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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜学生研究者編〜
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7/72

軍を◯す

翌朝。


神崎家で夕食をともにしてから、5日が経った。


軍の視察は、翌日に迫っている。


その日の放課後。


アリサは第二実験室で、一人、保管資料の一覧を確認していた。


廊下から足音が聞こえるたび、視線が扉へ向く。


一度目は、高瀬。


二度目は、別の研究会の学生。


三度目は、誰も通らなかった。


アリサは時計を見る。


放課後の鐘が鳴ってから、四分。


集合時刻を決めた覚えはない。


レンが遅れているわけでもなかった。


それでも、一覧表の同じ行を三度読んでいることに気づき、アリサは眉を寄せた。


扉が開く。


「遅いわ」


入ってきたレンが時計を見る。


「鐘が鳴ってから四分だぞ」


「四分もよ」


「急ぎの仕事がある?」


「……別にないわ」


「じゃあ、何で怒ってるんだ?」


「怒っていない」


アリサは机に置いていたカップを、レンのほうへ押した。


「冷める前に飲みなさい」


「俺の分?」


「少し多く淹れてしまっただけよ」


レンは何も言わず、カップを手に取った。


資料整理を始めてから、アリサが珈琲の分量を間違えたことは一度もない。


それを指摘する必要もなかった。


一口飲む。


いつも通りの味だった。


ーーー


第二実験室へ入ったレンは、実験台に突っ伏しているカナタを見つけた。


机の上には、空になった珈琲のカップが三つ。


床には丸められた計算用紙。


カナタの右手は、調整用の工具を握ったまま止まっている。


「死んでる?」


レンが尋ねる。


「生きているわ」


窓際で書類を整理していたアリサが答えた。


「二時間前までは」


「勝手に殺さないで」


カナタが顔を伏せたまま言った。


「起きてたのか」


「今、起きた」


カナタはゆっくりと顔を上げる。


髪は乱れ、目の下には濃い隈ができていた。


「見てくれ、レン」


「嫌な予感がする」


「いいから」


カナタは実験台の中央へ置かれた円筒形の装置を指さした。


前回の試作品よりも一回り大きい。


外殻には、新たに三本の細い管が追加されている。


「圧力を三方向へ逃がす構造に変えた。内部温度が規定値を越えた場合は、魔力回路も自動的に切断される」


「もう動かしたのか?」


「うん」


「誰と?」


「一人で」


アリサが無言で立ち上がった。


「待って、理由があるんだ」


カナタが慌てて続ける。


「早朝だったから、誰もいなかった。だから、低出力で確認しただけだよ」


「規則の二番を言ってみなさい」


「実験中は、必ず二名以上で確認する」


「では、今朝この部屋にいたのは?」


「僕と……未来の僕?」


「一名ね」


「寝ぼけてたのかもしれない」


「今から目を覚まさせてあげるわ」


「暴力反対!」


カナタが椅子ごと後ろへ下がる。


レンは二人の間を通り、試作品の前へ立った。


計器に残されている測定値を見る。


「八・三倍?」


アリサが動きを止める。


「何ですって?」


「昨日より上がってる」


「そうなんだ!」


カナタが得意げに立ち上がった。


「圧力逃がしを追加したことで、電極の限界近くまで充電できるようになった。まだ目標の十二倍には届かないけど、審査会へ出せる数値にはなったと思う」


「安全性は?」


アリサが尋ねる。


「三回試して、異常なし」


「最低でも百回は必要よ」


「だから今日やる」


「今朝の規則違反については?」


「百回の試験が終わってから反省する」


「今すぐ反省しなさい」


アリサがカナタの耳をつかむ。


「痛い、痛い! 耳は研究に必要ないけど、痛い!」


「なら、少しくらい伸びても問題ないわね」


「そういう意味じゃない!」


レンは試作品の外殻へ視線を落とした。


六・四倍から八・三倍。


異常な速度だった。


カナタは眠る時間を削り、研究を進めている。


あと数日あれば、十二倍へ届く可能性もある。


時間を与えるほど、技術は完成へ近づく。


