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今日も俺は異世界人を◯す  作者: あさきすと
〜学生研究者編〜
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4/71

豆を◯す

カナタを殺すだけなら、難しくない。


レンは食堂の向かい側に座る少年を眺めながら、そう判断していた。


二人の間には、湯気を立てる豆の煮込みと、黒パンが置かれている。


カナタの右手にはスプーン。


食卓の中央には、パンを切るための小さなナイフ。


周囲には大勢の学生がいる。


教師もいる。


警備員を呼ぶための鐘も、食堂の入口に設置されている。


それでも、殺せる。


カナタはレンを疑っていない。


右手を伸ばせばナイフへ届く。


先に椅子を蹴り、体勢を崩させる。


あとは一瞬だった。


騒ぎになる。


周囲の学生に取り押さえられる。


警備員が駆けつけ、手錠をかけられる。


それでも、カナタは死ぬ。


任務を完了したレンの足元には帰還の魔法陣が現れ、白い部屋へ戻る。


捕まろうが、牢へ入れられようが関係ない。


――本当に、カナタを殺すだけで終わるのなら。


「どうした?」


カナタがスプーンを止めた。


「さっきから、ずっと料理を見てるけど」


「命を助けた礼が、本当に豆の煮込みだったことに驚いてる」


「仕方ないだろ。昨日の件で、今月分の研究費を全部弁償に回されたんだ」


「昼飯代まで研究費から出してたのか?」


「研究中の食事だから、研究費でいいかと思って」


「よくないわ」


隣から声がした。


アリサが盆を持って立っている。


カナタが露骨に顔をしかめた。


「どうしてここにいるの?」


「学院の食堂を利用するのに、あなたの許可が必要?」


「いや、そうじゃないけど。ほかにも席は空いてるよ」


「昨日、あれだけの事故を起こした人間を一人にしたくないの」


アリサは当然のようにカナタの隣へ座った。


盆の上には紅茶と、小さな焼き菓子が一つだけ載っている。


「昼食、それだけ?」


カナタが尋ねる。


「午前中、学生会で軽食が出たの」


「その焼き菓子、一口もらっていい?」


「嫌よ」


「まだ何もしてないのに」


「昨日したでしょう」


「昨日の僕と今日の僕は――」


「別人なら、今日のあなたには昨日のあなたの弁償を払ってもらうわ」


カナタが黙った。


レンは黒パンをちぎり、煮込みへ浸した。


「勝てないなら、最初から挑まなければいいのに」


「いつか勝てるかもしれないだろ」


「何年くらい挑んでるんだ?」


「十二年」


「諦めろ」


「レンまでアリサの味方をするのか」


「勝ち目のない戦いはしない主義なんだ」


アリサがレンを見る。


「昨日、爆発しそうな装置へ飛び込んだ人の言葉とは思えないわね」


「勝ち目はあった」


「怪我をしたでしょう」


「これくらいなら勝ちだ」


レンの右腕には、まだ包帯が巻かれている。


傷は深くない。


数日もすれば塞がるだろう。


だが、昨日の身体は思ったより動かなかった。


防火布をつかむ瞬間。


床へ踏み込む力。


装置へ布をかぶせる速度。


どれも、前の世界にいたときより遅い。


記憶では間に合っていても、身体がついてこない。


十八歳へ戻ったばかりの肉体は、まだ戦うために出来上がっていなかった。


それでも、目の前のカナタ一人を不意打ちで殺す程度なら問題ない。


「包帯、あとで替えるわよ」


アリサが言った。


「自分でできる」


「片手では、きつく巻けないでしょう」


「カナタに頼む」


「やめたほうがいいわ」


「どうして?」


「研究以外のことを任せると、大抵ひどい結果になるから」


