鍵を◯す
翌日の放課後。
レンが学院の正門へ向かうと、アリサは既に待っていた。
門柱の横。
制服姿のまま、腕時計を確認している。
いつも下ろしている亜麻色の髪は、今日は後ろで一つにまとめられていた。
「早いな」
レンが声をかける。
アリサが顔を上げた。
「あなたこそ。約束より十五分早いわ」
「先に待ってると言ったからな」
「私も早めに行くと言ったでしょう」
「本当に張り合ってたのか?」
「時間を守っただけよ」
アリサは平然と答えた。
だが、いつもより少しだけ早口だった。
「カナタは?」
「先に帰したわ」
「素直に帰った?」
「事故のことをおば様へ話したと伝えたら、しばらく動かなくなっていたけれど」
「逃げなかっただけ偉いな」
「自宅からどこへ逃げるのよ」
二人は並んで歩き始めた。
学院からカナタの家までは、路面電車で三駅。
そのあと、古い工房街を十分ほど歩くらしい。
昨日の雨は上がっていた。
曇り空の下、濡れた街路から薄い霧が立ち上っている。
「今日は髪型が違うんだな」
レンが言った。
アリサの手が、自分の髪へ触れる。
「資料整理の邪魔になるから、まとめただけよ」
「今日はカナタの家に行くだけだろ?」
「朝からこの髪型だったの」
「そうだったか?」
「そうよ」
レンは午前中、アリサと会っていない。
学年が違うため、研究会以外で顔を合わせる機会は少ない。
もちろん、そのことはアリサも分かっている。
レンは何も言わず、わずかに笑った。
「何?」
「いや。似合ってると思っただけだ」
アリサの足が、ほんの少しだけ遅れた。
「……そう」
それ以上の返事はない。
だが、髪へ触れていた指が、そのまましばらく離れなかった。
◇
神崎家は、工房街の外れにあった。
赤い屋根の二階建て。
周囲には似た造りの住宅が並び、その向こうに工場の煙突が見える。
広くはない。
だが、玄関脇には手入れされた花壇があり、窓辺には白い布が干されていた。
生活の温度がある家だった。
アリサが扉をたたく前に、内側から勢いよく開いた。
「いらっしゃい!」
現れたのは、十二歳ほどの少女だった。
カナタと似た黒髪。
大きな瞳。
白い前掛けを着け、片手には木製の杓子を持っている。
「ミオ。杓子を持って玄関へ出ないの」
アリサが注意する。
「お母さんを手伝ってたから」
「なら、台所へ置いてきなさい」
「はーい」
返事をしながらも、ミオは動かなかった。
レンの顔を興味深そうに見上げる。
「お兄ちゃんを助けた人?」
「たぶん、その人だ」
レンが答える。
「レンだ。よろしく」
「神崎ミオです。お兄ちゃんの妹です」
「見れば何となく分かる」
「似てる?」
「目元がな」
ミオが嬉しそうに笑う。
家の奥から、女性の声が飛んできた。
「ミオ、玄関で話していないで、お二人をお通しして!」
「分かってる!」
ミオは二人を居間へ案内した。
食卓には、既に何種類もの料理が並んでいる。
肉と野菜の煮込み。
焼いた魚。
大きなパン。
香辛料の匂いが立つ揚げ物。
寮の夕食より、明らかに豪華だった。
台所から、四十代ほどの女性が出てくる。
カナタとミオの母親、神崎サヨ。
「あなたがレン君ね」
サヨはレンへ歩み寄り、両手を握った。
「カナタを助けてくれて、本当にありがとう」
「近くにいたから動いただけです」
「それでも、あなたがいなければ大怪我をしていたと聞いたわ」
サヨの手に力がこもる。
「お怪我までさせてしまって……」
「もう治りかけています。気にしないでください」
「今度、包帯を確認させてちょうだい。うちは息子が怪我ばかりするから、傷の処置には慣れているの」
「この家、誰もカナタを信用してないんですね」
「十七年育てた結果よ」
台所の入口から、カナタが顔を出した。
「本人の前で言う?」
「本人に聞かせているの」
アリサと同じ答えだった。
カナタが深いため息をつく。
「味方がいない」
「ミオがいるだろ」
レンが言う。
「お兄ちゃんが悪いと思う」
ミオが即答した。