処分対象も増える。


やはり、審査会まで待つ余裕はなかった。


実験室の扉が開いた。


高瀬が、分厚い書類の束を抱えて入ってくる。


「朝から元気だな」


「先生、助けてください!」


耳をつかまれたまま、カナタが訴えた。


「今朝、誰にも立ち会わせずに試作品を動かしたそうです」


アリサが説明する。


高瀬はカナタを見る。


「神崎」


「はい」


「今日は反省文が二枚追加だ」


「助けてくれるんじゃないんですか?」


「事故報告書もまだ出ていない。合計で何枚になる?」


「五枚です……」


「審査会までには提出しろ」


「研究と関係ない文章を書くと、脳の大事な部分が消耗するんです」


「言い訳を書く脳は、消耗しても問題ない」


高瀬は書類を実験台へ置いた。


「それより、視察について変更がある」


室内の空気が変わった。


カナタも耳をつかまれたまま、高瀬へ顔を向ける。


「明日の視察では、試作品の実演だけではなく、関連資料についても確認したいそうだ」


「関連資料って、どこまでですか?」


カナタが尋ねる。


「基礎理論、試作記録、測定結果、使用素材の入手経路。帝国軍の研究資金が一部使われている以上、開示を拒否するのは難しい」


「全部じゃないですか」


「そうなるな」


「嫌です」


カナタは即答した。


「軍用に転用できる部分もある。原理まで見せたら、僕たちが断っても勝手に作られる」


「私も、その危険は説明した」


高瀬が言う。


「だが、向こうも引かなかった。少なくとも、軍の資金がどこへ使われたかを確認する権利はあると主張している」


「だからって――」


「カナタ」


アリサが耳から手を離す。


「感情だけで拒否しても、状況はよくならないわ」


「でも、アリサだって軍に渡すのは反対だろ?」


「反対よ。だからこそ、見せるものを選ぶ必要がある」


アリサは高瀬の持ってきた書類を確認する。


視察予定表。


確認対象。


軍側の参加者。


一番下には、帝国軍技術部の印が押されていた。


「見せる資料を減らせるんですか?」


「未完成の理論や、安全性の確認されていない実験記録については、開示を保留できる可能性がある」


高瀬が答えた。


「ただし、何を開示し、何を保留するのか。今日中に一覧を提出しなければならない」


「今日中……」


アリサが時計を見る。


午前八時を少し過ぎている。


資料提出まで、半日。


整理自体は終わっている。


だが、軍へ見せる資料と隠す資料を分類し直す必要があった。


レンは壁の一覧表を見る。


第二実験室。


地下保管庫。


高瀬の研究室。


保管場所は分かっている。


今度は、それらを一か所へ集める理由ができた。


「見せたくないものから決めたら?」


レンが言う。


三人の視線が集まる。


「軍へ見せてもいいものを、一冊ずつ選ぶより早い」


「でも、保留する資料の理由も書かなければならないわ」


アリサが答える。


「理由は三つくらいで分けられるだろ」


レンは一覧表の前へ移動した。


黒板へ、三つの項目を書く。


一、再現性が確認されていない。


二、安全性が確認されていない。


三、研究目的と関係のない個人的記録。


「このどれかに当てはまる資料は、開示保留」


レンは続けた。


「軍へ見せる資料は、既に公開した論文と、安定している試作品の記録だけにする」


「でも、保留資料が複数の場所に分かれているわ」


「だから、いったん全部ここへ集める」


「ここへ?」


「見せるものと見せないものが同じ棚にあるから、間違える。保留資料だけ別の棚か箱へまとめて、一覧と照合する」


レンは実験室の奥にある金属製の保管棚を指さした。


「視察が終わるまで、あそこへ入れて鍵をかける。誰が何を見たかも管理しやすい」


アリサが考え込む。


「確かに、そのほうが安全ね」


「持ち出されたことにも気づきやすい」


「問題は、保留資料をここまで運ぶ時間か」


高瀬が一覧表を見る。


「私の研究室にある設計図は、すぐに持ってこられる。地下の資料は――」


「俺とアリサで取ってきます」


レンが言った。


「分類は二人でやってきたから、どれが必要か分かる」


「では、頼む」


高瀬がうなずく。


「私は保留理由の文書を作成する。神崎は試作品の安全確認だ。ただし、必ず私の立ち会いで行うこと」


「分かりました」