「失礼だな。包帯くらい巻けるよ」


「以前、自分の指へ巻こうとして、反対の手まで一緒に巻いたでしょう」


「血が止まれば問題ない」


「何もできなくなっていたじゃない」


「二人は本当に仲がいいな」


レンが言う。


アリサとカナタが、そろって嫌そうな顔をした。


反応まで同じだった。


レンは煮込みを口へ運ぶ。


その間も、食卓のナイフは視界の端にあった。


今なら殺せる。


その考えに迷いはない。


カナタが善人であることも。


命を助けた礼に、乏しい小遣いから昼食をおごっていることも。


関係なかった。


昨日、カナタが異世界の知識を持っていることは確認できた。


新型蓄電器の性能も、依頼書に記されていた予測と一致している。


だが、依頼書に書かれていたのは、カナタが異世界人だと断定する情報ではない。


そこに記されていたのは、異世界人である可能性が高く、世界の流れを変えるかもしれない人物の特徴だった。


カナタが本当に異世界人なのか。


この世界の人間なのか。


あるいは、偶然にも異世界の技術へたどり着いた天才なのか。


依頼書だけでは、そこまで判断できない。


レンが確かめなければならない。


この少年が、何者なのかを。


この世界の蓄電器は、電気を一時的に蓄えるための容器にすぎない。


容量は小さく、充電には時間がかかり、何度か使えば性能が落ちる。


大型の装置を動かすには、発電機を直接つなぐしかない。


街灯も、工房の機械も、軍の通信機も、電力を必要とする場所には常に燃料と発電設備が必要だった。


カナタが作ろうとしているのは、その前提を変えるものだ。


同じ大きさの蓄電器へ、従来の十二倍の電力を蓄える。


しかも、短時間で充電でき、数千回の使用に耐え、持ち運べる。


理論だけなら、レンにも理解できる。


電極の構造。


電解質の組成。


充電時に発生する熱と圧力の逃がし方。


未知の素材や、魔力を利用した細部までは分からない。


だが、カナタが組み上げた理論の骨格は、レンが過去の世界で見てきた技術と比べても異常だった。


この世界の研究者が十年かけても届かなかった領域へ、カナタは一人で到達している。


しかも、まだ十七歳だ。


「十二倍」という数字も、夢物語ではない。


昨日の実験で、すでに六・四倍まで実証している。


安全装置が未完成だっただけで、原理そのものは成立していた。


レンは、蓄電器そのものに詳しいわけではない。


だが、電気を蓄える技術が社会をどう変えるかは知っている。


小型の動力。


長距離通信。


夜間照明。


輸送機関。


兵器。


発電所から離れた場所でも、電力を使えるようになる。


この世界の産業と軍事の速度を、一世代どころか数世代分、前へ進める可能性がある。


カナタは、ただ便利な道具を作っているのではない。


世界の電力事情そのものを変えようとしている。


だから、すぐには殺せない。


レンの仕事は、対象の心臓を止めることではない。


異世界人が持ち込んだ影響を、この世界から切り離すことだった。


女神の依頼書には、異世界人だと疑わしい人物の名前と、その人物が世界へ及ぼすかもしれない影響が記されている。


だが、帰還の条件を決めるのは名前ではない。


対象が死亡したあとも、異世界由来の知識や技術が残り、それがこの世界の歴史を変え続ける状態にあるなら、任務は終わったと判定されない。


そもそも、対象が本当に異世界人であるかどうかも、依頼書だけでは確定していない。


魔法陣も現れない。


神は世界へ直接干渉できない。


そのため、何を処分すれば影響が消えるのか、正確な答えをレンへ教えることもできなかった。


対象が残した資料。


試作品。


技術を教えた相手。


別の土地へ送られた手紙。


誰かの記憶に残った、たった一つの発想。