「いなかった」
◇
夕食が始まる。
レンの正面にカナタ。
隣にはアリサ。
サヨとミオも加わり、食卓は五人で囲まれていた。
「それで?」
サヨがカナタを見る。
「研究棟の使用申請が承認されていなかったというのは、本当なの?」
「承認される予定だった」
「されていなかったのね?」
「書類上は」
「書類以外の何で承認するの?」
「気持ち?」
「今月のお小遣いはなしです」
「待って。実験器具の弁償で、既にほとんど残ってない」
「なら、来月分もなし」
「レン。何とか言ってくれ」
「ご飯、おいしいです」
「そっちじゃない」
「お口に合ってよかったわ」
サヨは嬉しそうに笑った。
「遠慮しないで食べてね」
「はい。寮では、こんなに品数が出ないので」
「だったら、いつでも食べに来てちょうだい」
「お母さん」
カナタが止める。
「どうして?」
「レンを甘やかすと、毎日来るかもしれない」
「毎日は悪いから、週に三回にする」
「来る気なんだ」
「お前が豆の煮込みしかおごらないからだろ」
「まだ言う?」
二人の会話を聞き、ミオが楽しそうに笑う。
サヨもつられて笑った。
アリサは隣に座るレンを見た。
初めて来た家。
初対面の家族。
それなのに、まるで以前から知っていたように自然に会話へ入っている。
無理に明るく振る舞っている様子もない。
かといって、遠慮を忘れているわけでもない。
誰かが話せば聞き役へ回り。
会話が止まりそうになれば、相手が答えやすい言葉を投げる。
人との距離を測るのがうまい。
やはり、田舎から出てきたばかりの十八歳には見えなかった。
「アリサ姉ちゃん」
ミオに呼ばれ、アリサが我に返る。
「何?」
「またレンさんを見てる」
アリサの手から、持っていたフォークが滑りかけた。
「見ていないわ」
「見てたよ」
「隣に座っていれば、視界に入るでしょう」
「じゃあ、どうしてカナタ兄ちゃんは見ないの?」
「見る必要がないからよ」
「ひどくない?」
カナタが言う。
ミオはレンとアリサを交互に見た。
そして、悪気のない声で尋ねる。
「レンさんって、アリサ姉ちゃんの恋人?」
「違うわ!」
アリサが即答した。
声が食卓へ響く。
サヨが口元へ手を当てる。
カナタは、分かりやすく笑いをこらえている。
「まだ出会って数週間だ」
レンが冷静に答えた。
アリサが勢いよく振り返る。
「期間の問題みたいに言わないで」
「じゃあ、何日ならいい?」
「そういう意味ではないでしょう!」
「十二年くらい?」
カナタが口を挟む。
「あなたは黙って食べなさい」
「僕、関係ないのに怒られた」
ミオはよく分かっていない顔で首をかしげる。
「じゃあ、これから恋人になるの?」
「ならないわ」
「たぶん」
アリサとレンの答えが重なった。
内容は重ならなかった。
アリサがレンをにらむ。
「たぶん、とは何?」
「未来のことは断言できないだろ」
「断言しなさい」
「俺だけで決めることでもない」
「それは……そうだけれど」
アリサの勢いが弱くなる。
今度こそ、カナタが吹き出した。
サヨも笑っている。
「アリサちゃんが、こういう顔をするのは珍しいわね」
「おば様まで……」
アリサは耳まで赤くなり、食事へ視線を落とした。
レンは何事もなかったように、肉の煮込みを口へ運ぶ。
アリサの反応を計算して言ったわけではない。
完全な否定は不自然だと思っただけだった。
だが、結果は悪くない。
彼女の意識は、確実に自分へ向いている。
一方で、カナタはその様子を面白がっている。
幼なじみへ近づく男として、警戒する気配はない。
人間関係だけを見れば、潜入は順調だった。
順調すぎるほどに。
「そういえば、カナタ」
食事が半ばまで進んだ頃、アリサが話題を変えた。
まだ頬には赤みが残っている。
「研究資料の整理中に、零号帳という記述を見つけたわ」
カナタのスプーンが止まった。
一瞬だけ。
すぐに動き始める。
だが、レンは見逃さなかった。
「零号帳?」
カナタが聞き返す。
