傭兵に◯す
白い光が消えたとき、レンは草原の中に立っていた。
背後には低い森が広がり、正面には細い街道が延びている。遠くに見える山の向こうが北。依頼書の地図が正しければ、王都はその方角にある。
レンは周囲を見回した。
人の姿はない。
転移を見られた形跡もなかった。
足元に残っていた魔法陣の光が薄れ、草の間へ溶けるように消えていく。
レンは自分の身体を確認した。
灰色の外套。
使い込まれた革の胸当て。
腰には長剣と短剣。
内側には、針金、細い縄、火打ち石、いくつかの薬品が収められている。
傭兵として不自然ではない程度の装備だった。
革袋には銀貨が十二枚と銅貨が二十枚。
身分を証明するものはない。
雇い主を持たない流れの傭兵なら、それで通るらしい。
口の中には、先ほど吸った煙草の苦みがまだ残っていた。
最後の一本を急いで消す必要はなかったかもしれない。
そう思ったのは、街道を一時間ほど歩いたあとだった。
村の入口近くに、小さな煙草屋があった。
軒先には乾燥させた葉が束ねて吊るされている。店主らしい老人が、木製の煙管をくわえながら椅子へ座っていた。
少なくとも、煙草が存在しない世界ではない。
レンは店の位置だけを覚え、そのまま村へ入った。
村の名は、ベルカ。
家は百軒ほど。
王都から南へ五日の場所にある、小さな農村だった。
依頼書では王国兵が常駐していないとされていたが、中央広場には四頭の軍馬がつながれている。
剣へ巻きつく、翼の生えた蛇。
紋章が、馬の鞍へ刻まれていた。
女神の情報は、既に外れている。
珍しいことではない。
レンは歩調を変えず、広場へ向かった。
十数人の村人が集められている。
その前で、王国兵が掲示板へ一枚の紙を打ちつけていた。
「国王陛下の命により、各家から十六歳以上の男子一名を徴用する!」
兵士の声が広場へ響く。
村人たちは誰も声を上げなかった。
抗議をしたところで、取り消されるとは思っていないのだろう。
「三日後、迎えの部隊が来る。それまでに選んでおけ。逃亡した家の者は、反逆者として全員を処刑する」
兵士が紙の横へ短剣を突き立てる。
見せしめのつもりらしい。
レンは少し離れた場所から、その様子を観察した。
兵士は四人。
一人は魔法使い。
外套の留め具に、宮廷魔導師と同じ意匠がある。
残る三人も、村への通達だけに派遣された兵士としては装備がよすぎる。
徴兵が目的なのか。
誰かを探しているのか。
広場の端で、少女が一人、兵士たちを見ていた。
蜂蜜色の髪色で長めのツインテールで結んでおり、茶色い外套を羽織っている。
手には、赤い果実の入った籠。
この村の娘に見えるが、周囲の人間とは少し離れて立っていた。
少女が果実を一つ手に取る。
何をするつもりかと思った直後、それを兵士の足元へ投げた。
果実が石畳へ当たり、潰れる。
「きゃっ!」
少女は自分で投げたにもかかわらず、驚いた声を上げた。
兵士の一人が足を滑らせる。
身体が隣の兵士へぶつかり、二人まとめてよろめいた。
「す、すみません!」
少女が慌てた様子で駆け寄る。
散らばった果実を拾いながら、何度も頭を下げていた。
「何をしている!」
「ごめんなさい! 籠が急に軽くなって!」
「果実が勝手に飛び出すか!」
「元気だったのかもしれません!」
「ふざけているのか!」
少女が兵士に怒鳴られている。
その間に、彼女の左手が兵士の腰へ伸びた。
指先が革袋の留め具を外す。
中から、小さく折り畳まれた紙を抜き取った。
一連の動きを見ていたのは、レンだけだった。
少女は顔を上げる。
緑色の瞳が、広場の外に立つレンを捉えた。
一瞬だけ目を細める。
見られたと気づいた。
だが、慌てる様子はなかった。
少女はレンへ小さく片目をつむると、拾い集めた果実を籠へ戻した。
「本当にすみませんでした!」
兵士たちへ勢いよく頭を下げ、その場を離れる。
十歩ほど歩いたところで、兵士の一人が腰の革袋へ触れた。
「待て!」
少女が走り出した。
「そいつを捕まえろ!」
三人の兵士が追いかける。
魔法使いだけは広場に残り、杖を抜いた。
少女は狭い路地へ飛び込んだ。
レンは兵士たちが走っていくのを見届け、反対側の道へ入った。
関わる理由はない。
そう判断した直後。
路地の角から少女が現れた。
先ほどとは逆方向から。
「ちょっと貸して!」
返事を待たず、少女がレンの外套をつかむ。
身体を引き寄せ、その背後へ隠れた。
「断る」
「もう借りてるから遅いよ」
少女は茶色い外套を裏返した。
裏地は深い緑色になっている。
髪を束ねていた紐を外し、果実の籠を近くの樽の陰へ押し込んだ。
わずかな時間で、先ほどとは印象が変わる。
「いたか!」
兵士の声が近づいてくる。
少女がレンの背後から小声で言った。
「右の道を指して」
「理由は」
「左だと、三十秒で見つかるから」
「右なら?」
「二分は稼げる」
兵士が路地へ飛び込んできた。
「おい、傭兵!」
レンの装備を見て、そう判断したらしい。
「茶色い外套の女を見なかったか!」
レンは無言で右の道を指した。
「追うぞ!」
兵士たちが走り去る。
