豆を◯す
カナタを殺すだけなら、難しくない。
レンは食堂の向かい側に座る少年を眺めながら、そう判断していた。
二人の間には、湯気を立てる豆の煮込みと、黒パンが置かれている。
カナタの右手にはスプーン。
食卓の中央には、パンを切るための小さなナイフ。
周囲には大勢の学生がいる。
教師もいる。
警備員を呼ぶための鐘も、食堂の入口に設置されている。
それでも、殺せる。
カナタはレンを疑っていない。
右手を伸ばせばナイフへ届く。
先に椅子を蹴り、体勢を崩させる。
あとは一瞬だった。
騒ぎになる。
周囲の学生に取り押さえられる。
警備員が駆けつけ、手錠をかけられる。
それでも、カナタは死ぬ。
任務を完了したレンの足元には帰還の魔法陣が現れ、白い部屋へ戻る。
捕まろうが、牢へ入れられようが関係ない。
――本当に、カナタを殺すだけで終わるのなら。
「どうした?」
カナタがスプーンを止めた。
「さっきから、ずっと料理を見てるけど」
「命を助けた礼が、本当に豆の煮込みだったことに驚いてる」
「仕方ないだろ。昨日の件で、今月分の研究費を全部弁償に回されたんだ」
「昼飯代まで研究費から出してたのか?」
「研究中の食事だから、研究費でいいかと思って」
「よくないわ」
隣から声がした。
アリサが盆を持って立っている。
カナタが露骨に顔をしかめた。
「どうしてここにいるの?」
「学院の食堂を利用するのに、あなたの許可が必要?」
「いや、そうじゃないけど。ほかにも席は空いてるよ」
「昨日、あれだけの事故を起こした人間を一人にしたくないの」
アリサは当然のようにカナタの隣へ座った。
盆の上には紅茶と、小さな焼き菓子が一つだけ載っている。
「昼食、それだけ?」
カナタが尋ねる。
「午前中、学生会で軽食が出たの」
「その焼き菓子、一口もらっていい?」
「嫌よ」
「まだ何もしてないのに」
「昨日したでしょう」
「昨日の僕と今日の僕は――」
「別人なら、今日のあなたには昨日のあなたの弁償を払ってもらうわ」
カナタが黙った。
レンは黒パンをちぎり、煮込みへ浸した。
「勝てないなら、最初から挑まなければいいのに」
「いつか勝てるかもしれないだろ」
「何年くらい挑んでるんだ?」
「十二年」
「諦めろ」
「レンまでアリサの味方をするのか」
「勝ち目のない戦いはしない主義なんだ」
アリサがレンを見る。
「昨日、爆発しそうな装置へ飛び込んだ人の言葉とは思えないわね」
「勝ち目はあった」
「怪我をしたでしょう」
「これくらいなら勝ちだ」
レンの右腕には、まだ包帯が巻かれている。
傷は深くない。
数日もすれば塞がるだろう。
だが、昨日の身体は思ったより動かなかった。
防火布をつかむ瞬間。
床へ踏み込む力。
装置へ布をかぶせる速度。
どれも、前の世界にいたときより遅い。
記憶では間に合っていても、身体がついてこない。
十八歳へ戻ったばかりの肉体は、まだ戦うために出来上がっていなかった。
それでも、目の前のカナタ一人を不意打ちで殺す程度なら問題ない。
「包帯、あとで替えるわよ」
アリサが言った。
「自分でできる」
「片手では、きつく巻けないでしょう」
「カナタに頼む」
「やめたほうがいいわ」
「どうして?」
「研究以外のことを任せると、大抵ひどい結果になるから」
「失礼だな。包帯くらい巻けるよ」
「以前、自分の指へ巻こうとして、反対の手まで一緒に巻いたでしょう」
「血が止まれば問題ない」
「何もできなくなっていたじゃない」
「二人は本当に仲がいいな」
レンが言う。
アリサとカナタが、そろって嫌そうな顔をした。
反応まで同じだった。
レンは煮込みを口へ運ぶ。
その間も、食卓のナイフは視界の端にあった。
今なら殺せる。
その考えに迷いはない。
カナタが善人であることも。
