へ運び、残っていた煙を深く肺へ入れた。
すぐには吐かず、数秒だけとどめる。
「名残惜しそうだねえ」
「うるさい」
細く煙を吐き、火を灰皿へ押しつける。
赤い光が消えたことを確認してから、レンはようやく立ち上がった。
「それで?」
「やっと仕事する気になった?」
女神の顔が明るくなる。
「はい、次の依頼書!」
今度は投げず、レンの手元まで持ってくる。
最初の頁には、一人の男の肖像が描かれている。
黒い髪。
鋭く細い目。
口元に笑みはなく、玉座に座ったまま正面を見据えていた。
年齢は三十に届いていない。
だが、若さよりも先に威圧感を覚える顔だった。
肖像の下に、対象者の情報が並んでいる。
【対象――レオルド・ヴァルガス】
【年齢――二十八歳】
【異界混入種別】
転生
【現状】
前世の記憶を保持している可能性が極めて高い。
レンは次の頁をめくった。
レオルドは、ヴァレイン王家の第二王子として生まれた。
幼少期の記録に、目立ったものはない。
魔力量は平均よりわずかに高い程度。
学問や剣術の成績も、王族としては平凡だった。
それが十八歳のとき、一変している。
暗殺未遂によって毒を受け、数日間意識を失った。
目を覚ましたあと、レオルドはそれまで使えなかった複数系統の魔法を扱うようになった。
半年後には宮廷魔導師を決闘で破り、二年後には王国でも最上位の魔法使いとして認められている。
「死にかけたあとに発現したのか」
「たぶんね」
女神が横から依頼書をのぞき込む。
「異世界へ移すときに、強い能力を持たせる神様は珍しくないから。本人がすぐ使えるとは限らないけどね」
「また余計なものを持たせたな」
「向こうの神様からすれば、贈り物なんじゃない?」
「後始末する側のことも考えろ」
「私に言われても困るなあ」
依頼書には、レオルドの固有能力として推定されている力が記載されていた。
【推定固有能力――無限魔力】
この世界の魔法使いが一度に扱える魔力には限界がある。
自分の内側に蓄えられる量を超えれば、魔力回路が傷つく。使い切れば、回復するまで待つしかない。
だが、レオルドにはその制限がない。
周囲から絶えず魔力を取り込み、消費した端から補充していく。
記録上、魔力が枯渇した様子は一度も確認されていない。
「単純だな」
レンが言った。
「単純だから強いんだよ」
女神が答える。
「撃っても撃っても魔力がなくならない。防壁を張りながら攻撃もできるし、身体強化を一日中続けても平気。正面から戦うなら、かなり面倒な相手だと思うよ」
レオルドは、五つある魔法系統のうち四つを扱える。
得意とするのは、火と雷。
二十二歳のときには、王国北部の砦を占拠した反乱軍に対し、単独で大規模魔法を使用。
外壁の一部と、内部にいた兵士およそ三百名を焼き払った。
隣国との戦争では、三日間にわたって防壁を維持。
その間も攻撃魔法を使い続け、敵の魔法部隊を壊滅させている。
「遠距離からの狙撃は?」
「常に魔力防壁を張ってるみたい」
「睡眠中も?」
「途切れた記録はないよ」
無意識でも維持できるのか。
眠っていないのか。
あるいは、何らかの魔道具を併用しているのか。
そこまでは判明していない。
「毒は?」
「効きにくい。身体強化で代謝まで上がってるみたい。過去に三回、毒殺を試みた人がいるけど、全部失敗してる」
「首を落とせば死ぬだろ」
「近づければね」
女神が笑顔で言った。
レンは次の頁を見る。
レオルドが危険なのは、魔法だけではなかった。
二十歳で初めて戦場へ出ると、味方の八倍近い兵力を持つ隣国軍を撃破。
敵の進路を事前に予測し、三つの部隊を別々の経路から動かして退路を封じた。
天候が崩れる時刻。
補給物資が尽きる場所。
敵将が伏兵を置く森。
そのすべてを、最初から知っていたような用兵だった。
戦争後は、軍の補給制度を再編。
兵士の訓練方法を変え、農地の管理、税の徴収、負傷者の治療法にまで手を加えた。
どれも従来の制度とは大きく異なり、完成までに必要な試行錯誤の記録が存在しない。
「元の世界の知識か」
「その可能性が高いね」
「それだけじゃない」
レンは戦争記録へ目を通す。
作戦は、敵側の内部事情まで知っていることを前提に組まれていた。
どの貴族が寝返るのか。
誰が賄賂を受け取るのか。
どの兵士が持ち場を離れるのか。
