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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜学生研究者編〜
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6/71

鍵を◯す

翌日の放課後。


レンが学院の正門へ向かうと、アリサは既に待っていた。


門柱の横。


制服姿のまま、腕時計を確認している。


いつも下ろしている亜麻色の髪は、今日は後ろで一つにまとめられていた。


「早いな」


レンが声をかける。


アリサが顔を上げた。


「あなたこそ。約束より十五分早いわ」


「先に待ってると言ったからな」


「私も早めに行くと言ったでしょう」


「本当に張り合ってたのか?」


「時間を守っただけよ」


アリサは平然と答えた。


だが、いつもより少しだけ早口だった。


「カナタは?」


「先に帰したわ」


「素直に帰った?」


「事故のことをおば様へ話したと伝えたら、しばらく動かなくなっていたけれど」


「逃げなかっただけ偉いな」


「自宅からどこへ逃げるのよ」


二人は並んで歩き始めた。


学院からカナタの家までは、路面電車で三駅。


そのあと、古い工房街を十分ほど歩くらしい。


昨日の雨は上がっていた。


曇り空の下、濡れた街路から薄い霧が立ち上っている。


「今日は髪型が違うんだな」


レンが言った。


アリサの手が、自分の髪へ触れる。


「資料整理の邪魔になるから、まとめただけよ」


「今日はカナタの家に行くだけだろ?」


「朝からこの髪型だったの」


「そうだったか?」


「そうよ」


レンは午前中、アリサと会っていない。


学年が違うため、研究会以外で顔を合わせる機会は少ない。


もちろん、そのことはアリサも分かっている。


レンは何も言わず、わずかに笑った。


「何?」


「いや。似合ってると思っただけだ」


アリサの足が、ほんの少しだけ遅れた。


「……そう」


それ以上の返事はない。


だが、髪へ触れていた指が、そのまましばらく離れなかった。


          ◇


神崎家は、工房街の外れにあった。


赤い屋根の二階建て。


周囲には似た造りの住宅が並び、その向こうに工場の煙突が見える。


広くはない。


だが、玄関脇には手入れされた花壇があり、窓辺には白い布が干されていた。


生活の温度がある家だった。


アリサが扉をたたく前に、内側から勢いよく開いた。


「いらっしゃい!」


現れたのは、十二歳ほどの少女だった。


カナタと似た黒髪。


大きな瞳。


白い前掛けを着け、片手には木製の杓子を持っている。


「ミオ。杓子を持って玄関へ出ないの」


アリサが注意する。


「お母さんを手伝ってたから」


「なら、台所へ置いてきなさい」


「はーい」


返事をしながらも、ミオは動かなかった。


レンの顔を興味深そうに見上げる。


「お兄ちゃんを助けた人?」


「たぶん、その人だ」


レンが答える。


「レンだ。よろしく」


「神崎ミオです。お兄ちゃんの妹です」


「見れば何となく分かる」


「似てる?」


「目元がな」


ミオが嬉しそうに笑う。


家の奥から、女性の声が飛んできた。


「ミオ、玄関で話していないで、お二人をお通しして!」


「分かってる!」


ミオは二人を居間へ案内した。


食卓には、既に何種類もの料理が並んでいる。


肉と野菜の煮込み。


焼いた魚。


大きなパン。


香辛料の匂いが立つ揚げ物。


寮の夕食より、明らかに豪華だった。


台所から、四十代ほどの女性が出てくる。


カナタとミオの母親、神崎サヨ。


「あなたがレン君ね」


サヨはレンへ歩み寄り、両手を握った。


「カナタを助けてくれて、本当にありがとう」


「近くにいたから動いただけです」


「それでも、あなたがいなければ大怪我をしていたと聞いたわ」


サヨの手に力がこもる。


「お怪我までさせてしまって……」


「もう治りかけています。気にしないでください」


「今度、包帯を確認させてちょうだい。うちは息子が怪我ばかりするから、傷の処置には慣れているの」


「この家、誰もカナタを信用してないんですね」


「十七年育てた結果よ」


