傘を◯す
資料整理を始めて、二週間が経った。
最初の三日間、アリサはレンが書いた管理札を一枚ずつ確認していた。
四日目からは、十枚に一度。
一週間が過ぎた頃には、確認すること自体がなくなった。
レンが分類を間違えなかったからだ。
「次は乙四から乙九まで」
アリサが棚を見たまま言う。
返事の代わりに、背後で帳面を重ねる音がした。
振り返ると、指定した六冊が既に実験台へ並んでいる。
順番まで正しい。
「まだ何も渡していないけれど」
「次に使うと思ったから」
「そう」
以前なら、なぜ分かったのか尋ねていた。
今はもう聞かない。
代わりに、アリサは次の管理札をレンの手元へ置く。
レンも題名を確認せず、空いている欄へ文字を書き始めた。
昼になれば、レンが食堂から軽食を持ってくる。
アリサが珈琲を淹れる。
どちらが決めたわけでもない。
気づけば、それが毎日の流れになっていた。
資料の置き場所だけではない。
互いが次に何をしようとしているのかまで、言葉にせず分かる程度には長い時間だった。
帝都技術審査会へ提出する資料の締め切りまで、折り返し地点となった。
第二実験室の棚には、新たに貼られた管理札が整然と並んでいた。
【基礎理論・甲一】
【試作記録・乙一】
【測定結果・丙一】
散乱していた帳面は内容ごとに分類され、壁には保管場所を示す一覧表が掲示されている。
棚の右側には試作品。
左側には測定器。
破損した部品についても、廃棄前に番号が振られていた。
「すごいな……」
カナタが一覧表を眺めながら、感心したようにつぶやく。
「僕の研究室じゃないみたいだ」
「研究室よ」
アリサが訂正する。
「以前が物置だっただけで」
「必要なものは、全部置いてあったよ」
「必要なときに見つからなければ、ないのと同じでしょう」
「でも、今まで何とかなってた」
「私が探していたからよ」
カナタは反論できず、視線をそらした。
実験台の向こうでは、レンが新しい管理札へ文字を書き込んでいる。
カナタが試作品の改良を進めている間、資料の整理はほとんどレンとアリサの二人で行っていた。
研究知識はほとんどない。
本人はそう言っている。
それなのに、仕事は異様に早かった。
一度説明した分類方法を間違えない。
帳面の題名と目次を見ただけで、おおよその内容を判断する。
どこに何を置いたか、一度で覚える。
作業の途中で話しかけられても、手が止まらない。
何より、次に必要となる作業を指示される前に始めている。
アリサにとっては、非常に助かる人間だった。
だからこそ、気になる。
「アリサ」
カナタに声をかけられ、アリサは視線を動かした。
「何?」
「さっきからレンを見てるけど」
「作業の進み具合を確認しているの」
「それなら、一覧表を見たほうが分かりやすいんじゃない?」
「本人の働き方も、仮登録期間の評価対象よ」
「ふうん」
「何よ」
「別に」
カナタは口元へ笑みを浮かべ、実験台へ戻った。
何か言いたそうな顔だった。
アリサは追及しなかった。
追及すれば、面倒なことを言われる気がした。
再びレンを見る。
癖のある黒髪。
眠たげにも見える目。
目立つほど整った顔ではない。
少なくとも、最初に見たときはそう思っていた。
だが、こうして黙って作業している横顔を見ると、妙に目が離れなくなる。
若い顔をしているのに、落ち着き方が年齢に合っていない。
焦ることがない。
不測の事態が起きても、最初から対処法を知っていたように動く。
自分より年下のはずなのに、ときどき、ずっと年上の人間と話しているような感覚になる。
「アリサ」
今度はレンに呼ばれた。
アリサの肩が、わずかに揺れた。
「……何?」
「これ、地下保管庫の資料だよな」
レンが一冊の帳面を持ち上げている。
「そうね。昨日、高瀬先生が運んできたものよ」
「なら、こっちへ置くのは仮置きでいいか」
「ええ。地下の分類が終わったら戻すわ」
「分かった」
レンは特に気にした様子もなく、作業へ戻った。
アリサは小さく息を吐いた。
見ていたことを気づかれたわけではない。