それらを調べ、異世界人が死んだあとに技術が自力で広がる可能性を潰す。


今回のカナタは、本人の影響力が高いタイプではない。


王でもなければ、軍の指導者でもない。


今のところ、彼の名前を知る者も少ない。


だが、彼が残そうとしているものの影響力が高い。


カナタが死んでも、理論と設計図が残れば、誰かが続きを作れる。


試作品が一つでも外へ出れば、別の研究者が改良できる。


審査会で発表されれば、企業や軍が技術を買い取り、学院の外へ持ち出す。


その段階まで進めば、カナタ本人を殺しても意味がない。


むしろ、発表前の今だからこそ、殺すべきではなかった。


カナタが死ねば、研究室は捜査対象になる。


警察や学院関係者が資料を回収する。


蓄電技術は殺人事件の証拠として保存され、レンは牢の中で、どこに何が運ばれたのかさえ分からなくなる。


カナタが異世界人ではない可能性も、まだ捨てきれない。


依頼書が示すのは、異世界人だと疑わしい人物の存在だけだ。


異世界人本人が知識を持ち込んだのか。


この世界の人間が、どこかで異世界の知識を受け取ったのか。


あるいは、カナタが前世の記憶を持つだけで、本人は自分を異世界人だと認識していないのか。


女神はそこまで教えない。


レンが判断しなければならない。


カナタの知識がどこから来たのか。


誰へ渡ったのか。


どこまで広がっているのか。


そして、どこまで消せば世界の流れが元へ戻るのか。


「カナタ」


レンは食卓のナイフから視線を外した。


「昨日の実験で壊れたのは、試作品だけか?」


「うん。測定器の一部も壊れたけど、研究記録は無事だよ」


「せっかくの研究が、全部消えたのかと思った」


「そんな危険な保管方法はしてないわ」


アリサが紅茶を飲みながら答えた。


「カナタは物の管理が苦手だから、記録については私が見ているの」


「僕だって管理くらいできる」


「では、三日前に使った測定記録はどこ?」


「研究室の机」


「なかったわ」


「自宅かな」


「昨日、あなたのお母様に確認したけれど、なかったそうよ」


「……じゃあ、どこだろう」


「私が保管庫へ戻したの。あなたが床に落としたままにしていたから」


「ほら。ちゃんと見つかった」


「私が見つけたのよ」


やはり、アリサが管理している。


レンは黒パンの残りを口へ入れた。


「研究記録は、全部研究棟にあるのか?」


質問しながら、煮込みへ視線を落とす。


興味はある。


だが、深く詮索しているようには聞こえない程度の口調。


「原本は第二実験室」


カナタが答える。


「過去の実験記録は、研究棟地下の資料保管庫。設計図の一部は高瀬先生が持ってる」


「カナタ」


アリサが止める。


「何でも話しすぎよ」


「レンは今日から研究会へ仮登録するんだろ? いずれ知ることだよ」


「仮登録だからこそ、話す範囲を考えなさい」


「分かったよ」


カナタは不満そうに煮込みを食べた。


原本。


地下保管庫。


高瀬という教師。


少なくとも三か所。


まだ足りない。


「そういえば、昨日の帳面に十二倍って書いてあったけど」


レンはカナタへ尋ねる。


「本当に、今ある蓄電器の十二倍も電気を入れられるのか?」


「理論上はね。昨日は六・四倍まで確認できた」


「十分すごそうだけど」


「足りないよ」


カナタは即答した。


「六倍だと、まだ製造費が高すぎる。十倍を越えれば、用途が一気に広がるんだ」


「具体的には?」


レンが尋ねると、カナタは待っていたように身を乗り出した。


「まず、工房の動力源を小型化できる。今の工房用魔導機関は、発電設備と一体になっているから、設置場所が限られる。でも、この蓄電器が実用化すれば、充電したものを運んで使える」