「複数の帳面に、詳細は零号帳を参照すると書かれていた」
「昔使っていた手帳だよ」
「今はどこにあるの?」
「この家」
「保管場所も一覧へ加えたいわ」
「必要ない」
カナタの返事は早かった。
アリサが眉を寄せる。
「どうして?」
「あれは研究資料じゃないから」
「ほかの研究帳から参照されているでしょう」
「昔の考えをまとめただけだ。審査会へ出す内容には関係ない」
「なら、確認させて」
「嫌だ」
普段のカナタからは珍しい、明確な拒絶だった。
食卓の空気が、わずかに変わる。
サヨとミオは、事情が分からず黙っている。
「誰にも見せるつもりはない」
カナタが続ける。
「アリサにも、高瀬先生にも」
「何か都合の悪いことが書いてあるの?」
「昔の日記みたいなものだよ。今さら人に見せるようなものじゃない」
前世の記憶。
元の世界の技術。
家族にも話せない本音。
そうしたものが書かれているのだろう。
「保管場所だけでいいわ」
アリサは食い下がる。
「自宅保管。それで十分だろ?」
「火事や盗難があったらどうするの?」
「そのときは諦める」
「研究の根幹に関わるものではないのね?」
「……今の研究は、あれがなくても続けられる」
嘘ではない。
カナタ自身が生きている限り、記憶を頼りに書き直すことができる。
だが、カナタの死後は別だ。
零号帳は、異世界由来の知識を残す最後の種になる。
「本人がそこまで嫌がってるなら、場所だけ記録しておけばいいんじゃないか?」
レンが言った。
アリサが意外そうに見る。
零号帳を探していたのは、レンも同じだった。
だからこそ、彼がカナタをかばうとは思わなかったのだろう。
「無理に見れば、信用を失う」
レンはカナタへ視線を向ける。
「見せたくないものくらい、誰にでもあるだろ」
「そういうこと」
カナタがうなずく。
「助かるよ、レン」
「ただし、審査会へ出す研究と関係ないというのが本当ならな」
「ああ。それは本当だ」
「ならいい」
レンは追及をやめた。
ここでアリサに押し切らせれば、正規の手順で零号帳を確認できたかもしれない。
だが、カナタが立ち会えば、自由に読むことはできない。
アリサが内容を知ることにもなる。
隠しているものは、本人がいない場所で確認したほうがいい。
「それより、研究資料を家に持ち帰っているなら、それだけでも確認したほうがいいわね」
アリサが言う。
「二階の作業部屋に、古い試作記録が何冊かある」
カナタが答える。
「食事のあとに持っていくよ」
「全部よ」
「分かってる」
「零号帳以外は、ね」
「念押ししなくていいから」
◇
夕食後。
サヨとアリサが台所で食器を片づける。
レンも手伝おうとしたが、客だからと止められた。
カナタは二階へ資料を取りに行く。
ミオは居間の長椅子に座り、学院の宿題を始めていた。
レンは周囲を見渡した。
階段。
裏口。
二階の窓。
住人の位置。
カナタの部屋へ入る機会は、今のところない。
無理に作る必要もない。
カナタ自身が、資料を運ぶために二階へ上がっている。
持ってくる量が多ければ、手伝う理由ができる。
しばらくして、階段の上から声がした。
「レン、悪い! ちょっと手伝ってくれる?」
予定どおりだった。
「今行く」
レンは二階へ上がった。
廊下の奥に、開いた扉がある。
カナタの作業部屋だった。
寝室を兼ねているらしい。
窓際に寝台。
壁一面の本棚。
中央には、大きな作業机。
床には分解された魔導機関の部品が置かれ、天井からは何本もの工具が下がっている。
整理されているとは言い難い。
だが、研究室ほどひどくはなかった。
「この箱を下へ運びたい」
カナタが床の木箱を指さす。
中には帳面と、古い設計図が詰め込まれている。
「重そうだな」
「二人なら大丈夫」
レンは木箱の片側を持った。
持ち上げる前に、部屋全体へ目を走らせる。
黒い手帳は見当たらない。
机の上。
本棚。
寝台の脇。
見える範囲にはない。
ただし、作業机の右側に鍵のついた引き出しがあった。
