手紙を◯す
その夜。
レンは、いつもと同じ時刻に学院寮の食堂へ入った。
決まった席に座り、豆のスープと焼いた肉を食べる。
同じ組の学生に声をかけられれば笑顔で答えた。
明日の軍視察について聞かれれば、詳しいことは知らないと答えた。
「軍人って、やっぱり怖いのか?」
向かいに座った学生が尋ねる。
「どうだろう。今日会った大尉は、あまり笑わない人だった」
「怒鳴られたらどうする?」
「素直に謝る」
「意外だな。レンって、何があっても平然としてそうなのに」
「軍人に逆らえるほど肝は据わってないよ」
レンは困ったように笑った。
周囲の学生も笑う。
普段通りの編入生。
明日の視察に少し緊張している、研究会へ入ったばかりの学生。
そう見えれば十分だった。
夕食を終える。
食器を返し、階段を上る。
自室へ戻るところを、廊下にいた寮監へ見せる。
扉を閉める。
机へ向かい、教科書を開く。
窓の外が完全に暗くなるまで、そのまま待った。
部屋を出たのは、消灯時刻の鐘が鳴る少し前だった。
◇
神崎家の窓には、まだ明かりが灯っていた。
レンは通りの反対側に立ち、家の様子を確認する。
一階の食堂。
二階のカナタの部屋。
家の裏手にある小さな物置。
以前訪れたとき、目にした配置と変わっていない。
一階の窓を、人影が横切った。
カナタの母親、サヨ。
そのあとを、妹のミオが追いかけている。
二階の一番右。
カナタの部屋にも、明かりがついていた。
眠っていると思っていた。
昨日からほとんど休んでいない。
高瀬にも、今日は早く眠れと言われていた。
だが、窓の向こうでカナタは机へ向かっている。
さすがに今すぐ入るのは難しい。
レンは家の裏手へ回った。
塀の陰へ身を寄せ、明かりが消えるのを待つ。
十分。
二十分。
二階の窓は暗くならない。
しばらくして、窓辺にカナタの姿が現れた。
手には黒い手帳。
零号帳だった。
カナタは窓を少し開き、冷たい夜気を入れる。
それから手帳を持ったまま、窓の縁へ腰を下ろした。
何かを書いている。
新しい記録を残しているのかもしれない。
今夜中に処分するつもりでいても、文字が一行増えれば、それも処分対象になる。
レンは動かなかった。
ここからでは、何を書いているのか見えない。
やがて、部屋の扉が開いた。
「お兄ちゃん、まだ起きてるの?」
ミオの声が、わずかに聞こえた。
カナタが零号帳を閉じる。
「あれ。ノックは?」
「したよ。返事がなかったから入った」
「聞こえなかった」
「研究してたの?」
「少しだけ」
「お母さんが怒ってるよ。早く寝なさいって」
「今から寝る」
「昨日も言ってた」
「今日は本当に寝るよ」
「お兄ちゃんの本当は、アリサお姉ちゃんのたぶんと同じくらい信用できない」
「比較対象が厳しくない?」
ミオが窓辺まで歩いてくる。
「それ、何の手帳?」
「昔の日記」
「見せて」
「嫌だ」
「どうして?」
「恥ずかしいことが書いてあるから」
「アリサお姉ちゃんのこと?」
「何でそうなるんだよ」
「十二歳のときの手帳なら、好きな子の名前とか書くって友達が言ってた」
「書いてない」
「今、考えてから答えた」
「書いてないよ」
「怪しい」
ミオが零号帳へ手を伸ばす。
カナタは手帳を頭の上へ持ち上げた。
「こら。これは駄目」
「一頁だけ」
「駄目」
「じゃあ、アリサお姉ちゃんに聞く」
「何を?」
「自分の名前が書いてあるか」
「もっと駄目だよ」
「やっぱり書いてあるんだ」
「違う!」
窓辺から二人の声が響く。
一階から、サヨの声が飛んできた。
「ミオ! お兄ちゃんを寝かせなさい!」
「私のせいになってる!」
「早く自分の部屋へ戻れ」
「お兄ちゃんも寝てよ」
「分かった」
「約束?」
「約束」
ミオが部屋を出る。
扉が閉まったあと、カナタは零号帳を見下ろした。
困ったように笑う。
「好きな子の名前、か」
小さなつぶやきだった。
カナタは最後に一行だけ書き加えた。
手帳を閉じる。
机の下段を開き、奥へ入れる。
鍵をかけた。
それから灯りを消す。
窓が暗くなる。
レンは、さらに二十分待った。
家の音が静まる。
一階の灯りも、一つずつ消えていった。
◇
神崎家へ入るのは、難しくなかった。