「運べる発電所、ということ?」


「近いね。街灯も、遠隔地の通信機も、鉱山の掘削機も、いちいち燃料を運ばなくてよくなる。将来的には、馬車や船の動力だって変えられるかもしれない」


カナタの目が輝いている。


「電気を作る場所と、使う場所を分けられるんだ。今まで動かせなかったものが動く。夜でも工房を止めなくていい。辺境の村にも、都市と同じ設備を置ける」


「軍なら、もっと別の使い方を考えるでしょうね」


アリサが言った。


カナタの表情が曇る。


「だから、軍には渡したくない」


「でも、技術は隠しきれないわ」


「隠すんじゃない。使い方を決めるんだ」


「その決定権を持つのは、あなた一人ではないでしょう」


カナタは黙った。


レンは彼の横顔を観察した。


技術の価値を理解している。


だが、広めたあとの影響までは制御できていない。


「焦って爆発させたら、用途も何もないでしょう」


アリサが言う。


「だから次は、圧力を逃がす構造を追加する」


「安全審査が先よ」


「分かってる」


「今の間は何?」


「反省の間」


「本当に?」


「半分くらい」


アリサが無言でカナタの焼き菓子へ手を伸ばした。


「待って。それは僕のじゃないけど、僕が食べようと思ってた」


「私のよ」


「一口くらい」


「嫌」


レンは二人のやり取りを眺めながら、別のことを考えていた。


カナタは技術を隠そうとしていない。


質問されれば、簡単に答える。


本人は善意で広めようとしている。


放置する時間が長いほど、処分するべきものが増える。


慎重に調べる必要はある。


だが、時間をかけすぎることもできなかった。


レンは、未知の技術を理解できないわけではない。


過去の世界で見た知識なら、かなりの範囲を知っている。


電気工学。


機械工学。


化学。


医学。


情報処理。


建築。


軍事技術。


専門家ほど深くはない。


だが、複数の分野がどうつながり、どの技術が社会を変えるのかは分かる。


この世界の研究者が知らない概念を、レンは知っている。


ただし、知っていることと、作れることは別だった。


材料がない。


設備がない。


精度が足りない。


理論を説明できても、実物を作る技術がなければ意味がない。


だからこそ、カナタの研究は危険だった。


レンが知識として持っているだけのものを、カナタはこの世界の材料と設備で形にしている。


しかも、レンの知る技術をそのまま再現しているわけではない。


魔力を利用した独自の構造。


この世界にしかない素材。


既存の魔導機関との接続。


カナタは、異世界の知識を持ち込んだだけではない。


この世界に合わせて組み替え、誰も到達していない答えへ変えている。


それが、カナタの本当の異常性だった。


          ◇


放課後。


レンは第二実験室で、安全講習を受けていた。


教壇の前にはアリサ。


レンとカナタは、並んで椅子へ座っている。


「最初に、研究棟における基本規則を説明します」


アリサは黒板へ大きく三つの項目を書いた。


一、許可のない実験を行わない。


二、実験中は必ず二名以上で確認する。


三、異常が発生した場合、直ちに装置を停止する。


書き終えると、アリサは振り返った。


その視線は、レンではなくカナタへ向いている。


「今のところ、誰かさんが昨日すべて破った規則よ」


「僕への反省会なら、レンを呼ばなくてもよかったんじゃない?」


「新入部員には、実例を交えて説明したほうが分かりやすいでしょう」


「悪い例として紹介されてる……」


「これ以上分かりやすい例はないわ」


レンは机に置かれた講習資料へ目を落とした。


研究棟の見取り図。


緊急時の避難経路。


消火器具の位置。


薬品保管庫。


地下資料室。


必要な情報が、向こうから並べられている。


「質問は?」


一通りの説明を終え、アリサが尋ねた。


レンは手を上げる。


「火が出たら、全部に水をかければいい?」


「駄目よ。薬品や電気が原因の場合、水をかけることで被害が広がる可能性があるわ」


アリサは資料の一頁を開く。


「赤い印の消火器は一般火災用。青は電気設備。黄色は薬品。それぞれ使い分けて」