それなのに、なぜか安心している自分が腹立たしかった。
「やっぱり見てたんじゃない?」
カナタが小声で言った。
「圧力調整弁を閉じるわよ」
「装置が壊れる!」
「なら、黙って作業しなさい」
「はい」
◇
午後。
レンとアリサは、研究棟の地下へ降りていた。
カナタは第二実験室に残り、破裂防止弁の改良を続けている。
地下へ続く階段は狭く、古い石造りだった。
壁に取りつけられた魔導灯が、弱い光を放っている。
地上より空気が冷たい。
湿気と古い紙の臭いが混じっていた。
「足元に気をつけて」
先を歩くアリサが言った。
「三段目の端が欠けているわ」
「分かった」
レンは欠けた部分を避ける。
地下の扉の前で、アリサが腰の鍵束を取り出した。
研究棟の鍵。
薬品庫の鍵。
非常口。
地下保管庫。
それぞれ形が違う。
アリサは迷うことなく一本を選び、扉へ差し込んだ。
重い金属音を立て、扉が開く。
内部には、天井まで届く書架が並んでいた。
学院で行われた研究の記録が、分野ごとに保管されている。
「カナタの資料は一番奥よ」
アリサが魔導灯を手に進む。
レンはそのあとを歩いた。
棚と棚の間は狭い。
二人が横に並ぶ余裕はない。
書架の下部には古い箱が積まれ、上段には長く触れられていない帳面が並んでいる。
アリサは一番奥の区画で足を止めた。
棚には、カナタの名前が記された木札が掛かっている。
「ここにあるもので全部か?」
「過去の実験記録については、全部のはずよ」
アリサが保管台帳を開く。
「初期研究帳が七冊。試作記録が九冊。測定結果が二十三冊。提出済みの論文が三部」
「思ったより多いな」
「カナタは九歳の頃から、学院の研究棟へ出入りしていたから」
「九歳?」
レンは驚いたように聞き返した。
もちろん、演技だった。
依頼書には、カナタが幼少期から異常な知識を示していた可能性が記載されている。
ただし、詳細まではなかった。
「正式な学生ではなかったけれど、高瀬先生が特別に面倒を見ていたの」
アリサは棚から最初の箱を下ろす。
「最初は、子供の遊びだと思われていたわ。でも、カナタが描いた回路を使ったら、既存の魔導灯の消費魔力が一割以上減った」
「九歳で?」
「そう」
「子供の遊びじゃないな」
「だから、高瀬先生が学院へ連れてきたのよ」
レンは箱を開けた。
中には、古い帳面が七冊入っている。
現在使われているものより小さい。
表紙には、幼い文字で神崎カナタと書かれていた。
レンは一冊目を開く。
簡単な絵。
間違いの多い計算。
魔導灯を分解した記録。
文字は子供のものだ。
だが、内容はそうではなかった。
この世界では、電気と魔力を組み合わせた機関が一般的に使われている。
魔力によって発電効率を高め、電気を動力や光へ変える。
しかし、カナタの初期記録には、魔力を補助として使わず、電気だけで装置を動かす方法が何度も検討されていた。
当時の技術水準から見れば、不自然な発想だった。
レンはページをめくる。
途中に、一枚だけ折り畳まれた紙が挟まっていた。
開く。
帳面よりも、さらに幼い文字。
そこには、短い文章が書かれていた。
――前の世界では、電気を使うのに魔石はいらなかった。
――電線も蓄電池も、もっと小さかった。
――何を使っていたのか、少しずつ思い出さないといけない。
その下には、見慣れない長方形の道具が描かれている。
片面のほとんどを黒い板が占め、下部には小さな穴。
横には、こう記されていた。
――スマートフォン。
レンは、紙の上に書かれた文字を見つめた。
意味は分かる。
だが、この世界の人間が知っているはずのない単語だった。
それを理解していることを、アリサに悟られてはいけない。
「……何だ、これ」
わざと眉を寄せ、レンは紙を少し傾けた。
「見たことのない言葉だな」
アリサが背後からのぞき込んだ。
肩が触れそうな距離。
「何を見つけたの?」
「この絵と、最後の文字だ。何かの道具らしいけど、読めない」
レンは紙を指先で示す。
「スマート……フォン?」
「読めるの?」
アリサの声に、わずかな疑問が混じった。