「今の間は何だ?」


「一人のほうが早いのにな、と思っただけです」


「反省文、六枚目だな」


「ひどい!」


作業が始まった。


高瀬は自分の研究室へ向かう。


カナタは試作品を測定装置へ接続する。


アリサは一覧表を持ち、地下へ運ぶ資料へ印をつけ始めた。


その隣で、レンは金属製の保管棚を確認した。


厚い扉。


上下二段。


内部は紙を燃えにくくする素材で覆われている。


鍵はアリサが持っている。


窓から最も遠い。


一か所に集めるには、悪くない。


基礎理論。


試作記録。


測定結果。


設計図。


これまでは、消す順番と移動経路を考える必要があった。


だが、向こうから同じ場所へ集まってくれる。


軍から研究を守るため。


その目的で、レン自身が提案した。


レンは棚の前へしゃがみ、内ポケットから手のひらほどの黒い箱を取り出した。


底板の裏へ押し込み、外から見えないことを確認する。


          ◇


午前中のうちに、高瀬の研究室から十二枚の設計図が運び込まれた。


地下保管庫からは、初期研究帳と試作記録を中心に、十六冊。


第二実験室にあった帳面も合わせ、保留資料は金属棚の上段へまとめられていく。


「これも保留?」


アリサが一冊の帳面を持ち上げる。


【測定結果・丙六】


レンは一覧表を確認した。


「保留でいいと思う」


「理由は?」


「乙七と甲二から、何度も参照されてる」


「それだけ?」


「最後の三分の一だけ、紙が新しい。昔の測定結果へ、最近の実験値を追加したんだろ」


アリサがページをめくる。


後半には、現在使われている高密度電極の試験結果が書かれていた。


「合っているわ」


「なら、再現性未確認で保留」


「レン」


「何だ?」


「本当に、研究経験はないのよね?」


アリサの灰青色の瞳が、レンを見つめる。


疑っている。


だが、問い詰めているわけではない。


知りたいのだ。


レンが、なぜ普通の編入生には見えないのか。


「内容は分からないよ」


レンは帳面を閉じた。


「ただ、どの資料がよく使われてるかは分かる」


「どうやって?」


「参照された回数。紙の汚れ。カナタが手に取る順番」


「そんなものまで見ていたの?」


「整理するなら必要だろ」


「普通は、そこまで見ないわ」


「じゃあ、普通より整理が得意なんだな」


アリサはしばらくレンを見つめた。


やがて、小さく息を吐く。


「あなたは、研究より人を見るほうが得意なのね」


「人のほうが分かりやすい」


「私も?」


「アリサは少し難しい」


「少し?」


「カナタよりは」


「それは褒めているの?」


「かなり」


アリサの口元がわずかに緩む。


「では、褒め言葉として受け取っておくわ」


二人は資料の分類を再開した。


棚の上段へ置く。


管理札へ印をつける。


一覧表へ移動先を書く。


単純な作業だった。


それでも、レンは一冊ごとの重さと位置を記憶していった。


上段、右から四冊目。


中央、図面筒が十二本。


下段、試作品が三つ。


棚の鍵は一つ。


アリサの鍵束にある、最も短い銀色の鍵。


「次は、あの箱ね」


アリサが作業台の下に置かれた金属箱へ手を伸ばす。


箱の角が、破損したまま鋭く突き出していた。


「待て」


レンが声をかけた。


だが、間に合わない。


アリサが箱を引き出した瞬間、金属の端が手のひらを切った。


「っ……」


アリサが手を引く。


白い指の間から、赤い血がにじんだ。


「見せて」


「これくらい、平気よ」


「いいから」


レンはアリサの手首をつかんだ。


傷は浅い。


だが、掌の中央を横切っている。


このまま作業を続ければ、開く可能性がある。


レンは壁に備えつけられた救急箱を取った。


消毒液。


清潔な布。


包帯。


必要なものを机へ並べる。


「少し染みるぞ」


「子供ではないのだから、平気よ」


消毒液をかける。


アリサの指が、わずかにレンの手を握った。


「痛い?」


「……染みただけ」


「子供じゃないんだろ?」


「痛くないとは言っていないわ」


レンは傷口へ布を当て、包帯を巻いていく。


強すぎず。


緩すぎず。


手を開いたときにも、動きを妨げない位置。


アリサは黙って、その手元を見ていた。