台所の入口から、カナタが顔を出した。


「本人の前で言う?」


「本人に聞かせているの」


アリサと同じ答えだった。


カナタが深いため息をつく。


「味方がいない」


「ミオがいるだろ」


レンが言う。


「お兄ちゃんが悪いと思う」


ミオが即答した。


「いなかった」


          ◇


夕食が始まる。


レンの正面にカナタ。


隣にはアリサ。


サヨとミオも加わり、食卓は五人で囲まれていた。


「それで?」


サヨがカナタを見る。


「研究棟の使用申請が承認されていなかったというのは、本当なの?」


「承認される予定だった」


「されていなかったのね?」


「書類上は」


「書類以外の何で承認するの?」


「気持ち?」


「今月のお小遣いはなしです」


「待って。実験器具の弁償で、既にほとんど残ってない」


「なら、来月分もなし」


「レン。何とか言ってくれ」


「ご飯、おいしいです」


「そっちじゃない」


「お口に合ってよかったわ」


サヨは嬉しそうに笑った。


「遠慮しないで食べてね」


「はい。寮では、こんなに品数が出ないので」


「だったら、いつでも食べに来てちょうだい」


「お母さん」


カナタが止める。


「どうして?」


「レンを甘やかすと、毎日来るかもしれない」


「毎日は悪いから、週に三回にする」


「来る気なんだ」


「お前が豆の煮込みしかおごらないからだろ」


「まだ言う?」


二人の会話を聞き、ミオが楽しそうに笑う。


サヨもつられて笑った。


アリサは隣に座るレンを見た。


初めて来た家。


初対面の家族。


それなのに、まるで以前から知っていたように自然に会話へ入っている。


無理に明るく振る舞っている様子もない。


かといって、遠慮を忘れているわけでもない。


誰かが話せば聞き役へ回り。


会話が止まりそうになれば、相手が答えやすい言葉を投げる。


人との距離を測るのがうまい。


やはり、田舎から出てきたばかりの十八歳には見えなかった。


「アリサ姉ちゃん」


ミオに呼ばれ、アリサが我に返る。


「何?」


「またレンさんを見てる」


アリサの手から、持っていたフォークが滑りかけた。


「見ていないわ」


「見てたよ」


「隣に座っていれば、視界に入るでしょう」


「じゃあ、どうしてカナタ兄ちゃんは見ないの?」


「見る必要がないからよ」


「ひどくない?」


カナタが言う。


ミオはレンとアリサを交互に見た。


そして、悪気のない声で尋ねる。


「レンさんって、アリサ姉ちゃんの恋人?」


「違うわ!」


アリサが即答した。


声が食卓へ響く。


サヨが口元へ手を当てる。


カナタは、分かりやすく笑いをこらえている。


「まだ出会って数週間だ」


レンが冷静に答えた。


アリサが勢いよく振り返る。


「期間の問題みたいに言わないで」


「じゃあ、何日ならいい?」


「そういう意味ではないでしょう!」


「十二年くらい?」


カナタが口を挟む。


「あなたは黙って食べなさい」


「僕、関係ないのに怒られた」


ミオはよく分かっていない顔で首をかしげる。


「じゃあ、これから恋人になるの?」


「ならないわ」


「たぶん」


アリサとレンの答えが重なった。


内容は重ならなかった。


アリサがレンをにらむ。


「たぶん、とは何?」


「未来のことは断言できないだろ」


「断言しなさい」


「俺だけで決めることでもない」


「それは……そうだけれど」


アリサの勢いが弱くなる。


今度こそ、カナタが吹き出した。


サヨも笑っている。


「アリサちゃんが、こういう顔をするのは珍しいわね」


「おば様まで……」


アリサは耳まで赤くなり、食事へ視線を落とした。


レンは何事もなかったように、肉の煮込みを口へ運ぶ。


アリサの反応を計算して言ったわけではない。


完全な否定は不自然だと思っただけだった。


だが、結果は悪くない。


彼女の意識は、確実に自分へ向いている。


一方で、カナタはその様子を面白がっている。


幼なじみへ近づく男として、警戒する気配はない。


人間関係だけを見れば、潜入は順調だった。


順調すぎるほどに。


「そういえば、カナタ」


食事が半ばまで進んだ頃、アリサが話題を変えた。


まだ頬には赤みが残っている。