正面の扉を使う必要はない。
音の出ない場所。
外から見えない位置。
前回訪れたときに、すべて確認している。
屋内へ入る。
靴を脱ぐ。
床板の端を踏まないように歩く。
廊下の右側。
居間。
食堂。
階段。
足を乗せると音が鳴る段は、下から五段目。
レンはそこだけを避けた。
二階へ上がる。
カナタの部屋は、廊下の一番奥。
扉の下から光は漏れていない。
レンは耳を当てた。
規則的な寝息。
深く眠っている。
扉を開ける。
室内には、工具と紙の臭いが満ちていた。
机。
本棚。
部品箱。
壁の設計図。
以前来た時と同じ配置。
違うのは、寝台の上にカナタがいることだけだった。
レンは音を立てず、机の前へ移動する。
下段の引き出し。
簡単な鍵。
一度開けている。
時間はかからなかった。
引き出しを開く。
黒い手帳が見える。
レンは鞄から、同じ大きさの手帳を取り出した。
帝都の文具店で購入したもの。
表紙の色。
厚さ。
重さ。
暗い部屋で触れただけなら、違いには気づかない。
本物の零号帳を鞄へ入れる。
代わりの手帳を、同じ位置へ置く。
引き出しを閉じ、鍵を戻す。
それで終わるはずだった。
寝台から、布の動く音がした。
レンの手が止まる。
「……レン?」
カナタの声だった。
暗闇の中。
レンは動かない。
呼吸も変えない。
カナタが身体を起こす。
「いるのか?」
目が覚めたわけではない。
声に意識がない。
夢を見ている。
レンは、わずかに机の陰へ身を沈めた。
「明日……頼むよ」
カナタはそう言って、再び枕へ頭を落とした。
何を頼んだのか。
軍への対応か。
試作品の手伝いか。
あるいは、ただ夢の中で話しているだけなのか。
数秒後、寝息が戻る。
レンは部屋を出た。
階段を下りる。
一階の廊下を進む。
食堂の前を通り過ぎようとしたところで、小さな声が聞こえた。
「お母さん」
ミオだった。
レンは壁際で足を止める。
食堂には、まだ二人がいた。
灯りは消えている。
窓から差し込む月明かりだけが、テーブルを照らしていた。
「どうしたの?」
サヨが尋ねる。
「お兄ちゃん、大丈夫かな」
「急にどうしたの?」
「最近、全然寝てないし。今日も、軍の人が来るって言ってた」
「心配なの?」
「少しだけ」
「なら、明日の朝に言ってあげなさい」
「本人には言わない」
「どうして?」
「調子に乗るから」
「そうね」
サヨが小さく笑う。
「でも、お兄ちゃんは一人ではないわ。アリサちゃんも、高瀬先生もいる。それに、レン君も」
「レンお兄ちゃん、変な人だけどね」
「そう?」
「アリサお姉ちゃんを見る顔が、ときどき怖い」
レンの眉が、わずかに動いた。
「怖い?」
「うん。笑ってるんだけど、笑ってないみたいなときがある」
子供は、ときどき大人よりもよく見ている。
意味を理解できないからこそ、見えたものをそのまま口にする。
「まだ、緊張しているのかもしれないわね」
サヨが答えた。
「北部から来たばかりなのでしょう?」
「そうかな」
「悪い人には見えなかったわ。それに、お兄ちゃんを助けてくれた」
「うん」
ミオは、まだ納得していないようだった。
「今度、レンお兄ちゃんにも聞いてみようかな」
「何を?」
「アリサお姉ちゃんのこと、どう思ってるか」
「それは、ミオが聞くことではないでしょう」
「お母さんも気になるでしょ?」
「少しだけ」
「大人ってずるい」
「ミオよりは遠慮があるの」
二人が小さく笑う。
レンは、その会話が終わるのを待たなかった。
静かに神崎家を出る。
鞄の中には、零号帳がある。
最初の一つは、回収した。
◇
榊家へ向かう途中。
レンは、人通りのない路地で零号帳を開いた。
最後に書き加えられた一行を確認するためだった。
最終頁。
日付は今日。
文字は一行だけ。
――明日、軍が来る。レンがいてくれてよかった。
レンは、その文字をしばらく見つめた。
研究内容ではない。
処分する必要もない。
任務とは関係のない、ただの感情。
それでも、その一行も零号帳とともに消える。
レンは手帳を閉じ、鞄へ戻した。
「……見る目がないな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