「慣れているのね」


「昔、覚えた」


「お父様の工房で?」


「それもある」


レンは包帯の端を結ぶ。


「ほかにも、よく怪我をする奴がいたから」


「その人は、今も北部にいるの?」


アリサが尋ねる。


「いない」


レンは短く答えた。


アリサの表情が変わる。


「……ごめんなさい」


「謝ることじゃない」


「友人だった?」


「そう思ってた時期もある」


口から出た言葉に、レン自身がわずかに眉を動かした。


何を言っている。


考える必要のないことだった。


アリサは、それ以上尋ねなかった。


代わりに、包帯を巻かれた手を見る。


「きれいに巻けているわ」


「反対の手まで一緒に巻かなくてよかった」


「カナタと比べるのは、やめて」


「でも、あいつより上手いだろ?」


「比較する必要がないくらい上手よ」


「それならよかった」


レンが手を離そうとする。


アリサの指は、まだレンの手をつかんでいた。


本人も気づいていなかったらしい。


視線を落とし、慌てて指を離す。


「ありがとう」


「どういたしまして」


アリサは包帯の端を指で触れた。


「レンは、誰にでもこうするの?」


「包帯を巻くこと?」


「それもあるけれど……」


アリサは言葉を選ぶ。


「怪我をした人を見ると、すぐに助けるでしょう」


「目の前で怪我をされたらな」


「なら、誰にでも同じ?」


レンはアリサを見る。


今の問いに、医学的な意味はなかった。


求めている答えも分かっている。


「誰にでもじゃない」


アリサの指が止まる。


「では、私だから?」


「そう思ってくれていい」


「何よ、その言い方」


「嫌だった?」


「そうではないけれど」


アリサが視線をそらす。


頬が、わずかに赤くなっていた。


「あなたは、そうやって人を困らせるのが得意なのね」


「人を見るよりは苦手だよ」


「十分に得意よ」


「なら、気をつける」


「もう遅いわ」


小さな声だった。


レンには聞こえた。


だが、聞き返さなかった。


ここで踏み込めば、アリサは警戒する。


自分の感情を意識し始めたばかりの人間は、それを他人に指摘されると距離を取る。


近づくのは、彼女の側からでなければならない。


レンは金属箱を持ち上げた。


「これは俺が運ぶ」


「片腕は怪我をしているでしょう」


「もう塞がってる」


「包帯を外すまでは怪我人よ」


「今度はアリサも怪我人だろ」


「私は左手が使えるわ」


「俺も左手が使える」


二人は箱の両端へ手をかけた。


「一緒に運ぶなら文句ないだろ?」


「最初から、そう言いなさい」


肩を並べ、金属棚まで箱を運ぶ。


中に入っていたのは、破損した初期試作品だった。


すべて、保留資料と同じ棚へ収める。


これで、第二実験室と地下保管庫、高瀬の研究室にあった重要資料の大半が一か所へ集まった。


残るのは、学院の外にある二つ。


零号帳。


そして、アリサが預かっている封書。


          ◇


昼を過ぎた頃。


保留資料の一覧は、ほぼ完成していた。


カナタと高瀬は、別室で試作品の連続稼働試験を行っている。


第二実験室にいるのは、レンとアリサだけだった。


アリサは左手で書類を書いている。


普段より文字が遅い。


「代わろうか?」


レンが尋ねる。


「署名は本人が書かなければ意味がないわ」


「右手を切ったのに、左手でも書けるんだな」


「学生会の仕事で、利き手が使えない状況も想定して練習したの」


「何と戦ってるんだ、学生会は」


「締め切りよ」


「強敵だな」


「今回も負けそうだわ」


アリサは最後の一枚へ署名し、ペンを置いた。


「これで終わり」


「お疲れ」


レンが珈琲を差し出す。


先ほど食堂から持ってきたものだった。


アリサはカップを受け取り、少し驚いたように見る。


「私の分も?」


「一人だけ飲むと怒られそうだから」


「怒らないわよ」


「じゃあ返して」


「それは嫌」


アリサはカップを両手で包む。


一口飲み、息を吐いた。


「少し薄いわね」


「文句を言うなら返せ」


「でも、温かい」


「なら我慢しろ」


「そうするわ」


しばらく、二人の間から会話が消えた。


窓の外では、学生たちが中庭を歩いている。


遠くから、試験用の鐘が鳴る。