この世界の人間なら、見慣れない文字列を正確に音へ変換することは難しい。
だが、ここで動揺すれば余計に怪しまれる。
「文字の形が単純だから、そう読んだだけだ。合っているかは分からない」
「そう」
アリサは紙へ視線を戻した。
「私には、何と書いてあるのかも分からないわ」
「なら、カナタが作った言葉かもしれないな」
「そうね」
アリサは納得したようにうなずいた。
完全に疑問が消えたわけではない。
だが、レンが意味まで理解しているとは考えていないようだった。
レンは紙を隠さなかった。
急に閉じれば、かえって不自然になる。
「この文章も、カナタが書いたのかしら」
アリサが尋ねる。
「たぶん。前の世界とか、魔石がいらないとか……意味はよく分からないけど」
レンはあえて、理解していないふりをした。
アリサは紙を読む。
その表情から、驚きは見えなかった。
「知ってたのか?」
レンが尋ねる。
「これを見るのは初めてよ」
「でも、驚いてない」
アリサはしばらく黙った。
レンの隣へ立ち、古い帳面へ視線を落とす。
「カナタが八歳の頃、高い熱を出したことがあるの」
「それが?」
「三日間、意識が戻らなかった。医師からは、助からないかもしれないと言われていたわ」
アリサは静かに話し始めた。
「私は家が近かったから、毎日お見舞いに行っていた。三日目の夜、カナタは突然目を覚ました」
「それから変わった?」
「ええ」
アリサがうなずく。
「家族のことも、私のことも覚えていた。でも、それまで知らなかった言葉を話すようになった」
「どんな?」
「会社。携帯電話。自動車。飛行機。それに、日本という国」
どれも、この世界には存在しない言葉だった。
「最初は、熱で怖い夢を見たのだと思ったわ」
アリサは古い帳面を指先でなぞる。
「でも、カナタは言ったの。前の人生では二十九歳だった。電気を使う部品を作る仕事をしていたって」
「信じたのか?」
「八歳の子供が言うことよ。信じられると思う?」
「普通は無理だな」
「でしょうね」
アリサは少し寂しそうに笑った。
「大人たちは、熱で頭が混乱しているのだと言った。何度も否定されて、そのうちカナタも話さなくなった」
「アリサには?」
「私にも話さなくなったわ」
「それでも覚えてたんだな」
「忘れられるわけがないでしょう」
アリサの声には、幼なじみを案じる気持ちがにじんでいる。
カナタが自分の記憶を誰にも信じてもらえなかった頃。
彼女だけは、隣にいた。
信じることはできなくても、否定せずに聞いていた。
だから今も、カナタはアリサを信頼している。
「今はどう思ってる?」
レンが尋ねた。
「前世の話を信じてるのか?」
アリサはすぐには答えなかった。
帳面に残された、スマートフォンの絵を見つめる。
「分からない」
やがて、そう答えた。
「ただ、カナタの知識が普通ではないことは知っているわ。この世界のどこにも存在しないものを、あの子は昔から知っていた」
「なら、誰かに話そうと思わなかった?」
「話して、どうなるの?」
アリサの表情が硬くなる。
「研究者はカナタを調べたがる。軍なら、知識をすべて吐かせようとするかもしれない。宗教家なら、神の使いか悪魔だと言い出すでしょうね」
その可能性は高い。
異世界人だと知れれば、カナタは一人の学生ではいられなくなる。
「だから黙ってた?」
「私が知っているのは、熱に浮かされた子供が話した言葉だけ。それなら、わざわざ広める必要はないでしょう」
「カナタを守りたいんだな」
「幼なじみだから」
アリサは迷わず答えた。
だが、続けて少しだけ視線を落とす。
「それに、カナタは危なっかしいから。放っておいたら、研究以外のことを全部忘れるわ」
「それは数日で分かった」
「でしょう?」
二人が顔を見合わせる。
アリサが小さく笑った。
カナタが異世界人である証拠。
その記憶を知る人物。
カナタを守るために、秘密を隠している少女。
必要な情報は得られた。
アリサが知っているのは、カナタの過去だけ。
蓄電器を再現できるほどの技術は持っていない。