ほかの引き出しには鍵がない。
保管場所としては、分かりやすすぎる。
「どうした?」
カナタが尋ねる。
「どこを持てば崩れないか見てた」
「下から抱えれば大丈夫」
「お前の大丈夫は、どのくらい信用できる?」
「今回は爆発しない」
「箱を運ぶだけで爆発されたら困る」
二人で木箱を持ち上げる。
そのとき、一階から電話の呼び出し音が鳴った。
すぐにサヨの声がする。
「カナタ! 高瀬先生からお電話よ!」
「今行く!」
カナタは木箱を床へ戻した。
「少し待ってて」
「ああ」
カナタが部屋を出る。
階段を駆け下りる音。
レンは扉の前に立ち、廊下を見る。
アリサとサヨは台所。
ミオは居間。
カナタは電話。
使える時間は長くない。
レンは作業机へ向かった。
鍵のついた引き出しの前へしゃがむ。
単純な構造の錠だった。
この世界へ来た翌日、帝都の露店で買った細い時計ばね。
それを加工した簡素な道具を、制服の裏へ縫い込んである。
女神は武器を与えない。
現地の金も最低限。
だから、必要なものは自分で作る。
錠の内部を探る。
指先の感覚は、前の身体ほど鋭くない。
一度、金属が引っかかった。
力を抜く。
角度を変える。
小さな音がした。
引き出しが開く。
中には、黒い革表紙の手帳が一冊だけ置かれていた。
レンは手帳へ触れる前に、位置を確認する。
表紙の向き。
机の縁からの距離。
留め具の角度。
上に載っている細い糸くず。
すべて記憶する。
手帳を取り出す。
表紙には何も書かれていない。
最初のページを開く。
幼い文字。
その上から、成長するにつれて書き足された別の文字。
同じ人物が、九年かけて使い続けた手帳だった。
――神崎カナタ。
――八歳。
――たぶん、二度目の人生。
次のページ。
――前の名前は思い出せない。
――二十九歳だった。
――電子部品を作る会社で働いていた。
――病院で眠ったあと、ここで目を覚ました。
その先には、前の世界の知識が書き込まれていた。
蓄電池。
発電機。
電動機。
無線通信。
内燃機関。
肥料。
医薬品。
半導体。
どれも完全な設計図ではない。
記憶の断片。
構造の概要。
忘れないための単語。
だが、この世界の研究者が読めば、何十年分もの試行錯誤を省略できる。
依頼書に記されていたのは蓄電技術だけ。
しかし、零号帳が残れば、カナタの死後も別の技術が芽を出す可能性がある。
この一冊は、必ず消す必要があった。
レンは素早くページをめくる。
中盤からは、この世界での研究記録へ変わっている。
魔力を電気へ変換する方法。
電極の代替素材。
魔石を利用した圧力制御。
現在の蓄電器へ至るまでの、根本となる発想。
研究室の帳面をすべて処分しても、これがあれば作り直せる。
階下から、カナタの声が聞こえた。
「…分かりました」
レンの手が止まる。
電話の相手は高瀬。
会話の内容までは聞き取れない。
だが、カナタの声が明らかに硬くなっている。
時間がない。
レンは手帳の後半を確認する。
最後の数ページには、研究資料の保管先がまとめられていた。
第二実験室。
地下保管庫。
高瀬研究室。
すべて、既に確認した場所。
その下に、別の記述がある。
――零号帳の複製は作らない。
――ただし、自分に何かあった場合に備え、新型蓄電器の基礎理論のみ封書にしてアリサへ預けた。
レンの視線が止まる。
――アリサは中身を知らない。
――自分が死亡、または研究を続けられなくなった場合、高瀬先生へ渡すよう頼んである。
――封書は榊家で保管。
アリサが持っている。
本人は、内容を知らない。
カナタが死ねば開封し、高瀬へ渡す。
それだけで、蓄電技術は生き残る。
零号帳を消すだけでは足りなかった。
レンはさらに下を読む。
そこには、研究ではなく、日記のような文章が残されていた。
――前の人生を覚えていても、今の人生が偽物になるわけではない。
――母さんは母さんだ。
――ミオは妹だ。
――アリサは、昔のことを話しても笑わなかった。