榊家までは、歩いて二十分。
石造りの塀に囲まれた、二階建ての大きな屋敷。
レンがこの世界へ送られ、最初に目を覚ました場所だった。
玄関脇の窓。
応接室。
食堂。
二階へ続く階段。
家の内部は知っている。
だが、今夜の目的地は、以前入ったことのない部屋だった。
東側二階。
アリサの自室。
屋敷へ近づく。
二階の一室だけ、灯りがついていた。
位置は東側。
窓辺に、人影が見える。
アリサは、まだ眠っていなかった。
レンは塀の外から部屋を見上げる。
急ぐ必要はある。
だが、明かりが消える前に動く必要はない。
問題は、屋敷の前に一台の車が止まっていることだった。
黒い車体。
窓には厚い覆い。
車輪の泥は、まだ乾いていない。
軍用車ではない。
紋章もない。
だが、車内にいる男の姿勢は軍人のものだった。
大通りへ背を向けず。
屋敷の出入口と周囲の通行人を、同時に見られる位置へ座っている。
ヴィクトルが置いた見張り。
カナタの家ではなく、榊家を監視している。
研究会長。
学院理事。
軍へ見せない資料が、どこかに保管されている可能性。
そこまで読まれていた。
レンはそのまま屋敷の前を通り過ぎた。
速度を変えない。
顔も向けない。
少し先にある夜店で足を止め、温かい飲み物を買う。
見張りは、レンを見た。
だが、追ってはこない。
学院の制服を着た学生。
榊家へ向かう道を、たまたま通っただけ。
今は、そう判断したらしい。
レンは飲み物を持ったまま歩き続ける。
一本先の通りへ曲がる。
そこで、足を止めた。
正面から入る必要はない。
見張りが確認しているのは、門と通りに面した窓。
屋敷のすべてを、一人で見張ることはできない。
レンは遠回りし、屋敷の裏手へ向かった。
◇
アリサの部屋は、すぐに分かった。
東側の廊下。
扉には、小さな銀色の表札。
【アリサ】
幼い頃から使われているらしく、端にいくつもの傷がある。
扉の向こうからは、紙をめくる音が聞こえた。
まだ起きている。
レンは隣の空き部屋へ入った。
窓から外へ出れば、アリサの部屋の窓まで距離はない。
だが、今動けば気づかれる。
待つしかなかった。
壁越しに、椅子を引く音がする。
引き出しが開く。
鍵の回る小さな音。
レンは耳を澄ませた。
アリサが、封書を確認している。
昼間、レンへ話したことで不安になったのかもしれない。
しばらくして、引き出しが閉じる。
再び鍵がかけられた。
廊下に足音。
アリサの部屋の扉が開く。
レンは空き部屋の陰へ身を寄せた。
アリサは水差しを持ち、階段のほうへ歩いていく。
右手には、レンが巻いた包帯。
替えるように言ったはずだ。
まだ、そのままだった。
階段を下りる音が遠ざかる。
今しかない。
レンはアリサの部屋へ入った。
室内は、驚くほど整っている。
壁際の本棚。
学生会の資料。
学院の教科書。
机の上には、明日の予定が書かれた紙。
一、軍視察資料の確認。
二、カナタの安全装置。
三、保留資料の立ち会い。
四、レンの包帯を外す。
レンは四番目で視線を止めた。
自分の包帯ではない。
アリサの包帯を替える話だったはずだ。
その下に、小さく文字が追加されている。
――昨日の答えを聞く。
レンは紙から目を離した。
机の一番下。
鍵のついた引き出し。
昼間聞いた通りの場所。
開ける。
奥に、青い封蝋で閉じられた封書があった。
歯車の印。
間違いない。
レンは封書を手に取った。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
早い。
水差しへ水を入れただけなら、当然だった。
レンは引き出しを閉じる。
部屋を出る時間はない。
窓へ向かう。
開ければ音が出る。
間に合わない。
扉が開く直前、レンは厚いカーテンの陰へ身を隠した。
アリサが部屋へ戻ってくる。
机の上へ水差しを置く。
椅子へ座った。
帰ってきただけなら、すぐには眠らない。
レンとアリサの間にあるのは、薄い布一枚。
アリサが窓へ近づけば見つかる。
封書は、レンの手の中。
引き出しから消えている。
確認されれば終わる。
軍の見張りが外にいる以上、騒がれた瞬間に逃げ道も塞がれる。
アリサが紙へ何かを書き加える。