今の段階で、処分する対象ではなかった。
むしろ、利用価値はさらに高くなった。
カナタが誰にも話さないことを、アリサは知っている。
彼女の信頼を深めれば、カナタ本人から聞き出せない情報も手に入る。
「この紙はどうする?」
レンが尋ねる。
アリサは少し考えた。
「帳面へ戻しましょう」
「一覧には?」
「初期研究資料として記録して。内容までは書かなくていいわ」
「カナタの秘密だから?」
「ええ」
「分かった」
レンは折り畳まれた紙を元の場所へ戻した。
隠す必要はない。
処分するときに、場所が分かっていればいい。
「レン」
アリサが呼ぶ。
「何だ?」
「今の話は、誰にも言わないで」
「言わない」
「カナタにもよ」
「どうして?」
「昔のことを、勝手に話したと知ったら怒るでしょうから」
「それは怒るだろうな」
「……やっぱり話すべきではなかったかしら」
アリサの声に、わずかな後悔が混じる。
レンは彼女を見る。
「俺を信用したから話したんだろ?」
「それは……」
アリサが言葉に詰まる。
視線が一度だけレンから外れた。
「昨日会ったばかりの人間を、簡単に信用するなと言ったのはアリサだ」
「分かっているわ」
「なら、今のは忘れたことにする」
「そんな簡単に忘れられるの?」
「忘れたふりなら得意だ」
冗談めかした口調。
アリサはレンの顔を見つめた。
「あなたは、ときどき不思議な言い方をするのね」
「そうか?」
「ええ。十八歳とは思えないことを言う」
レンは笑った。
「苦労すると老けるらしい」
「見た目の話ではないわ」
「中身も老けるんだろ」
「そういうことにしておく」
アリサは完全には納得していなかった。
だが、それ以上は追及しない。
疑いというよりも、興味。
レンが何者なのか知りたい。
その程度の感情だった。
今なら、まだ問題ない。
むしろ、相手から関心を持たれることは利用できる。
ただし、アリサは鈍くない。
与える情報を誤れば、興味は疑念へ変わる。
距離の調整が必要だった。
「次の箱を下ろすわ」
アリサが書架の上段を見上げる。
目的の箱は、彼女が腕を伸ばしても届かない位置にあった。
棚の脇に立てかけられていた梯子を動かす。
「俺が取る」
「怪我人は下にいて」
「もうほとんど治ってる」
「包帯が外れるまでは怪我人よ」
「それ、アリサが外さない限り一生怪我人じゃないか?」
「傷が塞がれば外すわ」
「確認してみるか?」
レンが右腕の袖をまくろうとする。
アリサが止めた。
「こんな埃だらけの場所で包帯を外さないで」
「じゃあ、梯子に上る」
「話を聞いていた?」
アリサはレンを押しのけるようにして、先に梯子へ足をかけた。
一段。
二段。
上段の箱へ手を伸ばす。
指先が、箱の端へ触れた。
「あと少し……」
梯子の脚が、床に落ちていた紙片を踏んだ。
小さく滑る。
「アリサ!」
梯子が傾いた。
レンはすぐに片手で支えた。
もう一方の腕を伸ばし、落ちてきたアリサの身体を受け止める。
衝撃で、右腕の傷が痛んだ。
だが、手は離さなかった。
アリサの背中へ腕を回し、そのまま床へ降ろす。
一瞬。
二人の身体が、ほとんど隙間なく触れた。
アリサの顔が、レンのすぐ前にある。
灰青色の瞳が、大きく見開かれていた。
「怪我は?」
レンが尋ねる。
「……ないわ」
「足は?」
「大丈夫」
「ならよかった」
レンはアリサから腕を離した。
アリサは一歩下がる。
頬が、わずかに赤くなっている。
冷えた地下室では、暑さのせいにはできない。
「だから俺が取ると言ったんだ」
「怪我人に任せられないと思ったの」
「怪我人を増やしたら意味がないだろ」
「……そうね」
普段ならすぐに反論するアリサが、素直にうなずいた。
レンは梯子を立て直す。
今度は脚が滑らないことを確認し、自分で上る。
目的の箱を取り、床へ降りた。
アリサは、その様子を黙って見ている。
「どうした?」
「別に」
「また作業の進み具合を確認してる?」
アリサの表情が固まった。
「カナタから聞いたの?」
「何を?」
「……何でもないわ」