「昨日使った防火布は?」


「小規模な破裂や飛散物を防ぐものよ。本来は、装置へかぶせる前に使用するの」


「破裂してから使うものじゃないんだな」


「当たり前でしょう」


「勉強になった」


「レン。君、本当に研究経験ないの?」


カナタが横から尋ねた。


「ない」


「昨日は迷いなく防火布を使ってたけど」


「壁に大きく『防火用』と書いてあった」


「そういう理由?」


カナタは納得しきれない顔をしている。


アリサも同じだった。


余計な能力を見せすぎた。


反応したのは失敗ではない。


カナタが死ねば、情報の所在を確認できなくなる。


助ける必要はあった。


だが、危機への慣れを見せれば、レンの架空の経歴に疑問を持たれる。


「まあいい。次は設備の説明ね」


アリサが実験台の前へ移動する。


レンは席を立ち、そのあとを追った。


破裂した装置は既に撤去されている。


壊れた実験台も交換され、新しい計器が並んでいた。


カナタの研究帳面は、机の端に積み重ねられている。


全部で七冊。


棚には、同じ形式の帳面がさらに十冊以上あった。


それだけではない。


壁には大きな設計図。


引き出しには小型部品。


奥の棚には、番号を振られた試作品が並んでいる。


カナタ一人を殺して終わる段階ではなかった。


「榊。講習中か?」


実験室の入口から、男の声がした。


白衣を着た、四十代ほどの男が立っている。


髪は乱れ、眼鏡の片方には小さなひびが入っていた。


両腕へ何冊もの書類を抱えている。


「高瀬先生」


アリサが姿勢を正す。


「レン・クロードの安全講習を行っています」


「昨日、カナタを助けたという編入生か」


男――高瀬がレンを見る。


「はい。レンです」


「高瀬だ。応用科学研究会の顧問をしている」


高瀬は書類を実験台へ置いた。


一番上には、帝都技術院の紋章が印刷されている。


「ちょうどいい。君にも礼を言っておこう。カナタを助けてくれてありがとう」


「近くにいただけです」


「それでも、君がいなければ大事故になっていた。研究者の命は、研究成果よりも重い」


高瀬はカナタを見る。


「聞いているか?」


「聞いてます」


「昨日の事故については、あとで報告書を提出するように」


「はい……」


「それと、悪い知らせばかりではない」


高瀬は一番上の書類をカナタへ差し出した。


「帝都技術審査会から、正式に参加許可が出た」


カナタが書類を受け取る。


表情が一気に明るくなった。


「本当ですか?」


「ああ。1カ月後の審査会で、新型蓄電器を発表できる」


「やった……!」


カナタが椅子から立ち上がる。


「アリサ、これで企業から協力を得られるかもしれない!」


「完成すれば、でしょう」


アリサは冷静に答えた。


それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいる。


「昨日のような事故を起こした装置は、発表できないわ」


「分かってる。1カ月あれば改良できる」


「本当に?」


「そんだけあれば十分だ」


「昨日も、十分に安全だと思って動かしたのでしょう」


「今度は本当に大丈夫」


「その言葉が最も信用できないの」


二人の言い合いを、高瀬が笑いながら眺めている。


「今回は大きな審査会だ。帝都の主要企業だけではなく、軍の技術部も参加する」


「軍……」


カナタの笑顔がわずかに曇った。


「僕は、この技術を兵器に使うつもりはありません」


「分かっている。だが、研究資金を得るには、相手を選んでばかりもいられん」


「軍用になる可能性があるなら、発表内容を制限します」


「その判断も含めて、しっかり考えよう」


高瀬はカナタの肩をたたく。


「まずは試作品を完成させることだ」


「はい」


高瀬が実験室を出ていく。


レンは残された書類へ目を向けた。


帝都技術審査会。


1カ月後に発表。その直前に審査会があるので実質1ヶ月弱


そこまで進めば、技術は学院の外へ出る。


企業。


帝都技術院。


軍。


一度広まれば、すべてを回収することは困難になる。


残された時間は、想像していたより短い。


「よし。今日から改良を始めよう」