ペンの走る音。
やがて、深いため息が聞こえた。
「何を期待しているのかしら」
独り言だった。
返事はない。
「答えを急ぐと間違える、なんて……」
アリサは昼間の言葉を繰り返す。
「待っていたら、正しい答えになるの?」
ペンが机へ置かれる。
沈黙。
「ならなかったら、許さないから」
声は小さかった。
それでも、カーテンの裏にいるレンには、はっきりと聞こえた。
アリサが椅子から立つ。
レンの身体がわずかに強張る。
足音が近づく。
カーテンの手前で止まる。
手が伸びる。
布が動いた。
月明かりが、細い隙間から差し込む。
レンは右手へ力を入れた。
アリサに見つかった場合。
声を上げられる前に口を塞ぐ。
抵抗されれば、意識を奪う。
今の身体でも、それくらいはできる。
必要ならば――。
アリサの手は、カーテンではなく窓の留め具へ伸びた。
少しだけ窓を開く。
冷たい風が部屋へ入ってくる。
「暑い……」
アリサがつぶやく。
頬に触れる。
顔が熱い理由を、部屋の温度のせいにしたかったらしい。
カーテンが揺れる。
その端が、レンの肩へ触れた。
アリサは気づかない。
机へ戻り、魔導灯を消す。
寝台へ入る。
室内が暗闇に包まれた。
レンは動かなかった。
五分。
十分。
アリサの呼吸が、少しずつ穏やかになる。
眠った。
レンはカーテンの陰から出る。
机の横を通る。
アリサは、顔をこちらへ向けて眠っていた。
右手の包帯が、布団の外へ出ている。
3週間前まで、アリサはレンの存在すら知らなかった。
今は、明日の予定にレンの名前を書いている。
信用していると言った。
いなくなりそうで不安だと言った。
そしてレンは、その部屋へ忍び込み、信頼の証として話された封書を盗んだ。
利用できる。
最初から、そう判断していた。
予定通りだった。
何も問題はない。
レンは窓から部屋を出た。
◇
屋敷から十分ほど離れた場所に、使われていない古い工房があった。
昼間に確認しておいた場所。
数年前に持ち主が亡くなり、今は倉庫としても使われていない。
レンは内部へ入る。
窓を覆う。
小さな魔導灯をつける。
作業台の上へ、二つを並べた。
黒い零号帳。
青い封蝋の封書。
まず、零号帳の最終頁から確認する。
カナタが前世で覚えていた知識。
それを、この世界で再現するための検討。
蓄電器。
発電機。
電動機。
無線通信。
内燃機関。
肥料。
医薬品。
半導体。
すべて、過去の世界でレンが見たことのある技術だった。
だが、この世界の人間が、自力で到達するには早すぎる。
カナタが死んでも、これが残れば誰かが続きを作れる。
零号帳には、新たな資料の記載はなかった。
全記録の原点は、この一冊。
カナタが書いた通りだった。
レンは次に、青い封書を手に取る。
封蝋を割る。
中には、薄い技術資料と、一通の手紙が入っていた。
技術資料には、新型蓄電器の基礎理論が記されている。
電極の組成。
魔力による反応補助。
電解質の精製方法。
現在の試作品を、最初から作り直せる内容だった。
零号帳ほど広くはない。
だが、これだけでも数十年分の技術差を生む。
資料の最後には、短い注意書きがあった。
――この資料と零号帳以外に、前世の記憶を直接まとめたものはない。
――学院へ提出した資料は、この二つがなければ、現在の性能へ到達できない。
これで、確認は終わった。
外部にある技術資料は、この二つだけ。
あとは学院の金属棚。
そして、カナタ本人。
レンは手紙を開いた。
技術を消すために、読む必要はない。
それでも、封書に入っていたものはすべて確認しなければならない。
紙の一番上には、アリサへ、と書かれていた。
---
アリサへ。
これを読んでいるなら、僕は研究を続けられなくなったか、君に本当のことを話せないまま死んだのだと思う。
昔、僕が熱を出したあとに話したことを覚えているかな。
会社。
携帯電話。
自動車。
飛行機。
日本という国。
全部、本当にあったものだ。
僕は一度、別の世界で生きていた。
二十九歳まで。
電気を使う部品を作る仕事をしていた。
ある日の帰り道、事故に遭った。
次に目を覚ましたとき、僕は八歳だった。
知らない家ではなかった。