アリサは保留資料の一覧へ目を落とした。


「これだけ集めても、全部ではないのよね」


「ほかにもある?」


「研究資料として登録されているものは、すべてよ」


「登録されていないものは?」


レンは何気なく尋ねた。しかし、目的は別にあった、彼女自身から喋らせる必要があった。


アリサの指が、カップの縁で止まる。


「……一つだけ、心当たりがあるわ」


「零号帳?」


「それとは別」


アリサは少し迷ったあと、声を落とした。


「カナタから、封書を預かっているの」


レンは初めて聞いたように、眉を寄せた。


「いつから?」


「五年ほど前。私たちが十二歳の頃よ」


「中身は?」


「知らないわ。開けないでほしいと言われているから」


「何のための封書なんだ?」


「カナタが研究を続けられなくなった場合、高瀬先生へ渡してほしいと」


零号帳に書かれていた内容と一致する。


基礎理論の控え。


カナタが死亡したあとも、研究を継続させるための保険。


「その封書も、軍が探す資料に含まれるかもしれないな」


レンが言った。


「私も、そう思っていたところよ」


アリサの表情が曇る。


「榊家に置いたままにしておくべきか、ここへ持ってくるべきか迷っているの」


「今、持ってるの?」


「いいえ。家の自室よ」


「どこに?」


「机の一番下に、鍵のついた引き出しがあるの。その奥へ入れてある」


「封は?」


「封蝋が押されて未開封状態よ」


場所。


外見。


保管状態。


必要な情報がそろった。


榊家の東側二階。


アリサの自室。


机の下段。


鍵つきの引き出し。


レンは榊家で過ごした初日に、家の構造を確認している。


二階へ続く階段。


廊下の長さ。


東側に三部屋。


ただし、どれがアリサの部屋かまでは知らなかった。


これで特定できる。


「動かさないほうがいい」


レンは答えた。


「どうして?」


「今ここへ持ってきたら、軍の視察対象になる可能性がある。保管一覧にも載せる必要が出る」


「でも、家に置いておくのも不安だわ」


「今まで五年間、誰にも見つからなかったんだろ?」


「ええ」


「なら、明日の視察が終わるまでは、そのままでいい。急に動かすほうが目立つ」


アリサは少し考え、うなずいた。


「分かった。あなたの言う通りにする」


「俺の判断でいいの?」


「今までの判断は、すべて正しかったでしょう」


アリサはレンを見る。


「あなたになら話してもいいと思ったの」


「会ったばかりの人間を、簡単に信用するなと言ってたのに」


「もう3週間近く経っているわ」


アリサはカップへ視線を落とした。


「自分でも、どうしてここまで話しているのか分からないの」


「俺が信用できそうだから?」


「自分で言う?」


「違うなら訂正してくれ」


「……信用しているわ」


はっきりとした声だった。


「少なくとも、カナタを守ることについては」


レンは笑う。


「それならよかった」


「レンは?」


「何が?」


「私に信用してほしいと思っている?」


「思ってる」


迷わず答えた。


嘘ではない。


アリサの信頼は必要だった。


鍵を使わせるため。


情報を話させるため。


最後まで疑わせないため。


「どうして?」


アリサが尋ねる。


「アリサだから」


「また、そういう言い方をする」


「今度は嫌だった?」


「嫌ではないわ」


アリサはレンを見つめる。


「でも、それだけでは足りない」


「何が?」


「あなたが、私をどう思っているのか分からない」


一歩。


アリサ自身が、距離を縮めた。


レンは答えを考える。


好意を返せば、関係は一気に進む。


だが、今のアリサはまだ、自分の感情を確かめようとしている段階だった。


言葉で結論を与える必要はない。


「今は、それでいい」


「ずるい答えね」


「答えを急ぐと、間違えるからな」


「研究みたいに言わないで」


「研究会員だから」


「まだ仮登録でしょう」


アリサは少し笑った。


「でも……視察が終わったら、正式登録を認めてもいいと思っているわ」


「評価は合格?」


「資料整理については」


「ほかは?」


「これから見る」


「厳しいな」


「会長だから当然よ」


扉の外から、硬い足音が聞こえた。


一人ではない。


歩幅がそろっている。