レオルドは、それらが起きる前から準備している。
「未来予知も持っているのか?」
女神は首を横へ振った。
「わからない、確認できている異常は、魔力量と異世界由来の知識。あとは本人の頭脳と情報網じゃないかな」
「城壁を壊せる魔力を持ったうえで、暗殺や裏切りまで先に読んでくるのか」
「だから難易度が高いって書いてあるでしょ」
「今、初めて聞いた」
「今、言ったからね」
女神は悪びれずに笑った。
レオルドは、戦争で得た名声と圧倒的な魔力を利用し、軍の中枢を掌握。
二十五歳のとき、兄である第一王子を反逆罪で処刑した。
翌年には国王であった父親を幽閉し、王位を奪っている。
即位後、反対した貴族の一族を処刑。
抗議運動が起きた都市へ軍を送り、住民ごと焼き払った。
現在も周辺諸国への侵攻を続けており、占領地では粛清が繰り返されている。
確認されている死者は、既に一万人を超えていた。
依頼書の文字が淡く光り、過去の記録が浮かび上がる。
レオルドの即位後、七人の暗殺者が王城へ送り込まれている。
一人目は、料理へ毒を入れる前に捕まった。
二人目は、王城を見下ろせる塔へ入った直後に射殺された。
三人目は城内の使用人を協力者にしたが、実行前日に二人そろって処刑されている。
四人目は転移魔法で寝室へ侵入しようとした。
だが、到着地点にはレオルド本人と十人の宮廷魔導師が待っていた。
残る三人も、対象の姿を見る前に死亡している。
「全員、計画を読まれていたような捕まり方だな」
「王都には、レオルドの密偵が何人いるか分からないからね」
「反乱組織は?」
「これまでに四つ作られて、三つは最初の行動を起こす前に壊滅したよ」
「残りの一つは」
「今も活動していることにはなってる」
「泳がされている可能性は?」
「高いと思う」
女神はあっさり認めた。
反乱組織へ接触すれば、王城へ近づく手段を得られるかもしれない。
同時に、レオルドへ自分の存在を知らせることになる可能性もある。
「戦えば魔力で負ける。暗殺しようとすれば、計画を先に知られる」
レンが言った。
「しかも相手は国王。王城には兵士と宮廷魔導師がいるよ」
「簡単な仕事を寄越す気はないらしいな」
「でも、今回はやること自体は少ないよ」
女神が依頼書の最後の頁を指でたたく。
【処分対象――レオルド・ヴァルガス本人】
異世界由来の影響は、レオルド本人へ集中している。
「つまり、王を殺せば終わりか」
「その可能性が高いと思う」
「近づければな」
「そこは現地で頑張って」
女神は笑顔で親指を立てた。
「頑張って正面から倒してね!」
「話を聞いていたか?」
「正面からが嫌なら、後ろからでもいいよ」
「そういう意味じゃない」
依頼書には、レンへ与えられる身分も記載されている。
王都へ流れ着いた傭兵。
特定の国や組織には所属していない。
名前は、レン・クロードのまま。
言語と最低限の金銭は、いつもどおり用意される。
「いきなり王都へ送るなよ」
「送らないよ。王都から南へ三日ほどの宿場町」
「その街に、レオルドの密偵がいない保証は?」
女神は目をそらした。
「たぶん大丈夫」
「送り先を変えろ」
「えー。もっと遠くなるよ?」
「構わない」
女神は渋々、依頼書の転移地点を書き換えた。
王都から南へ五日。
街道から外れた、小さな村の近く。
王国兵が常駐している記録はない。
「これでいい?」
「最初からそこにしろ」
「注文が多いなあ」
女神が指を鳴らす。
レンの足元に、白に近い青色の光が生まれた。
細い線が円を描き、見慣れた転移陣を形作っていく。
レンは依頼書を閉じた。
レオルド・ヴァルガス。
尽きることのない魔力を持ち、これまでに送り込まれた暗殺者の計画を、すべて事前に見抜いてきた国王。
正面から戦えば、魔力で押し潰される。
裏から近づけば、こちらが動くより先に知られる。
手順は一つ。
レオルド本人を殺すだけ。
「それじゃ、いってらっしゃーい!」
女神が笑顔で手を振る。
転移陣から伸びた光が、レンの足を包んだ。
足首から膝へ。
膝から腰へ。
光に触れた身体が、少しずつ透けていく。
「次は、もう少しましな情報を用意しておけ」
「無事に帰ってきたら考えてあげる!」
「考えるだけか」
レンが言い終えるより先に、魔法陣の光が強く瞬いた。
白い光が視界を埋め尽くし、レンの姿は白い部屋から消えた。