命を助けた礼に、乏しい小遣いから昼食をおごっていることも。
関係なかった。
昨日、カナタが異世界の知識を持っていることは確認できた。
新型蓄電器の性能も、依頼書に記されていた予測と一致している。
だが、依頼書に書かれていたのは、カナタが異世界人だと断定する情報ではない。
そこに記されていたのは、異世界人である可能性が高く、世界の流れを変えるかもしれない人物の特徴だった。
カナタが本当に異世界人なのか。
この世界の人間なのか。
あるいは、偶然にも異世界の技術へたどり着いた天才なのか。
依頼書だけでは、そこまで判断できない。
レンが確かめなければならない。
この少年が、何者なのかを。
この世界の蓄電器は、電気を一時的に蓄えるための容器にすぎない。
容量は小さく、充電には時間がかかり、何度か使えば性能が落ちる。
大型の装置を動かすには、発電機を直接つなぐしかない。
街灯も、工房の機械も、軍の通信機も、電力を必要とする場所には常に燃料と発電設備が必要だった。
カナタが作ろうとしているのは、その前提を変えるものだ。
同じ大きさの蓄電器へ、従来の十二倍の電力を蓄える。
しかも、短時間で充電でき、数千回の使用に耐え、持ち運べる。
理論だけなら、レンにも理解できる。
電極の構造。
電解質の組成。
充電時に発生する熱と圧力の逃がし方。
未知の素材や、魔力を利用した細部までは分からない。
だが、カナタが組み上げた理論の骨格は、レンが過去の世界で見てきた技術と比べても異常だった。
この世界の研究者が十年かけても届かなかった領域へ、カナタは一人で到達している。
しかも、まだ十七歳だ。
「十二倍」という数字も、夢物語ではない。
昨日の実験で、すでに六・四倍まで実証している。
安全装置が未完成だっただけで、原理そのものは成立していた。
レンは、蓄電器そのものに詳しいわけではない。
だが、電気を蓄える技術が社会をどう変えるかは知っている。
小型の動力。
長距離通信。
夜間照明。
輸送機関。
兵器。
発電所から離れた場所でも、電力を使えるようになる。
この世界の産業と軍事の速度を、一世代どころか数世代分、前へ進める可能性がある。
カナタは、ただ便利な道具を作っているのではない。
世界の電力事情そのものを変えようとしている。
だから、すぐには殺せない。
レンの仕事は、対象の心臓を止めることではない。
異世界人が持ち込んだ影響を、この世界から切り離すことだった。
女神の依頼書には、異世界人だと疑わしい人物の名前と、その人物が世界へ及ぼすかもしれない影響が記されている。
だが、帰還の条件を決めるのは名前ではない。
対象が死亡したあとも、異世界由来の知識や技術が残り、それがこの世界の歴史を変え続ける状態にあるなら、任務は終わったと判定されない。
そもそも、対象が本当に異世界人であるかどうかも、依頼書だけでは確定していない。
魔法陣も現れない。
神は世界へ直接干渉できない。
そのため、何を処分すれば影響が消えるのか、正確な答えをレンへ教えることもできなかった。
対象が残した資料。
試作品。
技術を教えた相手。
別の土地へ送られた手紙。
誰かの記憶に残った、たった一つの発想。
それらを調べ、異世界人が死んだあとに技術が自力で広がる可能性を潰す。
今回のカナタは、本人の影響力が高いタイプではない。
王でもなければ、軍の指導者でもない。
今のところ、彼の名前を知る者も少ない。
だが、彼が残そうとしているものの影響力が高い。
カナタが死んでも、理論と設計図が残れば、誰かが続きを作れる。
試作品が一つでも外へ出れば、別の研究者が改良できる。
審査会で発表されれば、企業や軍が技術を買い取り、学院の外へ持ち出す。
その段階まで進めば、カナタ本人を殺しても意味がない。