母さんも、ミオも、君も知っていた。
神崎カナタとして生まれた記憶もあった。
でも同時に、別の人間として生きた二十九年も覚えていた。
最初は、どちらが本当の僕なのか分からなかった。
前の人生が本物で、今の人生は夢なのか。
今の僕が本物で、前の人生は熱で見た夢なのか。
誰に話しても信じてもらえなかった。
当たり前だと思う。
僕だって、逆の立場なら信じない。
でも、君だけは笑わなかった。
信じてはいなかったと思う。
それでも、僕の話を最後まで聞いてくれた。
あのときから、僕にとってこの世界は夢ではなくなった。
母さんがいる。
ミオがいる。
君がいる。
それなら、僕が生きる世界はここでいいと思えた。
同封した資料を、高瀬先生へ渡すかどうかは君に任せる。
この技術は、多くの人を助けるかもしれない。
同時に、僕の望まない使われ方をするかもしれない。
最後まで、僕には答えを出せなかった。
だから、君に決めてほしい。
無責任だと思う。
ごめん。
もし君が、この資料を燃やすことを選んだとしても、僕は恨まない。
一つだけ心残りがある。
いつか、前の人生のことを全部話したかった。
今度は、熱に浮かされた子供の話としてではなく。
君に信じてもらうためでもなく。
ただ、僕が二度生きたことを、君に知ってほしかった。
そして、できれば――
---
文章は、そこで一度途切れていた。
次の行には、何度も書き直した跡がある。
最後に残された言葉は、短かった。
---
君がいたから、二度目の人生も悪くなかった。
ありがとう。
神崎カナタ
---
レンは手紙を作業台へ置いた。
古い工房に、静寂が戻る。
封書を残せば、アリサはいつか読む。
カナタが何者だったのかを知る。
自分だけは信じてもらえなかったと思っていた少年が、本当に二つの人生を生きていたと分かる。
技術資料だけを抜き、手紙を戻すこともできる。
手紙には、蓄電器の理論は書かれていない。
世界を数十年進めるような知識もない。
ただ、異世界が存在することを示す一人分の告白。
これだけなら、残しても帰還条件へ影響しない可能性がある。
しかし
影響しないと断定はできない。
宗一郎へ話すかもしれない。
高瀬へ相談するかもしれない。
カナタが残した奇妙な技術と結びつき、別の研究が始まるかもしれない。
小さな可能性でも、残せば仕事は終わらない。
レンは過去に、それで失敗している。
処分する。
それが、正しい判断だった。
工房の隅には、古い焼却炉が残されている。
レンは零号帳から、最初の一頁を破った。
火をつける。
紙の端が赤く染まる。
幼い文字が、黒く崩れていく。
――前の世界では、電気を使うのに魔石はいらなかった。
文字が炎にのみ込まれた。
次の頁。
その次。
零号帳を少しずつ燃やしていく。
厚い手帳を、そのまま火へ入れることはしない。
頁の間に燃え残りが出れば、文字が残る。
一枚ずつ。
確実に。
最後の頁が炎へ入る。
――明日、軍が来る。レンがいてくれてよかった。
その文字も、ほかの記録と同じように灰になった。
次は、封書の技術資料。
電極の組成。
精製方法。
魔力回路。
一つずつ燃える。
残ったのは、アリサへの手紙。
レンは紙を持ったまま、火を見つめた。
――もし君が、この資料を燃やすことを選んだとしても、僕は恨まない。
カナタは、決断をアリサへ託した。
だが、アリサは選べない。
その手紙があったことすら知らないまま、選ぶ権利をレンに奪われた。
レンが今夜盗んだのは、封書ではなかった。
カナタがいつかアリサへ伝えるはずだった言葉。
アリサが、幼なじみの本当の人生を知る機会。
二人の間に残されるはずだった、最後の別れ。
「……悪いな」
謝る相手は、ここにはいない。
レンは手紙を火へ入れた。
アリサへ。
最初の三文字が燃える。
日本。
前の人生。
母さん。
ミオ。
君。
書かれていた言葉が、順番に消えていく。
最後まで残ったのは、紙の下端だった。
――ありがとう。
炎が、その文字ものみ込んだ。
やがて、焼却炉の中には灰だけが残った。
レンは燃え残りがないことを確認する。
青い封蝋も砕き、火へ入れる。
歯車の印が溶けて消えた。
これで、学院の外にある処分対象はなくなった。