革靴の音。


学院の学生や教師とは違う。


レンはカップを机へ置いた。


数秒後、扉が三回たたかれる。


返事を待たずに扉が開いた。


先頭に立っていたのは、灰色の軍服を着た男だった。


三十代半ば。


短く整えられた金髪。


左目の下に、古い傷がある。


腰には拳銃。


その後ろに、書類鞄を持った兵士が二人。


「帝国軍技術部、ヴィクトル・ハイン大尉だ」


男が名乗る。


「榊アリサ研究会長は?」


アリサが立ち上がる。


「私です」


「視察に先立ち、研究資料の保全措置を行う」


「保全措置?」


「本日十八時をもって、第二実験室と地下保管庫を封鎖する。視察開始まで、資料および試作品の持ち出しは禁止だ」


予定にはなかった。


高瀬からも聞いていない。


「急すぎます」


アリサが言う。


「正式な命令書はある」


兵士が書類を差し出した。


学院長。


帝国軍技術部長。


二つの署名が並んでいる。


「研究資金の不正使用と、資料隠蔽の可能性を排除するためだ」


「私たちは、何も隠していません」


「なら、問題はない」


ヴィクトルは室内を見渡した。


整然と並ぶ棚。


壁の一覧表。


金属製の保管棚。


その視線が、レンのところで止まる。


「君は?」


「レン・クロードです。応用科学研究会の部員です」


「名簿にはない」


ヴィクトルが即座に答える。


事前に、研究会の構成員を確認している。


「仮登録中です」


「仮登録の学生が、機密資料へ触れているのか?」


「私が許可しました」


アリサがレンの前へ出る。


「資料整理の補助として、必要な範囲のみ閲覧させています」


「軍の資金が使われた研究だ。会長の一存で許可できることではない」


ヴィクトルの声は静かだった。


怒鳴りもしない。


威圧する必要がない人間の話し方だった。


アリサは一瞬だけ黙った。


それから、机に置かれていた部員登録書を取る。


まだ記入途中の書類。


会長承認の欄は空白だった。


アリサは左手でペンを握る。


「では、今この場で正式登録します」


「アリサ?」


レンが呼ぶ。


「会長として、レン・クロードの入会を承認します」


アリサは書類へ署名した。


慣れない左手のため、文字は少し歪んでいる。


それでも、榊アリサという名前は読めた。


「顧問の承認は?」


「すぐに高瀬先生からいただきます」


「責任を持てるのか?」


「持ちます」


アリサはヴィクトルを正面から見返した。


「彼が整理に加わったことで、研究資料の所在が明確になりました。今回の視察準備が間に合ったのも、レンのおかげです」


ヴィクトルはアリサからレンへ視線を移す。


「編入したばかりだそうだな」


「はい」


「出身は?」


「北部ローデン郡のハルツ村です」


「ハルツ村」


ヴィクトルが目を細める。


「五年前、あの周辺へ駐留していた。ずいぶん訛りが薄いな」


「父が、標準語にうるさい人間でした」


「なぜ?」


「農機具の修理をしていたので、帝都から来る商人や技師と話す機会が多かったんです。訛りが強いと、田舎者だと思われて値段を下げられると言っていました」


以前に調べた北部の産業。


想定していた質問。


作っておいた父親の経歴。


矛盾はない。


ヴィクトルは何も言わず、レンの手を見る。


学生の手。


剣のたこも、銃を握った痕跡もない。


この世界へ来たときに、すべて消えている。


「父親の名は?」


「ノエル・クロードです」


「聞き覚えはないな」


「村の外では、知られていませんでした」


「そうか」


ヴィクトルはそれ以上尋ねなかった。


だが、興味を失ったわけではない。


レンの顔を、記憶した。


その目だった。


「保留資料は、どこだ?」


ヴィクトルが尋ねる。


アリサは一瞬だけ迷い、金属棚を示した。


「こちらです。開示可能な資料とは分けてあります」


「鍵を」


「内容を確認するおつもりですか?」


「今日は封印するだけだ。確認は明日行う」


アリサが短い銀色の鍵を差し込み、棚を開ける。


ヴィクトルは中を確認した。


帳面。


設計図。


試作品。


異世界由来の技術が、整然と一か所へ並んでいる。


「監査までに、研究資料をすべて一か所へ集める」


ヴィクトルが言った。