むしろ、発表前の今だからこそ、殺すべきではなかった。
カナタが死ねば、研究室は捜査対象になる。
警察や学院関係者が資料を回収する。
蓄電技術は殺人事件の証拠として保存され、レンは牢の中で、どこに何が運ばれたのかさえ分からなくなる。
カナタが異世界人ではない可能性も、まだ捨てきれない。
依頼書が示すのは、異世界人だと疑わしい人物の存在だけだ。
異世界人本人が知識を持ち込んだのか。
この世界の人間が、どこかで異世界の知識を受け取ったのか。
あるいは、カナタが前世の記憶を持つだけで、本人は自分を異世界人だと認識していないのか。
女神はそこまで教えない。
レンが判断しなければならない。
カナタの知識がどこから来たのか。
誰へ渡ったのか。
どこまで広がっているのか。
そして、どこまで消せば世界の流れが元へ戻るのか。
「カナタ」
レンは食卓のナイフから視線を外した。
「昨日の実験で壊れたのは、試作品だけか?」
「うん。測定器の一部も壊れたけど、研究記録は無事だよ」
「せっかくの研究が、全部消えたのかと思った」
「そんな危険な保管方法はしてないわ」
アリサが紅茶を飲みながら答えた。
「カナタは物の管理が苦手だから、記録については私が見ているの」
「僕だって管理くらいできる」
「では、三日前に使った測定記録はどこ?」
「研究室の机」
「なかったわ」
「自宅かな」
「昨日、あなたのお母様に確認したけれど、なかったそうよ」
「……じゃあ、どこだろう」
「私が保管庫へ戻したの。あなたが床に落としたままにしていたから」
「ほら。ちゃんと見つかった」
「私が見つけたのよ」
やはり、アリサが管理している。
レンは黒パンの残りを口へ入れた。
「研究記録は、全部研究棟にあるのか?」
質問しながら、煮込みへ視線を落とす。
興味はある。
だが、深く詮索しているようには聞こえない程度の口調。
「原本は第二実験室」
カナタが答える。
「過去の実験記録は、研究棟地下の資料保管庫。設計図の一部は高瀬先生が持ってる」
「カナタ」
アリサが止める。
「何でも話しすぎよ」
「レンは今日から研究会へ仮登録するんだろ? いずれ知ることだよ」
「仮登録だからこそ、話す範囲を考えなさい」
「分かったよ」
カナタは不満そうに煮込みを食べた。
原本。
地下保管庫。
高瀬という教師。
少なくとも三か所。
まだ足りない。
「そういえば、昨日の帳面に十二倍って書いてあったけど」
レンはカナタへ尋ねる。
「本当に、今ある蓄電器の十二倍も電気を入れられるのか?」
「理論上はね。昨日は六・四倍まで確認できた」
「十分すごそうだけど」
「足りないよ」
カナタは即答した。
「六倍だと、まだ製造費が高すぎる。十倍を越えれば、用途が一気に広がるんだ」
「具体的には?」
レンが尋ねると、カナタは待っていたように身を乗り出した。
「まず、工房の動力源を小型化できる。今の工房用魔導機関は、発電設備と一体になっているから、設置場所が限られる。でも、この蓄電器が実用化すれば、充電したものを運んで使える」
「運べる発電所、ということ?」
「近いね。街灯も、遠隔地の通信機も、鉱山の掘削機も、いちいち燃料を運ばなくてよくなる。将来的には、馬車や船の動力だって変えられるかもしれない」
カナタの目が輝いている。
「電気を作る場所と、使う場所を分けられるんだ。今まで動かせなかったものが動く。夜でも工房を止めなくていい。辺境の村にも、都市と同じ設備を置ける」
「軍なら、もっと別の使い方を考えるでしょうね」
アリサが言った。
カナタの表情が曇る。
「だから、軍には渡したくない」
「でも、技術は隠しきれないわ」
「隠すんじゃない。使い方を決めるんだ」
「その決定権を持つのは、あなた一人ではないでしょう」