「研究資料の整理中に、零号帳という記述を見つけたわ」


カナタのスプーンが止まった。


一瞬だけ。


すぐに動き始める。


だが、レンは見逃さなかった。


「零号帳?」


カナタが聞き返す。


「複数の帳面に、詳細は零号帳を参照すると書かれていた」


「昔使っていた手帳だよ」


「今はどこにあるの?」


「この家」


「保管場所も一覧へ加えたいわ」


「必要ない」


カナタの返事は早かった。


アリサが眉を寄せる。


「どうして?」


「あれは研究資料じゃないから」


「ほかの研究帳から参照されているでしょう」


「昔の考えをまとめただけだ。審査会へ出す内容には関係ない」


「なら、確認させて」


「嫌だ」


普段のカナタからは珍しい、明確な拒絶だった。


食卓の空気が、わずかに変わる。


サヨとミオは、事情が分からず黙っている。


「誰にも見せるつもりはない」


カナタが続ける。


「アリサにも、高瀬先生にも」


「何か都合の悪いことが書いてあるの?」


「昔の日記みたいなものだよ。今さら人に見せるようなものじゃない」


前世の記憶。


元の世界の技術。


家族にも話せない本音。


そうしたものが書かれているのだろう。


「保管場所だけでいいわ」


アリサは食い下がる。


「自宅保管。それで十分だろ?」


「火事や盗難があったらどうするの?」


「そのときは諦める」


「研究の根幹に関わるものではないのね?」


「……今の研究は、あれがなくても続けられる」


嘘ではない。


カナタ自身が生きている限り、記憶を頼りに書き直すことができる。


だが、カナタの死後は別だ。


零号帳は、異世界由来の知識を残す最後の種になる。


「本人がそこまで嫌がってるなら、場所だけ記録しておけばいいんじゃないか?」


レンが言った。


アリサが意外そうに見る。


零号帳を探していたのは、レンも同じだった。


だからこそ、彼がカナタをかばうとは思わなかったのだろう。


「無理に見れば、信用を失う」


レンはカナタへ視線を向ける。


「見せたくないものくらい、誰にでもあるだろ」


「そういうこと」


カナタがうなずく。


「助かるよ、レン」


「ただし、審査会へ出す研究と関係ないというのが本当ならな」


「ああ。それは本当だ」


「ならいい」


レンは追及をやめた。


ここでアリサに押し切らせれば、正規の手順で零号帳を確認できたかもしれない。


だが、カナタが立ち会えば、自由に読むことはできない。


アリサが内容を知ることにもなる。


隠しているものは、本人がいない場所で確認したほうがいい。


「それより、研究資料を家に持ち帰っているなら、それだけでも確認したほうがいいわね」


アリサが言う。


「二階の作業部屋に、古い試作記録が何冊かある」


カナタが答える。


「食事のあとに持っていくよ」


「全部よ」


「分かってる」


「零号帳以外は、ね」


「念押ししなくていいから」


          ◇


夕食後。


サヨとアリサが台所で食器を片づける。


レンも手伝おうとしたが、客だからと止められた。


カナタは二階へ資料を取りに行く。


ミオは居間の長椅子に座り、学院の宿題を始めていた。


レンは周囲を見渡した。


階段。


裏口。


二階の窓。


住人の位置。


カナタの部屋へ入る機会は、今のところない。


無理に作る必要もない。


カナタ自身が、資料を運ぶために二階へ上がっている。


持ってくる量が多ければ、手伝う理由ができる。


しばらくして、階段の上から声がした。


「レン、悪い! ちょっと手伝ってくれる?」


予定どおりだった。


「今行く」


レンは二階へ上がった。


廊下の奥に、開いた扉がある。


カナタの作業部屋だった。


寝室を兼ねているらしい。


窓際に寝台。


壁一面の本棚。


中央には、大きな作業机。


床には分解された魔導機関の部品が置かれ、天井からは何本もの工具が下がっている。


整理されているとは言い難い。


だが、研究室ほどひどくはなかった。


「この箱を下へ運びたい」


カナタが床の木箱を指さす。


中には帳面と、古い設計図が詰め込まれている。


「重そうだな」


「二人なら大丈夫」


レンは木箱の片側を持った。


持ち上げる前に、部屋全体へ目を走らせる。


黒い手帳は見当たらない。