「基礎理論、測定結果、設計図、失敗した試作品の記録もだ。第二実験室奥の金属棚へ移せ」


レンは金属棚へ視線を向けた。


軍が介入すれば、資料は分散したままにはならない。


機密管理のため、一か所へ集められる。


兵士が数量を数え、記録する。


「閉めろ」


ヴィクトルが命じる。


アリサが棚を閉じ、鍵をかけた。


その上から、兵士が赤い封印紙を貼る。


帝国軍技術部の紋章。


破れば、すぐに分かる。


「この鍵は研究会長が保管しろ」


ヴィクトルが言う。


「ただし、明日の視察まで使用を禁ずる。実験室の扉にも封印を行う」


「今夜の研究は?」


カナタの声が、廊下から響いた。


高瀬とともに戻ってきたところだった。


「連続稼働試験が残っています。今夜中に終わらせないと、審査会へ間に合わない」


「十八時までは許可する」


ヴィクトルが答える。


「以降は、すべての作業を停止しろ」


「あと半日しかないじゃないですか」


「十分だ」


「研究したことない人は、すぐそう言うんだ」


「神崎」


高瀬が止める。


「命令書は確認した。従うしかない」


カナタは不満そうに唇を結ぶ。


「明日の視察には、私も立ち会う」


ヴィクトルが言った。


「試作品の実演。関連資料の確認。研究者への聞き取り。すべて、私が直接行う」


「大尉自ら?」


高瀬の表情がわずかに硬くなる。


「今回の技術は、それだけの価値があると判断された」


ヴィクトルはカナタを見る。


「期待しているよ、神崎カナタ君」


その言葉に、好意はなかった。


価値のある技術を見つけた者の目。


カナタ本人ではなく、その頭の中にある知識を見ている。


アリサが懸念していた通りだった。


軍は、蓄電器だけを求めているのではない。


カナタという人間を、手に入れようとしている。


ヴィクトルは踵を返した。


兵士二人も続く。


扉を出る直前、ヴィクトルがもう一度振り返った。


その視線は、カナタではなくレンへ向いていた。


「明日は、君にも話を聞く」


「俺にも?」


「編入から2週間足らずで、研究資料のすべてを整理したそうだからな」


ヴィクトルの口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。


「興味深い学生だ」


三人の軍人が去っていく。


足音が、廊下の奥へ消える。


しばらく、誰も口を開かなかった。


「……面倒な人に目をつけられたな」


カナタが言う。


「誰のせいだと思っているの?」


アリサが返す。


「軍のせい?」


「あなたの研究よ」


「僕は悪くないだろ」


「今朝、一人で実験した件については悪いわ」


「それは今関係ない」


「いつでも関係あるわ」


いつもの言い合いが始まる。


だが、アリサの声には普段ほど余裕がなかった。


高瀬は正式登録書へ署名し、レンへ差し出す。


「これで君は、正式な研究会員だ」


「ありがとうございます」


「明日の聞き取りでは、知っていることだけを答えればいい。軍人相手だからと、必要以上に怯えることはない」


「分かりました」


怯える必要はなかった。


問題は、ヴィクトルがどこまで調べるか。


北部へ問い合わせれば、レン・クロードという人間の記録が存在しないと分かる。


明日の視察だけなら、間に合わない可能性が高い。


だが、疑念を持たれれば、電信で確認を取るかもしれない。


時間は、さらに短くなった。


          ◇


十八時。


第二実験室の全員が、廊下へ出た。


軍の兵士が扉を閉める。


鍵穴と扉の隙間へ、赤い封印紙が貼られた。


地下保管庫も、同じように封鎖されている。


「明朝八時まで、立ち入りを禁止する」


兵士が告げる。


「違反した場合、軍機侵害として拘束する」


封印を破れば、アリサも高瀬も疑われる。


レン一人の問題では済まない。


「分かりました」


高瀬が代表して答えた。


兵士たちが去っていく。


カナタは封印された扉を見つめ、深くため息をついた。


「せっかく、八・三倍まで来たのに」


「続きは明日よ」


アリサが言う。


「軍がいる前で?」


「規則を破るよりはいいでしょう」


「軍に見せるために作ってるんじゃないんだけどな」


「分かっているわ」


「本当に?」


「十二年間、あなたを見ているのよ」


アリサの声が少し柔らかくなる。