カナタは黙った。
レンは彼の横顔を観察した。
技術の価値を理解している。
だが、広めたあとの影響までは制御できていない。
「焦って爆発させたら、用途も何もないでしょう」
アリサが言う。
「だから次は、圧力を逃がす構造を追加する」
「安全審査が先よ」
「分かってる」
「今の間は何?」
「反省の間」
「本当に?」
「半分くらい」
アリサが無言でカナタの焼き菓子へ手を伸ばした。
「待って。それは僕のじゃないけど、僕が食べようと思ってた」
「私のよ」
「一口くらい」
「嫌」
レンは二人のやり取りを眺めながら、別のことを考えていた。
カナタは技術を隠そうとしていない。
質問されれば、簡単に答える。
本人は善意で広めようとしている。
放置する時間が長いほど、処分するべきものが増える。
慎重に調べる必要はある。
だが、時間をかけすぎることもできなかった。
レンは、未知の技術を理解できないわけではない。
過去の世界で見た知識なら、かなりの範囲を知っている。
電気工学。
機械工学。
化学。
医学。
情報処理。
建築。
軍事技術。
専門家ほど深くはない。
だが、複数の分野がどうつながり、どの技術が社会を変えるのかは分かる。
この世界の研究者が知らない概念を、レンは知っている。
ただし、知っていることと、作れることは別だった。
材料がない。
設備がない。
精度が足りない。
理論を説明できても、実物を作る技術がなければ意味がない。
だからこそ、カナタの研究は危険だった。
レンが知識として持っているだけのものを、カナタはこの世界の材料と設備で形にしている。
しかも、レンの知る技術をそのまま再現しているわけではない。
魔力を利用した独自の構造。
この世界にしかない素材。
既存の魔導機関との接続。
カナタは、異世界の知識を持ち込んだだけではない。
この世界に合わせて組み替え、誰も到達していない答えへ変えている。
それが、カナタの本当の異常性だった。
◇
放課後。
レンは第二実験室で、安全講習を受けていた。
教壇の前にはアリサ。
レンとカナタは、並んで椅子へ座っている。
「最初に、研究棟における基本規則を説明します」
アリサは黒板へ大きく三つの項目を書いた。
一、許可のない実験を行わない。
二、実験中は必ず二名以上で確認する。
三、異常が発生した場合、直ちに装置を停止する。
書き終えると、アリサは振り返った。
その視線は、レンではなくカナタへ向いている。
「今のところ、誰かさんが昨日すべて破った規則よ」
「僕への反省会なら、レンを呼ばなくてもよかったんじゃない?」
「新入部員には、実例を交えて説明したほうが分かりやすいでしょう」
「悪い例として紹介されてる……」
「これ以上分かりやすい例はないわ」
レンは机に置かれた講習資料へ目を落とした。
研究棟の見取り図。
緊急時の避難経路。
消火器具の位置。
薬品保管庫。
地下資料室。
必要な情報が、向こうから並べられている。
「質問は?」
一通りの説明を終え、アリサが尋ねた。
レンは手を上げる。
「火が出たら、全部に水をかければいい?」
「駄目よ。薬品や電気が原因の場合、水をかけることで被害が広がる可能性があるわ」
アリサは資料の一頁を開く。
「赤い印の消火器は一般火災用。青は電気設備。黄色は薬品。それぞれ使い分けて」
「昨日使った防火布は?」
「小規模な破裂や飛散物を防ぐものよ。本来は、装置へかぶせる前に使用するの」
「破裂してから使うものじゃないんだな」
「当たり前でしょう」
「勉強になった」
「レン。君、本当に研究経験ないの?」
カナタが横から尋ねた。
「ない」
「昨日は迷いなく防火布を使ってたけど」
「壁に大きく『防火用』と書いてあった」
「そういう理由?」
カナタは納得しきれない顔をしている。