――この世界で一人だけ、自分が別人になったことへ気づいた。
――本当のことを信じてもらえなくても、そばにいてくれた。
レンはページをめくった。
それ以上読む必要はない。
だが、最後の一文だけが視界へ入った。
――いつか全部話せる日が来たら、最初にアリサへ話したい。
階段を上る足音がした。
カナタが戻ってくる。
レンは手帳を閉じた。
元の位置へ戻す。
表紙の向き。
机の縁からの距離。
留め具。
糸くず。
すべて、最初と同じにする。
引き出しを閉め、施錠する。
道具を制服の裏へ戻したとき、カナタが部屋へ入ってきた。
「待たせた」
「何かあったのか?」
レンは木箱の前にしゃがんでいる。
「帝国軍の技術部が、学院へ来るらしい」
カナタの表情は暗かった。
「いつ?」
「1週間後…審査会へ出す前に、試作品と研究概要を確認したいそうだ」
「断れないのか?」
「学院が軍から研究費を受け取っている。高瀬先生だけでは断れない」
「カナタは、軍に渡したくないんだろ?」
「ああ」
カナタが作業机へ視線を向ける。
一瞬。
鍵のついた引き出しを見る。
レンは、その視線の意味を読もうとした。
確認。
習慣。
あるいは、わずかな違和感。
だが、カナタは何も言わなかった。
「軍へ見せるのは、出力を抑えた試作品にする」
「ばれない?」
「分からない。でも、完成形を見せるよりはいい」
「高瀬先生は?」
「協力してくれると思う」
カナタは木箱の反対側を持った。
「悪い。今度こそ運ぼう」
「ああ」
二人で木箱を持ち上げる。
レンは部屋を出る直前、もう一度だけ作業机を見た。
零号帳の場所は確認した。
残る問題は、処分する時期。
今盗めば、カナタは紛失に気づく。
記憶を頼りに、新たな帳面を作るかもしれない。
軍の訪問前なら、なおさら急いで書き直すだろう。
すべてを処分する直前まで、零号帳はここへ残しておく必要がある。
◇
木箱を運び終えると、サヨが食後の茶を用意してくれた。
高瀬からの連絡を聞いたアリサは、すぐに表情を険しくした。
「軍の視察がくる?」
「そうらしい」
カナタが答える。
「審査会の事前確認という名目だ」
「そんな話、聞いていないわ」
「高瀬先生も、さっき正式に知らされたみたいだ」
「軍へ提出する資料は?」
「今夜から作る」
「一人で?」
「そのつもりだけど」
「駄目よ。都合の悪い部分まで全部書くでしょう」
「僕を何だと思ってる?」
「研究の話になると、聞かれていないことまで説明する人」
カナタは反論できなかった。
アリサがレンを見る。
「明日から、資料整理より軍向けの準備を優先するわ」
「分かった」
「レンにも手伝ってもらうことになる」
「何をすればいい?」
「研究資料と提出資料を照合して、余計な情報が入っていないか確認して」
カナタが首をかしげる。
「レンは研究知識がないんだろ?」
「だからこそよ」
アリサが答える。
「専門外の人間が読んでも理解できる部分は、軍の担当者にも伝わる可能性が高い。説明しすぎている箇所を見つけてもらう」
「なるほど」
また一つ。
カナタの研究を、公式に確認する理由ができた。
軍へ何を渡す予定なのか。
どこまで隠すつもりなのか。
すべて把握できる。
「任せてくれ」
レンが答える。
「助かるわ」
アリサが安堵したように微笑む。
カナタの母親が、そのやり取りを眺めていた。
「アリサちゃん、いい人に出会ったわね」
「研究会の部員です」
「何も聞いていないのだけれど」
「顔に書いてあります」
「書いてないわ」
「お母さん、私には見える」
ミオが言う。
「見なくていいの」
アリサが即座に返す。
レンは茶を飲みながら、黙って笑っていた。
その内側で、必要な処理を並べ直す。
軍の視察まで1週間。
研究資料提出まで2週間。
第二実験室。
地下保管庫。
高瀬研究室。
カナタの自宅にある零号帳。
そして、榊家に保管された封書。
最後に、カナタ本人。
順番を間違えることはできない。