机の上。


本棚。


寝台の脇。


見える範囲にはない。


ただし、作業机の右側に鍵のついた引き出しがあった。


ほかの引き出しには鍵がない。


保管場所としては、分かりやすすぎる。


「どうした?」


カナタが尋ねる。


「どこを持てば崩れないか見てた」


「下から抱えれば大丈夫」


「お前の大丈夫は、どのくらい信用できる?」


「今回は爆発しない」


「箱を運ぶだけで爆発されたら困る」


二人で木箱を持ち上げる。


そのとき、一階から電話の呼び出し音が鳴った。


すぐにサヨの声がする。


「カナタ! 高瀬先生からお電話よ!」


「今行く!」


カナタは木箱を床へ戻した。


「少し待ってて」


「ああ」


カナタが部屋を出る。


階段を駆け下りる音。


レンは扉の前に立ち、廊下を見る。


アリサとサヨは台所。


ミオは居間。


カナタは電話。


使える時間は長くない。


レンは作業机へ向かった。


鍵のついた引き出しの前へしゃがむ。


単純な構造の錠だった。


この世界へ来た翌日、帝都の露店で買った細い時計ばね。


それを加工した簡素な道具を、制服の裏へ縫い込んである。


女神は武器を与えない。


現地の金も最低限。


だから、必要なものは自分で作る。


錠の内部を探る。


指先の感覚は、前の身体ほど鋭くない。


一度、金属が引っかかった。


力を抜く。


角度を変える。


小さな音がした。


引き出しが開く。


中には、黒い革表紙の手帳が一冊だけ置かれていた。


レンは手帳へ触れる前に、位置を確認する。


表紙の向き。


机の縁からの距離。


留め具の角度。


上に載っている細い糸くず。


すべて記憶する。


手帳を取り出す。


表紙には何も書かれていない。


最初のページを開く。


幼い文字。


その上から、成長するにつれて書き足された別の文字。


同じ人物が、九年かけて使い続けた手帳だった。


――神崎カナタ。


――八歳。


――たぶん、二度目の人生。


次のページ。


――前の名前は思い出せない。


――二十九歳だった。


――電子部品を作る会社で働いていた。


――病院で眠ったあと、ここで目を覚ました。


その先には、前の世界の知識が書き込まれていた。


蓄電池。


発電機。


電動機。


無線通信。


内燃機関。


肥料。


医薬品。


半導体。


どれも完全な設計図ではない。


記憶の断片。


構造の概要。


忘れないための単語。


だが、この世界の研究者が読めば、何十年分もの試行錯誤を省略できる。


依頼書に記されていたのは蓄電技術だけ。


しかし、零号帳が残れば、カナタの死後も別の技術が芽を出す可能性がある。


この一冊は、必ず消す必要があった。


レンは素早くページをめくる。


中盤からは、この世界での研究記録へ変わっている。


魔力を電気へ変換する方法。


電極の代替素材。


魔石を利用した圧力制御。


現在の蓄電器へ至るまでの、根本となる発想。


研究室の帳面をすべて処分しても、これがあれば作り直せる。


階下から、カナタの声が聞こえた。


「…分かりました」


レンの手が止まる。


電話の相手は高瀬。


会話の内容までは聞き取れない。


だが、カナタの声が明らかに硬くなっている。


時間がない。


レンは手帳の後半を確認する。


最後の数ページには、研究資料の保管先がまとめられていた。


第二実験室。


地下保管庫。


高瀬研究室。


すべて、既に確認した場所。


その下に、別の記述がある。


――零号帳の複製は作らない。


――ただし、自分に何かあった場合に備え、新型蓄電器の基礎理論のみ封書にしてアリサへ預けた。


レンの視線が止まる。


――アリサは中身を知らない。


――自分が死亡、または研究を続けられなくなった場合、高瀬先生へ渡すよう頼んである。


――封書は榊家で保管。


アリサが持っている。


本人は、内容を知らない。


カナタが死ねば開封し、高瀬へ渡す。


それだけで、蓄電技術は生き残る。


零号帳を消すだけでは足りなかった。


レンはさらに下を読む。


そこには、研究ではなく、日記のような文章が残されていた。


――前の人生を覚えていても、今の人生が偽物になるわけではない。


――母さんは母さんだ。


――ミオは妹だ。