アリサも同じだった。
余計な能力を見せすぎた。
反応したのは失敗ではない。
カナタが死ねば、情報の所在を確認できなくなる。
助ける必要はあった。
だが、危機への慣れを見せれば、レンの架空の経歴に疑問を持たれる。
「まあいい。次は設備の説明ね」
アリサが実験台の前へ移動する。
レンは席を立ち、そのあとを追った。
破裂した装置は既に撤去されている。
壊れた実験台も交換され、新しい計器が並んでいた。
カナタの研究帳面は、机の端に積み重ねられている。
全部で七冊。
棚には、同じ形式の帳面がさらに十冊以上あった。
それだけではない。
壁には大きな設計図。
引き出しには小型部品。
奥の棚には、番号を振られた試作品が並んでいる。
カナタ一人を殺して終わる段階ではなかった。
「榊。講習中か?」
実験室の入口から、男の声がした。
白衣を着た、四十代ほどの男が立っている。
髪は乱れ、眼鏡の片方には小さなひびが入っていた。
両腕へ何冊もの書類を抱えている。
「高瀬先生」
アリサが姿勢を正す。
「レン・クロードの安全講習を行っています」
「昨日、カナタを助けたという編入生か」
男――高瀬がレンを見る。
「はい。レンです」
「高瀬だ。応用科学研究会の顧問をしている」
高瀬は書類を実験台へ置いた。
一番上には、帝都技術院の紋章が印刷されている。
「ちょうどいい。君にも礼を言っておこう。カナタを助けてくれてありがとう」
「近くにいただけです」
「それでも、君がいなければ大事故になっていた。研究者の命は、研究成果よりも重い」
高瀬はカナタを見る。
「聞いているか?」
「聞いてます」
「昨日の事故については、あとで報告書を提出するように」
「はい……」
「それと、悪い知らせばかりではない」
高瀬は一番上の書類をカナタへ差し出した。
「帝都技術審査会から、正式に参加許可が出た」
カナタが書類を受け取る。
表情が一気に明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。1カ月後の審査会で、新型蓄電器を発表できる」
「やった……!」
カナタが椅子から立ち上がる。
「アリサ、これで企業から協力を得られるかもしれない!」
「完成すれば、でしょう」
アリサは冷静に答えた。
それでも、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「昨日のような事故を起こした装置は、発表できないわ」
「分かってる。1カ月あれば改良できる」
「本当に?」
「そんだけあれば十分だ」
「昨日も、十分に安全だと思って動かしたのでしょう」
「今度は本当に大丈夫」
「その言葉が最も信用できないの」
二人の言い合いを、高瀬が笑いながら眺めている。
「今回は大きな審査会だ。帝都の主要企業だけではなく、軍の技術部も参加する」
「軍……」
カナタの笑顔がわずかに曇った。
「僕は、この技術を兵器に使うつもりはありません」
「分かっている。だが、研究資金を得るには、相手を選んでばかりもいられん」
「軍用になる可能性があるなら、発表内容を制限します」
「その判断も含めて、しっかり考えよう」
高瀬はカナタの肩をたたく。
「まずは試作品を完成させることだ」
「はい」
高瀬が実験室を出ていく。
レンは残された書類へ目を向けた。
帝都技術審査会。
1カ月後に発表。その直前に審査会があるので実質1ヶ月弱
そこまで進めば、技術は学院の外へ出る。
企業。
帝都技術院。
軍。
一度広まれば、すべてを回収することは困難になる。
残された時間は、想像していたより短い。
「よし。今日から改良を始めよう」
カナタが袖をまくる。
「講習が終わってからよ」
アリサが止める。