アリサはレンから箱を受け取り、逃げるように作業台へ向かった。
レンは追及しなかった。
視線。
声の間。
距離を取る動作。
アリサが自分を意識し始めている。
確信と呼べるほどではない。
だが、少なくとも、仮登録の部員としてだけ見てはいなかった。
利用できる。
そう判断するのは簡単だった。
◇
地下にある資料の確認は、閉門時刻ぎりぎりまで続いた。
初期研究帳、七冊。
試作記録、九冊。
測定結果、二十三冊。
提出済み論文、三部。
第二実験室と地下保管庫にある資料は、すべて一覧へ加えた。
だが、途中で一つの空欄が見つかった。
複数の帳面に、同じ記述があった。
――詳細は零号帳を参照。
その零号帳が、どこにもない。
「零号帳?」
アリサが一覧表を見る。
「台帳には記載されていないわね」
「カナタから聞いたことは?」
「名前はない。でも……」
アリサが考え込む。
「小さい頃から、黒い手帳を持っていたわ」
「黒い手帳?」
「ええ。研究を始める前から使っていたもの。カナタは誰にも見せなかった」
「今も持ってる?」
「学院で見たことはないわね。おそらく自宅に置いていると思う」
レンは帳面に残された記述を確認する。
基礎理論。
電極構造。
魔力と電気の変換効率。
重要な部分ほど、零号帳を参照するように記されている。
そこに、カナタの知識の核がある。
別の世界から持ち込んだ記憶。
今の研究を一から再現するための原理。
それを処分しない限り、カナタを殺しても仕事は終わらない可能性が高い。
「本人に聞いてみるか?」
レンが言う。
「見せてくれるとは思えないわ」
「アリサにも?」
「だから、誰にも見せないのよ」
「困ったな」
困ったように言いながら、レンは既に方法を考えていた。
カナタの自宅へ入る。
部屋の場所を確認する。
手帳の保管場所を探す。
必要なら盗む。
だが、カナタの家族に顔を知られていない人間が忍び込めば、不審者になる。
今の身分を危険にさらすべきではない。
「そういえば」
アリサが言った。
「明日、カナタの家へ行く予定があるわ」
レンは表情を変えなかった。
「何かあるのか?」
「以前の事故のことを、おば様へ報告したの」
「それ、カナタは知ってる?」
「知らないわ」
「怒るんじゃないか?」
「怒られるのはカナタよ」
「確かに」
「あなたがカナタを助けたことも話した。おば様が、直接お礼を言いたいそうよ」
アリサがレンを見る。
「明日の夕食に招待されているの。都合はどう?」
「行ける」
返事が少し早かった。
アリサの眉が動く。
レンは言葉を続けた。
「寮の食事より期待できそうだからな」
「食べ物につられたの?」
「命の恩人に豆の煮込みしか出さない息子より、母親へ期待することにした」
「おば様の料理はおいしいわ」
「なら決まりだ」
「明日の放課後、正門で待ち合わせましょう。私が案内する」
「カナタと三人で?」
「カナタには、先に帰ってもらうわ」
「どうして?」
「自分の事故について、家族へどう説明したのか確認する必要があるから」
「容赦ないな」
「当然よ」
カナタの家へ入る理由ができた。
家の構造を見られる。
家族構成も確認できる。
そして、零号帳を探す機会が得られる。
すべて、アリサが用意した道だった。
レンは一覧表の空欄へ、仮の項目を書き加える。
【基礎理論・零号】
保管場所――不明。
◇
研究棟を出ると、雨が降っていた。
夕方から降り始めたらしい。
中庭の石畳が濡れ、魔導灯の光を映している。
「傘は?」
アリサが尋ねる。
「持ってない」
「朝は晴れていたものね」
アリサは鞄から折り畳み式の傘を取り出した。
一人用。
二人で入るには、少し小さい。
「寮まで走るよ」
レンが言う。
「傷が開くでしょう」
「もう治ってる」
「さっき、私を受け止めたときに痛んだでしょう」
気づかれていた。
レンは右腕を見る。
包帯に、わずかに赤い色がにじんでいる。
「よく見てるな」
「怪我の原因に関わっているからよ」
「原因はカナタだろ」
「研究会長としての責任もあるわ」
アリサは傘を開いた。