「何のために作っているのかくらい、分かっているわ」


カナタは何も言わなかった。


代わりに、小さくうなずく。


「今日は帰りなさい」


高瀬が言う。


「寝不足の頭で、明日の説明を失敗されても困る」


「先生は?」


「軍へ提出する書類を確認してから帰る」


「手伝います」


アリサが申し出る。


「いや、榊も帰れ。手を怪我しているだろう」


高瀬が包帯へ目を向ける。


「大した傷ではありません」


「大した傷でなくても、休む理由にはなる。明日は長い一日になるぞ」


アリサは不満そうだったが、反論しなかった。


正門まで四人で歩く。


途中で高瀬が教師棟へ向かい、カナタも自宅へ帰る路面電車へ乗った。


残ったのは、レンとアリサ。


夕暮れの中庭。


昨日の雨は上がっている。


空には、薄い雲が残っていた。


「レン」


アリサが足を止める。


「さっきは、ごめんなさい」


「何が?」


「勝手に正式登録を決めたこと」


「助かったよ」


「でも、大尉の前でなければ、あなたにも確認するべきだったわ」


「断ると思った?」


「少しだけ」


「何で?」


「あなたは、ときどき……」


アリサは言葉を止める。


「急に、どこかへいなくなりそうに見えるから」


レンは黙った。


過去の世界では、何度もそうしてきた。


対象を殺す。


影響を消す。


光に包まれ、その世界から消える。


残された者へ、別れを告げることはない。


告げる必要もない。


「いなくならないよ」


レンは答えた。


「少なくとも、仕事が終わるまでは」


「仕事?」


「研究会の仕事」


アリサの表情から、わずかに緊張が消える。


「では、明日も来るのね」


「ああ」


「大尉に疑われても?」


「アリサが保証してくれたからな」


「私の名前を使って逃げるつもり?」


「逃げないよ」


「本当に?」


「信用してるんだろ?」


レンが聞き返す。


アリサは少しだけ頬を膨らませた。


「それを言われると、疑えないでしょう」


「便利な言葉だな」


「あなたが言わせたのよ」


「責任を取らないとな」


「どうやって?」


「明日の視察を乗り切る」


「それだけ?」


昨日と同じ問いだった。


だが、今度はアリサも、自分が何を尋ねているのか分かっている。


レンは一歩近づく。


包帯を巻いたアリサの手を取った。


傷が開いていないか確認する。


「帰ったら、包帯を替えるんだ」


「返事は?話をそらしているわ」


「傷が塞がってから答える」


「関係あるの?」


「あることにする」


「ずるいわね」


そう言いながらも、アリサは手を引かなかった。


「明日の朝、私が包帯を替えていなかったら?」


「俺が替える」


「では、このままでもいいかしら」


「傷が悪化する」


「冗談よ」


アリサが小さく笑う。


「また明日、レン」


「ああ。また明日」


アリサは手を離し、正門の先へ歩いていく。


数歩進み、振り返る。


昨日とは違い、今度は目をそらさなかった。


レンも、その姿が人混みへ消えるまで見送った。


第二実験室。


地下保管庫。


高瀬の研究室。


三か所に分かれていた重要資料は、金属棚へ集められた。


軍の封印によって、明日の朝まで誰も動かせない。


残る学院外の資料は二つ。


神崎家にある零号帳。


榊家にある封書。


どちらも、場所は分かった。


今夜のうちに手に入れる。


明日の視察では、ヴィクトルの目の前で第二実験室へ入る。


軍が研究を奪うより先に。


カナタが新たな資料を残すより先に。


必要なものを、すべて消す。


そして最後に、カナタを殺す。


本来なら、まだ準備に数日を使う予定だった。


だが、計画は変わる。


相手も動く。


世界は、レンの都合に合わせて止まってはくれない。


軍は、資料を守るつもりで封印した。


誰にも盗まれず。


誰にも持ち出されず。


明日の朝まで、同じ場所に残るように。


レンにとっても、都合は悪くなかった。


散らばっていた処分対象を、軍自身が守ってくれている。


あとは、時間だけだった。


零号帳。


封書。


そして、明日の視察。


残された夜は、一度だけだった。

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