「あと、昨日の事故で資料の一部が散乱したでしょう。先に整理しなければ、何がどこにあるのか分からないわ」
「場所は大体覚えてるよ」
「三日前の測定記録も忘れていた人が?」
「大体は」
「大体では困るの」
レンは棚に並ぶ帳面を見る。
これは使える。
「資料の一覧を作ったらどうだ?」
レンが言う。
「一覧?」
「どの記録が、どこに保管されているか。誰が写しを持っているか。試作品が何個あるか。全部、番号をつけて管理する」
アリサが考え込む。
「確かに、必要ね」
「審査会へ出すなら、今より資料が増えるんだろ?」
「ええ」
「だったら、今のうちに整理したほうがいい。俺は研究の内容が分からないから、勝手に書き換える心配もない」
「なるほど」
アリサは棚と机を見渡した。
「第三者の視点で分類してもらうのは、悪くないかもしれないわね」
「待って」
カナタが二人の間へ入る。
「どうしてレンが入った途端、僕の研究会で資料整理が始まるの?」
「あなたが整理しないからよ」
「どこに何があるかは分かってる」
「三日前の記録」
「それはもういいだろ」
「では、昨日使った圧力計の説明書は?」
カナタが動きを止めた。
「……実験台の引き出し?」
「薬品棚の上にあったわ」
「どうして?」
「私が聞いているのよ」
カナタが黙る。
アリサはレンへ向き直った。
「資料整理をお願いするわ。もちろん、私も一緒に確認する」
「分かった」
「研究の機密に関わるものもあるから、私の許可なく持ち出さないこと」
「約束する」
「地下保管庫へ入るときも、必ず私か高瀬先生が同行するわ」
「それでいい」
望んでいた以上の結果だった。
カナタの資料。
試作品。
写しを持つ人間。
保管場所。
それらを調べる権限を、アリサ自身がレンへ与えた。
昨日の事故を利用し。
カナタのだらしなさを利用し。
アリサの責任感を利用した。
無理に鍵を盗む必要はない。
彼女に扉を開けさせればいい。
「まずは、この部屋にある資料から始めましょう」
アリサが言う。
「カナタは試作品の破損原因を確認して」
「僕も整理を手伝うよ」
「あなたが触ると、場所が変わるでしょう」
「僕の資料なのに」
「だからこうなったのよ」
「レン。研究会へ入って二日目で、僕の味方じゃなくなってない?」
「勝ち目のない戦いはしない主義なんだ」
「昼にも聞いたよ、それ」
レンは棚から最初の帳面を取り出した。
表紙には番号がない。
作成日も書かれていない。
中を開く。
初期の試作記録。
失敗した素材。
次に試す予定の構造。
カナタの知識が、文字となって並んでいる。
これが一冊目。
残りが何冊あるのかは、まだ分からない。
どこまで写しが作られているのかも。
誰が内容を理解しているのかも。
発表前に調べる。
処分するべきものを見つける。
消す順番を決める。
逃げ道を用意する。
そして最後に、カナタを殺す。
その瞬間だけなら、数秒で終わるだろう。
だからこそ、最後まで取っておく。
簡単な仕事を先に済ませれば、難しい仕事だけが残る。
捕まることは怖くない。
死ぬことも、今さら恐れてはいない。
だが、仕事を残して動けなくなるのは御免だった。
「これは、何番にする?」
レンは帳面を持ち上げた。
「一番でいいんじゃない?」
カナタが答える。
「適当ね」
アリサが呆れる。
「最初に手に取ったんだから、一番でいいだろ?」
「分類ごとに記号を分けるべきよ。基礎理論なら甲、試作記録なら乙、測定結果なら丙――」
「細かすぎるよ」
「あとで探せなくなるよりいいでしょう」
二人が再び言い合いを始める。
レンは黙って帳面を閉じた。
その表紙へ、アリサが用意した新しい管理札を貼る。
【試作記録・第一号】
処分対象、一つ目。
その意味を知る者は、レン以外にいなかった。