「寮まで送る」
「アリサが濡れる」
「あなたが端へ寄らなければ、二人とも入れるわ」
「分かった」
二人は一つの傘へ入った。
肩が触れる。
アリサの身体が、わずかに硬くなった。
レンは気づかないふりをした。
中庭を歩く。
傘へ雨粒が当たり、一定の音を立てる。
レンは車道側を歩いた。
傘はアリサのほうへ傾ける。
自分の左肩が濡れているが、気にしなかった。
長く生きて身についた癖の一つだった。
「レン」
アリサが呼ぶ。
「何だ?」
「もっと中央へ入りなさい」
「十分入ってる」
「肩が濡れているわ」
「これくらい平気だ」
「私の傘なのだから、私の言うことを聞いて」
レンは少しだけアリサへ近づいた。
今度は腕まで触れる。
アリサが前を向いたまま黙る。
「これでいいか?」
「……ええ」
声が少し小さかった。
正門を出る。
大通りには、仕事を終えた人々と学生が行き交っている。
路面電車が水しぶきを上げて走っていった。
「レンは」
アリサが口を開く。
「本当に北部の農村で暮らしていたの?」
「何で?」
「資料の整理に慣れすぎているわ。それに、危険への反応も早い」
「農村の人間は資料整理をしないと思ってる?」
「そういう意味ではないわ」
「父が農機具の修理をしていた。部品と帳簿の管理を手伝っていたんだ」
数日前に調べた北部の産業と、既に作っていた父親の経歴。
矛盾はない。
「爆発に慣れていたのも?」
「父の工房で、小さな事故は何度かあった」
「そう」
アリサは納得したようにも、していないようにも見えた。
「まだ何か?」
レンが尋ねる。
「あなたは、ときどき同年代に見えない」
地下でも言われた言葉だった。
「顔が老けてる?」
「見た目ではないと言ったでしょう」
「じゃあ、中身が老けてる」
「それも、さっき聞いたわ」
「同じ質問なら、答えも同じになる」
「そうやって、いつも話をそらすのね」
アリサが横目でレンを見る。
責めてはいない。
むしろ、楽しんでいるような目だった。
「俺のことが気になる?」
レンが聞き返す。
アリサの足が、一瞬だけ止まりかけた。
「仮登録の部員について知るのは、会長として当然よ」
「まだ会長の仕事か」
「何が言いたいの?」
「別に」
「言いなさい」
「カナタみたいになるから、勝ち目のない戦いはしない」
「どういう意味?」
「十二年間負け続けたいなら教える」
アリサは少し考え、それからレンの右腕を軽く小突いた。
傷のある側だった。
「痛っ」
「嘘。そちらは怪我をしていないでしょう」
「ばれたか」
レンが笑う。
アリサも、つられるように笑った。
傘の下。
二人の距離は近いままだった。
アリサの視線には、確かに変化がある。
警戒だけではない。
関心。
好意と呼ぶには、まだ早い。
だが、その芽は生まれている。
人の感情は、鍵よりも扱いが難しい。
強く回せば壊れる。
急いで引けば、手を離される。
だから、レンからは何もしない。
アリサ自身が距離を縮めたと思えるようにする。
信頼を得るまで。
零号帳へたどり着くまで。
彼女の持つ鍵が、必要な扉をすべて開くまで。
「明日、正門で待っているわ」
学院寮の前へ着くと、アリサが言った。
「ああ」
「遅れないで」
「アリサより先に待ってるよ」
「それなら、私も早めに行くわ」
「何で張り合うんだ?」
「あなたが妙に余裕そうだからよ」
アリサは傘を閉じた。
離れた途端、雨音が急に大きくなる。
「おやすみ、レン」
「おやすみ、アリサ」
アリサは背を向け、雨の中を歩いていく。
十歩ほど進んだところで、一度だけ振り返った。
レンがまだ見送っていることに気づくと、わずかに目をそらす。
それから、今度こそ歩き去った。
レンはその背中が見えなくなるまで立っていた。
明日。
カナタの自宅。
基礎理論・零号。
転生者が前の世界から持ち込んだ、最初の記録。
それを見つければ、処分するべき資料の全体像が見えてくる。
残り2週間
時間は少ない。
だが、道は既に開き始めていた。
扉を開けているのが、誰なのか。
アリサだけが、まだ知らなかった。