零号帳。
封書。
消去済み。
残るのは、軍が封印した金属棚。
そして、神崎カナタ。
作業台の上に、一つだけ残っているものがあった。
アリサの封書が入っていた、白い外袋。
何も書かれていない。
燃やす必要はある。
レンが手を伸ばした、そのとき。
工房の外で、石を踏む音がした。
一人。
歩幅は一定。
隠そうとしているが、完全ではない。
レンは魔導灯を消した。
工房が暗闇に沈む。
腰を低くする。
窓の隙間から外を見る。
通りの向こうに、男が立っていた。
昼間、ヴィクトルの後ろにいた兵士ではない。
だが、外套の下に見える靴は軍用。
男は工房を見ている。
煙に気づいたのか。
レンを追ってきたのか。
判断できない。
扉の取っ手が、ゆっくりと動いた。
鍵はかけてある。
男が一度だけ扉を押す。
開かないと分かると、今度は窓のほうへ移動を始めた。
レンは室内を見渡した。
正面の扉。
窓が二つ。
奥に、崩れかけた資材置場。
逃げるだけなら難しくない。
だが、焼却炉にはまだ温かい灰がある。
作業台には白い外袋。
見つかれば、何を燃やしたのか調べられる可能性がある。
まず、痕跡を消す。
外袋を焼却炉へ投げる。
火は弱くなっている。
完全に燃えるまで時間がかかる。
窓へ男の影が近づく。
レンは作業台にあった古い油布を取り、焼却炉へ押し込んだ。
炎が一気に強くなる。
外袋が黒く縮む。
煙が増えた。
男が窓から内部をのぞく。
その瞬間、レンは焼却炉の蓋を閉じた。
工房の奥へ移動する。
積まれていた木箱を越える。
壁の一部が崩れ、隣の路地へ抜けられる隙間がある。
十八歳の身体では狭い。
肩が壁へ触れる。
制服の布が小さく裂けた。
それでも、通り抜ける。
背後で窓が割れる音。
男が工房へ入った。
レンは路地へ出る。
走らない。
急げば足音が響く。
暗闇へ溶けるように、路地の奥へ進む。
角を二つ曲がる。
大通りへ出る。
夜間作業を終えた工員の集団が歩いていた。
レンは、その中へ混ざる。
振り返らない。
数分後。
工房から遠ざかったところで、路面電車の停留所へ入った。
最終便が到着する。
扉が開く。
レンは乗り込んだ。
窓際へ座る。
発車直前、通りの向こうに人影が現れた。
先ほどの男だった。
周囲を見回している。
その視線が、車内へ向く。
レンは眠そうに頬杖をつき、窓の外を見ていた。
目が合った。
男はレンを見た。
学院の制服。
若い学生。
その顔を、確認する。
だが、路面電車は既に動き始めている。
男は追わなかった。
ただ、レンの顔を最後まで見ていた。
ヴィクトルの部下なのか。
別の誰かなのか。
明日になれば分かる。
◇
学院寮へ戻ったのは、日付が変わったあとだった。
正面玄関は閉まっている。
レンは自室へ戻り、裂けた制服を脱いだ。
右肩。
古い壁へ擦った痕。
明日の朝までに隠す必要がある。
鞄の中を確認する。
空だった。
零号帳も。
封書も。
燃え残りもない。
必要なものは、すべて灰になった。
レンは寝台へ腰を下ろす。
身体は疲れている。
新しい肉体は、まだ夜通し動くことに慣れていない。
だが、眠る時間は少ない。
明朝八時。
帝国軍の視察。
ヴィクトルからの聞き取り。
封印された金属棚。
そして、カナタ。
レンは右手を見る。
紙を燃やした臭いが、まだ指に残っている気がした。
同じ手で、昼間はアリサの包帯を巻いた。
彼女は明日、昨日の答えを聞くつもりでいる。
レンがどう思っているのか。
いなくならないのか。
信用していいのか。
答えは、既に決まっている。
仕事が終われば、レンは消える。
アリサが何を思っていようと。
カナタが何を信じていようと。
朝が来るまでの話だった。
レンは寝台へ横になる。
目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、燃えて消えた手紙の最後だった。
――君がいたから、二度目の人生も悪くなかった。
アリサへ宛てられた、カナタの言葉。
レンは、その一文をしばらく思い返した。
窓の外。
夜明けを告げる最初の鐘が鳴った。
残る処分対象は、金属棚と一人。
任務の終わりは、もう目の前まで来ていた。