――アリサは、昔のことを話しても笑わなかった。


――この世界で一人だけ、自分が別人になったことへ気づいた。


――本当のことを信じてもらえなくても、そばにいてくれた。


レンはページをめくった。


それ以上読む必要はない。


だが、最後の一文だけが視界へ入った。


――いつか全部話せる日が来たら、最初にアリサへ話したい。


階段を上る足音がした。


カナタが戻ってくる。


レンは手帳を閉じた。


元の位置へ戻す。


表紙の向き。


机の縁からの距離。


留め具。


糸くず。


すべて、最初と同じにする。


引き出しを閉め、施錠する。


道具を制服の裏へ戻したとき、カナタが部屋へ入ってきた。


「待たせた」


「何かあったのか?」


レンは木箱の前にしゃがんでいる。


「帝国軍の技術部が、学院へ来るらしい」


カナタの表情は暗かった。


「いつ?」


「1週間後…審査会へ出す前に、試作品と研究概要を確認したいそうだ」


「断れないのか?」


「学院が軍から研究費を受け取っている。高瀬先生だけでは断れない」


「カナタは、軍に渡したくないんだろ?」


「ああ」


カナタが作業机へ視線を向ける。


一瞬。


鍵のついた引き出しを見る。


レンは、その視線の意味を読もうとした。


確認。


習慣。


あるいは、わずかな違和感。


だが、カナタは何も言わなかった。


「軍へ見せるのは、出力を抑えた試作品にする」


「ばれない?」


「分からない。でも、完成形を見せるよりはいい」


「高瀬先生は?」


「協力してくれると思う」


カナタは木箱の反対側を持った。


「悪い。今度こそ運ぼう」


「ああ」


二人で木箱を持ち上げる。


レンは部屋を出る直前、もう一度だけ作業机を見た。


零号帳の場所は確認した。


残る問題は、処分する時期。


今盗めば、カナタは紛失に気づく。


記憶を頼りに、新たな帳面を作るかもしれない。


軍の訪問前なら、なおさら急いで書き直すだろう。


すべてを処分する直前まで、零号帳はここへ残しておく必要がある。


          ◇


木箱を運び終えると、サヨが食後の茶を用意してくれた。


高瀬からの連絡を聞いたアリサは、すぐに表情を険しくした。


「軍の視察がくる?」


「そうらしい」


カナタが答える。


「審査会の事前確認という名目だ」


「そんな話、聞いていないわ」


「高瀬先生も、さっき正式に知らされたみたいだ」


「軍へ提出する資料は?」


「今夜から作る」


「一人で?」


「そのつもりだけど」


「駄目よ。都合の悪い部分まで全部書くでしょう」


「僕を何だと思ってる?」


「研究の話になると、聞かれていないことまで説明する人」


カナタは反論できなかった。


アリサがレンを見る。


「明日から、資料整理より軍向けの準備を優先するわ」


「分かった」


「レンにも手伝ってもらうことになる」


「何をすればいい?」


「研究資料と提出資料を照合して、余計な情報が入っていないか確認して」


カナタが首をかしげる。


「レンは研究知識がないんだろ?」


「だからこそよ」


アリサが答える。


「専門外の人間が読んでも理解できる部分は、軍の担当者にも伝わる可能性が高い。説明しすぎている箇所を見つけてもらう」


「なるほど」


また一つ。


カナタの研究を、公式に確認する理由ができた。


軍へ何を渡す予定なのか。


どこまで隠すつもりなのか。


すべて把握できる。


「任せてくれ」


レンが答える。


「助かるわ」


アリサが安堵したように微笑む。


カナタの母親が、そのやり取りを眺めていた。


「アリサちゃん、いい人に出会ったわね」


「研究会の部員です」


「何も聞いていないのだけれど」


「顔に書いてあります」


「書いてないわ」


「お母さん、私には見える」


ミオが言う。


「見なくていいの」


アリサが即座に返す。


レンは茶を飲みながら、黙って笑っていた。


その内側で、必要な処理を並べ直す。


軍の視察まで1週間。


研究資料提出まで2週間。


第二実験室。


地下保管庫。


高瀬研究室。


カナタの自宅にある零号帳。


そして、榊家に保管された封書。


最後に、カナタ本人。


順番を間違えることはできない。


一つでも早く消せば、警戒される。