足音が聞こえなくなるまで待ってから、少女がレンの背後から顔を出した。
「ありがとう!」
「礼より先に離れろ」
「はいはい」
少女は外套から手を離した。
隠れていた間も、息一つ乱していない。
「どうして助けてくれたの?」
「お前が盗んだものに興味がある」
「正直だねえ」
少女が笑う。
盗んだ紙を外套の内側から取り出し、広げた。
記されていたのは、徴兵対象となる村の一覧。
その下に、王国兵の移動予定が書かれている。
「三日後じゃない」
少女が紙を指でなぞる。
「明日の夜に来るつもりだ」
「村人を逃がさないためか」
「たぶんね。三日あると思わせて、準備ができる前に連れていく」
少女は既に知っていたような口調で言った。
レンは紙の端を見る。
王都から南部へ派遣される兵士の人数。
途中で立ち寄る町。
物資を受け取る場所。
北へ向かうために使う街道も記されている。
王都へ近づくうえで、役に立つ情報だった。
「これ、欲しい?」
少女が尋ねる。
「ああ」
「じゃあ、半分ずつ使おう」
「紙を半分に破る気か」
「違うよ。私が村の人を逃がすために使う。あなたは王都へ行くために使う」
レンは少女を見る。
「俺が王都へ行くと、いつ言った」
「言ってないよ」
少女は楽しそうに笑った。
「でも、村へ入ってから一度も畑も店も見てない。最初に確認したのは、掲示板と兵士の数。それから軍馬の荷物」
「傭兵なら珍しくない」
「仕事を探してる傭兵なら、宿か酒場へ行く。でも、あなたは兵士がどこから来たのかを見てた」
少女がレンの靴へ視線を落とす。
「ここより南から来たのに、荷物が少なすぎる。近くの村から来たなら、誰かが顔を知ってるはず。でも、誰もあなたを見てなかった」
「それだけか」
「あと、さっきの兵士」
少女が、兵士たちの消えた道を指す。
「普通なら、追われてる私を助けても得はない。だけど、あなたは盗んだ紙に王都までの経路が書かれていると分かったから助けた」
「内容を確認する前だ」
「王国兵が村へ持ってくる紙なんて、命令書か名簿か移動予定のどれかでしょ。どれでも役には立つよ」
判断が速い。
観察力もある。
何より、自分が追われている最中でも、周囲を見る余裕を失っていなかった。
「名前は?」
少女が尋ねる。
「人に聞くなら、先に名乗れ」
「それもそうだね」
少女は右手を差し出した。
「ニナ。よろしく」
レンは差し出された手を見た。
「レンだ」
手は取らなかった。
ニナは気にした様子もなく、差し出していた手を引っ込める。
「レンは、王都で何をするの?」
「仕事だ」
「誰かを守る仕事?」
「違う」
「物を運ぶ?」
「違う」
「人を殺す?」
レンは答えなかった。
ニナが、少しだけ目を細める。
それでも笑顔は崩さなかった。
ニナは盗んだ紙を折り畳み、レンへ差し出した。
「私も、レオルドをどうにかしたい」
国王を呼び捨てにした。
声に怒りはない。
恐怖も。
まるで、少し面倒な知人について話すような口調だった。
「反乱組織の人間か」
「そう見える?」
「見えない」
「よかった。見えたら、とっくに捕まってるからね」
ニナが笑う。
「王都へ入る方法も、王城に近づく方法も知ってる。レオルドの密偵を見分ける方法も、少しだけ」
「それを、会ったばかりの人間に話すのか」
「全部は話してないよ」
ニナは人差し指を唇へ当てた。
「それに、信用してるわけじゃない。利害が同じかもしれないから、声をかけただけ」
「違っていたら?」
「そのときは、ここで別れる」
路地の向こうから、再び兵士の声が聞こえた。
先ほどの三人が戻ってきたらしい。
ニナは音の方向へ顔を向ける。
「思ったより早かったなあ。もう少し素直に騙されてくれればいいのに」
そう言いながら、焦った様子はない。
「あと一分くらいで、ここを調べに来るよ」
「なぜ分かる」
「私が兵士なら、見失った場所まで戻って、近い路地から順番に探すから」
ニナは路地の奥へ歩き出した。
数歩進んだところで振り返る。
「私はレオルドを止めたい。レンは王都へ行きたい。今のところ、それだけ分かっていれば十分じゃない?」
「俺がお前を信用する理由はない」
「私にもないよ」
ニナは明るく答えた。
「だから、ちょうどいいでしょ?」
足音が近づいてくる。
レンは一度、広場の方向を見た。
兵士たちへニナを引き渡せば、王国側へ接触するきっかけになる。
一方で、ニナは王都への経路と、王城へ近づく方法を知っていると言った。
本当かどうかは分からない。
それを確かめる価値はある。
「案内しろ」
レンが言った。
ニナの笑顔が大きくなる。
「交渉成立!」
「まだ何も約束していない」
「細かいことは歩きながら決めよう」
ニナはレンの手首をつかみ、路地の奥へ引いた。
軽い足取りで先を進みながら、楽しそうに振り返る。
「大丈夫。私、役に立つよ」
「自分で言う奴は信用できない」
「じゃあ、役に立たないかも」
「余計に信用できない」
「難しいなあ」
ニナが声を上げて笑う。
その背後で、兵士たちが路地へ入ってきた。
レンとニナは狭い道を抜け、村の外へ続く林の中へ姿を消した。