カナタが袖をまくる。


「講習が終わってからよ」


アリサが止める。


「あと、昨日の事故で資料の一部が散乱したでしょう。先に整理しなければ、何がどこにあるのか分からないわ」


「場所は大体覚えてるよ」


「三日前の測定記録も忘れていた人が?」


「大体は」


「大体では困るの」


レンは棚に並ぶ帳面を見る。


これは使える。


「資料の一覧を作ったらどうだ?」


レンが言う。


「一覧?」


「どの記録が、どこに保管されているか。誰が写しを持っているか。試作品が何個あるか。全部、番号をつけて管理する」


アリサが考え込む。


「確かに、必要ね」


「審査会へ出すなら、今より資料が増えるんだろ?」


「ええ」


「だったら、今のうちに整理したほうがいい。俺は研究の内容が分からないから、勝手に書き換える心配もない」


「なるほど」


アリサは棚と机を見渡した。


「第三者の視点で分類してもらうのは、悪くないかもしれないわね」


「待って」


カナタが二人の間へ入る。


「どうしてレンが入った途端、僕の研究会で資料整理が始まるの?」


「あなたが整理しないからよ」


「どこに何があるかは分かってる」


「三日前の記録」


「それはもういいだろ」


「では、昨日使った圧力計の説明書は?」


カナタが動きを止めた。


「……実験台の引き出し?」


「薬品棚の上にあったわ」


「どうして?」


「私が聞いているのよ」


カナタが黙る。


アリサはレンへ向き直った。


「資料整理をお願いするわ。もちろん、私も一緒に確認する」


「分かった」


「研究の機密に関わるものもあるから、私の許可なく持ち出さないこと」


「約束する」


「地下保管庫へ入るときも、必ず私か高瀬先生が同行するわ」


「それでいい」


望んでいた以上の結果だった。


カナタの資料。


試作品。


写しを持つ人間。


保管場所。


それらを調べる権限を、アリサ自身がレンへ与えた。


昨日の事故を利用し。


カナタのだらしなさを利用し。


アリサの責任感を利用した。


無理に鍵を盗む必要はない。


彼女に扉を開けさせればいい。


「まずは、この部屋にある資料から始めましょう」


アリサが言う。


「カナタは試作品の破損原因を確認して」


「僕も整理を手伝うよ」


「あなたが触ると、場所が変わるでしょう」


「僕の資料なのに」


「だからこうなったのよ」


「レン。研究会へ入って二日目で、僕の味方じゃなくなってない?」


「勝ち目のない戦いはしない主義なんだ」


「昼にも聞いたよ、それ」


レンは棚から最初の帳面を取り出した。


表紙には番号がない。


作成日も書かれていない。


中を開く。


初期の試作記録。


失敗した素材。


次に試す予定の構造。


カナタの知識が、文字となって並んでいる。


これが一冊目。


残りが何冊あるのかは、まだ分からない。


どこまで写しが作られているのかも。


誰が内容を理解しているのかも。


発表前に調べる。


処分するべきものを見つける。


消す順番を決める。


逃げ道を用意する。


そして最後に、カナタを殺す。


その瞬間だけなら、数秒で終わるだろう。


だからこそ、最後まで取っておく。


簡単な仕事を先に済ませれば、難しい仕事だけが残る。


捕まることは怖くない。


死ぬことも、今さら恐れてはいない。


だが、仕事を残して動けなくなるのは御免だった。


「これは、何番にする?」


レンは帳面を持ち上げた。


「一番でいいんじゃない?」


カナタが答える。


「適当ね」


アリサが呆れる。


「最初に手に取ったんだから、一番でいいだろ?」


「分類ごとに記号を分けるべきよ。基礎理論なら甲、試作記録なら乙、測定結果なら丙――」


「細かすぎるよ」


「あとで探せなくなるよりいいでしょう」


二人が再び言い合いを始める。


レンは黙って帳面を閉じた。


その表紙へ、アリサが用意した新しい管理札を貼る。


【試作記録・第一号】


処分対象、一つ目。


その意味を知る者は、レン以外にいなかった。

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