一つでも早く消せば、警戒される。
一つでも残せば、帰還できない可能性がある。
◇
神崎家を出る頃には、夜になっていた。
サヨから持たされた料理の包みを、レンが片手に持っている。
ミオは玄関から何度も手を振っていた。
「また来てね、レンさん!」
「ああ。次は週三回の一回目だな」
「本気にしないで!」
カナタが奥から叫ぶ。
扉が閉じる。
レンとアリサは、学院寮へ向かって歩き始めた。
「今日は晴れていてよかったわね」
アリサが言う。
「傘が一つしかなくても困らないし」
「昨日は困ってた?」
「あなたが端へ寄るからでしょう」
「近づいたら黙ったのはアリサだけどな」
「……あれは、急に近づいたからよ」
「もっとゆっくりならいい?」
「そういう意味ではないわ」
昨日と同じ反応。
だが、今日は逃げるように歩調を速めることはなかった。
二人の間には、肩一つ分の距離がある。
昨日の傘の下より遠い。
それでもアリサは、何度も横目でレンを見ていた。
「ミオの言ったことは忘れて」
アリサが不意に言う。
「ミオは、いろいろ言ってたけど」
「分かっているでしょう」
「恋人かって話?」
アリサの頬が再び赤くなる。
「そうよ」
「忘れたふりならできる」
「前にも聞いたわ、それ」
「忘れるとは言ってないからな」
「どうして覚えておく必要があるの?」
「嫌な話じゃなかった」
アリサが足を止めた。
レンも止まる。
街路の魔導灯が、二人の間を照らしている。
「それは、どういう意味?」
アリサが尋ねる。
先ほどまでより、真剣な声だった。
レンはすぐには答えなかった。
言葉を選ぶふりをする。
実際に選んでいた。
近づきすぎない。
否定もしない。
アリサ自身が、続きを考える余地を残す。
「アリサとそういうふうに見られるのが、嫌ではなかったという意味だ」
「それは……」
アリサが視線をそらす。
「随分、勝手な言い方ね」
「嫌だった?」
「私は、別に……」
答えは最後まで続かなかった。
レンも求めなかった。
再び歩き始める。
今度は、先ほどより少しだけ距離が近い。
「ただし」
アリサが言う。
「今は軍の視察が先よ」
「分かってる」
「研究会の仕事を疎かにしたら、仮登録を取り消すわ」
「恋人候補より、仮登録のほうが先なんだな」
「候補とは言っていないでしょう!」
アリサの声が、夜の通りへ響く。
前を歩いていた男性が、驚いて振り返った。
アリサは恥ずかしそうに口を閉じる。
レンは笑いをこらえながら歩いた。
彼女の関心は、既に単なる好奇心ではない。
信頼。
好意。
まだ名前をつける前の感情。
そして、アリサの手元には封書がある。
カナタが死んだとき、高瀬へ渡すための保険。
零号帳を処分し。
研究資料を消し。
試作品を壊し。
カナタを殺したとしても、アリサが封書を開けば仕事は終わらない。
次に必要なのは、彼女が預かっている封書の場所を知ること。
可能ならば、アリサ自身の手で差し出させる。
盗めば、気づかれる。
力ずくで奪えば、カナタへ伝わる。
だが、信頼する相手から頼まれれば、人は自分で鍵を開ける。
アリサがレンへ向け始めた感情は、もはや便利な道具というだけではない。
任務を終えるために、必要なものになっていた。
「明日は早く来て」
アリサが言う。
「軍向け資料の確認を始めるから」
「ああ」
「寝坊しないでよ」
「アリサが起こしに来るなら考える」
「寮へ女性は入れないわ」
「残念だ」
「何が残念なのよ」
レンは答えず、穏やかに笑った。
アリサは呆れたように息を吐く。
それでも、彼から離れようとはしなかった。
学院寮へ続く夜道を、二人は同じ歩幅で歩いていく。
アリサは知らない。
隣にいる青年が、カナタの部屋へ忍び込んだことを。
自分が預かっている封書の存在まで知られたことを。
そして、レンが向ける優しさの一つ一つが、彼女の持つ扉を開くために選ばれていることを。
知らないまま。
少しずつ。
アリサは、自分から鍵を差し出そうとしていた。