一つでも残せば、帰還できない可能性がある。


          ◇


神崎家を出る頃には、夜になっていた。


サヨから持たされた料理の包みを、レンが片手に持っている。


ミオは玄関から何度も手を振っていた。


「また来てね、レンさん!」


「ああ。次は週三回の一回目だな」


「本気にしないで!」


カナタが奥から叫ぶ。


扉が閉じる。


レンとアリサは、学院寮へ向かって歩き始めた。


「今日は晴れていてよかったわね」


アリサが言う。


「傘が一つしかなくても困らないし」


「昨日は困ってた?」


「あなたが端へ寄るからでしょう」


「近づいたら黙ったのはアリサだけどな」


「……あれは、急に近づいたからよ」


「もっとゆっくりならいい?」


「そういう意味ではないわ」


昨日と同じ反応。


だが、今日は逃げるように歩調を速めることはなかった。


二人の間には、肩一つ分の距離がある。


昨日の傘の下より遠い。


それでもアリサは、何度も横目でレンを見ていた。


「ミオの言ったことは忘れて」


アリサが不意に言う。


「ミオは、いろいろ言ってたけど」


「分かっているでしょう」


「恋人かって話?」


アリサの頬が再び赤くなる。


「そうよ」


「忘れたふりならできる」


「前にも聞いたわ、それ」


「忘れるとは言ってないからな」


「どうして覚えておく必要があるの?」


「嫌な話じゃなかった」


アリサが足を止めた。


レンも止まる。


街路の魔導灯が、二人の間を照らしている。


「それは、どういう意味?」


アリサが尋ねる。


先ほどまでより、真剣な声だった。


レンはすぐには答えなかった。


言葉を選ぶふりをする。


実際に選んでいた。


近づきすぎない。


否定もしない。


アリサ自身が、続きを考える余地を残す。


「アリサとそういうふうに見られるのが、嫌ではなかったという意味だ」


「それは……」


アリサが視線をそらす。


「随分、勝手な言い方ね」


「嫌だった?」


「私は、別に……」


答えは最後まで続かなかった。


レンも求めなかった。


再び歩き始める。


今度は、先ほどより少しだけ距離が近い。


「ただし」


アリサが言う。


「今は軍の視察が先よ」


「分かってる」


「研究会の仕事を疎かにしたら、仮登録を取り消すわ」


「恋人候補より、仮登録のほうが先なんだな」


「候補とは言っていないでしょう!」


アリサの声が、夜の通りへ響く。


前を歩いていた男性が、驚いて振り返った。


アリサは恥ずかしそうに口を閉じる。


レンは笑いをこらえながら歩いた。


彼女の関心は、既に単なる好奇心ではない。


信頼。


好意。


まだ名前をつける前の感情。


そして、アリサの手元には封書がある。


カナタが死んだとき、高瀬へ渡すための保険。


零号帳を処分し。


研究資料を消し。


試作品を壊し。


カナタを殺したとしても、アリサが封書を開けば仕事は終わらない。


次に必要なのは、彼女が預かっている封書の場所を知ること。


可能ならば、アリサ自身の手で差し出させる。


盗めば、気づかれる。


力ずくで奪えば、カナタへ伝わる。


だが、信頼する相手から頼まれれば、人は自分で鍵を開ける。


アリサがレンへ向け始めた感情は、もはや便利な道具というだけではない。


任務を終えるために、必要なものになっていた。


「明日は早く来て」


アリサが言う。


「軍向け資料の確認を始めるから」


「ああ」


「寝坊しないでよ」


「アリサが起こしに来るなら考える」


「寮へ女性は入れないわ」


「残念だ」


「何が残念なのよ」


レンは答えず、穏やかに笑った。


アリサは呆れたように息を吐く。


それでも、彼から離れようとはしなかった。


学院寮へ続く夜道を、二人は同じ歩幅で歩いていく。


アリサは知らない。


隣にいる青年が、カナタの部屋へ忍び込んだことを。


自分が預かっている封書の存在まで知られたことを。


そして、レンが向ける優しさの一つ一つが、彼女の持つ扉を開くために選ばれていることを。


知らないまま。


少しずつ。


アリサは、自分から鍵を差し出そうとしていた。

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